2009年10月

2009年10月31日

停電の朝 昨日の話です。

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うちはニュージーランドの家庭には珍しく料理にガスを使っている。

 

自宅でガスを使っているのは今でも10軒に1軒くらいだろう。けど都市ガスが来てないので9リットルのプロパンガスをガソリンスタンドで充填してもらってる。

 

4人家族の時は月に一回程度交換して25ドル、くらいかな。最近は3人家族なので2ヶ月は持つ。ちなみにガスボンベのことはシリンダーと言うしガスの事はLPGと言ったほうが伝わりやすい。

 

料理でガスを使う一般的な理由は火力が強いことだと言われているが、ぼくとしてはガスを使う一番の理由は停電対策である。

 

なにせぼくの住むエリア、グレンフィールドは年に4回程度は停電する。ソレも時間に関係なく、いきなりぶちっと切れるのだから、料理を作ってる最中だと大変な騒ぎである。

 

そんなとこ、住むな〜!と言われそうだが、まあ電気が止まる事以外はそれほど不自由もないので、懐中電灯とロウソクとガスキッチンでいいだろうってのが現状。

 

移住を考える方、思わぬこととはこういう事を言うのです。

 

まさか移住先のインフラが徹底されてないなんて想像もつきませんよね。

 

けれど、これはある意味世界で最高レベルのインフラが整っている日本だからこそびっくりすることであり、パキスタンや中国の山の中から来た人だと一日中電気が通じてるだけでニュージーランドがスゴイ!と思ってるのです。年に4回くらい止まって何が困るのか(笑)?

 

いずれにしても日本が世界最高レベルであり、日本以外の国では引き算状態でいろんなものがなくなっていくと思ってください。

 

でもって今回の停電。朝の7時50分くらいかな、電気がすーっと引くように消えたのは。

 

この時はすでにりょうまくんとお母さんの朝ごはんも出来上がっており(最近は中華式お粥が多い)ぼくは顔も洗って着替えも終わってたので問題なし、「お、停電か、さってりょうまくんを送って会社に行くかな」ってあんまり気にならない感じ。

 

ところがインフラの整った大都会から来た奥さんはいつまで経ってもこの国の後進性、ではなくて発展途上性が理解出来ないようで、青空は晴れ渡ってヒンヤリした空気の中で何もなさそうな一日の始まりの朝の料理時間や通勤時間やなんちゃら、要するに一番ばたばたしている時間に電気が止まるなんてあり得ないと思ってたようだ。

 

「ねえお父さん、ブレーカーかな?電気つかないよね」と心配そうに言う奥さん。

 

けどブレーカーならもっと派手に「ばきゅん!」と切れるはずだし、さっきのは潮が引くようにすーっと消えたので家の問題じゃなくてこの地区の問題だなと思ったぼくは、からかいがてら「電気代払ってる(笑)?」と聞く。

 

するとこの人可愛いだけでなく純粋だから本気で「え〜、クレジットカード引き落としだけど、電気止めますなんて通知来てないわよ、郵便受け、最近見た〜?」などと言い出した。

 

だっから〜、こんなのはうちの問題じゃなくてこのあたり全体が切れてるんですよ。

 

隣の家をちらっと見るとガレージが半分しか開いてない。あ〜あ、あけてる最中に停電したんだな。

 

けどまあ、電気がなくても車は走る。世の中がぜんぶ電気自動車になって代替エネルギーがなくなったら電力会社は大儲けだよなとか思いながら、りょうまくんを乗せてタカプナの先にある学校まで送ることになった。

 

自宅を出て5分程度のところに最初の信号があるんだけど、まずはこれが切れてた。おお、結構大きな停電だぞ、グレンフィールド一帯ですか〜とか思いつつ高速道路に向っていくと、その先の大きな交差点の信号も全部切れてる。

 

片側3車線の大きな交差点だから車の交通量も半端ではない。

 

けど、やっぱりこれがニュージーランドって言うのかな、ぼくが走ったノースショアの道路で交通渋滞になっているところは一箇所もなかったのである。

 

10年近く前にオークランドのシティ全体が一ヶ月くらい停電して世界中のメディアが取材に来たことがある。

 

人口100万人の都市の中心部でホテルもレストランもすべて電気が使えない状態がどんなものかを見に来たのだが、その時新聞記者が一番びっくりしたのは、大都市の街中の大きな交差点でさえ警察官も立っていないのに車が渋滞なく走っていたということだ。

 

つまり、譲り合い。

 

自分の家で作った美味しい鶏肉、子供が喜んで全部食べてまだ物足りなそうだったら親は自分の分もあげるよね。

 

今回の停電でもノースショアでは、少なくともぼくが毎日通う幹線道路ではドライバーが交差点に近づくと前方や左右を見て自分と相手とどっちが込み合ってるかを見ながら必要に応じて自発的に車を止めて他の車を先に行かせる。

 

こんな事書くと必ず出てくるのが「いえ、ちがいますよ、うちでは物凄く渋滞してですね、あのですね、停電は大変なことでですね、etcetc」と言う例外主義者がいるけど、それは例外です。

 

一般論を語るときに例外を持ち出して相手の意見を否定しないとどうしても納得出来ない人は、それが結局相手の意見の意味も理解出来ずに何の生産性もない話になっているのをどれだけ分かっているのだろうか。

 

まあこれは別問題だ。

 

ポイントは、ニュージーランドにおける譲り合いである。

 

ちっちゃな交差点ならまだしも大きな交差点では右折車も左折車もあるわけで、それが渋滞なく進むようにするのは、参加者全員の合意が必要である。

 

つまり、おれがおれがと自分の車を無茶苦茶に突っ込ませてしまうと危険であるだけでなくいずれ交差点中心部で交通事故が起きて結果的に全員が道路を使えなくなるという認識である。

 

だから、今自分が道を譲っても結果的に大きな利益が得られると分かっているから譲り合いが可能になるのだ。

 

もちろんキーウィだって人の子だ、おれかお前かって生き残りの場面では誰を押しのけてでも生きようとするだろう。

 

ただニュージーランドでは国全体で精神的社会基盤が(電気以外)整備されていると思う。つまりお互いに笑顔で楽しく過ごすほうが結果的に社会参加者全員が利益を得られるではないかと言う無認識の了解である。

 

経済生活の面ではセーフティネットが整備されてるし、その結果として治安も良く、あくせく働かなくても生きていける生活基盤があるのに、なんで自分の車をたった5秒他の車より早く行く為前に出す為に自分の車を危険にさらし社会全体の精神基盤を下げる必要があるか?

 

こういう「譲り合いの精神の底にあるもの」って、おそらくキーウィは自己認識していないだろうな。彼らからすれば「生まれた時からそうだし今もそうだよ」ってくらい。「ママやパパに教えられたとおりの事をしているだけだよ」ってのもあるだろう。

 

昔の日本でもそうだったよね、譲り合いの精神。けどそれは政府が見事にぶち壊した。今では田舎に行かないと見ることが出来ない。

 

こういう「気持ちの良い習慣」を維持するのは、実は結構大変なことである。それに対して失う対価もたくさんあるからだ。

 

けど何よりも大事なのは、政治を司る人間が一般人の眼線ではなく国作りを行う人間としてNZの良い習慣をしっかり意識的に理解してその背景をも理解した上で現状の政治でこれを継続する為にどうしようかと具体的な政策を提案することだ。

 

そして幸運なことに今のニュージーランドではかろうじてまだこのような良い習慣が守られてる。

 

南太平洋に浮かぶ孤島だし人口400万人しかいないし産業も発展してないしコンビニもカラオケもパチンコもないしケータイで一日中遊ぶ事も出来ない国だから、そんな古い習慣が残ってるのよと切り捨てる事は簡単。

 

どこの国で生活をするかは本人の自由だ。そして何かを選べば何かを捨てねばならない。等価交換の原則だ(ハガレンだ!わかるひといますかね?)。

 

けど、パチンコやカラオケと譲り合いと、あなたならどっちを選びたい?

 

街に向かう途中のすべての信号が切れても渋滞を起こさずに譲り合ってた人々。

 

シティに着いて最初の交差点でアカやミドリ色をした信号が作動しているのを見て「分かるんだけどな、都会になれば必要なんだけどな」と思いつつも、やっぱり信号がなくても譲り合ってた交差点の方に温かさを感じてしまった。

 

写真はタカプナから高速道路に入る幹線道路です。

 



tom_eastwind at 12:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月30日

持ち込み

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持込がいつから日本文化の中に入り込んできたのか、最近はお店の入り口の張り紙によく「他店で購入されたものの持込と飲食はお断りします」と書いている。

 

他店で買った食べ物を持ち込んで堂々と食べる「お客様」が増えたのだろう。

 

自分の家と路上の区別もつかずに床に座り込みぺちゃくちゃとおしゃべりをして、公園のベンチとオープン型レストランのテーブルの区別もつかずにマックを広げてぱくつき、これも結局は今の中年世代と逃げ切り世代の残した負の遺産なんだろね。

 

子供を鍵っ子(死語か)にして食事の意味も教えず冷えた食卓に置いてる冷えた食い物を機械でチンして食べるブロイラー生活に追い込んだのが親なら、子供はそれに対して当然の応酬をするだろうな。ましてやその子が親となった時に今の時代が来ているのだから二世代にわたる反撃ですな。

 

小学生がカバン背負って夜遅くまで一人で電車に乗って塾に通い、温かい食べ物と言えば塾帰りに友達とコンビニですするカップヌードル。

 

ぼくの世代ではもちこみなんて間違いなく恥知らずであり、張り紙をする必要もなかった。「店の中でおならしないでね」なんて書かなくても、する人いないでしょ。恥ずかしいでしょ。

 

けど今の時代は恥と言う概念自体がすでに変化をしている。てゆうか日本人の恥の文化とか家族の絆が切れるようになったのは本当にここ20年であろう。

 

親が平気で持込をやってるのを見て育った子供が無意識に真似をして、その子供が今法律的には親と呼ばれるようになって、その子供が更に食べ物を持ち込んで平気な顔をするようになる。

 

こうなるとそれまで培われてきた文化の崩壊であり、ぼくの世代から見れば恥知らずの世代になだれ込んだようなものであるが、ただその責任は彼らの親である。

 

どんなに忙しくても立ち止まって考える時間があったし、ゆっくり考えればそういう事を予見出来たにも係わらず自分の子供の「がっこ」の成績だけを気にして結局自分の孫が道端に座り込み、電車で他人に席を譲らず、挨拶もまともに出来ないような子どもになった人々は、今何を考えているのだろう。もう遅いけどね。

 

まあ自分の人生の夕暮れを見ながらゆっくり反省してもらえば良いと思ってる。

 

ただし自分の子供が持ち込みなんてやったらその場で叱る。

 

そして何時間かけてでも、その店が何故そこにあるのか、彼らが望むものはナンなのか、彼らの利益に反する行為を彼らの所有する場所で行ったら何が起こるか、そしてそれが自分にされたらうれしいかどうかを、突き詰めて聞く。

 

子供は素直なもので、きちんと教えれば学ぶ。りょうまくんでさえもそのへんは知っている。

 

週末のStLukes、ぼくがゲームショップの隣のカフェでいつものように紅茶とサンドイッチを食べてたら、りょうまくん、窓ガラスの向うに現れて両手に持ってるコーラとサブウェイの袋を高々と上げてにこ!と笑い、そのまま近くのフードコートの椅子に座ってぱくぱくと食べ始めた。

 

もちろんこのカフェの椅子は革張りでクッションもしっかりしているので、フードコートのプラスチック製の堅い椅子よりずっと気持ちよい。

 

けどりょうまくんはお母さんから「持ち込みは駄目よ」と教えられてるからお父さんのいる店に持込はしない。かと言ってカフェの食べ物は好きでないので、結果的な選択として堅い椅子となるのは当然だと納得している。

 

しかしニュージーランドでは日本のような「恥」と言う文化とは少し違う文化が根付いている。

 

南太平洋からやってきたマオリの原始共産制的な「お前のものはおれのもの」的な発想と、白人が持ち込んで100年以上続いた白人理想的西洋的社会主義で「みんな友達同志」と言う発想がうまく混ざっているのだろう、このカフェでも持込をする人は多い。

 

上品な人はさすがに礼儀があるので最初にお店の人に聞く。

 

例えばAさんとBさんは一緒にセントルークスに来て昼ごはんの時間になったけど、Aさんは中華が食べたい、Bさんはカフェで美味しいコーヒーとパニーニを食べたいとなる。

 

そうなるとBさんはカフェのお姉さんに「ごめんね、わたしはこのお店のコーヒーとパニーニが食べたいんだけど、友達は中華が食べたいって言ってるの。でもって私たちは一緒に食事したいんだけど、私の友達はここに坐って食べてもいいかしら」と質問する。

 

お店の人は込み具合を見ながらお昼時でなければにこっと笑って「どうぞ」と言うし、忙しい時間だとお断りする。またこれがAさんBさんなら良いけど、Aさん1人とBさん5人もいれば、こりゃ違うでしょってなる。この辺は社会常識の世界である。

 

ただやっぱり日頃から経済の発展に寄与せずにもっぱら国家福祉予算を消費することを楽しむような人々は、いきなり中華油で汚れたトレーをきれいに磨き上げたテーブルの上にど〜んと置いて、がはは!とばかりに嬉しそうに食い出す。

 

「ほら、おれは何てスマートなんだ、フードコートに坐ってる連中よりよっぽど良い環境で飯食ってるぞ」とばかりに。

 

この時点で彼は原始共産制の枠を乗り越えて私有制に踏み込んでいるんだけど、これはさておき問題はお店がどう対応するかである。

 

今日は偶然二人の店員が全然違う対応をするのを見た。

 

一人は中国系キーウィ、もう一人はインド系キーウィ、二人とも若い20歳代前半の女性である。

 

でもって舞台を飾る最初の客は品の良さそうな白人キーウィ中年女性お二人。これはまさに絵に描いたとおりに、一人は中華のプレートを抱えていた。

 

二人ともコーヒーを注文する前にインド系のお姉さんに丁寧に「あの、ここでこれだけなんだけど持ち込みしてもいいかしら、私はランチを注文するし彼女はコーヒーを単品で注文なんだけど」

 

40席くらいのお店は半分程度埋まっており、時間は13:30過ぎ。お姉さんは誰に確認も取らずにこっと笑って「どうぞごゆっくり」。この子は一般的なキーウィ感覚で「今空いてるからいいじゃないか、商売であるより前に人に親切であれ」なんだろね、その感覚をお客と共有してしまったのだろう。

 

その5分後に料理とコーヒー2杯を届けた中国系の彼女、あれ?と不審そうな様子で「申し訳ないんですが、うちはお持込はお断りしているんですよ」と綺麗なネイティブの英語で上品に伝えた。

 

するとMrsA、当然の如く「さっきの人はOKと言ってくれたわよ、違うのかしら」と上品に返す。

 

これには彼女もせりふがなく、ぎゃふって言った感じで「あ、ああ、そうですね、すみません、一応決まりなもので。ごゆっくり」と言って立ち去った。腹の中では相棒に対して「あのバカ!」と思ってただろうな。

 

そう、この子は社会環境がどうであろうが親から教え込まれた「自分の利益は自分で守れ!」を素直に実行してるのみだ。

 

次はひどかった。15:00頃なんだけど、子供5人くらい連れてきた家族が2人だけコーヒーを頼み、あとの5人の子供はフードコートで買ってきたアイスクリームをぺろぺろ舐めながら店の席に三々五々座り込んでいるのだ。

 

なぜかこの時は店員さん、何も言わずじまい。西洋+白人+大家族+ガキとお母さんと言う組み合わせは、戦うにはまずいと感じたのかもしれない。

 

この点、店を持つほうが弱い。何故なら店とは砦であり基本的に守り。けど客は攻撃側であり、どんな攻め方でも出来る。今日勝ったとしても次に何されるか分からない。だったらアイスクリームくらい目をつぶれって事だろう。

 

でもさ、これがもしあまり英語のうまそうでない中国人おばさん1名と5歳くらいのクソガキが来て、ガキが中華料理を広げたら「出てけ!」だろうな。

 

ガキがアイスでおばさんがフルランチ25ドルコースを注文してたならどうだろ?

 

 

そういえば先週来たときは、それこそ「ガハハ」人がテーブルに坐ってマックの袋をばりばり破って食い始めたので、お店の人は速攻で追い出してた。

 

このあたり、民族の温度差なんだろうな。それぞれに共有と私有の概念や社会常識が違う。白黒黄色、ぜんぶ感覚が違うし社会経験も違うし。

 

なんかな、こうなってくるといよいよ成熟し始めてくるのだろうね、この国も。今までは「言わなくても分かる」同じ文化と道徳の単二民族だったし、この二つの民族は表面的に仲良くてもお互いの壁は決して壊さないまま同居している。上品で理性的な家庭内別居みたいなものか。

 

けどそこに中国人、アイランダー、インド系、これに更にたくさんの少数民族が入ってきたわけだから、いずれこれは社会の問題として議論が始まるだろうね。

 

どこまでなら良いのか、どこから先は駄目なのか。

 

けどはっきり言えば正解のない議論なのであり、「今のニュージーランドを反映する答え」に落ち着くだろう。それは米穀みたいな冷たさでもなく中国のような礼儀知らずでもなくマオリのような共有制度でもなく、そのどこかに落としどころが出てくるんだろうと思う。

 

そこがどこなのか、説明しずらいけど何となく見えるような気がするぞ。



tom_eastwind at 00:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月29日

化粧 傷はぜったい消毒するな その2

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中島みゆきの古い歌に「化粧」ってのがある。

 

携帯電話もEメールもポケベルもなかった時代、恋人たちは郵便局経由の手紙と自宅近くの大きな箱のような公衆電話で語り合ってた。

 

あの頃はたしか10円で話し放題じゃなかったかな、そんなだから夜の7時頃母親に「お風呂行ってくるね」と言い訳して公衆電話で長話してた人もいた。

 

“化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど 今夜死んでもいいからきれいになりたい”

 

死んでもいいからきれいになりたいんだったら、顔の素肌がぼろぼろになっても化粧をしたいんだろうな。

 

そうなると昨日に引き続き「ぜったい消毒するな」の出番です。

 

実はこの本、最後のほうは皮膚全般に関することも触れていて、その中で言い切ってるのが、40台なら女性より男性の方が肌が健康できれいだって事。

 

つまり通常皆さんが購入する化粧品には殆どの場合界面活性剤が使われており、これで一日十何時間も顔を覆うその間皮膚に大切な皮脂は活性剤によって分解され続け、肌本来の潤いを奪ってぼろぼろにするよってこと。

 

世の中には「肌を引き締める」とか「毛穴を引き締める」とか「肌のくすみをとる」とか、さらには「廊下を防ぎ若返らせる」と言う商品があるが、おそらく殆どインチキ商品であろうとも言い切ってる。だってクリームや乳液のほとんどには乳化剤(界面活性剤)が含まれているからだって。

 

シャンプーもそうだけど、あれで地肌を洗うってことは肌本来が持つうるおいを強制的に奪い取る事で、そうなると潤いを作るために必要以上の物質が毛穴を通じて頭を覆って、これがてかりやべたべたの原因になる。

 

例えば歯ブラシで歯を綺麗にしようとして強くこするとかえって歯や歯茎を傷めてしまうってのも同じ。

 

こうやって見ると、医療や化粧、健康食品とか、売るほうが一方的にイメージ宣伝をすることで消費者が騙されているばっかりじゃんと思えてしまう。

 

とくに化粧品なんて、最近人気のある資生堂の「クレ・ド・ポー ・ボーテ」なんて言う英語だかフランス語だか日本語だかよく分からん高級品は、ちょっとした壜一本で何千円ですぜ!(俺の酒の方が安い!)女性の化粧品セットは合計すればいくらになるのか?数万円?

 

(おれに)クレ・ど(んとよこせ)・(男が)ポー(っとしている間がチャンスだ!)・ボーテ、(ぼって、ぼったくれ)。なんか歌になりそうな商品名ですね。

 

だから皮膚を研究する先生からすれば女性が化粧をしたりするのは、きれいになりたいと思って汚くなるわけで、考えてる事とやってる事が違うじゃんって言いたいのだろう。

 

けどまあ、これが学者の限界かなと思う。だって彼は「肌」のことを考えているけど、女性にとって「肌」は手段であり目的はきれいになること。そもそもの視点が違う。だから男がいくら男の視線や学者の視線で考えても分からないことが世の中にたくさんあるのだろう。

 

けどま、たぶん答えは簡単なんだろね。

 

「死んでもいいから女はきれいになりたいの」

 

まあ、男は女の為に働けってことですね。はい、今日も頑張ります。



tom_eastwind at 18:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 日本 | 諸行無常のビジネス日誌

2009年10月28日

傷はぜったい消毒するな

現役のお医者さんが自分の実体験を元に現場で医療の現実を見ながら確立した新しい治療方法。

 

アトピーなんて皮膚病だから簡単に(とまでは言わないが)治るし、今までの切り傷や皮膚炎症(擦り傷とか)を消毒するのは、あれは傷口を悪化させるだけの「間違った医療である」と言い切る。

 

 

久しぶりに本の話だけど、そういやずっと本の事を書いてなかった。あいも変わらず週一の読度だけど、新しく勉強することが続いてたので、ついつい本の事は放置してた。

 

そんな中突然にこの本ってのは、いや〜、本はめぐり合いですね。

 

てか、先週GAUTが再発して右手が使い物にならなくなり左手一本でPCのキーを叩くのも苦しい状態で、今度はその左手の指に痛い怪我!

 

自宅の手すりに飛び出てたとがった木材の先っぽと、釘飛び出たところにまとめて指を引っ掛けてしまい、とりあえず左手血だらけ。

 

そこで三分の一ほど読んでた「傷はぜったい消毒するな」を引っ張り出して、まずはざっと水洗いして血管を手押しして止血、ある程度血が止まったところで半透明のティーツリーオイルをぎっしりと塗りこんで、あとはそのまま放置。

 

消毒液もなし、絆創膏もなし、傷口は湿らせたまま、寝るときは毛布が汚れないように大きめに巻いたキッチンペーパーにワゴムで留めただけ。

 

これでついに両手がほとんど、つまり親指と人差し指、それに中指までしか使えなくなり、PCワークがかなり不自由になり、今日は12時からの外部会議を一つこなしてから帰宅、でもって後はひたすら本を読むことにした。

 

PCがあるとどうしても使ってしまうが、あえてPCから離れれば?と言う神様のお告げなので大事にお受けしての読書だ。

 

けどこのお医者さんのいう事、よく分かる。

 

僕は昔から医者の言うことだけはまともに信じる事はなかったが、やっぱりね〜、医者と言ってもたいした事は知らないままに、先輩に言われたことを受け売りしているに過ぎないんだよなってよくわかる一冊。

 

こういう本が良いのは、やっぱり答えは現場にあるし、事実を曲げるような常識は、そりゃ常識の方がおかしいと言い切れてる点だ。

 

だってこのお医者さんに限らず、現実を目の前にして勉強している人間からすれば世の中の多くの事が実に不合理であることが分かる。

 

そういう、何の裏づけもない世間の合意=常識に縛られた人々が結局自分を不幸にしているんだってのを医療の世界で説明してくれる。

 

今から数百年前は傷口に鳥の糞を塗ったり銃創には煮えたぎった油を流し込んで「治療」と言ってた。200年前に梅毒が流行した際は水銀療法と称して5日間体に水銀軟膏を塗りこみ更に全身浴をしてこれを繰り返してた。

 

もちろん結果は日本の水俣公害で起こったような水銀中毒となり、歯が抜け落ち涎が止まらなくなり、梅毒で死ななかった患者は水銀中毒で亡くなったのである。

 

今の時代からすれば「なんてことを“」と思うかもしれないが、当時は社会のトップクラスの知的集団の代表と言われた医者集団が「これが正しい”」と信じて行い、人々も自らその治療を望んだと言う現実。

 

これは医療に限らずどんな場合でも同じで、目の前の現実を拒否して誰かに言われた事を闇雲に信じて自分で自分を不幸にする典型的なパターンである。

 

このお医者さんは現在使われている最新の治療方法も30年後に生き残っているのがあるだろうか、むしろ30年後の医者に「え?!30年前はそんな事やってたの!そんなことやったら病人が死んじゃうよ“」と言われるのではないかと述べている。

 

今医者に通って医者のいう事を信じてその通りに行動している人、とくに本人がそれでドツボにはまるのは自己責任だが、医者の言うこと聞いて自分の子供に無理やり毒を飲ませるような事をしている母親がいれば、その人は30年後にバカになった自分の子供を見てどう反省するのか。

 

いずれにしても、医療だって医者頼りではなく自分でもある程度の知識をもつことが自己責任の一部になっていってほしいものだ。

 

などと言うと、通風と怪我で両手がまともに使えない奴が偉そうなこと言うなってね。はい、このブログも今日は4本指で書いてます。かなり、、きつ。

 

はいはい、今日は読書に集中します。

 

 

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tom_eastwind at 18:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 最近読んだ本  

2009年10月26日

ラベンダーの香り

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「時を駆ける少女」って、原田知世が主人公でヒットした映画があった。

 

ラベンダーの香りを嗅いでから時を行ったり来たりするオハナし。

 

こんな風に書くとばかっぽいが、良く出来た映画であり大好きだった。

 

ラベンダーってのはハーブの一種で、そのハーブはxxの効能があって、などなど当時からハーブってのは人間の体に一種の影響を与えると言われていた。

 

ところがこっちなんて18歳で全開してから後は人間機関車、そんな細かな香りなんて感じれるほどの繊細さなんて持ち合わせてない。

 

てか、持ち合わせてたら今まで生きて来れませんでした。だから映画は楽しんだのだけど、ラベンダーの香りなんて年寄りになってから分かればいいや、位の気持ちだった。

 

ところが人間の体ってのは面白いもので、年とともに体質が変化していくのだ。GAUT、これは体質変化ではなく単なる病気です・・・。

 

まあそれは置いておいて、最近はカフェでラベンダーティーを注文してみると、何となく香りがあるのを感じる。おお、これがラベンダーの香りなのかとこの年になって初めて感じて喜んでる。

 

20歳代はしょっちゅう北海道に行ってラベンダーも一杯見て、お客には「ほうら、皆さん、これがラベンダーですよ!素晴らしい香りですよね〜」とかいいながら、肝心の本人が全く分かってなかったという状態なのだから、お客さん、添乗員の話は半分に聞いておいたほうがいいでっせである。

 

それにしても人間、いくつになっても変われると思って、とても安心しているから人間なんて面白いものだ。

 

この次は何に挑戦してみるかな。とりあえず時を駆けるのはただいま訓練中です。

 

写真はティーポット。CHOCOLATEと書いてますが中身はチョコではありません、ラベンダーティーです。お店の名前がチョコレートラウンジなのです。



tom_eastwind at 14:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月25日

Labor weekend

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今週末は三連休である。

 

土曜日から月曜日までお休みで「労働者の日」とでも呼べば良いのだろうか、とにかく夏に入る寸前の週末を利用して労働者の皆さん、ゆっくり休んでくださいって事だろうか。

 

けど実際は労働者だけでなく経営者の皆さん、てかおそらくこういう休みを一番楽しく利用しているのは経営者ではないかって思う。

 

なにせこの国では労働者が政府や法律によってすんごい強く守られており、起業したばかりの経営者にとっては毎日が落とし穴の連続だ。

 

だから三連休でもあれば真っ先に休みたいのは、日頃労働問題で頭を痛めている経営者だろう。

 

最近もそんな話を聞いたばかりだ。ろくに働きもせずに突然辞めて店に迷惑をかけておきながら自分の権利だけは主張する。

 

まあこのような話は枚挙にいとまがない。けどまあ、彼らは権利に伴う義務と言う考え方は誰にも教えてもらってないのだろうか?自分で理解出来ないのだろうか?

 

いろんな経営者から話を聞くけど、正直言えば労働問題については経営の初心者が労働の初心者ともめているって感じ。

 

お互いに言い分はあるだろうが少なくとも社会人なのだ、相手の言い分と自分の言い分を理解してそこで調整する機能を持つべきではないか?

 

なのに労働者側がいきなり法律とか権利とか持ち出して話をするってのは経営者の目で見れば「じゃあもういいよ、そんな連中は今後不要です」となってしまい、結局労働者は長い目で見れば自分で自分たちの職場を失い理由になりかねない。

 

それともそんな労働者は自分さえよければこれから後にやってくる労働者の事などどうでもよいと考えているのだろうか?

 

まあそういう視点で事態を理解する事が出来ないからいつまで経っても「そのまま」なんだろうな。

 

自分で沈んでいくような人間を経営側が救う必要はないと思ってるし、そういう「そのまま」な人を啓蒙するのは政府や教育機関の仕事だと思うから、経営者は黙って経営に専念するのが一番。

 

でもって週末はゆっくり休んでもらって、来週からまた一生懸命働いて納税してくださいな。

 

と言うことで当家では今回の三連休は「自宅の補修」である。平日はまとめて作業が出来ないので三連休の今回を利用して浴室のタイルの張りなおしとか庭の手入れとか、普通の家ならご主人がするようなことだけど、当家では奥さんが担当である。

 

というのが、僕がタイルを張ると必ず歪むか後で落ちるし、庭をいじるとぼろぼろにしてしまうからだ。

 

だもんで連休二日目の今日は奥さんが自宅でヘッドフォンつけて音楽を聴きながらのんびりとタイル張り、ぼくと竜馬君はいつもの如くStLukesWarhammerである。

 

warhammerWarhammerShopの向かいが落ち着いたカフェになっているので、床から天井までガラス張りになったカフェの窓際のテーブルに坐って紅茶を飲みながら時々りょうまくんの動きを確認。

 

他の子と喧嘩してないよな、とか、お店の人にわけわかんない事言って困らせてないだろうかなって事。

 

この店では客寄せの為に週末は子供たちにプラモデルの塗装を無料で教えている。ちょっとしてスクールみたいで6席ある机は子供たちで一杯だ。他の子供は隣にあるゲーム台で遊んでいるのだけど、これはとくにお金を取らない。

 

きゃーきゃーとはしゃいで、そのうち迎えに来たお父さんやお母さんにせがんで「ねえねえ、あれ買ってよ!あの武器がないと、ぼく、戦いに負けちゃうんだ〜」となり、うれしそうな子供の顔を見て親の財布はついつい緩むという仕組みだ。

 

でまあ、ここまでは良いのだけど店員にとって子供自体は客ではなく、あくまでも親の財布を緩めさせる為の人質だから出来るだけ楽しませる必要がある。

 

けどだからと言ってくそがきがずっと一人の店員にべた〜とひっついて「ねえねえ、これ何?あれ何?」なんてやってると商売にならない。かと言って「こらクソガキ、あっちいけ!」なんてやるとこれまた商売にならない。

 

これがオトナなら空気読んで引いてくれるのだろうけど、子供だとそうはいかない。とくにりょうまくんの場合、全くと言って良いほど空気を理解する能力が欠けているので、やはり時々は店に顔を出して店員さんの顔色見ながら問題ないかどうかの確認作業。

 

何せこの点気をつけないと、お店の人がりょうま自身の人柄に敬意を払っているのではなく親の為にやっているのだから、りょうまがトラの威を借りる狐にならないようにせねばと思ってる。でないとこの子がオトナになった時にひでー勘違いをしてしまうからだ。

 

りょうまくんはここ一年くらいでずいぶんとまともになったので結局は問題なく一日を過ごしてくれたのでぼくもゆっくりと紅茶を楽しむ事が出来てよかった。

 

最初に書いたけど経営者が労働者に社会的常識を教えるのは、こりゃスジ違い。それはあんたの親や学校の仕事でしょ。

 

けど自分が親という立場で考えれば、自分の子供が少なくとも他人に迷惑をかけずに生きていく事を教えるのは間違いなく親の仕事。そして親の仕事に休日は存在しない。だから三連休でも親の立場で仕事は続く。

 

ニュージーランドの、片方では起業家を生み出しやすい法的整備をしておきながらその反対側では労働者を守ると言う仕組みは、ビジネスを始めたばかりの人には非常に理解し難い仕組みだと思う。

 

けどその背景には19世紀の英国における雇用側がどれだけ強力であり貪欲であり、労働者がどれだけ酷使され搾取されていたかと言う現実を知る必要がある。

 

ニュージーランドにおける法体系は1840年代の英国を見て反面教師として作られたので、当然労働者に対して政府が積極的に関与する仕組みになっている。

 

本国でさえ導入出来なかった労働者主権の国作りを、英国から船で100日かかって15000kmの旅をしてやってこれる南太平洋の小島で作り上げたのだから、まさに実験国家だと思う。

 

でもって今の労働者を守る仕組みはあまりに守りすぎで行き過ぎではないかという批判が多いのも事実である。

 

けどこれは天秤のバランスと同じであり、針は常に右に行ったり左に行ったりしているけど、この国では基本的に左半分の中で行ったりきたりしているのが事実だ。

 

ぼくの個人的な意見は、現在のニュージーランドの労働関連の法律ってのは良くできてバランスが取れていると思う。政府が常に雇用に対して最低限の関与を行うこの仕組みは起業家からすれば「ふざけんな!」だろうけど、ではこの「関与」がなくなった場合に何が起こるかを推測、または歴史的に紐解いてみれば、実はそれほど悪くはないと思うのである。

 

ただ、それは労働者の甘えを許すのものではなく、労働者にはあくまでも義務の実行と言う点と社会人としての常識は理解してもらうように要求するのは、これは経営側の当然の行為だと考えている。注意すべき点は要求する際に求められるのは経営側の法的知識である。

 

けど正直言えば、この国では経営側と雇用者側の垣根が低く、どちらかと言うと経営側もまさに一番よく働く労働者である。資本だけ提供して自分はコーヒー飲んで配当来るのを待ってますってことにはならない。殆どの場合真っ先に立って働いているのである。

 

そんな彼らには、労働者の代表さん、ゆっくり休んでくださいって言いたい。



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2009年10月24日

GAUT ! 2

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痛たたた!

 

3日ほど前から久しぶり、えっと2年ぶりに右手首の関節が痛み始めた。

 

まるで鉄の棒でぶん殴られたように、ぐわ〜!って感じで激痛が体中を襲う。

 

 

もう、こうなったら笑うしかないよねってくらい痛い。

 

普通の人はGAUTは足の関節に出るそうでぼくの場合は珍しいケースで手首なのだけど、まともにキーボードも使えない。GAUTは痛風。

 

イメージとしては右手全体が木の棒になった感じで、手首全体が腫れ上がって真っ赤になり、手首関節あたりの血管で血液がどくんどくんとするたびに、右手全体に激痛が走る。

 

つまり一分間に数十回の痛みが連続して襲ってくるわけですね。

 

なにせ血液の動きだけで物凄い痛みなんだから、間違って何かに右手をぶつけた時の痛みなど、本当に大声を出して「ぎゃ!」と言ってから、後はひたすら笑うしかない。

 

4日前の朝、起きてみるといつもと手首の感じが違って鈍痛がする。「もしかしてまた再発か?」とか思いながらその時点ではまだ何とかYシャツとネクタイを自分で付けることが出来た。

 

けど会社に着いて昼過ぎになると、いよいよ痛みが酷くなってきた。あたたた!

 

痛風ってのはいっぺん罹ると毎年やってくるものと聞いてたし去年はご訪問がなかったので「完治?」なんて思ってたら、甘かったですね。

 

出来れば当社メディケアに行こうと思ったが予約も取れず、仕方ない、一旦自宅に戻る。けどその晩は血液の脈打ちだけで激痛が襲うわけで、1分に何十回も痛いわけで、結局一睡もせずに朝を迎えてそのままメディケアへ。

 

こういう時に医療チームが社内にあるのは有難いなって本当に思う。医療英語はまさに意味不明であり、キーウィでさえ冗談で「先生、すみませんが英語で言ってくれませんか?」となるくらいだ。

 

そこに日本の資格と経験を持った看護師が通訳してくれるのだから、これは助かる。

 

GAUT=痛風とはプリン体という物質が原因で、こいつがたっぷり入ってるものを摂取するとこれがどんどん蓄積されていく。通常なら尿に溶けて体外に排出されるのだけど、あんまり多量に摂取したりすると排出されきれずに体内に残る。こいつが何故か関節技が好きで、足首とか僕の場合は手首とかの関節に集中して溜まる。

 

このプリン体とぼくの体内の免疫が戦うわけだが、なんでそれが関節の上なのか、神のみぞ知るであろうか。

 

戦国時代の日本でも、折角稲穂が伸びて収穫期になった水田の上で武士たちが戦をするようなもんだ。そこはやめてくれって感じ。

 

この治療法、基本的にはプリン体の含有率が高いものを食べない事で防げるのだけど、何故か中年男性に多い。

 

ぜいたく病って言うくらいで美味しい食い物にたくさん含まれているのだけど、毎年「食べてはいけない」リストを見るたびに「あれ?魚って体に良いのではなかった?逆に甲殻類とかが駄目だったんじゃ?」と思うくらいランクが変化している。

 

ただ、贅沢病と言いながらもキーウィが大好きなビールやワインにはたっぷりと含まれているものの、これって贅沢な飲み物ではないよね。

 

それなのに多くのキーウィ中年男性を狙い打ちにするGAUTってのは、キーウィにとって天敵みたいなものですな。どうせ狙うなら他にもひとつGenderがあるでしょって感じ。

 

だからかもしれないけど、薬局とかに行くと病気を説明するパンフレットの一番上がインフルエンザでその次がGAUTである。

 

まあ病気と言うのはもっと悪くなる前の予防的メッセージと考えれば、つまり今治療しないと死ぬよ、みたいなものかなと考えているので、病気だからと言って否定的に捉えるのではなく、「おう、戦友!」みたいな気持ちで迎えるほうが楽しい。

 

この日のQuayMedメディカルセンターでの診療費は70ドル、薬代が別途30ドル、だっけかな。これは有料。

 

ぼくが説明会で一番説明しずらいのは医療費。基本的にニュージーランドの教育と医療は無料であると説明してる。けど実際には国立病院が無料なわけで私立は有料である。

 

 

でもって当社メディケアチームが加盟しているQuayMedは個人の医者や看護婦が集まって作られた組織で、全員が個人で商売をしているので有料である。

 

2年前にぼくがここに初めて行ったときは病名が分からずそのまま公立のNorthShoreHospitalに転送されたので無料だった。手首に出るGAUTが普通ではないために最初に診てくれた先生が確認の為に公立病院に送り込んだのだ。

 

この時は結局GAUTと診断されて、それを聞いた先生、両手をぱちぱち叩きながら上を向いて「やった!当たった!」だって。

 

今回は前回のデータがあるので最初から「疾病」と診断されて、個人病院だから有料という事になった。

 

普通は個人が民間の医療保険に入って治療費をカバーするのだけど当社の場合は医療費は会社負担なので医療保険に加入する必要はない。逆に言えば通常のNZ企業では、会社が医療費を負担するという考え方はない。

 

もしこれが骨折なら怪我であり、そうなれば最初から医療費は不要である。

 

ついでに言えばこの国では予防とか定期健診という考え方がない。病気になってから治療するほうが予防費用よりも安いからという計算だ。

 

その計算に基づいて、最近では女性の子宮がんと男性の前立腺ガンの予防については導入されるようになった。この二つの病気に罹る患者が増えたため、予防にした方が費用がかからないという判断だ。

 

などと説明すると、今の日本人には「このシステム、いったいナンだ?」って事になるけど、この背景を説明しだすと西洋社会と日本社会における人間の位置付けの違いを説明しないといけないし、その説明をすると更にその背景となる宗教観を説明しなければいけない。

 

そして最後は「民主主義とはナンぞよ?」と言うところまで来て初めてこの問題は日本人が自ら理解して解決すべき問題だと分かるのだけど、その時点では誰もそんな心の準備が出来てないから「今突然そんな事聞かれても〜」となるのである。

 

これを説明するのに最低でも1時間、そしてそれは相手に医療や人間や宗教と言う基礎知識があった上でのことになる。

 

だから説明会ではそのあたりを大幅にはしょって「一応無料ですが私立は有料です」とだけ話す事にしている。

 

病気の話が長くなったけど、とにかく皆さんからだが資本です、元気でいきましょう。



tom_eastwind at 13:26|PermalinkComments(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月22日

公平と国民政治の下で

最近はアゴラと言うインターネット論壇も出来て、ここもよく読ませてもらっている。

 

いずれこういう質の高いサイトは有料化されるだろうし、その方が良いと思う。

 

 

今はそれぞれの業界のプロが本業の傍ら記事を投稿している人も、それできちんと収入を得るとなれば本業となり、そうなれば専門知識のない生半可な大手新聞記者が書く意味不明な記事よりもよほどきちんとした事実に関する評価や分析が行われるようになるだろう。

 

優秀な媒体が何をもって優秀とするかによるが、少なくとも経済や政治に関してはアゴラの方が一般紙よりも数段上であるのは間違いない。

 

最近の記事の中で池尾氏の投稿があった。

 

http://agora-web.jp/archives/765910.html

 

記事は今後日本がインフレを起こすかどうか、発生したらどうなるかと言う内容。

 

記事自体はごく普通なのだが、これを読んだときに何となく僕の頭の中(上ではないぞ、しつこいぞ)でピカってしたものがある。

 

それが日本の「財政再建」である。

 

詳細はアゴラの方を読んでもらえば分かるが、今までも政府が抱える借金を帳消しにする方法はスーパーインフレだと言われていた。

 

政府がお金をばら撒けば原資が必要でありそのため円がたくさん発行されるわけで、円の供給が増加すればそれだけ円の価値が下がる。そうなると外国から仕入れている商品はすべて値上がりする。これが進めばインフレになり、更に進めばハイパーインフレーションとなる。

 

そうすると物価が急上昇し1個10円だったパンが1個100円になる。つまり円の価値が10分の1になるって事だ。

 

ところが国債などは通貨=円で設定されているから円の絶対額は増えない。その結果として国債の価値が暴落するのだ。

 

日本政府が抱えている800兆円の負債とこれから発行する国債にしても、政府が個人向け国債を販売しているから(以前は個人向け国債はなかった)1400兆円の個人資産が吸収することが出来る。

 

ところが10年後に国債償還となった際に物価が10倍になってれば、政府からすれば800兆円の借金が80兆円になるので簡単に返済出来る。ばかを見るのは国債を買った国民である。

 

「小説日本銀行」の中で有名な場面がある。敗戦後すぐの時、優秀な大学を卒業して日銀に入社した若い社員に親戚(だっけか?)連絡が入る。いわく自分たち老人の資産は安定運用したいから国債を買おうと思うけど、あんたはどう思う?との質問だ。

 

ハイパーインフレが起こり国債は紙くずになる事を知っていた行員は、それでも国家のために「国債を買いなさい」と勧めたのだ。そしてその後ハイパーインフレが日本を襲うことになる。

 

実際にハイパーインフレーションは戦後日本も経験しておりドイツでは第一次大戦後の凄まじいまでのハイパーインフレが起こって、これが第二次世界大戦の遠因になったとも言われている。

 

このようなハイパーインフレーションによる財政赤字解消策は以前から「非現実的な一つの案」として語られていた。「そりゃ出来るけどさ、そんな事やったら国家は生き残るけど多くの国民が悲惨な事になるよ、冬空に丸裸で自宅から追い出されるようなもんだ」と言うことで殆どの人は否定した。

 

そんなハイパーインフレーション、最近はあまり記事にならないなと思ってたら、もしかして民主党、本気でインフレを仕掛けて国家財政を黒字化する準備に入ったからあえてマスコミに書かせないようになったのかもしれないと本気で思わせる。

 

と言うのが現在民主党が進んでいる方向は簡単に言えば「ばら撒き行政」であり、国債発行も50兆円を越すようになる。

 

国債が紙切れになる理論は↓を読んでもらえばよく分かると思う。

 

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51596567.html

 

日本は国として倒産する事はないけど国債発行しまくって個人に買わせれば被害を蒙るのは金持ちだけだから、これで富裕層と貧乏人のバランスがとれるという話。

 

ただ今のまま政府が国民向けのリップサービス的な政策を進めてその結果財政バランスが崩れれば、間違いなく増税となる。

 

まあ公共事業を削減して地方空港を整理すると見かけは非常に良い。だから選挙では浮動票が獲れる。透明で公平な予算配分の結果お金が足りないとなれば国民は文句も言わない。

 

その上で次の参院選で勝利すれば、大増税とハイパーインフレーションを起こして国家財政を一気に片付けるという荒業も可能になる。戦後のハイパーインフレでも日本人は暴動も起こさずに大人しく従ったのだ、今回も同じだろう、そう小沢さんが読むのも当然だろう。

 

実際にやるかどうかは分からないが、今回は確実に「やれるだけの準備は出来た」となり、具体的な選択の一つになるだろう。

 



tom_eastwind at 07:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本

2009年10月20日

善い目的

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日経ビジネスが新しい装丁になった。装丁、ではないな、デザインが大幅に変わったという事。

 

それに伴って記事の方向性が少し変化したか?

 

今までは日経ビジネスと言えば経営者とかが社会全体の流れを見るために読むわけであり、企業を応援する立場だったのが、今回いきなり日本航空の記事や「言いたかないけど、あんたら少し間違ってないか」的な記述が目立つ。

 

つまり消費者を神様的に扱い品質を向上させて商品価格を下げてアフターサービスもばっちり24時間体制にさせてお客様にぺこぺこする企業を「努力している」と評価していたのが、「おいおい、言いたかないけど、あんたの会社で働く人も人間だよ、労働者は自宅に帰れば消費者だよ」と言い出した感じ。

 

民主党に政権交代した時期に合わせたのかどうか分からないが、まともな理屈が少しづつでも出始めたことに良い兆候を感じるのはぼくだけか。

 

消費者が自分のわがままをいう事で労働者が苦しむのであれば、その労働者が次の時間帯に消費者になった時、今まで消費者だった人が労働者になった時、それは倍返しされますよ。

 

結局今の日本のストレスの多くは、労働者と消費者のお互いの傷付け合いではないかと思う。お互いにもっと相手のことを思いやればよいのにと本気で思う。

 

この国ではお互いに仲良くやろうとしている。バスを降りるときは真ん中の降り口を使う乗客でも運転手に「ありがと!」って普通に声を掛ける。

 

そんな事を思いながら来年のビジネスの仕込を考える。

 

今一番頭の中(上ではない)で光っているのは日本発の技術やノウハウをニュージーランドに移植して、これを小さいながらフランチャイズ化、これに成功したらシドニーに進出、そして英国圏での展開と言うイメージである。

 

ニュージーランドの良いところは実験国家であることだ。

 

つまり西洋人の嗜好がどっぷりであり彼らの思考回路や行動に受け入れられやすいかどうかを計るのに丁度良い400万人サイズであり、なおかつ出店や出資コストが他の英語圏に比較して非常に低額なので、いろんな事を試しやすい。

 

実際にこの国は1900年代初頭から他の英語圏諸国からも「実験国家」と呼ばれており、この国が発祥の法律や制度などがたくさんある。老齢年金、女性参政権、労働組合活動などが有名だけど、最近では日本の会社がデビットカードの原型となったエフトポスの実験をしたり、交通信号のコンピュータ制御などがある。

 

いろいろ考えていくと、例えばクリーニングとかもいけるのではないか。実はニュージーランドはフランチャイズが非常に発達した国であり、それだけ楽してもうけたいと考えているキーウィが多いとも言える。

 

それに魚ビジネスと肉ビジネス。これも長い道のりだけどやんなくちゃ。

 

意外とささっとやってさっと答が出たのがホリスティックだったのも面白い。

 

点滴バーもどうかなと思って医療チームに相談したら速攻で駄目出し。やっぱりニュージーランドでは予防と言う習慣がなく、普通の病気でもあまり点滴は使わないので、医者が納得しませんよだってさ。

 

そういうリストが現在出来上がりつつあり、A4一枚からそろそろ溢れそうだけど、これに順番をつけようと言う時点でふと考えた。

 

選ぶ基準ってなんだ?

 

そんな事を考えながら偶然日経ビジネスを読んでたら(ぼくはよく本とPCを同時に見たり読んだりする癖がある)、リーダーの実践的経営ってページを開いてて、そこに書いてる一番上の欄にあったのが「善い目的を作る」だった。

 

本って面白いよね。考えながら読んでたら、必ず答を出してくれる。

 

優先順位が決まった。「善い目的であるかどうか」だ。この言葉をどう解釈するかは人によるだろうけど、僕的には何となくすとんと胸の中に落ち着いてくれた。

 

それにしてもちょっとびっくりしたのは加藤和彦さんの死を、なんと「さとなおさん」だけでなく池田ブログでも取り上げてたことだ。

 

どちらもおざなりではなく、きちんと同じ時代で同じ音楽を聴いてきた人だけが分かる言葉で「帰ってきた酔っ払い」とか「悲しくてやりきれない」とかユーミンを引き出しにして彼の死をそれなりに「認識」して自分に落とし込んでいた。

 

う〜ん、1970年以前の時代、安保とか成田とか、そういう大きな一つの時代の最後、サイケデリックと言う言葉が本当に死語になった日というべきか。

 

あ、そうだ、もし興味のある人、サディスティックミカバンドの「タイムマシンにお願い」聴いてみませんか。

 



tom_eastwind at 19:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月18日

加藤和彦が死んだな〜

あ〜あ、死んだんだ。

弱かったのか?

ちぇ、あれだけ良い歌を歌いながら、それ以上何が欲しかったのかって、ほんとに考える。

僕が初めてギターを持ったのは15歳かな。「あの素晴らしい愛をもう一度」なんて。

苦しいのは分かるけど、なんかな〜、それを通り抜けて欲しかったな〜。

年を取るってのは重さが増えることで、それを支えながら生きていくのがオトナの仕事だと思ってる。

う〜ん、音楽やる人間って、やっぱどこか繊細なのかな。

まあいいや、こっちは音楽なんてとうの昔にあきらめた人間だ、ずぶとく生きていくぞ。

けど、こんなニュースを谷村しんじとか拓郎とかいぜしょうぞうとか、どう感じてるかな。ぼく以上に身近に感じているんだろうな。

ふ〜む。おんがく。今日は思わず車の中で1980年代の音楽を聴いてしまった。

 



tom_eastwind at 22:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月17日

高速道路無料化議論

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東京でタクシーに乗ると必ず「高速使いますか〜?」と聞かれる。

 

どっちでも時間の早いほうが良いので「どっちでも早いほうで」そう告げると、「最近は高速も混んでますからね」となって、それから大体最近は高速道路無料化の話に繋がる。

 

 

民主党の目玉の一つに高速道路無料化がある。

 

これについては様々な意見が出ており、特に既存メディアが取り上げるのが「そんな事したら車が増えてしまい、高速道路が渋滞する」と言う話。

 

これに呼応するように「道路公団が赤字になる」とか、酷いのになるど「CO2削減と矛盾する政策である」みたいな話も出てきてる。

 

しかし面白いことに利用者である国民の意見はあまり表に出てこない。マスコミからすればカネも払わないし広告主にもならな一般市民はどうでも良いのだろうが、ぼくの知り合いでも間違いなく現状の一部大幅割引(1000円高速?)で恩恵を受けている。

 

まず「高速道路が渋滞」して困るのは主に仕事で高速道路を使っている人やそこで利益を得ている「既得権者」である。

 

「道路公団が赤字になる」って話は非常に馬鹿げてる。だったら一般道路はどうなのだ?あれは全部無料ですぜ。大体何で道路公団なんて組織が必要なのだ?

 

国民の為の一般道路を「黒字にする」という発想がないのなら、必要がないのなら、その予算は税金で賄われているのなら、高速道路も同じく税金で賄えば良いのだ。その代わり無駄な道路を作らないと言うのが前提。

 

「CO2削減」に至ってはバカもここまで来たかって感じで、だったら最初から石油で走る車なんて作るなって話だ。車の出荷台数制限をするとか自家用車は3人以下では運転してはいけないとか、いくらでも決まりは作れる。要するに反対したい為の無意味な理屈の最大値がこれである。

 

ここで視点を海外に向けて欲しい。分かりやすくいえばニュージーランドであるが、ここは高速道路も橋もトンネルも「ほとんど」すべて無料である。

 

「ほとんど」と言うのはつい最近オークランドの北で一箇所有料道路が出来たからであり、それと今後出来るオークランド西部高速も有料道路化される予定だからだ。

 

こう書くと「ほら、有料がいいじゃないか」と言う話になるが、ニュージーランドの場合オークランドにかかるハーバーブリッジも建設当時は有料であった。

 

橋を作る原価を税金で賄うって、その税金は全国から取るわけで、けど橋を使うのはノースショア(つまり北浜地区)に住んでる人がほとんどなんだから国民全体から薄く広く取るのではなく利用者から厚く取るべきだって発想。

 

これに対して日本道路公団は高速道路を作るたびに有料化してそれを恒久的に継続して、道路公団ファミリーを作って自分だけが儲かる仕組みを作った。これが既得権益者だ。

 

こりゃ違うでしょ。

 

だからニュージーランド方式で考えれば普通の道路は国中何処でも必要だから国家予算で賄いますよ、けど主に一部の人しか利用しなくてお金のかかる部分については利用者が負担してねって発想。

 

しかし日本の高速道路が出来て一体何十年になるのか?

 

作ったは良いが結局誰も使わないような有料道路に何の意味があるのか?それよりも国民が休日に自由に利用出来るようにしたほうがよいではないか。

 

だからこれも千葉県成田空港と同じで、既得権益者が総論では立派なことを言いながら各論では文句を言うのと同じ。

 

西日本では高速道路の割引でフェリー会社の乗客が激減していると言う。だから救ってくれと。おいおい、最初から高速道路が高いから成立しているビジネスであり、無料になれば存在価値のないビジネスでしょ。だったら黙って撤退しなさい。ゾンビー企業を継続させることに意味はないのだ。

 

そんな事、フェリー会社の社長の前で言えるかって?当然いえます。だって元々が高速有料を前提にしたビジネスモデルなんだから社会構造が変化して高速が無料になれば存在価値が激減するのは当然でしょ。

 

そういう事を予想してビジネスを多角化するのが経営者の仕事であり、それを怠って今になって「助けてくれ〜」ですか。

 

だったら毎日電車に飛び込む人々の生活は助けなくて良いのか?

 

企業と名前が付けば救う価値があるけど、個人が電車に飛び込むのは救う価値がないのか?

 

要するに今の時代は一部利権産業や一部既得利権者ではなく国民全体にとって何が最適かを考えるようになったのだ。

 

その為に出てきたのが国民全体に利益のある無料高速道路だ。

 

だからフェリー会社が倒産してもそれは当然だ。経営者の才覚の問題で失敗したら市場から撤退するしかない。そんなのは当然だ。それまでに手段を打たなかった、つまり「いつまでも自民党が続く」と思い込んでた人々の計算違いだ。

 

その上で失業で困っている国民にはセーフティネットできちんと失業手当を支払い、子供の教育は無料化して国民としての生活を安定させてあげるのだ。ついでに医療もね。

 

実はこれ、今のニュージーランドが実行している政策である。

 

労働と生活を切り離して考えることで物事は整理できる。

 

企業は社会を成長させるための道具であり、不要になればそれは捨てるしかない。例えば蒸気機関車時代の英雄だった釜焚きだって電動列車になれば不要である。

 

不要な釜焚きの仕事を守る為だけに蒸気機関車を走らせるのはムダである。それより彼を解雇して、そのかわりに働いてた時と同様の生活をセーフティネットで守るべきなのだ。これが労働と生活の切り離しである。

 

話はそれたけど、要するに高速の無料化で道が込み合うって言っても、最初から無料の高速を持っているニュージーランドでは道路が渋滞しても誰も「これは無料だからだ」と文句は言わない。そうではなくて「もっと無料高速を作れ」と言う話になる。

 

日本にはこのように本当に矛盾が多いけど、今回の民主党政権で各種議論が交わされることは大賛成だ。その中でみんなが民主主義の当事者としてしっかり地に足を付けた議論をしてもらえばと本気で思う。

 

けどはっきり言えば、一旦導入されれば国民はあっという間に馴染みますよ。良い意味でも悪い意味でも忘れやすい人種ですからね。

 

もしこれがうまくいくようなら、ぼくも仕事の場を東京に移してもよいかもって、結構本気で思っている。今の東京なら、やってみる価値があるもんね。

 

う〜ん、行ってみようかな、東京。

 

写真はオークランドのシティからハーバーブリッジに向う高速です。りょうまくんがアイスバーを振り回してます。

 

りょうまくん、くるま汚すなよ、お母さん怒るぞ。



tom_eastwind at 18:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月16日

新聞週間に向けて

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★抜粋開始

読売新聞社が15日からの第62回新聞週間を前に実施した面接方式の全国世論調査で、情報や知識を得るために新聞は必要だと思う人は91%に達し、昨年の90%と同様の高い数値を記録した。

     抜粋終了★

 

いっや〜、笑わせてくれてありがとうって感じな記事。

 

情報や知識を得るための手段として「有料でも」、つまりカネを払ってでも新聞を買うか?いくらまでなら払うか?そういう質問にすれば良かったのにね、そしたらもっと面白い結果が出たと思う。元ネタは↓です。

 

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091014-OYT1T01105.htm

 

 

それから新聞勧誘のしつこさについても調査をしてくれればもっとよいかも。

 

みゆきが住むアパート(日本語ではマンションと呼ぶ)でも表に名前を出している人は一人もおらずどこに誰が住んでいるか分からない状態なのに、新聞勧誘員は次から次へと勝手に部屋のボタンを押し捲ってだれかれなしに「新聞取ってくださいよ、洗剤付けますよ〜!3ヶ月は無料ですよ!」なんてやってる。

 

新聞勧誘が来たときのみゆきの対応はとっても簡単だ。「日本語、あまり分かりません。英語でお願いします」と言うと、今までの実績ベースで全員が「ちぇ、ガイジンかよ」で終わりである。この程度の勧誘員である。

 

ほんとに新聞の知識が必要なら、90%もの人が必要と思っているのなら、何でそんな下品な勧誘方法が行われるのだろうね?

 

新聞紙面では自分より弱い立場の人間を「非道徳」とか「非見識」とか立派なことを言っておきながら実態としては脅しのような勧誘をやってるのは、こりゃいったいどういう事だ?

 

第一その90%はどこで面接したのかい?昼間、家庭にいて何もしていない、インターネットを使った事もないような人々のご自宅を重点的に回ったのでしょうかね?

 

どうせならインターネットで無作為にアンケートとって見ればどうでしょうね?

 

今時普通に知識があれば情報検索にインターネットを使うなどごく普通である。新聞に書いてある情報がどれほど歪んでいるかを確認する為の媒体がインターネットだと言っても良いと思う。

 

もっと言えば、すでに新聞を取らない、テレビを見ない人々が増えてきているが彼らの情報収集は主にインターネットである。

 

その後に続く記事も楽しい。

 

★抜粋開始★

新聞の報道を信頼できると答えた人は85%(昨年85%)に上り、国民の多くが新聞を評価していることがわかった。

 新聞について「必要とする情報や日常生活に役立つ情報を提供している」と思う人は88%(同86%)、「事実やいろいろな立場の意見などを公平に伝えている」は69%(同66%)、「国民の人権やプライバシーを侵さないように気を配っている」は74%(同70%)だった。いずれも昨年を上回る評価を得た。

★抜粋終了★

 

新聞報道が信頼できると答えた人って新聞報道しか情報収集方法がないからでしょ。

 

でもって必要とする情報が明日の天気予報とテレビ番組と料理の作り方説明であれば、そりゃ「新聞報道を信用する」でしょ。

 

新聞がそれほど信用されてて必要とされているなら、何で新聞の売上が下がっているんですか?何で新聞の発行部数が減少しているのでしょうかね?

 

事実をしっかり見据えて時代に合った媒体に変わらねば将来がないのは自明の理である。

 

これほど自己擁護、我田引水的な調査を、優秀な大学を出た優秀な若者が一生懸命やっているのかと思うと、これが一番哀しくなる。人材のムダ使いだ。

 

今回の東京出張でも、部屋に届けられる新聞、僕は全然開いていない。もう届けなくてもいいですよと言ってもよいのだけどホテル側が混乱するだろうから、受け取った新聞は丁寧にゴミ箱の下に重ねて、掃除するときのリサイクルに使いやすいように置いている。

 

ちなみに新聞報道を信用する85%の人に是非聞いてもらいたい。「あなたは新聞は何面から読み始めますか?」。

 



tom_eastwind at 00:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月15日

総論賛成各論反対では通らないでしょ。

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今回の民主党勝利で戦後日本が抱えてきた構造的問題が少しづつ解決に向っている。

 

構造的問題とは自民党長期政権により出来上がった「しがらみ」からの解放である。

 

権力はいずれ腐敗するとは昔から言われてきたことだが、自民党が長期政権になればなるほどその「しがらみ」が増えていくのは当然で、それこそ構造的問題である。早かれ遅かれ、いつかどこかで一旦精算しないといけない。

 

今回の民主党政権が誕生することで「しがらみのない人々」が舵取りをするのだから、「今までなら(なあなあで)OKだったのに」これからはきちんと公開で議論をして本当に必要かどうかを話し合っていこうとするようになる。

 

そうなると経済合理性とかいわゆる「普通の理屈」が通るようになる。

 

そういう視点で見れば成田空港が不合理の塊であるのは以前も何度も指摘したとおりである。

 

選挙の時には千葉県民だって「日本を良くしよう」と民主党に一票を入れたはずだ。

 

ところがその一票が自分の既得権益に係わるとなったらそれまでの聖人君子みたいな態度を豹変させて「オレの利権だ!」と叫び出す。

 

こういうのを総論賛成各論反対と言う。自分に関係ないことでは偉そうなことを言うが、自分が責任を取るようになると急に醜いことを平気で言い出す。

 

今回の日本出張の間でも、ダム建設問題、成田と羽田ハブ問題、地方空港見直し問題など、次々と大きな国家的政策が議論されるようになった。

 

良い事である。どんどん議論すれば良い。そして自分たちが参加している社会は自分たちで作ろうと言う意識を国民が持つことは非常に良い事だ。

 

ただ、自分の利益になることだけをわーわー言ってても誰も聴く耳は持たない。

 

自分に痛みのあることでも全体として考えれば利益になるのであれば、それは我慢すべきだ。我慢するからこそ次に何かあった時に自分の意見を堂々と主張出来るし、皆もそれを聞くようになるのだ。

 

以前も書いたが成田空港などは自民党長老のごり押しから始まり土地争いになり死者を出すまでの大事件となり、それが今でも成田空港の延長も出来ず夜間発着も出来ない不便な空港となっている。

 

その空港の到着ロビーでは地元に配慮しているのだろう、職員向けに野菜や惣菜を売ってるのだが、いったい世界の国際空港のどこでそんなもん売ってるか?その感覚のおかしさでさえ感じることが出来ない人々が、今度はハブを成田から羽田に移すとなると「あーでもないこーでもない」とやり始める。

 

作れば作るで文句を言う、移すなら移すで文句を言う、なら最初っから千葉なんて相手にせずに経済合理性だけで空港の議論をすべきだろう。そのような議論を止めたのが自民党によるごり押し、もっと言えばそのような代議士を選挙で選んだその地域の人々の責任である。

 

少なくとも空港問題で千葉県民が文句を言うのはどう見ても筋違い。

 

てか、いつの時代も自分だけの都合で勝手な理屈をつけているが、都心から成田まで毎回移動する乗客の不便はどう考えているのだ?自分だけ良ければOKなのか?

 

千葉の一部の既得利権にしがみついて、空港作るときは文句言ってカネを政府から貰い、じゃあ移しましょうかって言うとこれまた文句を言い政府からカネを取ろうとする。けどそのカネって国民全体で出し合ったお金でしょ。

 

何で千葉県民だけが独り占めして一般乗客に迷惑かけるの?千葉がそんなわがままを言うのなら、他の県民はこれから千葉のいう事を聞かないよ。

 

日本国内だけの視点で国のカネをいくら分捕ろうかなんて言ってる間に、国際都市としての日本の地位がどんどん下がっているのを千葉県民は知っているのか?

 

世界一高い飛行機の発着料金に乗り継ぎが悪いとなれば誰が使う?「次の国際会議は香港でやろうぜ、世界中何処からも集まりやすいもんね」となる。

 

つまり自分のちっちゃな利権にしがみ付くことで日本全体を沈めようとしているのだ。それで結果は日本国民共倒れとなるだけだ。

 

すでに日本の国力低下はあちこちに出始めている。「日本無視」、JapanPassingの時代になり、ニュージーランドのようなちっちゃな国でさえオークランド-東京間の飛行機の毎日運航を取りやめて、その分を中国路線に回しているのだ。

 

そんな時代に自分の目先の利益ばかりで国の成長が望めるのか?

 

世界を回ってて分かるのは、日本はまだ非常に強い国であるって事。けど同時に、凄い勢いで弱くなってきているのも事実。

 

総論賛成と言いながら各論反対では日本全体が沈んでいく。

 

今この状態で国民全体が沈みたいなら成田で騒いでればよい。もし国全体を浮上させたいなら、視点を変えなければ将来はないですよ。

 

 



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2009年10月12日

これも経験

東京にいるといろんな英語を見る機会がある。

ケンネル=犬が寝るからでしょうね。英語と日本語が偶然一致した言葉?

ドーロは英語で言うとロードだよって子どもに教えると、「そうか、ネルトンってトンネルの事か!」ってなるかも。

和製英語の面白さとかは香港で使われている中国製英語とも繋がる。

コカコーラが可口可楽となるのは、文字も発音も見事クリアーって感じ。

和製英語は笑って済ませられるけど、今回困ったのは携帯電話。

日本で使っているプリペイドだけはどんどん規制が厳しくなり、日本非在住の人間からすれば「おい、使うなって言いたいんなら、そう言ってくれよ」ってレベル。

かといってNZから持ってきた電話で発信をすると、相手の電話には非通知と出るので「お前誰?」となって受けてくれない。

全く不便なこの世の中を改善する為には、やっぱり契約電話にするべきかと検討中。

考えて、よっしゃ「Softbankに行くぞ!」と行って見ると、何で今日はお休みなのよ?

10月12日連休最終日。出張最終日でもあります。

まったく、今度からちゃんと暦を見てから出張予定を決めましょって感じでした。

 



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2009年10月10日

ナスカとGoogleMap

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Googleが出始めた頃はゴーグルと勝手に呼んでいた。何年前からかな、YahooからGoogleを検索機能として使うようになったのは。

 

そのグーグルの新機能に、空から見た地上の景色が見えるというのがある。

 

「ほんのご挨拶代わりの新機能です」と言いつつも、世界中で「プライバシーの侵害!」てな問題を起こした機能である。

 

その機能を使った人ならすでにお分かりだろうが、要するに自分が住んでいる場所(地域ではなくその場所!)が世界中の誰からも見えるようになるのだ。

 

地域によって差はあるけど、例えばこの晩は竜馬君とお母さんがこの機能を使って家の近くを検索してた。

 

「何しているの?」と聞くと、家に一番近いピザハットがどこなのかを探しているようだ。近くに3軒あるのだけど、注文はインターネットで行うのでどこから運ばれてきているかよく分かってない。

 

だもんで竜馬君が「お母さん、もっと近い処から来ればもっと熱いピザが食べられるのにね」と言うのが発起点。

 

家の周りの空撮地図から始まり近いところのピザハットの住所を入力していって、今回配達されたBirkenheadが一番近い場所かどうか確認。

 

それにしてもインターネットの技術はどこまで進歩するのかって話だけど、ここまで来れば個人情報保護なんてのを、真剣に考えもせずに感情論で「いや〜ん、きっもちわる〜い」なんて一部日本人だけが持つ情緒的な感情は世界のルールでは通用しないことが見えてくる。

 

先日も書いたけど、本当に個人情報出したくないならまず表札から廃止、電話帳不登録、やることは他にあるでしょう。感情論だけで問題が解決しないのは分かりきったこと。

 

結局二人で空から眺めた結果、やっぱりBirkenheadのピザハットが一番近いことが判明。これって何とか情報違反になるんですかね?

 

それにしても竜馬君は12歳ですでにインターネット当然の世界に入ってる。とくにお父さんのパソコンを使う時なんて、日本語環境なのにアイコンの形とか映像で覚えているのだろう、さくさくと処理していく。

 

ぼくがこの世界に入ったのはほんの10年未満である。だいいち1990年代に自分の名刺にメールアドレスを印刷している人を見て「何これ?」って本気で思ってたくらい。

 

そう考えると世の中の変化は実に早い。けどそこで考えるのがこういう技術の進化方向である。

 

いったい何処に向かっているのかインターネット?誰もまだ答えは出していない。けどその理想的な方向性の一つとしてはやはりギリシア時代に語られた「ユビキタス」が挙げられる。

 

つまり人間が坐ったままで全ての事が出来てしまう状態だ。すべてのものから自由になり、人は思い切り索指に浸ることが出来る。「指がきたっすよ」ではないので、そこのお姉さん、ご注意。

 

ただユビキタスの一番の落とし穴は、それによって人間が基礎的な思考力を失ってしまい、仮想世界の上で生きていく、つまりマトリックス状態になるのではないかって事。

 

つまりテニスをした積りでも実際にはしていない。1+1=2と言うことを思いっきり疑問も持たずに信じて、次にCPUから1+1=11だって言われたらそれを素直に受け入れるってことになったり。

 

けどまあこれはあくまでも派生亜流であり、やっぱりメインとなるのは人間の思索から出てくる好奇心をどう満足させるかって点ではないかと思う。

 

要するに人間は自分の興味のないことはやんない。

 

竜馬君だってピザハット探しだからお母さんと一緒に一生懸命キーボードを叩いたわけで、これがもし学校の宿題だったら最初の1分で眠り込んでしまうだろう。おかしいのは通常こういうのは比喩で使うのだけど、竜馬君の場合は本当に宿題を始めると1分で眠ると言う特技があるのだ。

 

まあそれは別にして、彼らは空から地上を眺めることで知識的好奇心を満足させた。いかにも人間らしい行為である。

 

好奇心がないまま、毎日あるものをそのままに受け入れるだけの状態を普通は「奴隷」とか「洗脳」と呼ぶ。うちは親がこうしたからおれもこうするんだとか、だから子供はこうやって躾けるんだとか随分バカな親を見かける。

 

まあ自分で自分を奴隷化してその位置に満足して、何か新しいことを探そうとする人間を「異常!」と思うのはどうでも良い事だが、こっちは知的好奇心があるわけで、だから当然グーグルのこんな機能が出てきたら楽しいわけだ。

 

でもって中南米にあるナスカの地上図に何故か意識が飛んだ。

 

あれも誰か好奇心旺盛の人間が空中に飛ぶ技術を見つけて、そいでもって空から地上の人間に指示しながら絵を描かせたんじゃないかってこと。

 

もちろん飛行場とか方向を指示している部分はきちんと意味があるんだろうけど、鳥の絵とかは、何かいかにも真面目な作業の合間を利用して皆で遊んで作ったってのが本当ではないか。

 

つまりありゃあ健全な人間が健全な好奇心を持って遊び心で描いた絵であり、今のような自分で自分を奴隷化して健全な人間を異常と呼ぶような時代ではなかったのかってこと。

 

実は最近好きな遊びの一つとして夢見がある。ほんとここ数ヶ月はばっかみたいに忙しくてどんちゃん騒ぎしている暇もないので、翌日の仕事の都合もあるし最近は毎晩10時過ぎには寝るようにしているのだけど、その時にベッドに入ってやることが夢を見ること。

 

真っ暗にした部屋の中で更に暗さが足りなければ愛マスクをしてベッドに体をまっすぐに横たえて、頭のてっぺんから気を吸い込んで体中を駆け下りさせて、最後には足元から気を通り過ぎさせていく遊びである。

 

これを10分から長いときは20分程度やると、夢と現実の中間に体がふわふわと浮かぶような感覚になる。のりぴーじゃないよ。

 

その時に見る夢って、たぶんいつかどこかで本当に起こったことじゃないかなって思うのですよ。

 

今はまだ狙った時代に飛ぶことが出来ないまま、制御機能のないタイムマシンみたいに飛び回っているけど、いずれナスカのかかれた時代に飛んでいけないかなって、結構半分くらい本気で思っている。

 

 

 



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2009年10月09日

日式弁当

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左の下にあるのは卵と少量の肉を使った炒飯で薄味。炒飯の上に乗っかっているのはエビフライ。ある地方で言うえびふりゃーが2匹ですな。

 

あれはカトキチと思うが、今度東京フードさん(食材卸大手、前回スチュワート島に一緒に視察に行った人)に聞いてみよう。

 

右の下のはレタスに乗った牛肉のソテー。冷たくなっていはいるものの、味はプルコギでつ。

 

右上はベイベーハンバーグ2個、魚白身、コロッケの揚げ物三種盛り。

 

中央上が緑色の着色昆布で左が最初は口に入れるまで不明だったけど結局はすり身のとび子ソースかけと判明。

 

後ろにあるのがペットボトルに入った冷たいウーロン茶

 

さてこれは日本食でしょうかね?

 

ぼくは最近の習慣としてキャセイ航空の午後便に乗るときはオークランド空港国際線にある「葉山」で軽く食事をするようにしている。機内で飛行機に揺られながら食うのもあまり好きになれず、結局は搭乗前に軽く食事をするのだけど、最近の葉山ではお弁当が売られるようになった。

 

これは推測だけど、オークランドから帰国する日韓団体旅行向けのお弁当を作ってて数が多すぎたのでタダで旅行会社に渡すよりはお店で個人に売った方が良いとか弁当用の食材が余ったので小売用のお弁当にしたとかの程度だったと思う。

 

けどこれが結構美味い。味のばらつきがある御寿司や九州出身の僕からすれば「どうなの?」と思うラーメンに比べれば、非常に安定した味である。

 

ソレもそのはず、このお店のオーナーは韓国人でありスタッフには中国人もたくさんいて、この弁当の食材は随分国際的だけどそれに堪えうるだけのスタッフがいるのだ。

 

炒飯を作らせれば中国人の右に出るものはいないし、牛肉を扱わせれば日本人は韓国人の足元にも及ばない。日本人がせいぜい得意とするのは冷凍技術や品質管理技術である。

 

ただ問題は、この国際色豊かな弁当がオークランド空港内唯一の日本食レストランである「葉山」で日本式弁当として売られていることだ。

 

いろんな食材をセットにして売るのはどこの国でもあることで日本だけの文化とは言えない。

 

では何が問題か?

 

それはこの弁当を見て日本人がどう思うかだ。「これは日本の弁当ではない!」と言い切るのか、それとも「お、いいね、進化した日本式弁当だよね」と言うのか。

 

明治維新からそうなんだけど、結局日本人は開国か鎖国かの間で常に軋轢を起こしていた。それがこの日本式弁当である。伝統を守って一切の変化を認めないのか、変化しながら進化していく道を選ぶのか?

 

ここから本題なんだけど、海外の日本食レストランできちんとビジネスとしてレストランをやろうと考えている経営者は、その対象顧客を現地に住んでいる現地人や現地に住んでいる日本食を食べることが出来る層の人々と考えている。

 

ところが海外で「あ〜ん、お腹空いたー、ねえねえ添乗員さん、日本食、あっさりしたものないの〜?」と来る観光客に現地で人気のあるレストランをご案内すると、殆どすべての場合において「ありゃ日本食じゃないわよね」となる。

 

つまり観光客の求める日本食は、彼らが日本の地元で食べている味付けであり食材であり、例えばオークランド空港で食える日本式弁当ではないのだ。

 

しかし日本人と言うのは面白いもので、海外の日本食となったらまるで自分が日本食グルメチャンポン!みたいなしたり顔になる。

 

でもって「ふむふむ、これはこうこうで、ああ、ああで、どうしたこうした」と理屈と知識を並べてその姿はまるで昭和の東京都大田区の町工場で何十年も旋盤を使ったおじさんが自分の知識に基づいて後輩に教え諭すような顔になる。けど彼ら、その時には一切原価計算など理解しないのだ。

 

ところが現地で日本食レストランを経営している普通の感覚のビジネスマンは日本食を世界に広めようなんて考えている伝道師ではなく、ビジネスとして成立する一つの方法論として日本食を選んだだけであり、もっと儲かる方法があるならそっちに自己資金を投資してますよって人が大半なのだ。

 

つまり日本食レストランを経営する人にとっては何が日本食かを語るより前に今月の家賃や給料を払えるかどうかが大事なのだ。

 

ところが日本食を食べに来る人は、何が日本食かの定義づけでも出来ないままに自分の個人的な舌だけであ〜だこ〜だとうんちくを垂れる。

 

そしてここに於いて日本食とはどうあるべきかって事に繋がる。

 

日本食に何か一定の決まりはあるんか?こうしなければ日本食ではないって決まりはあるんか?

 

鎖国大好きな人々は、ビジネスそっちのけで「日本食はこうあるべし!」なんてやってるが、じゃあ日本食ってナンなのさ?

 

うどんか?ラーメンか?寿司か?てんぷらか?

 

要するに合理的な精神を無視した感情論の日本食なんて、そんなもんはっきり言えば精神論であり、竹やりで高空を飛ぶB29を落とそうとするようなもんだ。

 

竹やりでB29は落ちませんよ。それと同じようにあなたが思ってる日本食と他の日本人が考えている日本食にはずいぶん違いがあるかもしれませんよ。

 

大体お味噌汁一つを取っても日本中味が違うのに、どれが日本食ですか?

 

実際にはすべての経済活動、日本食を作ることを含めてお店を経営するってのは利益を出せるかどうかが全てである。

 

その中で日本食として何がなければいけないのか、何があったらいけないのか?そういう事を何の責任も取らない人間がどうこう批評して偉そうに「あらま、海外の日本食って、駄目だね〜」なんて言い出した日には、日本食は未来永劫海外に発展しない。

 

つまりたまに観光旅行などでやってくる日本人の人気取りだけのために採算の合わない、おまけに外国人には理解出来ない味付けで料理を作ってそれが売れるわけがない。

 

そうなると当然ビジネスとしては成立しない。だから何処の店も現地の人に合うような味付けを考えるのだ。

 

西洋人に分かり易いのは照り焼きチキンだし巻き寿司だ。香港人の場合寿司を食べるけど、殆どのお客は醤油の中に大量の山葵をぶち込んでどろどろ状態にして寿司にべたーっとつける。

 

けど殆どの西洋人は白身魚の味が区別つかないわけだし、香港人に「わさびは揮発性だから醤油に溶かすと香りが消えますよ」なんて言っても仕方ない。彼らはそれが好きなのだ。

 

もちろん、だからと言ってあまりに外しすぎると、そりゃまずい。

 

以前香港時代に北京の人民大会堂の晩餐会でかに蒲鉾が前菜として普通に出てたのを覚えている。

 

そんなもん本物のカニと違うじゃんか!などと言っても仕方ない、彼らは「カニ蒲鉾」と言う食材を料理しているのだから。

 

だから「ここまでなら日本食だよね〜」などと考えながらシェフがメニューを考えるのだ。その延長には創作日本料理があるし、創作日本料理を食べて「これは日本食じゃない!」ってのか。

 

空港で日本式弁当を食べて冷たいウーロン茶ペットボトルで流し込む。

 

ここで伝統的な中国人が冷たいウーロン茶ペットボトルを見たら「ふざけんな!ウーロン茶は熱いから胃袋の中の脂を落とすのだ、冷たくするなんて何事だ!」となるだろう。

 

するとニホンジンは「いいじゃないか、これも美味しいんだし」となるだろう。日本の伝統は大事だけど中国の伝統はどうでも良いのか?

 

「いやいや、それで良いのだ、本当の日本食は日本だけで食うものなのだ、海外で日本と同じものを期待するのが間違いなのだ」。

 

変化を認めて進化する日本食を選ぶのが開国派だとすれば一切の変化を認めないのが鎖国派だろう。

 

どっちが正しいかは本人が選択すれば良い。ただ、思いつきだけでいかにも自分はすべてを理解している日本人だみたいな顔で無責任な言いっぱなしの議論だけはやめてほしいものだ。



tom_eastwind at 02:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月08日

固定電話

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何ヶ月ぶりかに自宅の固定電話で話をした。

発信することはあるけど受信することは、ずいぶん久しぶり。

りょうまくんが電話を取って「Hello!」ったのだけど相手が日本語で話しかけるもんだから、速攻で「塊」になる。まさにうめく石。

う〜う〜としか言えないままにぐいっと握り締めた受話器をお父さんに渡す。

これは現実の一つだよね。りょうまくんの場合は英語が殆どで広東語でさえまだうまく返答出来ない。ソレも仕方ない、つい最近まで自閉症で特殊学校に8年くらい通ってた子供だ。

むしろそんな子供を一般社会に送り出して普通の子供にしてくれたニュージーランドの教育に「本当に有難う」である。

だから知らない人からの電話のつなぎが下手なのは仕方ない。電話が取れただけで立派なものだ。

ぼくも久しぶりに固定電話で日本語を話す。えっと、数ヶ月ぶりかな。今日からの日本出張に関する件で打ち合わせ。

それにしても固定電話がなくても生きていける時代ってのを実感する。

昔は分厚い電話帳があり、日本人殆どすべての電話番号が載ってた時代がある。それに自宅の前の表札。

個人情報がどうこう言う時代になってもまだ電話帳と表札が残っているほうが不思議である。

それにしてもここ一ヶ月、ベッドの温まるヒマがないな。15日間の出張の後すぐにスチュワート島、戻ってきてまたすぐに日本だ。

昨日とおととい、一番うれしかったのは自宅のベッドで眠れたことだ。自由電子ではないが、やっぱり慣れた地元の食い物や自宅が安心する。

「あ〜、やっぱり家がゆっくり出来る!」ってのは心境の変化だけど、それをもたらしているのは自由電子の存在ではないですかね。

写真は韓国のB−Boyです。面白いですよ。韓国に行く機会があれば是非とも見てください。ナンタより日本人に合う。



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2009年10月07日

ホリスティックNZ

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昨日も今日も昼飯抜きである。

 

飯抜きは仕事に神経が集中出来る分、終わった後の疲労がかなりくる。

 

体中にある甘みが全部脳みそに行ってそこで見事に消化される感じが分かる。

 

けどまあ死ぬことはないので体力的には気にする事もない。

 

今日は旅行会社に対する当社のホリスティック商品のプレゼンのお付き合いをしたのだけど、担当者の方、おれよりずっと上手い説明。脳みその構造が違うのだろうなと本気で思う。

 

明日から日本出張が急に入ったので、やるべき事を一気にやらねばとスタッフの皆さんにあれこれと指示を出す。

 

きつ!だろうなと思うよ、何せこっちが長い時間をかけて覚えた仕事のコツを今日明日で覚えろって言ってるようなもんだから大変である。

 

ごめんね=って感じはする。

 

それでも会社は進んでいくしかない。こんな経験をしながら一人ひとりが覚醒した自立をしてもらい、自分の為の人生を生きてもらいたいと思ってる。

 

ちなみに当社では愛社精神を要求していません、当社を踏み台にしてニュージーランドの地元世界に飛び出していける人を期待してます。

 

さてっと。。。明日から日本・・・なんだけど。

 

海外に住んでいると本当に日本のカレンダーを忘れる。10月8日から10月13日までのアポを入れた後に初めて「あれ、日本の連休なんだ・・・」って気づく。

 

何で気づかなかったのか、明日からの日本は連休である。ホテルと飛行機がコンビ良く取れず、うむむむ。

 

まあいいや、とにかく日本に行こう。とにかく前を向いて歩くことだ。

 

もしかして今日プレゼンしたホリスティック、おれに無茶苦茶効くかもなんて、結構本気で思ってる今日この頃。

 

写真はスクールホリデイで遊んでいるガキの群れ。うちの12歳のガキもここにいます。

 



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2009年10月06日

なごり雪

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スチュワート島でもいろんなことがあった。しかしありゃあいいな。持続する漁業をテーマに薬品を一切使わないで食糧生産をしているんだから。

 

そういえばこの会社の社長、冷凍技術にもかなりの自信を持っており、「うちの冷凍魚とその辺の市場で今日港に着いた魚を目隠しして食べてご覧、うちの方が美味いから」と言ってた。

 

そんなスチュワート島を離れて車でクイーンズタウンに移動する。この夜はいつものように友達の店で美味しいものを食わせてもらうが、レストランのシェフはどうしても「新鮮は冷凍より美味しい」と言う大前提ですべてを考えているから、いくらスチュワート島の魚の話をしてもあまり乗ってこない。

 

何でかな〜、先入観念じゃなくて素直に食べ比べてみれば良いのになと思う。

 

随分と冷え込む夜で、スキーシーズンも今週で終わり、もう春ですよって話だったのに、天気予報では晴天だったのに、何と翌朝眼が覚めてみると「大雪!」ではないですか。

 

クイーンズタウンで街の中に雪が降るのは1年に数回しかない。そのうちの一回ですか、今回は。

 

それにしても春が来るってのに、これはなごり雪ですかね。

 

何となく朝から「君が去ったホームに残り、落ちては溶ける雪を見ていた」と言う歌詞を思い出す。

 

農業か〜。やればやるほど次々と問題が出てきて、こりゃほんと、実に絡まりあった糸ですな。どこをどうやれば良いのか?経済的な問題だけでなく、公衆衛生、食料安全基準、国家としての食糧戦略、貿易、様々な問題に広がっていく。

 

そう言えばこの国の貿易大臣も農業にはずいぶん力を入れてたな、そりゃこの国は農業立国だもんな、そうだそうだ、そう言えば大臣との話の中で話題になった中川さん、最近お元気ですかねなどと思ってたら、何と中川氏の訃報。

 

親子二代にわたってですか・・・。

 

精神的に強くなければ政治家なんてやってられない。けど強いだけでは政治家として成功する事も出来ない。

 

父親の遺志を継いで選挙に出て、北海道では父親の元秘書である鈴木ムネオと争うような状態が続き、閣僚に入ったかと思えば次々と続出する問題。

 

一番最後は「もうろう会見」であるが、あれは「やらせ」であった等の発言がインターネットでかまびすしい。

 

一番有力な説は、米国が日本に押し付けようとしていた米国債100兆円を押し返す為に「たぬき寝入り」で話を誤魔化したとの事。

 

その後もヒラリークリントン米国債販売責任者が東京に来るってんですかさず辞任して何とか話をうやむやに持っていった。

 

結果的には50兆円程度の米国債購入をするようになったみたいだけど、その為には円を売ってドルを買わねばならない。その当時の為替を見ると、何故かその言葉が一致している。

 

こればかりは何が本当か分からない。親父が本当は誰に殺されたのか?やったのはロシアだって話もある。

 

政治家は様々な重い荷物を背負いながら長い坂を歩いていく。それは経営者にも通じる。誰にもかぶせる事が出来ない重い荷物、誰にも言えない話、そんなものすべてを抱えていくんだから大変だよね。

 

けどさ、死んだら終わりでしょう。九州人は死ぬ事を恐れる人種ではないけれど、自分で自分の命を絶つくらいなら相手と差し違えするくらいの気持ちはある。

 

戦争に負けて以来、日本は米国の従属国家となった。そりゃ戦争で負けたんだから仕方ない。けどさ、自分のところで死人を出すくらいなら毅然として「バカアメリカ野朗!」って言うべきじゃないかな。

 

けどそれが自民党では長い間のしがらみが出来てしまい、何もいえなくなっていた。

 

今回の民主党の勝利は国民さえ気づいていないかもしれないが、実は米国のくびきを離れて独立する最大の機会なのだ。この機会は55年間、一度も来なかった。機会がありそうな兆候があっても、その度に潰されてきた。

 

今回は選挙と言う形で日本人の独立の機会が巡ってきた。

 

中川さん、生きてたらこんな事もあるんだ、どうせなら自民党をやめて民主党に鞍替えすればよかったじゃんか。自分が死んでも何の問題も解決しないぞ。

 

もうちょっと生きてたら故郷の雪も降り始めてたのにね。故郷で何もかも忘れて雪かきでもしてたら、少しは違った気持ちになったかもしれないのにね。

 

彼の気持ちが少しは分かるし、だからこそ生き残って欲しかったのにな。

 

そんな事を考えながらホテルの部屋で仕事を一つ一つ処理していく。

 

オークランドに戻ったらなごり雪どころか更にドカ雪並みに仕事が溜まっているのだけど、とりあえず今日はこの雪を見ながら雪見仕事だ。



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2009年10月05日

スチュワート島

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久しぶりにプロペラ飛行機に乗りインバカーギルへ。ここは南島の一番南にある人口5万人程度のちっちゃな街。

 

クイーンズタウンと比べればよっぽど都会なのだけど、何故かとてもマイナーなイメージが漂う、古きよき哀愁漂う地方都市。1800年代は農業輸出で栄えた町なんだけど、やっぱりこれも自由電子の少なさか?今はすっかり田舎だ。

 

今回の目的は「持続する漁業」をテーマにニュージーランドで最大規模の水産業を営む「SanfordCoLtd」のお声掛かりで「是非見ておけ」と言われた、彼らが今年開設した最新のサーモンファーム視察。

 

第一の目的地はインバカーギルから更に車で20分ほどの漁港「Bluff(ブラフ)」。この街の名前、ニュージーランドに住んでる人にもあまり馴染みがない。「今何処におるの〜?」と聞かれた友人に「Bluffだ」と返事したら「それどこ?」って。だもんで「イングランドだ」と答えたら、日頃ぼくのブログを時々読んで戴いているようで「おおそうか〜」だった。

 

ここでは実際のサーモン加工を行っている現場を見て、それから一番大事なサーモンそのものを養殖しているスチュワート島に向う。

 

ニュージーランドに住んで20年以上になるけど、スチュワート島は初めての訪問。ブラフからカタマランフェリーで大風の中を1時間かけてスチュワート島に移動。

 

けどこの船、高さ5メートル近い右側からたて続きに来る大波の中を大揺れに揺れながら進むもんだから、乗客約50人くらいのうち数人が「ぐえ〜!」とか「どぴゅ〜!」とか、上品な人は下向いて「ぐぐぐg」とか、とにかくかなり大変な状況。

 

ぼくはこういうのが大好きなので一番前の座席に坐って船が頭から波に突っ込むのを見ながら「おっし、次はあの波をまたぐぞ!」とかはしゃいでた。

 

これって要するにウインドサーフィンと同じで、波の側面を滑り落ちるか、それともリップカールの寸前の波に乗ったままずれるかってとこで、好きな人にはたまらない感覚である。

 

しかしまあこれを定員150人くらいの大型カタマランでやられたら、船に弱い人にとっては地獄でしょうね。

 

そんな地獄を1時間ほど過ごして到着したスチュワート島。

 

ここは島全体が国立公園みたいなもので、ニュージーランド本島ではなかなか見られない素晴らしい自然が残っています。

 

おいおい、ニュージーランド自体が素晴らしい自然だろうがよと言われそうだけど、スチュワート島の場合は手付かずの自然がそのまま残っているので本島のお手つきの自然とは全然印象が違う。

 

意外と知られてないのだけど、ニュージーランドは植民地になった当時、あっちこっちで木を切りまくって英国に送った為に、島中が丸裸になった時代がある。

 

その反省も踏まえて1900年代初頭から植林や景観を守る政策に切り替わって現在のニュージーランドがあるのだ。

 

興味のある方はオークランドの戦争記念博物館に行けばよい。そこにはニュージーランドから英国に送られたカウリやリムの木で作られた素晴らしい家具を見ることが出来る。

 

スチュワート島の規模は日本の沖縄よりちょっと大きいくらいだけど、全島の道路合わせても20kmしかない。つまり殆どの場所が徒歩でしか移動出来ない、または徒歩でさえ道がないってことだから、殆ど手付かずの自然が残っている。

 

ぼくの感覚から言わせれば「荒っぽい」し「危険」を感じるような自然。本島の自然は何となく安全と安心を感じるけど、ここはほんと、一人で危険な山を登っているような感じで、どうも背中がぴりぴりして仕方ない。

 

僕らが向ったのは、背中がぴりぴりするような港から更に四駆で10分ほど走った場所にある島の裏側の港。でもってそこから水上タクシーで更に30分の場所にある、完璧に外界から隔離された場所にあるサーモンファームである。こりゃもう、人間の住む世界ではないよね。

 

水上タクシーもそう呼べば可愛いけど実態は平底のモーターボート、それもどう見ても乗り心地より耐久性に勝負をかけたようながちがちの小型船である。

 

運転手を含めて6人くらいしか乗れないボートだけど、この時もとにかく横波が強くてバンバンと跳ねまくる。

 

海面で白波が立つってのは時速20ノット、つまり32km以上の風が吹いている場合であり、それだけの風が吹けばちょっとしたボートなど操作一つの間違いで吹っ飛んでしまう。

 

そんな大波の中をボートは時速9ノット以下で波を乗り切り進んでいく。ディズニーランドのジェットコースターと大差はないのだけど、一番の違いはあっちで死ぬことは殆どないけどこっちは死ぬことがあるかもしれないって事。

 

結局ボートは吹っ飛ばずに何とか目的地、つまり国立公園のど真ん中にあるサーモンファームに到着。ふーって感じ。

 

それにしても山の緑が海面ぎりぎりまで落ちてきて深い緑の水に浮かぶここのイカダ群。この景色、何だか既視感があるな。近くにはマッスルファームもあり、ソレより何より水の透明さにびっくりする。きっれいですね〜。

 

どっちかって言うとファームの責任者の話よりもこの景色にずっと心を奪われてしまった。何故ならこの景色とイカダと設備を見た瞬間に、「ああ、これか」ってなったからだ。見れば分かるその自然と美しさ。

 

国立公園の中で完璧に守られた自然。森と山と海と、人間が一切入らないすべての海洋汚染から守られた状態の湾。

 

そこで育てられたサーモンは、ほぼ純粋培養の状態で重さ3kgから4kg、長さ40cmくらいの成魚になる。この間一切の薬も薬品も成長剤も不要であり、まさに純鮭とでも呼ぶべきか。

 

けど何よりも、どんな説明よりも、海の青さと周りの恐ろしいほどの自然を見た瞬間に感じた既視感、これがすべてであると言える。

 

責任者の方の話からすれば最新鋭の設備であり最高の品質管理をしていると言うけど、そんな話はあまり頭に入らない。だって、なんてかな、見た瞬間に分かるんだもんね。

 

ここのサーモン、今は日本の大手商社に安く買い叩かれているようだけど、これは何だか違うな。

 

商品を出来るだけ安く作るのは大事なことだと思う。けど、商品を作る側にいる人が一つの会社で5年働けば、そして夫婦二人で5年働けば家を買う頭金が溜まる、そういう賃金体系を作れているか?

 

消費者は美味しいものをきちんとした値段で買う。そして生産者はその価値をきちんと消費者に伝える。この自然を守りながら持続する漁業を行う。そして両方とも幸せになる、これが本筋でしょ。

 

思った。これはどこかのレストランチェーンが商社を通さずに直接仕入れをして、ニュージーランド産のピュアサーモンとして売りに出せば、絶対に売れるぞ。

 

現在は年間3千トンくらいしか出荷出来ないけど、価値が伝わるようになれば必ずいける。

 

日本ではすぐに大きなことばかり考えるけど、ちょっと発想を変えてみれば身の丈にあった持続する漁業と自然を守りながら生きていく大切さがどれほど重要か見えてくると思う。

 

魚を安く買い叩いて喜んでる仕入れ担当者は、その魚を使った弁当が結局は訳の分からん賞味期限が切れたってだけで捨てられて、いったい誰が幸せになるのだ。

 

魚を育てる人々が5年働けば家が買えるだけの頭金が溜まる、その魚を買った人たちは安全で安心な魚を食べて健康でいられる、その代わりにきちんと対価を支払う。こうすれば良いではないか。

 

何で人々は目先の割安ばかり要求して結果的に自分の首を絞めると言う現実に気づかないのだろうか。

 

帰りのフェリーも思いっきり揺れたけど、スチュワート島の体験はとっても勉強になった。全くいくつになっても学ぶことばかりである。



tom_eastwind at 21:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2009年10月01日

カフリンクス

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普段はカフスボタンと覚えているんだけど本名はカフリンクス。シャツの袖口をカフと呼び、そこをリンクさせるからカフリンクス。

 

17世紀頃から西洋の紳士たちの間で使われるようになり、現在の形になったのは19世紀なんだって。

 

カフスは日本製英語だそうで、今回の紳士の街ロンドンではカフリンクスをいろいろと見せてもらい、実に良い勉強になった。

 

そのうちの一つが今回ロンドンで入手した、写真の蛇口の両端にあるカフリンクス。

 

蛇口の両端にあるのはHOTとCOLDと書かれたカフリンクスです。そのままだと本物のお湯及び水の蛇口か?と言う感じですが、良く出来てます。

 

スーツは基本的な色やデザインが決まっててあまりかっこ付けするところもないのですが、カフスはその場の状況に応じてフォーマルにするか遊びにするか、いろいろと選択余地が多いので面白い。

 

HOTとCOLD、その意味は「すぐ熱くなったりすぐ冷たくなったり」だそうです。

 

ふむふむ、私の事ではありませんよね、そう思いながら白いYシャツに合わせると、これがなかなか良い。

 

Yシャツの語源はWhiteShirtで、このWhiteがなまってYになったと聞いたことがあります。

 

Yシャツと言う言葉自体も関東で使われてて関西以西ではカッターシャツと言うなんて話もあります。

 

カッターシャツは戦争に勝った日本が当時の衣料生産で日本一だった大阪で駄洒落として使われるようになったと言う話も聞いてます。

 

全く何をもって本当とするかは不明。

 

毎日ばたばたする生活の中でYシャツを着てカフスを選ぶ時間だけが何だか「ちょいと心地よい時間」となっている今日この頃ですが、今日からカフスもネクタイもない5日間の出張に突入。

 

てか、2週間の北半球出張が終わったその2日後に、今度はニュージーランドで最も南極に近い孤島に出張なんだから文明の進歩ですね。

 

ニュージーランドの南の果て、スチュワート島にサーモンを視察に行きます。当然足元は運動靴にジーンズ、頭は八方尾根のキャップ、厚手のジャンパーとほぼ冬場仕様。そりゃそうだ、南島ではまだスキー場が開いてるくらい寒いんですから。

 



tom_eastwind at 00:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌