2004年05月

2004年05月31日

春になれば

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シンプルライフ 桜の花の咲く頃 1

 

昔、春になると日本人は輪になって桜の下で踊った。知らない者同士でも安心して酒を酌み交わし、お互いに無条件に助け合い、仲間を信じあった。

 

いつの頃から僕らは他人に無関心になったのだろう?いつの頃から僕らは、隣にいる日本人を疑うようになったのだろう?いつの頃から僕らは、電車で注意して反対に殴られる人を無視出来るようになったのだろう?

 

桜の花の咲く頃に、もう一度考えてみたい。

 

明治

今、目の前に一枚の写真がある。1911年。今から93年前の東京、荒川堤の桜の並木通り。並木の下、道の左側をこちらに向って歩く若い女性は、小さな風呂敷を抱えてちょこちょこと歩いている。

 

道の真中を歩く学生帽子をかぶった少年は、花には興味がないのか、ちょっと視線を下げて歩きながら真面目に本を読んでいる。右側の道端では車引きさんが、桜の花を眺める客が乗りこむのを待ちながら、人力車の横できせるをくわえている。

 

僕らにとって明治とは、なんだろう?どんな時代だったんだろう?今から約150年前、300年の長い鎖国の歴史から目覚め、起き抜けにいきなり全開で坂の上の雲を一心に見つめながら駆け上った人たち。明日はもっと幸せになる、そう自分に誓い、そう自分を信じる事が出来た、そんな時代だったのかもしれない。

 

民族性

外国に住んでみると、民族性の違いというものはある程度理解出来る。例えば日本人とキーウィ、日本人と中国人、みんな同じ人間なのに、民族によってこんなにも考え方や行動の基準が違うんだという事に気づく。

 

違う事は分かる。でも何故だろう?それはどうも、狩猟民族とか農耕民族だけではまだまだ言葉足らずの、歴史的、地理的、地政学的背景が複雑に絡まりあっているようだと感じる。じゃあそれは一体何なんだ?すべての要素を計算すれば、将来的な民族性は予測可能なのか?

 

同時に、民族が違っていても同じ感覚を持つ事が出来るのも事実だ。例えば「愛」。デカプリが好きか嫌いかは別にして、タイタニックのハリウッド映画を観て(一般論として)日本人は感動できるし、「ひまわり」の旋律に乗って、運命に流されるマルチェロマストロヤンニとソフィアローレンの哀しい愛に、ひまわりの美しさが重なっていくシーンは、日本人の涙をそそるのだ。

 

だから、民族を乗越えた、人間としての何か、共通普遍のものがあるのは分かる。でも、じゃあどこまでが普遍的な人間性であり、どこから先が地域限定の民族性なのだろうか?

 

坂の上の雲

明治維新は一部の武士のクーデターによって起こった国家的自己変革である。英国やフランスの植民地化を狙う政治的干渉を見事に跳ね除け、自分達の国造りをしようとした。その時の日本人にあったのは、「脱亜入欧」という発想であり、坂の上にあるのは留学して目の前に見た、驚愕的にまで発展した西洋社会であった。

 

煙を吐く機関車、海を引っくり返すような蒸気船、空に向ってどこまでも伸びる高層ビル、そして西洋の服装とひげに身を包んだ西洋紳士が、日本人が追いつくべき雲であった。

 

いつもの如く日本人は、型から入った。ひげを生やし、背広を着て、チョッキを持ち、西洋人の格好をして留学先から横浜の港に戻って来て言ったのだ、「おい、外国は、すごいぞ!」。しかし日本人が持ち帰らなかったもの、それは西洋の民族思想であった。

 

法律や政治、軍備や教育を西洋から学びながら、日本は驚異的な成長を遂げた。その当時の米国人が本気で恐れていたのは、実は日本人の学力の高さ、技術力の高さ、そして低賃金による国際競争力が,遂には米国の仕事を奪うのではないかという事であった。忘れないでほしい、これは昭和50年代の話ではない。明治時代の話なのである。

 

無条件に信じる人々

日本は米国との不平等条約を改正しながら、一生懸命不器用なまでに国際ルールを守って西洋人の仲間入りをしようとした。それはまるで今のNZで、アジア人移民の子供が、小学校で周りの地元っ子に叩かれても一生懸命仲間に入っていこうとするようなものだ。一生懸命やれば入れると思っていたのだ。

 

無条件に信じる事が出来た、それが日本人の特性であり、逆に弱点である事は、その当時の日本人は知らなかった。

 

しかし時が経ち、白人種、特にアングロサクソン及びその背後にあるユダヤ教徒の基本精神は「白人だけの、仲間内の平等と平和」であり、それ以外の人種は、自分の下にあるとする人種差別が基本であったと気づくのに時間はかからなかった。

 

1895年、国を挙げて戦った明治の最初の国際戦争である日清戦争を何とか勝利に導いた日本は、その先には国際的公平と平等があると信じていた。戦争に勝った俺たちは、白人と同じように勝利した土地がもらえる。そして三国干渉によって気づいた。この世界は白人のルールで動いており、彼らは異人種に対してはいつでもゲームのルールを変える事ができるということを。

 

日露戦争

坂の上の雲は、自分で掴むしかない。そう理解した日本は、臥薪嘗胆、持ち前の明るさと勤勉さで国力を蓄えていった。そして日露戦争へ突入した。

 

当時の戦争は、ロシア皇帝が「東洋のサル」を「懲らしめる」為に始めたのだが、このサルが何故か強い。最初は日本軍が勝つなんて、本気で思っていなかった西洋諸国も、その戦況を見るにつれ「これはもしからしたら?」と思い、その恐怖の予想通り、遂に西洋の大国を東洋のサルが破ったのだ。

 

日本はその時、全国民が一丸となって戦った。それに対してロシアでは、平和ボケをした人々の乱れた指揮の為に、勝つべき戦も落としてしまった。ロシア敗戦。こうして、東洋のサルは時代の寵児として西洋社会に進出したのだ。

 

和服に刀、ちょんまげに腹切りの日本人が、遂に西洋と肩を並べたのだ!人々は信じた。和魂洋才という思想の元、アジア人が一致団結して戦えば、白人による支配を引っくり返し、世の中を自由平等、民族自決の世界に戻す事は可能だ。絶対出来る!しかし夢は砕かれた。それも自由平等を語る米国により。 



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2004年05月30日

掴めなかった坂の上の雲

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近代化:

日露戦争から大東亜戦争、そして敗戦。日本は台湾、韓国、満州など、日本全体の領土の半分を失った。しかし、本当に失ったのは何だったのか?

 

共同生活

「ああ野麦峠」などで、明治から大正にかけて、殆ど産業らしい産業のない日本が、生糸や繊維などで工業化を計り、そこで多くの労働者が身を粉にした働き、身体を壊していったかは歴史を紐解くまでもなく周知の事実である。その様子を、当時日本を訪れた米国人が書き表している。

 

「作業場に埃が舞い、肺を冒すのではないかと心配したが、女性たちはマスクも着けずに働いていた。少女達は熱い湯に手を入れ、繭から糸口を引き出し、小枠に巻きつける。一人につき20本の小枠を巻きつける。一日中立ち詰で働き続ける。不作に苦しむ農村から少女たちは働きに来た少女たちは3〜4年働いて借金を返す。年季が明けると村に帰り、親の決めた男性と結婚するのだという」

 

日本的労働

この米国人は、少女が「働かされている」と考えていた。確かに米国的な労使関係で言えばそうだろう。しかしそれは一方的な価値観に基づいた見方であるのも事実である。彼女たちは正確に言えば、家族の中で自分の役割を分担して、自発的に「働いていた」のだ。彼女は、家族の為に出来ることを精一杯やったのだ。

 

だから、米国人からすれば、たまの休みに楽しそうに笑う彼女を見ながら、何故こんなに働かされて逃げないのか不思議であったのだが、彼女たちからすれば、家族の為に自分の役割を果たしていたのだから、逃げる筈はない。むしろ、ここで働いてふるさとの家族にもっとたくさんの仕送りする事を望んでいたのだ。何故なら、それが少女の役目だから。

 

文明的生活

貧しくても幸せだった人々。農作業や自然との戦いの中で、人は共同する事を覚えた。村社会を作る事で、一人では生きていけない状況でも生き残る技を覚えた。これが日本的縦割り民主主義だ。

 

自然と共生すれば、時には天災で食料が不足する時もある。それでも人々は笑っていた。一碗のご飯をみんなで分け合い、時には隣の家の味噌を貸してもらい、家族単位、村単位で共同生活を送っていた。

 

勿論、必要であれば少女たちは工場に働きにさえ出た。助け合う。それが家族なのだ。

 

文明の定義は、個人が欲望達成と自己実現をとりあえず断念して、それを社会契約に基づく集団の一員として、迂回的に実現する方を選んだ時に発生する。これが文明社会である。

 

だから、自分さえ良ければそれでいい、自分だけが儲かればそれでよいという発想は、社会の成長と言う視点から見れば反文明的であると言える。自分の目的を達成する為には、皆で一緒に団結する事が大事だと、日本人は自然との共生の中で理解していた。

 

だからこそ日本人は家族や村を個人生活よりも上位に置いたのだ。

 

自分さえよければそれでいい、他の人はどうでもいいと言いながらコンビニや電車やケータイなど文明の上で生活をしているのは矛盾である。隣人の事を考えてこそ文明は発達するのであり、コンビニや電車が文明の分業化によって成立している以上、自分さえ良ければという考えが通用しないのは自明の理である。

 

ドーナツの穴は、ドーナツがなくなった時に存在するか?と考えれば、答は簡単である。

 

日露戦争から大東亜戦争へ

ともあれ日本。日露戦争の為に、日本は国家を挙げて海軍の造成に務めた。その間、国民生活は窮乏したが、それで政府に対して文句を言う人はいなかった。個人は家族の為に、家族は村の為に、そして村は国家の為にと、その優先度は上がっていき、戦争に勝つ事が国家の目的となった時、日本人は国家の歯車として滅私奉公する事に喜びさえ感じたのだ。

 

満州事変

1931年、日本関東軍は、満州国家を設立した。ロシアなど西洋へ対抗するには、アジア全体が一致協力して戦うべきだとする関東軍の判断により、五国協和、大東亜共栄圏思想が実現された年であった。勿論この結果としてロシアと戦いが始まったが、最も刺激を与えた相手は、実は米国であった。

 

米国はこの当時から「アメリカ帝国」を作るべく活動しており、もしアジアが日本主導で統一されれば、西洋人による地球支配思想は根底から覆されるからだ。

 

そこで米国は当時の国際連盟を利用して、日本を侵略国家と位置付けようとした。米国は既にフィリピン等を侵略して植民地化し、オランダや英国がインドシナを植民地化している事はすべて棚に上げて「日本は悪い侵略者だ」とやった訳である。

 

これくらい一方的な言い分は、個人生活においてはかなりの恥知らずとなるのだが、国家単位では何故か「政策」と呼ばれる。これに呼応した欧州国家と共同して当時の満州国に送り込まれたのがリットン調査団だ。

 

その結果として日本は正式に「侵略国家」となった。泥棒が泥棒を「犯罪者」扱いするのだから、どのような思考回路なのか、徳を是とするアジア人には、理解不能である。

 

そして、国際連盟の脱退、対外資産の凍結という段階を踏んで大東亜戦争は始まった。ここで戦争を正解という積りは全くない。実際問題としても、もうちょっと優秀な人間が政治をやっていれば、戦争にはならなかったろう。問題は東条英機という、たった一人の無能な人間を政治の中枢に置いてしまった、その当時の日本の不運であろう。

 

平時なら彼でもどうにかなる。優秀な幹部が周囲にいるからだ。しかし非常時においては責任者の判断がすべてを判断するしかない。そして彼は、無能な人間が選びがちな、最悪な道を選んだ。東條がどの程度の無能であったかは、現在の米国大統領と同じくらいと言えば、分かりやすいのではないだろうか。

 

東條でなくても日本と連合軍は戦争に突入したかもしれない。しかし、例え同じように連合軍に負けたとしても、その負け方は大きく違ったものになったであろうと推測出来る。歴史に「もし」はないが、東條さえいなかったら現在の日本は大きく変わっていたに違いない。

 

大東亜戦争が始まった。そして約5年の国民の苦労の後、2発の原爆の後、1945年8月15日に日本は全面降伏した。終戦。一体日本は何を失ったのか?



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2004年05月29日

早すぎた民主主義

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日本は第二次世界大戦に敗れた。

 

その原因を語ればきりがないが、要するに叩き合いに負けたのだ。戦争では、誰が正しいとかどちらに義があるかなどは関係なく、国民の総生産能力と指導者の指導能力ですべてが決まる。

 

日本の数百倍の生産能力と合理的思想を持つ米国は、総力戦において、日本を完膚なきまでに叩きのめした。Winners takes All。戦争では、叩き合いに勝った者がすべてを奪う。そしてそれは東京裁判から始まり、現在まで続いている。すべての人々を飲み込んで時代を動かす。日本は激動した。

 

本文

頭山満という人の名前を聞いた人は、殆どいないだろう。江戸時代末期の福岡に生まれた彼は、明治時代に玄洋社という政治結社を作り、自由民権運動を推し進め、五国協和や植民地化されたアジアの、西洋からの独立を目指して様々な過激政治活動をした。今の言葉で言う武闘派である。

 

当時アジアで唯一の実質独立国であった日本で、インドのラス・ビハリ・ボース、中国の孫文等を支援した玄洋社には、早稲田出身の中野正剛(昭和18年自決)など誇り高い若者が多く集まった。

 

当時の玄洋社社員からは「どういう学校も出ていないが、『貴様は死にきるか』という言葉に対して即答するだけは卒業しています」という言葉が、若者の気概と共に発せられた。

 

戦後、米国は日本占領に対して、一枚岩の態度を取れずにいた。民主主義を導入する事は決めていたが、東洋の不沈空母として米国の傀儡政権を敷くのか、自主独立の道を歩ませるのかという点で、米政権内でも議論がまとまらずにいたのだ。

 

今のイラクを見てもらえば分かるが、侵略戦争の場合は、侵略された国の国民は必ずレジスタンス活動を行う。米国は、占領した日本でも同じような事件が起こると考えていたのだ。

 

ところが実際に米兵が街で見かけたものは、街頭で米国の旗を振り、彼らのジープの後を追いかけてチョコを欲しがる子供や、夜になると街角の暗闇から声をかけてくる日本人女性であった。

 

この現実を見た米国は、日本とは元々自分で思考する事を好まない国民であり、誰かが決めたらその方向に従う事に慣れているのだと理解した。そして誰かとは「お上」であり、お上が天皇でも陸軍でも明治政府でも、国民のやる事は「従う」事だけだったのだ。

 

米兵の代表であるマッカーサーは、自分自身が「お上」になる事で、日本を変革させようとした。

 

その内容は民主主義の導入と歴史の改ざん、教科書及び教育の変革である。歴史においては大東亜戦争を第二次世界大戦と書き換えられ、五国協和は侵略戦争に置き換えられ、頭山満は侵略者の手先になり、広田弘毅は戦争に反対した文民首相であるが、絞首刑に処せられた。

 

教科書及び教育の変革は、日本に致命的な打撃を与えた。それは米国的民主主義の導入から始まった。

 

米国的民主主義が良いものかどうか?この点にすでに多くの疑問があるが、それ以上に直接的な問題は、民主主義とは両刃の剣であり、義務と権利の関係が理解出来ない人間には使いこなせない、やっかいな代物であるという事だ。

 

日本は元々江戸時代から「民は依らしむべし、知らしむべからず」という徳川家康の統治方針が徹底しており、1600年から345年の間、政治的な事は考えずに、毎日与えられた仕事をするという統治形式に慣れていた。

 

人民としての権利も与えないが人民のとしての義務も果たす必要はない生活を送っていた人々にとって、自己責任を伴う民主主義は、理解不能だった。

 

昨日まで天皇陛下に敬礼していたのが、今日からは人民は皆平等、民主主義!などと言っても、言葉は入るが精神が入るわけもない。過去の誇らしい歴史をすべてリセットされた日本人とその子供たちは、今まで持っていた精神の支柱が根こそぎ引き抜かれる、音にならない音を聞いた。

 

米国は民主主義選挙を持ち込んだ。物質が人々を幸せにすると疑わなかった彼らは、それまでの日本人の価値観を大きく変革させた。例えば電気も通じない山の中で、自然や家族と共に幸せな生活をしていた子供に、いきなりプレステを与えて遊ばせるようなものだ。

 

物質は精神に劣るが、同時に悪貨は良貨を駆逐すると言う原則があるように、人間は欲望には弱い。一度覚えた物を追いかける生活は、それからの日本人の生活を基準づけた。

 

つまり、物を持つ奴が偉い、金を持つ奴が偉いという事になったのである。アメリカ先住民(インディアン)も、酒と物質主義で白人に骨抜きにされ、現在に至っている。

 

戦前の日本でも「お宮寛一」の話等はあるが、日本全体としては、やはり美意識をベースとした精神的道徳が人々の行動規範であったから、物質主義や拝金主義はよくないという道徳が染み付いていた。「みっともない」「恥かしい」という言葉は、同じ価値観を持っているから理解出来る事である。

 

人は時には、名誉の為に命を捨てる事も必要だ。その為に多くの若者が大東亜戦争に出征した。多くの若者は国の為にと言いながら、心の中では家族の事のみを思い浮かべ、自分の小さな命が国を、ひいては家族を守ってくれるのだと信じて、戦場に向い、そこで命を散らした。

 

生き残る事が目的か?何の為に生きているのか?自分の美的感覚を完成させる為には、敢えて死を迎えるだけの心構えを、戦前の日本人は持っていた。

 

ところが米国式キリスト教の発想では、人命第一であるし、過去の戦争を美化されては、米国は困る。過去の戦争で日本は、その思想と戦い方で、西洋をぎりぎりまで追い詰めていた。あんな大変な戦争は、もうやりたくないのだ。

 

その為、戦前の日本人は侵略主義者であり、個人思想を持たないとか、カミカゼによる特攻などの人命軽視は良くない事と、米国は教科書を利用して日本人の心に摺り付け始めた。

 

米国の日本指導は、最初は一切の軍備を否定する平和憲法を作ったにもかかわらず、その後の政治情勢の変化により、米国主導の自衛隊が結成され、共産国家である中国とソ連からのアジアの防壁として日本を利用する事になるなど、迷走の感を免れないが、時代は進み、朝鮮戦争勃発による日本の兵站基地化で、戦後の日本の方向性が決まった。

 

いずれにせよ、日本の歴史から頭山満と玄洋社は抹消された。それは明治以来日本が突き進めてきた自由民権運動の終焉と共に、日本人としての誇りを奪われた日であった。敗戦で失ったもの。それは日本人としての美学であった。早すぎた民主主義が日本にもたらしたもの。それは混乱であった。



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2004年05月28日

核家族化からオヤジ狩りへ

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1955年当時の日本の総人口は9000万人、総就業者数は4000万人。第一次産業従事者は1500万人。第二次産業従事者は1000万人。第三次産業は自営業者とその家族。

 

これが1970年、たった15年後には第一次産業は800万人に、第二次産業は1400万人になる。そしてその後も第一次産業人口は減少の一途である。

 

この数字が意味するものは何であろう?それは、精神論で戦後の日本を再興させる為には、農業中心で資源を持たない国から、いつでも誰とでも戦争出来るだけの国家体力と経済力を持つ工業国家にシフトさせる政策を敗戦国家日本が選んだという事である。

 

精神論と竹やりで戦争に敗れた霞ヶ関には、当時30歳台の憂国かつ優秀な官僚がいた。彼らは国を再建する為に、国が持つ資源を重厚長大産業に傾斜投資させる。

 

官僚は様々な手法を使ったが、一番気を使ったのは、如何に米国に気づかせずに体力(軍事力、経済力)を取り戻すかという点であった。

 

幸運な事に、軍備に関しては、憲法によって再軍備が禁止されたにも関わらず、米国は日本を東アジアの橋頭堡としてソビエト、北朝鮮、中国への防波堤とする為に、1950年の朝鮮戦争開戦に時期を合わせて75,000人の警察予備隊(後の自衛隊)を創設した。

 

その目的は東アジア、特に日本国内で戦争が始まった場合に、米軍が緊急展開出来るまでの間、敵の進撃を食い止める為である。今の自衛隊が航空自衛隊とレーダー網が発達している割に、陸上自衛隊に国土防衛、基地機能を持たないのは、元々それが米軍の戦略だからである。

 

次は経済だ。吉田茂は昭和21年5月22日に総理大臣になり、その後通算7年間日本を運営した人物だが、彼及びその後継者である歴代首相、岸信介(3年)、池田勇(3年)、佐藤栄作(7年)等は、米国に対して徹底的に面従腹背政策を取った。

 

つまり表面的には米国礼賛をしながら、外交上の駆け引きで常に「弱い日本を助けて下さい」という立場で米国からの援助を引き出したのだ。

 

そして工業国家として国民を効率的な「歯車」にする為に、世界でも珍しく、学校教育を3月31日卒業、4月01日入社という仕組みにした。

 

これは成長する日本の工場が的確な時期に優秀な労働力を学校から導入出来るようにする為である。もし入社日がばらばらだったり、個人の能力に格差があれば、導入コストが高くついてしまうからだ。

 

そして民主主義を導入させたい米国の命令で、当時の日本政府は英語授業を取り入れたが、これも実際に英語を使えるようになると、国民が米国民と直接対話をされてしまい、日本の問題点を追求されるのをかわす為に、「学ぶが使えない」英語教育を導入したのである。

 

現在40歳以上の日本人の殆どが英語を話せない理由は、先生の能力が不足でも生徒の能力が不足でもなく、政府が賢かったからである。

 

海外旅行の解禁が、戦後20年近く経ってからだったというのは、何も外貨の持ち出しを恐れただけではなく、海外の良さを知ってしまえば日本の政治体制に反発が出ることを恐れた為でもある。これは韓国でも最近まで海外旅行の自由化が認められなかった事にもつながる。

 

またある時は「共産主義の脅威」というものを逆手に取り、米国と共産主義中国やソビエトの間でシーソーゲームを行いながら、経済の強化という点を徹底的に追求した。そんな彼らの時代に農業から工業への経済シフトが行われたのである。

 

今時「電気」冷蔵庫等、そんな言い方さえ思いつかないだろうが、昭和30年代は「白黒テレビ」「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」を持つ事が人々の生活の基準であり、憧れでもあった。

 

勿論急激な工業化と冷戦時代のバランスの中で綱渡りを行った訳であるから、当時は共産党、安保問題、日教組問題、公害等、一つ間違えば日本が転覆する程の問題が続出した。当時の政治家はまさに命がけで、彼らの信じる日本を守り、創ろうとしたのだ。

 

そして1972年、田中角栄の時代が来た。田中が行った労働人口シフトは更に激しく、列島改造計画という形で日本の国土を変貌させた。それまで農業に従事していた農家の次男を都会の工場で働かせ、同時に日本各地の農地を潰して工場にし、工業製品を作らせた。

 

日本中を鉄道と高速道路が走り、当時3Cと呼ばれ、人々の憧れの的だったカー、クーラー、カラーテレビが日本中に広まった。同時に田中角栄は、農地を持っていた人たちを離農させて建設業として開業させたのだ。

 

今建設業界は構造不況であるが、建設業界が一気に成長したのは1970年代であり、彼らは成長させてもらったお返しとして、自民党建設族の票田及び資金源となったのである。

 

このあたり、マスコミに振り回された「国民」が最近の建設業界の談合や政治家との癒着を追求しているが、1970年代に交通網や快適生活等の恩恵を蒙ったのは、実は誰よりも国民であるという視点が欠如しているのは、如何なものかと思う。

 

無知、無定見なマスコミに同調する主体性のない国民を作ったのは政府であるから、文句も言えないとなるのだろうか。

 

1980年代になると、ついに日本は世界でナンバー2の経済力を持つ事になった。戦後30年、国家、と言うよりは優秀な官僚と国家思想を持った政治家の指導のもとに、戦前と同じように国民が一丸となって働いた結果として、遂に米国の背中が後一歩まで近づいたのだ。

 

NOと言える日本、ジャパンアズナンバーワンの時代になった。戦争では奪う事の出来なかった米国本土の土地を民間会社が買収し、実質的に米国の一部を日本の国土にする事に成功した。

 

その頃米国は、ベトナム戦争後の泥沼経済から抜け出せず、日本の工業化による国際競争力の衰退、そして国が何を行えばよいのか、国家戦略を見つけられない時代にあった。中曽根とレーガンの時代は、おそらく日本が最も幸せな時代とも言えただろう。

 

しかし米国は、ここでもまた伝家の宝刀を抜き出した。「ゲームに負ければ、ルールを変えればよいのさ、自分に有利なようにね」。したたかな米国は、戦前と同じように日本に戦争を仕掛けてきた。

 

今度は経済だ。そう考えた米国はプラザ合意という罠を日本に仕掛けてきた。日本にとって最も不幸だったのは、戦後の一番大事な時期に、敗戦を経験して危機感を持って国家運営を行っていた官僚や政治家が、すべて引退、または退職していた事だった。

 

そして日本の、二度目の敗戦の幕が開けた。しかし今度の敗戦は、失うものが多すぎた。それは対米経済戦略の敗戦だけではなく、急激な社会構造変化による日本の都会化、そして核家族化の始まりであった。

 

二度目の敗戦と急激な社会構造の変化が日本にもたらしたもの。それは大きく日本を動かし、目に見える形としてはホームレス、オヤジ狩り、介護疲れの殺人、子供や中年の逆切れであり、目に見えないところでは日本的道徳観念の消失と倫理観念の構造変化に現れた。



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