2010年02月

2010年02月28日

ロンドンに限らず、価値観・レストラン編

2月28日
最終日はホテルでお茶を飲みながら最後のミーティングを終える。相手はロンドンで長期生活をしており起業を目指してる25歳の日本人青年。

まだ会計士や弁護士の使い方も分からず、ましてや経営にタッチした事はないのだが、今回のビジネスを機会に起業を希望している。

カネなし、知識なし、けどやる気だけは人一倍あり。

昔のオレじゃん。14年前に会社を始めたときはまさにないないづくしであったが、それでも当時は朝4時に起きて仕事を始めて最後の仕事が終わるのが夜の9時過ぎ、それから自宅で企画書の作成などで寝るのは1時過ぎの生活を送っていた。

誰でも最初の一歩はある。だから出来るだけ早い、失敗しても許される時に失敗覚悟で、でも絶対に成功させようとして大きな一歩を踏み出すってのは、なかなかできるものではない。

オークランドでも酒を飲むと起業するぞと吼える連中がいる。

あれは飲酒起業家と呼ぶのか夜だけ起業家とでも言えばいいのか、とにかく口でいろいろ言う人は多いが、実行する人は殆どいないのが現実である。

ロンドンで普通に日本人が生活するとなると、一般的日本人は労働市場における商品価値が非常に低いから(これはニュージーランドでも同じだが)何とか働けるビザを取っても日本食レストランで働いて時給5ポンド程度。

おまけに日本食レストランのオーナーは世界中どこも同じなようだが、日本人の足元を見て更に安く、半ポンドでも給料を安くしようと「うちは4ドルだ、けど賄いがあるからいいよな」みたいなことをいうそうだ。

ちょっと話は本題からそれるけど、日本食レストランのオーナーさんがもしこのブログを見る機会があれば是非とも知ってほしい。

レストランを健全に経営していくうえで現地の法律遵守は当然である。そして更にお店としてきちんとやりたいなら、雇用している限り一番弱い立場のウエイトレスなどの給料をきちんと払い、それにプラスして賄いを出すとかして彼らを守ってあげる事だ。

これは現実的な話である。理想論ではない。ぼくもレストランをやってるから分かるが、店の中で自分より立場の弱い人間を叩いて自分だけ生き残ろうとすると、精神的に卑しくなってしまい、オーナーより立場の強い人間、例えばオキャクだとか地元で大きなビジネスをやっている人だとかに会うと自然に卑屈になる。

その卑屈さはビジネスを何時まで経っても成長させられない原因になるし、単一ビジネス、つまり売上原資がレストラン顧客からの支払いのみに限定されている場合、不況が来れば一気にお店は縮む。

そして不況が通り過ぎると一息つくのだけど、そんなもの、また何回もやってくる。その度に台風に襲われたフィリピンやタイの小島の浜辺で生活しているような人みたいに、持ってるもの全部を巻き上げられそうになる。

そして最後に残るのは、疲れ果てて上を見る元気もなく毎日少しの酒を飲みながら周囲に愚痴をこぼす自分である。

本当にきちんと経営をしたいなら、まず5年後の自分を想像してみる事だ。5年後も同じサイズの店を同じような人員で同じようなオキャクが来ると思うか?

いつかは近くにライバル店も出来るだろうし不況も来るだろうし格安の店の台頭で客単価も下がり利益が出なくなるだろう。そんなことがこの5年の間に一度も来ないと思えるか?

だからこそ経営者は自分の5年後の為に今から他店にないサービスを導入したり価格帯の違う店を展開したり、レストランとは違う収益源を作ってみたりして経営を強化していく必要がある。

そんな時に、安く雇った従業員がすぐ辞めて教えるだけで忙しいとか、新しい事をやろうにも従業員はそんなこと考えてくれないし、自分は毎日仕込みやキッチンで忙しいしとなれば、どうやって新しいサービスや展開が考えられるか?

出来るわけないじゃん。

だからこそちゃんと給料をスタッフに払い労働条件を気にしてあげることで彼らが自分の頭でお店に貢献する方法を考えてくれるのだ。

これはある意味、卵が先か鶏が先かである。

「だって儲からないんだもん、従業員の給料なんてまともに払えないよ」
「だってすぐやめるんだもん、まともに払ってもバカらしいよ」

こんな言葉が経営者から聞こえてきそうだ。それはよく分かる。けどさ、これは、どちらかが相手を信用してリスクを取ってでも相手に接近してあげないといけないのは長期的展望を考えれば分かるよね。

そしてワーホリで来た20代の女性にそんな経営のリスクを取りなさいってのか、それともリスクを取って起業したオーナーが取るべきなのか、これも普通に考えれば答えは明確だよね。

最後に言っておくと、ぼくは初日の晩にホテル近くのジャパレスでカウンターに坐って夕食を取ったが、入り口の中年受付兼ウエイターが汚れた白Yシャツにネクタイもなしで2番目のボタンまで外して足にはスリッパを履いて、オキャクがいるのにカウンターに座り込んでシェフ(これもまたウエイトレスは消耗品、怒鳴り挙げて初めて学ぶんだ、客の前であろうが関係ねー、おれがシェフとして美味しいものを出すんだから皿の置き方からきちんと学べよボケって感じ)とげらげら笑いながらだべってて、馴染みの客には異様なまでに親しげに話しかけて(美しい日本人女性だというのが一番の理由だろう)、知らない客が入っても対してうれしそうな顔もせずに「はい、お一人ね、カウンターしかないですよ」って、見れば分かる。

若いウエイトレスはカウンターの前では殆ど客を見ようともせずに、とにかくシェフの手元を異様なまでに見つめており、その料理を受け取るのもまるで天皇陛下の謁見である。それも戦前ね。

シェフの前を離れた瞬間に緊張が解けるのか、顔がふっと明るくなるのがよく分かる。シェフさん、あなた、彼女の笑顔の意味は、たぶん一生分からないし分かろうとも思わないんだろうね。

そしてあなたは言うんだろう、「おれはこの大変な街で何年もやってきて遂にここまで上り詰めたんだ、他の奴らのように騙されたり不況で潰れたりもせずに、今もこんな高い地位で仕事してんだよ」

もしロンドンの金融街で世界中にある数百億円のファイナンスビジネスを扱っているような、サヴィルローで買ったスーツとネクタイをした中堅白人ビジネスマン数人がお店に入ってきた時にその言葉を聞いて、そのビジネスマンが機知に富んでいたらカウンターで寛いで一杯7ポンドのビールをグイっと飲みながらこういうだろうね。

「ほんとだね、すごいね、そうやって君はココまで上がってきたんだね、じゃ悪いけど一人100ポンドのお任せ寿司をボクのために握ってくれるかな」って。

利益が減ってでもいい、従業員がオーナーのいない場所でもお客に「この店、悪くないですよ、働きやすいですよ」って褒めることが出来るような店造りをすることの方が、よほど人生は豊かになるし結果的に仕事も成功するのだが。

レストランの話はここまで。長くなったので本題の起業に関しては明日。


tom_eastwind at 15:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月27日

誠実さのかけらもない不良たち

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今回泊まっているホテルはピカデリーサーカスから徒歩1分の場所。古い石造りのホテルの地下一階のバーでパソコンを叩いてる。

昼過ぎだってのに世界中のビジネスパーソンが集まって商談やおしゃべりをしている。

米国から来た雰囲気の恰幅のよいおじさん連中が「ふ、今日は車の運転だからこれ以上は飲めないよ」とバーテンダーの誘いを断ってる。ワインを3杯飲んだ時点で言うようなせりふではないとも思うのだが、ところ変われば品変わる、なのだろう。

ぼくはバーに坐って両替ビジネスとは別のビジネスの展開を考えて予定を作った取引先と話をしている。

あれ?おれも仕事しているじゃん、昼過ぎに飲むコーラってのはコカコーラなのかコークなのか、なんて考えながら昼過ぎなのに充分に重厚で薄暗いバーで打ち合わせをする。

昼過ぎから酒も飲まないならバーで打ち合わせするなってのは一般的な日本人の感覚だろう。

けどこのホテルは改装中でレストランもカフェもやってない。打ち合わせは唯一このバーしかないのだ。古いホテルなのです。

ホテルの従業員やバーでいろんな英語を聞いてると、おお、こりゃロンドンって国際都市だし英語が基本だけど、今話をしている周囲の人々のうち三分の一は英国人ではないってのがよく分かる。

昨日会ったフィンランド出身の人々、バーでサービスをする東欧出身のスタッフ、フロントやコンシェルジェで働く黒人スタッフと人種は多彩である。あ、そう言えば昨日の夕方に打ち合わせをした人は中東系だったぞ。今日の打ち合わせ相手は国籍をはっきりとは言わなかったがたぶんタイランド出身だろうな。

ここにいるとミドルイーストがとても身近に感じる。東京やオークランドではここまでは感じないぞとか思う。

テロリストが英国から米国に渡りハイジャックやろうとしたおかげで空港のセキュリティが厳しくなったって言うけど、そんなもん泥縄でしょう。泥棒を捕まえてから縄を結っても遅いでしょ。

それよりはテロリストが何を主張してて、彼らの言ってることの正統性を理解して、西洋資本主義のどこに問題があるかを考えたほうが費用も安上がりだぜと思うのだが、まあそれは別問題。

それにしても皆、それなりに英語を使って自己主張する中でぼくも負けないようにこちらの主張をする。

けどさ、アジア、それもある国では誰かを卑下して自分が優越だという事をネタにして喜ぶ人々がいるけど、この街では国際都市という感覚が何百年もかけて出来上がったのだろう、思うよりも他人や異文化に対する「違いを認める」文化があると感じる。

「お前もすごいね、けどオレもすごいぞ」てな感覚、かな。これは今朝の話で出てきたせりふだけど、この街ではまさにそう思う。

皆が自分に対してしっかりと自信を持って話しているし、そして相手に相応の自信があり話の内容に意味があればきちんと耳を傾けてくれる。

英語が下手なことは問題ではない、問題は言葉が話せないことだと分かっている。だから誰も人の主張を聞く。その上で発音や文法の間違いには拘らずに相手の言いたいことを聞いて、そこに点を合わせてしっかりと答えてくれる、そんな感じだ。

これが日本だと「おい、ここは日本なんだ、きちんと日本語しゃべりやがれ」か「まあ外国人!かっこいい!」のどちらかしか反応しかなく、彼や彼女が話そうとする中身を聞こうとしない。

この点においても東京が国際都市であるためにはもうすこしオトナの対応が欲しいと思うのはぼくの贅沢か?

そんな雰囲気の中、ロンドンのシティに住む誠実さの欠片もない不良がつい1年前に金融危機を起こしたのかと思うと、変な感じである。

けどこれが結局資本主義の限界なのかなとかも思うが、まあこれを言い出したら止まらないので今日はあくまでもロンドンの良い面を見ていきたい。

そりゃあまあ、悪い面を言い出したらきりがない。まずは天気の悪さだし雨の冷たさだし底冷えする空気だし古い建物だし資本主義の小悪魔の集まりでもあるけど、全体としては「良い」のではないか。少なくとも僕は好感を持てる。

あ、けど一つだけどうしてもびっくりするのは物価の高さ。ナンじゃこりゃ、である。仕方ないのかもしれないけど、南太平洋の小島の生活感からすればこの物価だけは呆れるしかない。ロンドンに仕事に来る人、充分にご注意を。

今回の出張では小悪魔とも誠実さの欠片もない不良(金融パーソン)とも会ったが、悪くない。誠実さのかけらもない不良たちと誠実さの証しである契約書の話をしながら、まったくイギリス人ってのは長い時間をかけて面白い金融システムを作ったんだなと感心した。

チップの金額だけが明快ではないのでどうしても多めに出してしまうのが痛いところだけど、それもまあよしだろう、これで小悪魔連中が喜んで経済が回るんだから。

写真はホテルのバーです。商談の翌日の写真です。


tom_eastwind at 06:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年02月26日

Audley street in London

e8e42ef0.jpgロンドンでの仕事は思ったより順調にいく。なんだかやっぱり「仕事の進め方」が自分に合ってる感じがする。好きだな、この街。

今回はずっと曇り空で、これが普通のロンドンですよと言われたけど、これもまあ良いかな。一年中住んでるとニュージーランドに移住したくなるだろうけど、仕事でやってきて年に数回滞在する分には良い街だ。

一流ホテルの部屋の床がぎしぎし言うのも「情緒」だし、ビルの階段の幅が狭いし高すぎるのも「伝統」なんだから、何もいう事はない。

けど、建物のかもし出す歴史とか、100年前のこの場所で誰が何をしていたのかな、なんて考えると楽しい。

シャーロックホームズが実在の人物かどうかは大きな問題ではなくなり、ぼくの好きなRobert Dawney Junior がどこの国で生まれたかなんてどうでもよい(皆さん、最近映画観てますか?)、この街の雰囲気が、古い建物を曲がった瞬間に帽子をかぶったホームズとワトソンが話しながら行き過ぎるのを今もふっと見かける、そんな街だ。

間違いなく切り裂きジャックは存在したんだろうし戦時中は空爆を受けてビルも崩壊したんだろうけど、今はどの建物も歴史を感じさせる重みを見せてくれる。

壊された古い石造りの建物をまた作り直す。日本の東京や名古屋が大空襲を受けた後に幅の広い道路を作りバブルに合わせて大きな近代的な建物を作ったのとは全く違う思想だ。

どっちが良いかではなく、どっちにも価値観があると思う。国民の目指す方向性の違いなのかな。

けど今このAudleyStreetに立って古いビルを目の前にして道路から数段上がった場所にあるドアの呼び鈴を押して、ブーって音で内部から「よっほ」と返事があってズーって音でドアがかちゃって開いて、ぎしぎし鳴るドアを開けて擦り切れたじゅうたんの床を歩いて細い階段を登ってたどり着いた大きなアウターオフィスでぼんやりっと周囲を見ながら、「おお、地球の反対側のこんなとこまで来て仕事をしているんだな」と実感する。

仕事の話は思ったより円滑に進み、ポイントを押えてくれてどんどん進む。よっしゃ、手ごたえあり。ここはオードリーストリート。

実は午前中の最初のアポイントはロンドンのシティ、つまり金融街のど真ん中でセキュリティの無茶厳しいビルだった。

ビルの受付でまずはアポイントの確認を取られて、次に名刺を取り出すとこれがスキャンされて、更に備え付けのカメラで写真を撮られるとそれがそのままぼくの名前と同時に印刷されて入館証となる。

残念なのは、これだけセキュリティがしっかりしててもぼくの本名をチェック出来ないシステムの甘さだろう。どうせやるなら公的身分証明書の提出を求めたほうがよいのではないか、けどまあ偽造もあるけど(笑)。

6階に上がるとアウターオフィスで受付の人にいきなり「何飲む?」って聞かれて、こっちは心の準備も出来てない。

ましてやそのお茶に毒が入ってるわけじゃないんだろうけど、どうしても遠慮してしまい「いえ、結構です」と結構気後れしながら答える自分がいる。

おれって、南半球の太平洋の小島から上がってきた田舎もんだわな。そう思いながら、まずは担当者と会って話をする。

今回のビジネスはまさにロンドンとニューヨークでしか存在しないビジネスであり、ある意味資本主義の大本山かなと思う感じ。

一応ウェブサイトでも掲載しているが、やってることは国際両替ビジネス。けどそこには人間は一切存在せずに、両替はすべてはコンピューターシステム上で動く「検索エンジン」が行う。

「検索エンジン」を一番分かりやすく説明すれば、ヤフーやグーグルが持っている検索ロボットと同じである。

世界中のインターネット為替市場を一年365日、20分の一秒単位でぐるぐると回っている検索エンジンがある。

この検索エンジンが常にインターネット為替市場の動きを見張っている。

例えばロンドンのインターネット為替市場で1USドルが90円で売りに出たとする。

それと同時刻、まさに20分の1秒以内にニューヨークのインターネット為替市場で1USドルを91円で買いたいというオファーが入ったとする。

その瞬間に自動検索システムがトリガーを引く。ばっきゅーん、ロンドン市場で90円で買ってニューヨーク市場で91円で売り、1円を儲けるのだ。

このような小さなマージン(アービトラージ)を取りにいってひたすらシステムは回り続ける。そして一日が終わる頃は掃除機で吸い上げたように積みあがった一円玉が山のようになっていると言う仕組みだ。

今回のロンドンでの仕事は、あるファイナンスカンパニー(要するに日本で言えば銀行みたいなところ)が持っているインターネット両替市場に自己口座を開いて取引に参加させてもらうことだ。

このビジネスは基本的にBtoB、つまり会社間取引しか認めないし、最初に積み上げる証拠金も半端な金額ではない。

約2年前から自社でシステム稼働を開始して今まで充分そのシステムが稼働している事を確認した上で取引先の市場を増やすのが今回の仕事である。

このようなインターネット為替市場はECNと呼ばれており、取引する市場が増えれば増えるほど両替の機会も増える。

なのでいかにたくさんの市場で口座を開設するかってのは、この取引の拡大の為の大きな点なのだが、なにせどこの会社も敷居が高い。そりゃそうだろう、プロ同士の取引市場なのだ、素人や個人を相手に「いらっしゃいませ〜」とやってるのではない。

新規市場拡大の為にと最初は何度かメールでやり取りをしていたが、まるで闇雲状態で前に進まない。こりゃもう実際に相手の会社に行って直接交渉をするしかないなと思ったのが今回の訪問の一番の目的。

けど、ロンドンまで行ってみれば意外と円滑に話が進む。「おお、そうか、君が以前から問い合わせしてきてた南半球の日本人だね、どうよ、オークランドの気候は?晴れ?いいね、よし、だったらすぐ口座開設出来るように次の段階に連絡するよ、今日は一日ロンドンにいるのかい?」

Yesと答えてその10分後にはIphoneにメールが飛び込んで、「次の段階」を紹介される。そして訪れたのがAudleyStreetである。

そこではフィンランドから来た金融マンと話を進めていくのだけど、ここでも話が早い。ほんと、正しいボタンを押すとどんなドアでも開くんだなって実感した瞬間。

30分程度の話をして必要な手続きを終えて「昼飯でもどうだい」と言われたけどこれ以上英語を使ってどっかのパブで昼飯食ってる最中にシェークスピアのせりふを持ち出されてこっちの英語力にボロが出るのも嫌なので丁寧にお断りしてホテルに戻る。

写真は夜のピカデリーサーカス。夜霧とビルの灯りとしぶきを上げて走る車が、丁度良い対称を織り成している。

ふ〜、今日はゆっくり出来そうだ。


tom_eastwind at 06:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月25日

レモン哀歌

「かけてもいいですか〜!」

何人かでご飯を食べに行ってそれが和食だった場合、大体一皿くらいは揚げ物が注文される。やっぱり鶏のから揚げとか、かな。

でもってそのお皿にはほぼ90%以上の確率でスライスしたレモンが乗っかっている。いかにもわたしを絞ってくれとばかりに。

出てきた料理を見て気を利かせたつもりの人が必ず立ち上がって場を取り持とうとして必ず明るい声で「皆さん、レモン大丈夫ですか〜?」とにこ〜っとみんなを見渡して片手のレモンを振り回しながら元気良く聞く。学校で振り付け教えられたのか?と思うくらい。

ぼくはこの時点でしらけてしまい、あああ、何で他人と一緒にご飯食べるんだろうと又憂鬱になる。

こんな事書いたら普通の人からは意味不明だろう。「レモンいいじゃん、第一せっかくの楽しい食事の場所でしょ、何を考えているの?嫌いなら「あ、わたしの分は結構です」とか言い方があるよね、そんな事も言わないままにうじうじ、なによそれ!」と、最後はぶち切れとなる。それが食い物の恐ろしさ。

でもよく突っ込んで欲しい。皆で注文したから揚げが8個あって4人で食べようとすればぼくは2個が割り当てとなる。

たった2個の為に周囲の調和を乱すのか?「僕は不要です。8個のうち2個はレモンをかけないでください、きっぱり。」そういうと周囲がしらけるか、またはこっちに気を使って「あ、じゃあレモンをかけるのは“全部”やめときましょう」となる。しかし食い物の恨みは恐ろしいのだ。

そう思ってしまう思考カイロだからあえて「はい、どうぞ」とは言うものの、結局レモンのかかった美味しそうなから揚げを食べない。

嫌いではないのだ、から揚げ。たぶんレモンだって気にならずに食える。ネギほどではない。けど、レモンって要するに魚や肉の臭みを消すための消臭剤でしょ、魚や肉が新鮮なら不要だし、新鮮でなければ最初から食べなければ良いと思うんだ。

でもって予定調和のような、「は〜い、皆さんち〜ず!」と言われて周囲にあわせてピースマーク作ってないといけないのが、どうしても集合写真の中で一人だけ笑っていられないようないらいら感があるのだ。

その場の雰囲気は壊したくないし、けど自分の気持ちは抑えられない、そうなると最後の答は「食わない」となる。レモンの味の問題ではないのだ。

居酒屋でコンパから始まった世代とか合コンの場所では料理の味よりも雰囲気重視になり、目の前の魚が新鮮かどうかよりもいかに雰囲気を壊さないかが大事になってきた。

そういう「周囲と調和する能力」も飲み会では重視される。

そうなると料理の味なんて二の次だ、料理なんてどうでもいいや、ほら、予定調和として味は別にしてどば〜っとレモンかけてやれ!っとなるのだろう。

けどこっちは合コンもコンパも経験のない人間であり、デート相手が欲しければ直接個人交渉を専門としていたし食い物は一人でゆっくりと少量を自分の好きな味付けで食いたいと思ってるわけで、だからこのような集団会食の場所に来ると非常に緊張してしまうのだ。

「あ、すみません、小食なんですよ」とか「あ、もうお腹一杯で〜」とか言いながら酒だけ飲む事になる。

そんなの良くない事分かってるし、本当はお腹空いてるのだから何か食べたい、けど、どう頑張っても予定調和とか周囲とあわせると言うことに生理的肉体的精神的苦痛を感じてしまい、その痛みは食事中に吐き気をおよぼすほどとなる。

こういうのが小学生の頃から続いている。小学生の頃は自分のことがよく分からないまま集まりで食事するときに「まずい!!」とか言ったり無茶苦茶やって周囲に批判されて、その後も同じ事。

で、結局こいつらは美味しい飯を食うのが目的ではなく食事時間を利用してこっちを首実検してるんだと気づいたのが社会人になってから。要するに「集団に迎合出来るか」を試されているのである。

これにはか〜なり腹が立った。首実検したいならそう言え。だったら飯ではなくて仕事の場所でやればいいでしょうが!

「食事しているときがその人のマナーや性格が分かるんでしょ」それは認める。確かにその通り。食事にはその人の本性が出る。

だからこそ、食べるものが大事と思っているからこそ、食事を食事以外の目的に使わないで欲しいと思うのだ。ぼくの個性が見たければラーメン作ってるとこを見てくれ。

ぼくが一番好きなのはカレーとラーメンと牛丼、それにちょいと下がって焼き飯や自分で作る即席麺とかだ。要するにB級一皿料理だが、その事を恥ずかしいと思ったことは一度もないし、今も自分で堂々と誰にでも言える。

それで気に食わないなら、下品と思ってあなたの基準に合わないならどうぞお好きなように。

ことさらこのようにこちらを攻撃してくるのならガンガン反撃するのだが、ほとんどの場合の問題は本人がこちらに強制を仕掛けてくる「迎合」罪の意識もないままに周囲に向かって「レモンかけていいですか〜!」とやってる場合。

この場合ぼくは本来被害者なのに加害者の仲間入りをしないと組織が保てないという矛盾が出てくる。いじめ、ですな。

そんな、場所を冷やすような事は言いたくないけど、その人からすれば揚げ物にレモンをかけないなんて信じられない、それはまるで自分が信じている天動説を正面から否定されるようなものだ。

飯を食う場所でそんなしらけた事もしたくないし、そんな気持ちを分かってくれよと思いつつ、けど結局彼らはいつものように事前調和の中で「どばー!」とレモンをかけるのだ。

”そんなにもあなたはレモンを待っていた”

高村光太郎も生き辛かったのだろうな。






ふ〜む、やっぱりこの世は生き辛い。





tom_eastwind at 01:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月24日

横移動

前回ロンドンを訪れたのは9月、だっけな。最高の天気に恵まれていろんな場所を見て回った。

東京での仕事を終わらせてロンドンに飛ぶ。横移動。けどたぶん、時差は影響しないだろうな。毎回そうだけど、なぜかぼくは時差が体に影響しないようだ。

そういえば今回も、オークランドを出て時差5時間の香港に着いて知り合いの店で呑んでも翌朝は香港時間の6時に目がきちんと目が覚める。それから東京に行ってもやっぱり日本時間の朝6時に目が覚める。

おいおい、それぞれ時差があるんですけどって感じだけど、たぶんどうやらぼくは太陽の動きに合わせて起きてるのではないかと思う。

つまり時差は関係なく、その土地の太陽の位置によって自分の体が調整してるのではないかと思ったりする。どうでも良い事だが。

でもって今回は、前回仕入れたロンドンねたを東京の友人に提案して、どうやらビジネスの形になりそうなので、再度ぼくがロンドンに飛んで相手側との交渉だ。

4日間の滞在であちこち顔出して話をするのだが、勿論英語・・・。考えてみればニュージーランドの英語ってのはかなり田舎英語であり、本場ロンドンで話すには辛いかな〜なんて、話す前からちょびっと自分には珍しくお笑い的な劣等感を感じている。

うーむ、これって東北の人間が会社の全国大会で全社員を前にして「決起声明」をする時に「ずずずー、おらがー」ってやるようなもんだろう。

日本語としては通じるのだけど、やっぱり皆さんからすれば軽く「くすっ」ってのがある。

ぼくは日本語で話すのならば世界中何処にいっても発音では(それほど・・・)絶対に負けない自信があるし、英語でもそこそこ「いきなりスピーチ!」振られても、場所がニュージーランドならどうにかなると思う。

けどさ、イギリスだべ、本場だべ、しぇいくすびあんとこん本場だべ。

やっぱ緊張するぜこりゃ。相手からすればわざわざ英語の本拠地にニュージーランドから乗り込んでくるんだから、それなりに一応英語出来るんだろうなって思われてるんだろうな。それとも、も、もしか、最初から腹の中では「外国生まれの田舎もんだぞ、笑っちゃいけない」と相手も構えてるかもしれない。

けど、こっちは田舎出身のずーずー弁ですぜ、おまけに生まれは日本だし、思いっきり英語障害ですぜ。

やばし!だけど、後は野となれ山となれだ。3日間、英国式英語で頑張ってみぜるば。

追伸:皆さん、20年海外で生活をしててもこの程度の英語力です。それでも何とか食っていけるんだから、移住するときに英語が出来ないってあまり気にする必要なしですぜ。









tom_eastwind at 02:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月23日

I-Phone

I−Phone、いいよね。携帯パソコンだ。

僕が朝一番に起きて真っ先にしたいことは、昨晩受信できなかったメールを読むこと。

まさか僕が寝てる間に日本は大震災で沈んでないだろうか、為替がUS1ドル80円になってないだろうか、そういうちょいとした好奇心と不安。

なにせ僕の仕事は情報販売なので、誰よりも何よりもたくさんのアンテナを張って情報収集と分析をする必要がある。

ぼくの仕事を「移住コンサルタント」とか「旅行会社」とか「投資運用業」とか「医療通訳サービス会社」とか「不動産会社」とかいろいろ皆さんは解釈するわけだが、ぼくからすれば一言で言えば「情報販売産業」だと思っている。

物品を販売している20世紀型のビジネスをやってる方々にはなかなか理解してもらえないのだが、実際に戦争をやってみれば分かる。

戦争で勝つために一番大事なのは情報収集とその分析である。

けど、どれだけ分析能力が高くても情報自体が間違っていれば意味はない。そこで大事なのが正確で最新の情報を入手することだ。正確で最新の情報を入手して分析して、今の自分が何が出来るかを考える。こんなのは、実は2千年前に孫子という人が言ってる事。

だから、朝起きてレッツノートを起動するまでの5分が、どうもちっといらってする。早くデータ出せよ。

だったら早く起きればいいじゃんって反論するレッツノート君、それも正解。けどさ、なんか、枕元に置いたI-phoneを朝起きた時にさらって触るだけで最新のメールを読めるとなると、これは快感なのですよ。

他にも、ちょっとした思い付きは今まで紙にメモってたのでサイドバッグにもペンと紙が必須だってが、今はIphoneキーボード入力だ。

これは有難い。タクシーの中で思いついて文章にしたものを、そのまま転送かけてパソコンに放り込んで、そのままUpする。こりゃいいな。手軽で気軽。贅沢を言えばキーボードがもちっと大きくなればという程度。

こんな事書くとまたも大いなる批難、「お前さ、話違うよね、I-phoneなんて駄目!なんて言ってたのは誰よ!」とお叱りの言葉出るよな。しかしまあ、毎回よく怒られるが、これはオレが悪いわけでありI-phoneの責任ではない・・・当然か。

まあ人間は進歩する生き物なので、最初からBest of the Best, Perfect from Firstを期待しないで下さいねって感じか。

それにしてもいずれにしてもIphone、僕の中では好調です。


tom_eastwind at 00:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月22日

「これ、どういう事よ〜!」

「これ、どういう事〜?」

店の中で中年のおばさんから大きな声で話しかけられる。

彼女の手にはシャツとセーターをセットにしたものが握られている。男性洋服店で自分の服を選んでいたときだ。

この店は定宿に近いし良いスーツを置いている。派手ではないけどきちんとしてるので仕事着=戦闘服として非常に活躍している。

そうそう、人は見た目が9割って、あれは本当なんだよね。ぼくは元々服なんてどうでも良いと思ってて、一時期は会社に行くのもジーンズにポロシャツ程度だった。

てやんでい、着てるものでしか人を判断するような力しかねえ奴なんて、相手にしてられるかい!そんなに意気がってみても実際に現実の世の中を見ると、本当に人は着てるものでしか判断する。

「化粧なんてどうでもいいと思ってたけれどせめて今夜だけでも綺麗になりたい」って言う中島みゆきの歌「化粧」が頭の中をぐるぐる回ってる。

けど結局、意気がったからと言ってこっちがビジネスを取れなければ意味はない。ビジネスを伸ばしていこうとすれば初対面の人に抵抗感を持たれないようにそれなりの格好をせねばならない。

こりゃもう良い悪いではなく、日本で生きてく為には仕方がない行為の一つなんだな。

頭を丸めて寺に入って座禅でも組んでいれば悩む事もないんだろうけど、そんな事は言ってられないので、ここ数年はスーツを着るようにしている。

ただそうなると自閉症の僕としては、どうせスーツを着るならきちんと着ようと考えるので一気に凝った格好にしないと我慢出来ない。

なのでちっちゃな専門店に行き、そこのスタッフと仲良くなり、スーツとシャツとネクタイとベルトと靴下まで、ぜ〜んぶ合わせて貰うのだ。

これは楽ですぜ、あまり考えなくても良い。なにせ専門の人に上から下まで合わせてもらうのだから、後はそのまま着せ替え人形になれば良いのである。

そんなこんなでいつもお世話になっているお店で、その店のスーツを着てYシャツとネクタイをした状態で平台の上に新しいスーツとYシャツとネクタイを並べていると、知らない人からすれば「店員さん」に見えるのだろう。

けどさ、なんだあの聞き方。「これ、どういう事?」って疑惑系の声だし、いかにも「お前が悪い、説明しないお前が悪い!」みたいな聞き方。

それがどう見てもまともな社会人の格好をしているいい年とったおばさんなのに、まともな会話はできないのか?

少なくとも、買う人は神様ではないし店員にも売らない権利もある。初対面の人に話しかける礼儀もあるだろう。

なのにいきなり「これ、どういう事?!」であるから、こっちはびっくりこっくり思わず鉛筆と紙を用意して店員さんと3人で環になってこっくりさん開始!なんて思ったくらいびっくりである。

とりあえずここは他人の店なので、「ぼけ、目はイボか〜!いっぺん死んどけ!」と怒鳴り返す事はせずに困った顔で店員さんの顔を見ると、まさに彼女「ごめんなさい、最近あふぉが多いんですよ〜」とアイコンタクトを送ってくる。

これがまた上手だわな。つまり場慣れしているんだわな。そこで分かる。ばか老年が増えたんだな〜ってことを。

まあ何処の世代にもバカはいるわけだが、とくにこの世代の団塊世代の専業主婦というは生まれてから一度も社会で仕事をしたことがなく家庭では山ノ神であり買い物に行けばお店の人にオダテラレテ「ご無理ごもっとも」を当然の権利として享受してきたわけで、「ワタシがイッテルノヨ、なんでワカラナイノ!」となる。

そこで相手が「はは〜、山ノ神様、ゴムリゴモットモ、あなたのいう事なら特別オッケイ!」と言えば、突然にこやかに「おーほほほ、よいのよ〜」と言葉尻を下げながらへらへらと笑うのだ。

けど、僕と言う「店員」が、入店してきた彼女を相手にもせずに平台の服だけ見てたもんだからかちんときたのだろう。「何て失礼な店員!ワタシヨ、ワタシナノヨ」なのであろう。

神様はかなり不機嫌な様子であり、僕が店員でないと分かった時点でも一切こっちの存在を無視してごめんなさいも言わず、本ちゃんの店員さんに二言三言の小言を言って去っていった。石でもぶつけてやろうかな、まったく。

その後店員さんに「あんな人、多いんですか?」って聞くと、「ええ、そうなんですよ、なんてか、世の中の中心にご自分がいらっしゃるようで、とにかくマワリのオキャクをイッサイ無視するんですよ」だって。

「けどですね、最近急激に増えてるのはもっとメンドーなモンスター連中なんですよ」

何それって聞くと、この店員さんとはすでに2年近く顔見知りなので「実はですね〜」とくすくす笑いながら教えてくれた裏話なのだが、これまたヤッホーという感じ。

それなりにきちんと身繕いをした団塊紳士がやってきた。けど平日の昼なのにネクタイをしていないしビジネスバッグを持っていない。白髪混じりのいい感じなのだが、すでに退職をして一線を退いているのがその雰囲気から分かる。

多分現役時代はどっかの一流企業の部長か重役??まで務めたような人なのだろう、学歴職歴人生経験もたっぷりでおまけにそれなりの教養もある。

けど、一旦話しはじめると止まらない。

ネクタイ一本見に来ただけなのに、まるで自分が世界を一手に引き受けて若い頃からつい最近までとことん頑張って努力して、だからこそ今の日本があるんだし、お前ら若者に世の中の事を教えてやる、オレの話を聞くのが義務なんだとばかりにだらだらと時計も見ないで脈絡もない過去の栄光を交えながら自慢話をする。

夜の飲み屋でねーちゃん相手に話すなら彼女らも客のたわごとを聞くのも仕事だから我慢もするだろうが、昼間の仕事でスーツやネクタイ売ってる店員さんからすれば、まさに意味不明である。

彼女は服を売るためにこの店にいるのだ。

質問の内容が生地や裁縫についてならどこまでも答えましょう、けど会社を退職して昼飯を一緒に食っておだててくれる部下もいないし家に帰っても奥さんは話なんて聞いてくれないし、子供たちはとっくの昔に「企業戦士であるパパは家にいないのだ、母子家庭なのだ、親父元気で留守がいい」と心に刻み込んで社会人になってるから、話しかけても「ばーか、親父、おめえ、うぜえよ」と返されるのが関の山、まさに自分の所属する社会を失ってしまった人々の話を聞くのは仕事ではないのだ。

勿論店員さんも最初は一応敬老精神で「はいはい」とは言ってるものの、横目でちらちらと新しく入店したお客様に声を掛けようとがんばっている。商売なのだ、カネを払わずにぐだぐだと思い出話を誰が聞きたいものか。

木曽福島にお付き合い頂いたお客様はその点素晴らしい。てか、ぼくが素晴らしいという事自体がおこがましいほどに礼儀のきちんとした人で、「いやいや、ムダ話で申し訳ないですな」と言いながら、本当にこちらの勉強になることだけを話して頂ける。

余計な事は言わない。相手の迷惑を理解する。このあたりの距離感を見事に守っている。普通にできるこっちゃないよな〜。ああいうのを人格って言うんだろうなって、ほんとに学ぶもの多しである。

しかしこの店を訪れる多くのモンスター、そりゃ団塊の世代を生き残って退職した時点ではそれなりの地位だったんだろうけど、今はもう誰も相手にしていない。そんな彼らはある意味ゾンビーである。

自分が社会的に死亡したことを理解しようとせずに、だらだらずるずると過去を引きづりながら生肉である現役の人々に襲い掛かって指導教育をするのだ。

何せ山の神様にしてもゾンビーにしても、すでに現役社会からは隔離されているわけであり、「こっち側」に口を出さなければこっちだって敬老精神で対応するって言ってるのに、なぜか「あっち側」でじっとしていられないのである。

まあ、気持ちは分かるっちゃ分かるよ。今までこれだけ頑張って昭和の日本を支えてきたんだから、もっと相手にしてくれよって気持ちは分かる。

けどさ〜、年金はもらってるんだし生活には困らないんだし良い時代に自宅も作ってローンも終わってるんでしょ、もういいじゃん、このあたりでのんびりとゴルフとか海外旅行とか、もっとあなた達を「ホメテクレル」ホスピタリティさんに相手してもらおうよ。

何せ現役からすると一番困るのは引退した人が出てきて「俺の時代は!」とやられることだ。

ましてやそれが「違う会社で違う人生を送ってきた」敬老世代から言われても、「意味不明、何であなたの話を聞かないといけないの???」としかならない。

それにしても他人の振り見てわが身を直せである。ぼくが現役を引退したら、絶対に気をつけよう。

何か言いたくなったら夜の街に繰り出してバーのカウンターで哲学やら美術やら宗教やらしょうもない自慢話やらをカネを払って語ろう。

相手はこっちに見えないようにあくびするだろうけど、彼らは話を聞くのが商売だから敬老精神を発揮してくれるだろうな。

けどまあ、一番良いのは一生現役でいることである。
あ、やっぱりそっちでいよっと。


tom_eastwind at 02:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月21日

第43回説明会終了

第43回説明会無事終了。

もう43回もやっているのかなと自分で時々思う。飽きもせずに同じ事を繰り返しているわけではない。ビザの用件は常に変化しているし社会条件も変化している。

その時によってとりやすいビザの種類も変化する。

だもんで基本的な説明部分=ニュージーランドの変わらない部分は同じだが、ビザ取得に関する説明はよく変わる。

最近の人気商品?は起業家プラスと呼んでいる新しいカテゴリーだが、今日もこのカテゴリーを説明する。

ニュージーランド政府にとってビザは売り物の一つであると説明すると、ニュージーランドはクリーンだと思ってる人には少し違和感があるのかもしれない。

けど、ビザは国家における基本政策の一つであり、国家を企業と考えれば基幹商品の一つであることは事実だ。

ただ日本では今だ「裁判所は正義を実現する場所である」とか「国家は民族を代表する神聖なものである」みたいなイメージがあるので、ビザを売るとは何事か!となるのだろう。

そういえば外国人参政権のときもたくさんの意見を頂いた。

周囲を大国に囲まれ、とくに中国に対する脅威を持つ日本と、周囲を海に囲まれて人間よりも牛や羊の数が多い国家を比較するのは不謹慎なのかもしれない。

けどけど、真面目な日本人に言いたい。ちょっと視点を変えたり発想を変えてみれば、随分と違った答えや考え方が出ますよって。

ややこしい事を書くのも面倒なので簡単に言えば、国家は会社と同じであり、優秀な社員を集める為に会社の人気を高めたり会社の労働条件を向上させることで優秀な社員を増やしたりしている。

(ここでは天皇の立場については触れない、ますます議論を複雑にするだけだからだ。ただ僕は個人的には今の天皇はよくやってると思うと、それだけは言いたい。これは思想の問題ではなく、一人の男性社会人として先輩社会人である天皇に「お、すごいっすね、あんな環境でよく頑張ってますね」という賞賛である。おれには絶対できん。あれだけ重いものを背負ってあの笑顔だもんな、大したものだ)。

ビザはその為の手段の一つであり目的は国家の力を高めることである。だから能力のある人間であればビザでヘッドハンティングをするのだ。

逆に言えば能力がなければどんなに「良い人」でも不要である。

ところがこのあたり日本では勘違いされてて「あんな良い人が何故ビザが取れないの?」となるから困ったものだ。

あのですね、政府や国家は理屈としての正義を追及する場所ではないのです。

良い人だからビザが取れる、なんてものではないのです。

100人いれば100の正義があるわけだし、誰も自分が正しいと思ってる。だから政府や国家は全員の意見を聞いて調和と秩序を保つ為に答を出して強制執行するけど、それは正義の実現の為ではないと言うこと。

そういえば日本出身のアイススケート選手がロシア代表でオリンピックに出るためにロシア国籍をとったという記事を読んだ。

彼女が本当にオリンピックの為にロシア国籍を取ったのか、その目的は分からない。ただ日本で生まれた彼女がロシア国籍を取ったのは事実のようであり、国母選手と違って彼女は全然批判を受けてない。

むしろ海外に出て頑張って練習したのに、最後はコーチに4回転ジャンプを止められてかえって調子を崩した「かわいそうな子」みたいな切り口の記事を見かける。

おっかしいな、国母選手の時は着てるものだけで「お前は日本人のくせに!」のと大ブーイングだったのに、オリンピックに出るために国籍を捨ててロシア人になった彼女には誰も文句を言わないのか?

これも国母選手の事がなければ彼女が血祭りに上がっていたかもしれない。ただ国母事件の後だけに「まあ、やめとこ、めんどくさそうだから」てのがマスコミの本音ではないか。

彼女は自分の夢の為に国籍を捨てた。

国母は自分の価値観の為にルーズな格好をした。

ぼくは日本人に対して海外移住の説明をしている。

さあ、このあたり、誰か俯瞰図を描いて一般的日本人の思考回路を説明してもらうと有難いと思う今日である。


tom_eastwind at 01:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月20日

価値観の問題について

お客様のオフィスは品川駅港南口の高級オフィスビルにある。

だから恵比寿の定宿からタクシーで向うと、高輪口で降りれば1520円だけど港南口まで回ってもらうと2050円くらいだ。

恵比寿からだと線路をくぐって行く必要があるので、知る人ぞ知る「低いトンネル」を使うことがよくある。

この「低いトンネル」、正式名称はなんと言うのか知らないが高さ1m70cmくらいしかない地下道であり、「大雨が降ったら絶対に入りたくないトンネル」である。ありゃ、沈むわな。

じゃあ高輪口で降りて構内を抜けて歩けば良いではないかとなるが、歩くとこれがお客様のオフィスまで5分ほどかかるし、品川駅構内はふきっさらし。冬場は寒くてついつい港南口、つまり駅の反対側まで行って降りるのだ。

ところがお客様のオフィスはANAコンチネンタルホテルの向こう側なので、ホテルで降りてホテルを抜けてオフィスに行けば更に時間縮小可能。

だったら普通に考えれば、ホテルで降りれば?と言うことになるのだろうが、どうもここが僕の困ったところで、そういう事が出来ない。

なぜなら僕の頭の中ではホテル=利用者の場所であり、利用者でない僕が通り抜けだけの為に利用するのはどうも気がひける。要するに恥ずかしいのだ、そんな“ずる”をすることが。

「おまえ、ばっかじゃない?」まさにそう言われる事を覚悟の上で、やっぱり苦手なのだ。

例えば成田空港からリムジンバスで都内に向うとき。

「お客様、その場所でしたらxxホテルで降りてそこでタクシーを拾っていけば近いですよ」と言われる。けど、これが駄目。出来ない。

xxホテルはホテル利用者の為にサービスを提供しており、全く関係のない僕が勝手に他人の私有地に入り込んで調子よくホテルに停まっているタクシーを使うってのは、理論的に物理的に可能なんだろうけど、出来ないんだよな。

なぜかって言うと、恥だから。万が一誰かに指差されて「何してるんですか?」とでも聞かれたら、恥ずかしくて顔から火が出るような感覚になってしまい、まるでこそ泥やってるところを見つかったような嫌な気持ちになる。

これはもう個人の感覚の問題であり、これを他人と共有する事はないだろうと思う。

これは僕だけの価値観であり他人には意味不明で無意味で非建設的な問題なのだが、他人に理解出来ないから、無意味な感覚だから、非建設的だからと言われて僕の感覚が「あ、そうですか、じゃあ明日から変えます」と言って変わるものでない事は自分が一番理解している。

ただ最近分かったのは、そんな自分だけが持つ「変てこな感覚」をそのまま人に伝えてしまうと、その人は僕を「この人、おかしいかも」と思われてしまうことだ。

これが個人生活の中で発生するのであれば大した問題はない。「あいつ、ちょっと変わっているよな」ですむ。けど、これが海外で起業して一応会社の社長してて、その発言や行動の一つ一つが会社を代表しているものとなると、そうはいかない。

会社の社長ってのは一つのちっちゃな社会のまとめ役であり、そのような立場の人間の発言や行動は「おれは嫌だから」で通るものではないのだ。

少なくとも行動的にはやっても良いのだ、タクシーの降車場所なんて誰もチェックしていないのだから、港南口で降りて歩けば良いのだ。

けど誰かに「あれ、ホテルで降りたほうが近いんじゃない?」って聞かれたら、その時に上記のような理屈にもならない理屈を話して相手を困惑させた挙句にお客様が「あ、この人とは少し距離をおこう」なんて思われたら、これは企業としてはマイナスである。

だから何気なく「あ、そうですね、じゃあ次回はここで降りましょう」と言いながら絶対に実行しない、つまり本音と建前・・・・。

社長である以上、個人の好き嫌いで他人と喧嘩することはご法度である。喧嘩したければ社長辞めてからにしろ、である。

トヨタの社長が米国に呼びつけられているが、彼だって内心忸怩たるものがあるだろう。「ふざけんな、何でうちが政治の餌食にならんといかんのだ」なんて思ってても、それを言っちゃおしまいよ的なものがあるんだろうな。

出来る限り自分の感情を優先したいし、そうしないとストレスが溜まってしまうこともよく分かるのだが、今ぼくがやっている事は日本での活動である。

日本で活動する限りは、やはりある程度は日本のルールに従って「良い子ちゃん、世間に迎合して世間の常識を実践している」ふりをしなければいけないのだ。

ばっかな話だな、個人の価値観までもルールで縛ろうとする日本なんだけど、日本で仕事をする限りある程度の妥協は仕方ない。

一昨日六本木でミーティングをしたシンガポールから来た米国人金融マンの言葉。

彼は1991年から日本ビジネス社会に入ってるが、こちらがニュージーランドからやってきたビジネスマンであり英語で話しているから周囲には聞き取れないだろうと言う安心感からだろう、ミーティングの最後の方にぽろっと言った。

「ほんっと、この国は理解できん。なんでそうなるのかって結論に至る経過で理屈が存在しないし理論が存在しないし、まさに意味不明だよ」。

ぼくも個人的に彼に賛成だ。

サラリーマンの殆どが“気持ち”としては「出来れば残業無しで家に帰って子供と一緒にご飯食べたい」と思ってるのに、サラリーマンの殆どが“実際”は「残業して終電で自宅に帰って子供の声も聞かないまま寝てしまい、翌朝は子供が起きる頃には電車に乗っている」のだから、なんでそうなるの??と言う疑問はガイジンから見たら当然だろう。

価値観を無視してもルールを優先する日本って国は一体ナンのか?しかしその市場で商売をしようとすれば、「郷に入らずんば郷に従え」しかないのも事実。

自分が社長と言う立場でいる限り、現実路線でいくべきだ、そんなことを思った夜。

少しオトナになったのかな・・・・やだな。


tom_eastwind at 03:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年02月19日

煙!ケム!けむ!

東京の定宿も随分と禁煙が進み、ロビーとカフェでは禁煙になったが、僕がdaisukiでいつも夕食を取っているバーは今だ喫煙のみ。ここのお店でレタスやトマトの入ったサンドイッチとかシーザーサラダを食べて野菜類の補給をするのがぼくの健康管理。

けどさ、う〜む、もしこの副流煙がぼくの体をじわじわと蝕んで、折角健康になろうと努力している僕の頑張りを一気に無駄にするような死に陥れるのなら、まだ元気なうちにこのバーの入り口に仁王立ちになって頭に鉢巻巻いてそこに包丁の刃を上にして差し込み、背中には猟銃を吊るして腰には日本刀を差して、「ごるあ、やっちゃろうか!」と言いたくなるくらいである。

八墓村〜!ですな。

喫煙バーが嫌いならクルナヒョって言われても、ぼくはこのバーの雰囲気が好きなわけだから、そうなるともう禁煙派閥と喫煙派閥の席取り合戦だ。

禁煙にした上でバーを楽しむ、それが僕の最終戦略目標。

ところが最近そんな僕の戦略目標を後押ししてくれる政府案が出てきた。どうやら公共性のある建物、ガッコウやホテルやレストランなどは「全面禁煙」になるとのこと。

分煙では効果が出ないから、やっぱり全面禁煙ですよねって、見かけは立派な政府のお話。

本当はJTから入るタバコ税が国税だったのを地方税収に切り替えたので国家としてはタバコ税がどうなろうとどうでも良い。だったら国民健康保険において大きな支払いの元である「肺がん」の発生を抑えて保険支払いを削減する為にも全面禁煙に走る。

うむうむ、敵の敵は味方、ですな。ええこっちゃ。

しかしまあ、タバコ吸うんなら根っこまで吸い込めよ。一服しただけで右手の指の間に挟んで肘を立てて、お前、どっかの映画俳優か?

ボガードになれないハゲが定年までばった虫みたいに社内で頭を下げまくったその反動でバーでスタッフ相手に威張ったりカッコウつけたりしたいのかもしれないが、めいわっくです。おまえらさ、もっと人間としての威厳を持って生きようよ、見るからに寂しいぞ。

なんて思いながら今日もサンドイッチで夕食は終了。ふ〜、3週間の長期出張、まだやっと半分です。今回は全部で何人に会うのかな。


tom_eastwind at 02:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月18日

国母8位

834a28ba.jpg国母、8位

今日のニュースをインターネット配信記事で見る限り日刊ゲンダイ以外は極度に落ち着いた内容であり、8位でもよく頑張った的な内容。

てか、とっとと記事を適当に書いて早いところ終わらせたいよねこのネタって感じがするのは僕だけか。

あのさ、点数稼ぎに相手の気持ちを無視して社会のルールを踏みにじって自分の利益だけのために書きたいこと書いてその挙句ガイコクにバカにされて、最後には見かけの良いかっこいい記事を書いて、「8位、よく頑張ったね」、それでチャラにする気ですか?ふざけんなっちゅうに。

やり逃げ、ひき逃げ、飲酒運転、そんな言葉が似合うのがマスコミ。まさに、ゴミ。

以前も書いたが養鶏農家のお年寄り夫婦の首を吊らせて殺したのはマスコミである。

今回もまた同じ構図だ。すべてが終わった時点で自分が超恥ずかしいことをやったと分かった瞬間に口をぬぐって、「え?私は知りません、あらま、国母さん、よく頑張ったわね」ですかい。

JALのうどんですかいもびっくりな「ずらかったですかい」である。

卑怯、やり逃げ、無責任、説明責任、こんな言葉をマスコミは他人に使うが、自分が実行する際は免罪符でも持っているのだろうか?まるで中世の魔女狩りみたいな連中だ。

権力の監視機関がいつの間にか権力の傀儡(かいらい)になり、売上が落ちるようになると本来は自分が指導すべき層である一般市民を血祭りに挙げてカネを稼ぐ仕組みを作り上げ、今回はオリンピックと言う舞台を利用して目先のカネに走って世界で大恥をかいた。

最後は「こほっ」と軽く咳をして何もなかったふりをして終わらせるんだろうな。

本当に、お前らいっぺん死んでおけと言いたいし、国母には、ニュージーランドに移住してもっと伸び伸びとスノーボードしろと言いたい。芸術的に優秀な人間には今の日本は住めないぞ。

あ、ただ国母には言っておこう、ニュージーランドでは価値観とルールは別物、山の上ではボードで座り込むなよ、見かけたら後ろからスキーのエッジでお前のジャケット叩っきるぞって。



tom_eastwind at 01:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本ニュース

2010年02月17日

国母選手 その2

0fbb3c48.jpg数日前に国母記事を書いたけど、スノーボードは専門ではない。
なののでオリンピックにおける位置付けとかスポーツ界における位置付けとか、そういう背景があまり分からなかった。


すると昨日ちょうど他のブログでまさに「専門家」からの意見が出ていたので引用させていただく。

世界的に見たスノーボーダーの位置付けについてはこれが分かり易い

http://hidetan.at.webry.info/201002/article_8.html

スノーボードとスキーは違う。これをまず最初に理解すべきだろう。スノーボードにスキーのルールを適用するからおかしくなると言うことを分かりやすく書いている。

Water sport 、水遊びには水泳、ダイビング、水球、サーフィン、ウインドサーフィンがあるし、水の変化形である氷を相手にしてるのがスノーボードとスキー、アイススケート、リュージュなどだろう。

スノーボードというスポーツをスキーの枠に押し込むからおかしくなる。スケート連盟とスキー連盟を一緒にしておいてスケート選手にスキーのルールを守らせようとするような、竹に木を継ぐようなことをするから問題が出てくる。

例えば昔、博多山笠が海を渡ってハワイで山笠を担ぐ事になったが、開催直前に大きな問題が発生した。

それは米国人が「尻を剥き出しにしてTフロント(Tバックの反対)の、殆ど裸体の男たちがカラカウア大通りを練り歩く等破廉恥極まりない、全員きちんとパンツを履きなさいという事件である。

この時日本側では、山笠の服装はこんなもんだ、何を勝手に米国ルールを押し付けるのだと言う意見が大勢であった。

結果的に山笠姿で歩く場所を限定するだとかふんどしを調整するだとか多少の妥協を入れながら実質的にふんどし姿で山笠を担いで福岡の人々は祭りを祝った。

さて、この時に「山笠はこれでしょ、これが山笠の格好でしょ、これは民族衣装であり僕らの価値観の根源ですよ、これなしに山担げって、そんなもんお先祖様にどんな顔向け出来ますか、ガイジンさん、黙っててよ」と言った人々は今回の国母選手の姿を見てどう思ったか?

服装の価値観、ひいては個人の生活の価値観に対してルールを押し付けることの不合理さが前回の僕の趣旨である。

他国の常識を無視して乗り込んでいくのはかなり失礼なことだと思うが、今回は他国の人々がCool!と言ってる服装に対して日本人だけが文句を言ってると言う逆転の状況である。

そして更に悪いことに他国メディアからは「日本って何?国母選手の服装って普通ジャン、どこが悪いの?ボーダーはああでしょ、彼の格好はその中でもまともでしょ」である。

むしろ日本のマスコミがネタがなくて薄い知識と教養だけで「これは記事になる!」と意図的に取り上げて目先の視聴率稼ぎをやっただけとしか思えない。

その結果として海外マスコミからは「日本人ってバカじゃないの?ルールと価値観の区別もつかないの?」と逆批判をくらうようになったのだ。

でもって実際に99年から2001年までスノーボードチームのコーチの話を読んで欲しい。

http://izushin.blogspot.com/2010/02/blog-post_5812.html

日本オリンピック連盟の問題点を指摘している。

国母問題は、まさに日本人テレビ視聴者のリテラシーの低さを物語っている。

見えるもの与えられたものに対して大した知識もないままに、また同じような状況下の違うケースと比較することもなく、単純に目の前に見せられた「絵」に対して、テレビプロデューサーの誘導されるがままに「あいつは汚い、ルール違反だ!」とお茶の間の無責任市民が大合唱する。

「国母が悪い!」とまるで神様のように偉そうに無責任に評価をして自己満足している視聴者と、その視聴者のリテラシーレベルを熟知しているテレビ局プロデューサーのベストマッチとでもいいますかね。

いずれにしても、テレビや新聞だけの情報で「見せられた」ものだけを見て理解した気で自分の意見と思い込んで発言する人々の場合、殆どはメディアのバイアスがかかっている。

市民としてきちんとした意見を持つならば、本来は与えられた一次情報を他の情報や過去の情報と比較して、さあ僕はどうすべきだろうと考えるべきだ。

今回の問題は二つだ。

スノーボード人気で稼ぎたいスキー連盟が最初からボタンの掛け違いでスノーボードをスキー連盟傘下でオリンピック競技にしたこと。

もう一つは「価値観とルール」の区別もつかないバカマスコミが目先の視聴率稼ぎをやった結果として外国から「日本は異常だ、個人の価値観にまでルールを押し付ける独裁国家だ」と恐れバカにされたことだ。

何度も何度も書くが、ぼくはボーダーが好きではない。山の上で滑るんだからみんなの安全の為にルールを守ろうよといつも考えている。

危険なスポーツであるスキー&スノーボードでお互いがルールを守らねば、それこそクルマが交通法規を全く無視して四方八方から交差点に飛び込んで全部が事故に巻き込まれるようなものだ。

だからこそ、ぼくはその部分でルールを守らないボーダーが大嫌いだ。

しかし、だからと言って彼らの価値観にまで踏み込んで、髪型を変えろとか(言ったら、はげは黙っておけと言われそうだから笑?)、腰でパンツを履くなとか(言ったら、お前こそ昭和の格好してんじゃねえよと言われそうだから笑?)、そんなこんなで相手にもこんな言い分があるだろう。

「おれたちは乞食と似たような薄汚い格好で何日もひげをそらない薄汚い面しているし、道端でうんこ坐りして体に悪いタバコをすぱすぱ吸って政府にたっぷり納税しててそれでいてコンビにでは285円の弁当しか買えないけど、それが格好良いと思ってるんだ、オレの生活に口出さないでクレよ、文句言うなら先に公園で汚い格好している浮浪者に言えよ」

そして国母選手の場合は更に、

「オレは何が嫌いかと言って、オレの価値観に他人が踏み込んでくる事くらい嫌な事はない。お前の常識でオレを勝手に判断するなっつーの。オレはおまえの価値観に踏み込まない、だからお前もオレの価値観を評価なんてするんじゃねえ」

これこそまさに国母選手が言いたかったことではないだろうか。

明日が国母選手の試合であるようだ。さあ、次はテレビ局とリテラシーアルツの視聴者はどんな評価を神様として無責任に下すのか、興味がある。


tom_eastwind at 17:01|PermalinkComments(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本ニュース

2010年02月16日

Mandarin

843c1444.jpgMandarin

夏場になるとニュージーランドの果物が美味しくなる。2月だと有名なのはイチゴ。実に美味しいし安い。スーパーでは山積みになった果物が綺麗に並べられて、まるでお菓子箱のよう。

その中でも今の時期はみかんも目立つ。通常はORANGE(オレンジ)が売られているが、今はMANDARINという名称でみかんが売られている。

日本のみかんよりも少し皮が厚いんだけど、みかん独特の甘さが日本の正月を思い出させる。時期がずれるとみかんも少し酸っぱくなるので今のうちに食っておかねば。

けど、このみかんも注意してみれば二種類あることが分かる。見掛けが綺麗でつやがあって美味しそうに見えるのは、実はあれ米国産である。ニュージーランド産のみかんもあるんだけど、殆ど区別がつかないから人によってはあまり考えずに米国産のみかんを買っている。

米国産の場合、表面の艶はワックスかけをしたものだし、輸入の際にたっぷりと保存剤を使っているし、第一畑で生産するときにどれだけ農薬を使っているか分からない。

けどまあ法律的にはクリアーしているのだから文句も言えないが、出来ればぼくとしては分かっている限りはニュージーランド産を食いたいと思ってる。

もちろんニュージーランド産でも農薬はある程度使っているだろうし小奇麗にする方法もあるんだろうけど、そこは去年自分で農業に関わりを持っている中で実体験として感じたのがニュージーランドにおける農業のクリーンさである。

米国の場合はどうしても人の命を金銭に換算して、農薬を使って得られる増産量の売上と、万が一その農薬で食べた人が死んだ場合に払う罰金を比較してビジネス展開をする。

昔の話だが、米国でクルマを生産する際にガソリンタンクをどこに置くかという議論になった。

後輪の上に付ければ生産コストは安くなるが事故った際にガソリンに引火して火事になる可能性がある。

タンクをトランク側に設置すれば生産コストは高くなるが事故っても引火はしない。


そこで自動車メーカー幹部及び当時の社長がタンク設置場所について議論をする際の基準となったのが「事故賠償率」である。

例えば1万台のクルマを作って10台が事故を起こした場合で、更にその10台のうち1台が火災を起こしてしまい、更にそれが自動車メーカーの責任となった場合に告訴されて、更に裁判で負けて支払う費用がタンクをトランク側に設置する費用とどっちが高いか、である。

結果としてタンクは後輪タイヤ上に設置され、その後事故による火災が連続して発生した。そして裁判では会社側が危険性を理解していた上で行ったのが悪質だからと、通常の賠償費用に加えて懲罰的罰金を払うことになった。

そこで社長はこう考えた。「お、そうか、だったら今後は懲罰的罰金がタンク設置費用より高いから、事故の起こらない場所にタンクを設置しよう」だった。

結局どこまでいってもカネ、なのである。人の命をカネで計算している。

それに比べればニュージーランドもビジネスライクであるが人の命をお金に換算することはない。人を殺してまで食料を作ると言う発想はない。だからニュージーランド産のみかんがあるのならそっちを食べたい。

今は日本、木曽にいる。ここ二日全くインターネットが繋がらないしソフトバンク携帯電話もホテルの回りでは圏外。

山の中の環境なので夕食が終わって夜の8時にはさっさと部屋に戻り、今日はお客様から純日本産のみかんを頂いたのでせっせと剥いて食べてる。現在3個目。うまいな〜。日本のみかんは美味い。

そして何よりも良いのは、日本で作られたものってのは安心して口に入れられるということだ。これは日本が世界に対して無条件に誇れる素晴らしい文化である。

今はトヨタのリコール問題で日本製品の安心性がどうのこうの言ってるが、あんなのは米国の引っ掛けに過ぎない。日本製はあいも変わらず世界最高である。人を訴えてるヒマがあれば自社製品の改良を考えておけっての。

静まり返った木曽の夜は、まさに深々とした冬山の寒さと自然の厳しさを感じさせる。それにしても日本のみかん、美味いな〜。


tom_eastwind at 11:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月15日

大名古屋

c41cb102.jpg名古屋

名古屋が景気悪いなんて誰が言った?東京がデフレだって誰が言った?人がモノを買わなくなったってどこの話?なんかそんな感じを受けた名古屋の夜。

東京ウエスティンホテルでは結婚式の真っ最中で、日本国内あちこちから集まった親戚一同、中年男性は黒い燕尾に白いシャツと銀色のネクタイ、若い女性はシックなドレスか「次」狙いの派手目洋服。高級な結婚式をやっている。

でもって名古屋駅に着いたらいきなり人、人、人の群集である。それも暗い雰囲気の人ではなく、皆非常に明るい。

明るい笑顔でJR名古屋駅の高島屋で「きゃー、これ可愛い!」とか普通に買い物をしている。

去年名古屋駅で見かけた派遣切りも一通り落ち着いたのだろう、新幹線で東北までの片道を買っているような人もあまり目立たない。

JR駅のマリオットホテルも今晩(土曜日)は満室、夕方はチェックインの行列が出来るほどであり、ちらっと眺めていると観光客と言うよりも近郊に住む若いカップルや女性同士がちょっと週末を楽しむ為に泊まりに来ている姿が目立つ。

実際、翌朝の朝食レストランでもホテルスタッフが若い女性二人組に「今日はどちらへ行かれるんですか?」って笑顔で聞くと、彼女たちはくすって笑いながら「もう帰るんです、四日市〜」。このホテル、決して安くはないんですけどね。

しかしコンビニに行けば間違いなく285円の弁当が売られている。弁当って500円=ワンコインで始まった商品だよね、それがあっと言う間にこの価格だから、一体どうやって利益を出しているのか、吉野家やすきやと正面から激突ではないか。

てか吉野家の牛丼大盛り生卵付きなんて、一ヶ月に一度のご馳走になる日が来るのかもしれない。

つまりデフレと言いながらもデパートの食品以外の売上は3割落ちたとか言われながらも名古屋駅高島屋の高級品はそれでも売れているし、駅ビルの高級洋食レストランにも8割程度のお客は入ってる。

ちょっと考えてみよう、元々百貨店や高級レストランで買い物や食事をしたりする人の数は昔も今も同じ、人口の50%だったとしよう。

ただ昭和後期は誰もが同じものを持ちたがり、つまりその時点で本来コアな購買層でなかった人々も背伸びをして買っていたから毎年販売額が増加していたと考えればどうだろう。

つまり、昭和後期から現在に至る百貨店の売り上げの50%は実はバブルであり、それら浮遊層が剥げ落ちてやっと現在に至って本当に買いたい人だけが買いに来る時代になったのではないかと言うこと。

大体右肩上がりで経済が成長していた時代の物差しを今に持ってきて「百貨店の対前年売上が減少した」って、そりゃあんた、経済成長だけがすべてなのか?

客が減ったから値段を下げるって、下げたって最初から買う人がいないんだし、下げなくたって買う人は買う。だから縮小経済に合わせた経営施策を考えるのがこれからではないのか?

今の日本で起こっているのは巷で言われているような「給料が安くなったから買わなくなった、買えなくなった、だから安くしないと売れない」と言う現象とは少し違うのではないか。

昔のように「あいつが持つから俺が持つ」的な購買志向は消滅してしまい、人はそれぞれ他人がどうのこうのよりも自分が欲しいものを選ぶようになった。

クルマを持つ?高いし駐車場も必要だし、もし事故ったら大変じゃん。電車も地下鉄もあるし、必要ならレンタカー借りればいいじゃん。

大型冷蔵庫?だってオレ独身だしアパートで料理なんか殆どしないし、第一食材買っても一人暮らしだと腐らせるか同じものを3日間続けて食うかしかないじゃん。

それよりコンビニでお弁当買ったほうがよっぽど食材が豊富で色々選べるし、おまけに285円だぜ?

自分で作るって、自分で卵買ってハム買って米買って醤油に油に調味料に、第一食べ終わったらお皿洗うんでしょ。洗剤でごしごしなんて嫌だよ、それより早く新しく買ったゲームをやりたいよ。それにケータイならパケット料金で使い放題だから早く友達にメールしたいよ。

だから冷蔵庫は最低のサイズで一番安い奴で充分、メーカーの言うような「高級機能」や付加価値なんて必要ないもんね、第一、コンビニがすぐ隣にあるんだもん、何で高級冷蔵庫が必要なのか。

今までのメーカーの発想は、一つの商品を作ればそれが日本人全部に買われる、そういう基本思想であった。実際に今までは一億総中流であり、一人が買えば周囲も全部同じ商品を買った。だから大量に作って大量に流通させて価格を下げて販売していた。

けれどこれからは、いよいよ他人と比較することの意味を感じない層が増えたのだから多品種少量生産ってかな、きちんと原価をかけて良いものを少しだけ作りそれを欲しい人に提供していく、そういうビジネスモデルが利益を出していくようになるのではないか。

いずれにしても思うのは、統計をどういう方法で取るか、出てきた数字をどう読むか、これは机上の理論だけでは分からないと実感した。ましてやそんな曖昧な基準を使ってメディアが日本は不景気だと言っても、う〜ん、じゃあ名古屋に来て見れば?と言いたくなる。

21世紀になり人々の価値観が変化して不要なものを買わなくなった、だから消費総額は減少したのだけど、それはバブルが弾けて本来の状態に戻ったと思えば新しい経営戦略が見えてくるのではないか。

真冬の透き通った空気、名古屋の夜景はあいも変わらずきれいでした。


tom_eastwind at 11:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月14日

名古屋やぶそば

aba8c11f.jpg昨日は結局お昼の12時から始まって19時までみっちりと話し続けで個人面談をこなす。

移住相談なんだけど10人いれば10の道が必要なわけで、それぞれにゼロベースでビザの取得方法、移住後の経済基盤の構築、住居や学校、子供の教育等の「パーツ」となる部分一つ一つ説明してから、次にそれを再構築する作業にかかる。

その時点で必ず出てくるのが、何かを捨てなければ何かを得る事は出来ないって現実だ。

話している人からすれば一生モノの経験をしようとしている訳で当然慎重になるし真剣に話をするようになる。

野菜のたたき売りではないので、「じゃあまあこのあたりで」と言うことにはならない。なのでこちらも身を乗り出して色々な提案をしながら話を進めるわけで、だからそのぶん、終わったら確実に疲れる。ぐた〜って感じになる。

特にそれが3件続いてしゃべり続けて7時間もやってると、これはほんとにもう終わった頃には脳みそがクリームシチュー状態になっている。

けどまあ、夜は古くからの知り合いと近くの居酒屋で飲み食いしながら政治や経済の話が出来たので、かなり頭を切り替える事が出来てほっとした。

けど飲み>>>>>食いって感じかな、殆ど料理には手を出さず。元々小食な上に面談をやった後は食欲もなくなってしまうのだ。

その分ウーロンハイをウーロン茶のように飲みながら、小沢政治についてとか今後の海外旅行市場についてとかを話していると段々落ち着いてくる。

でもってその後は部屋に戻り、買い置きのどんべいきつねうどんを食べる。これが一番胃袋に収まるな、どうしてかな、ほんとによく分からないが僕は即席人類なのだろう、非常に相性が良くて、どんべー食ったらやっと「ほっとする」のである。

そして今日は朝一番で品川で会議を一本やって午後の新幹線で名古屋に移動。2時間ほどの会議だったけど、ふと気付くと今日は土曜日。

そう言えば今日の会議に参加してくれた人、2日前も電話会議してくれた人・・・今日は土曜日休みでもその日もは国家の休日お休みジャン、申し訳ない。海外にいると日本の休みをついつい忘れてしまうからこんなことになる。

名古屋に到着すると、なにせまず寒い。東京も朝は雪が降るほど寒かったけど、名古屋の方がもっと寒いな〜。ひえーっとか思いながら19時過ぎには今晩の夕食として駅ビルのレストラン街にある「やぶそば」でときたまごうどんネギ無しを注文する。

945円。へ〜、結構高いな、やっぱり駅ビルだからこうなるのかなとか思いながらうどんが来るのを待つ。

それにしてもどんべーしかりマルタイ棒ラーメンしかり、麺ばかり食ってるな。

待つこと10分くらいでうどんがやってきたのだが・・・・・汁、まっくろ。え?

そうっか東京杉並のやぶそばでも名古屋に来ると「郷にいらずんば郷に従え」で濃い目の味つけになるんかな。

このお店は古いスタイルを守っているのだろう、そばの味を壊さない為にお茶は出してませんと張り紙をしている。

でもってこれも伝統的なのだろうレンゲがなかったので一口、丼に口をつけてごくっと汁を飲んでみると、ごは、ぼくにはちょいと味が濃いぞ。

見た目以上にきついぞ、こりゃ。余程深酒して真夜中に食べるなら良いかもしれんが、ほとんどしらふ状態で食べるにはちょいきついかも。

けど他のテーブルのお客さんを見てると普通に美味そうに食ってるんだから、これはオレが反省すべきなのかなんて考えながら、またもずずずと汁を飲んでたら外が何だか賑やかになった。

「はい、5名様ですね〜、いらっしゃい!」お姉さんの元気の良い声が響くのだが、それに対応する日本語の反応がない・・・。あれれ、香港人家族ではないか。

そうか旧正月を利用した家族旅行で名古屋に来てるんだな、そう思いながらまたもずずずと汁を飲んでたら、そのうちの15歳くらいの男の子がこっちを不思議そうに見ている。

あれ?おれ、広東語使ってないよな、そう思いながら汁を飲んでたら・・・・、あ、分かった!モンコックの続きなんだこれ。

たぶん普通の日本人にはますます理解不能かもしれないが、香港では汁物であれ麺類であれ、丼に口を直接つけることは絶対にあり得ない。前回も書いたけど、それはトイレにキスするようなものなのだ。

そう、香港では丼はまともに洗われていない汚いものと言う認識なのだ。まあ認識というか、事実そうなのだ。

麺専門店なんかでも、食べ終わった丼は洗い用の洗剤が入ったバケツでざくっと漬けてさっと取り出し、その隣のすすぎ用のバケツでざざっと水をくぐらせて終わりなのである。

ちょっと待て、だったら丼の中だって汚いじゃないかと思うでしょ。ところがここが香港人の現実主義の面白い点で、丼に入った麺は食いたいから自分なりに理屈を付けて「麺とスープが丼の内側を浄化した」と定義づけて食ってしまうのだ。

自己欺瞞と言えば言え、そうしないと食えないならそれでいいではないかって理屈だ。けどだからと言って丼の端っこに口を付ける事はせず、必ず一緒に来るスプーンでスープを飲むのだ。

子供はそんな親を見て育っているから、丼は汚いものだ、そこに口をつけるなんてあり得ないと学んでいる。

そんな子供が日本に来て、日本人が丼の端っこに口を直接付けて汁のんでるのを見れば、そりゃあまびっくりするだろう。

日本語がほとんど出来ない彼らは最初英語で話しかけたのだが、そこは店の人も慣れたもので「かむひあ、プリーズ」と店の外に彼らを一旦連れ出して「ショーケースプリーズ」って言ってるのだ。

要するに現物を見て注文してねってことだろう、そしたら日本語が読めなくてメニューが読めなくてもいいではないかという事だろう。

男だとここで「いや、ここは日本ですから日本語でどうぜお!」とか「いやいや、外国人も来るのなら英語のメニューを作るべきだ」なんて議論が始まるのだろうけど女性はもっと現実的だ。目の前にあるショーケースのうどんやそばを見せて「はい、どうぞ〜」なのである。この店の人もなかなか現実主義ですな。

味の濃さで痺れる舌をぺろぺろしながら店を出たのだが、あとでふと考えた。結局お店の人は彼らにスプーンを出したのかな。


tom_eastwind at 03:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月13日

国母選手の謝罪

f5272aef.jpgぼくがボーダーをあまり好きではないのはスキーブログを読んでもらうと分かると思うが、それとこれとは話が違うでしょってのが、今回のオリンピック参加選手の服装の乱れがどうのこうの、である。

冬のオリンピックに参加するためにバンクーバーに向ったボーダーの一人である国母選手が、オリンピックの制服のジャケットを着てたのは良いけどYシャツを裾から出してたのが「ひんしゅく」と言うわけだ。

あのさ〜、高校生じゃあるまいし、てか最近の高校生だって普通に裾出してシャツ着てるよ。

てか、一体誰がそんな事を問題にしているのだろう?よく写真を見て欲しい。それほど文句を言われるほどの服装か?てか、周りで誰か一人でもその格好に顔をしかめている人はいたのか?彼に直接文句を言った人間はいたのか?

大体ボーダーの格好なんて普通に山に行けばもっとすさまじく薄汚いのは分かりきったこと。それが嫌なら最初からオリンピックに呼ぶなって。

大体日本人の場合、スポーツだっつうのになぜか何でも精神論で構えて「こうあるべきだ」が先に来て、楽しむって事を全く考えようとしない。

たまたま昨日古い知り合いと飲んでてラグビーの話になった。

福岡のラグビーチームがニュージーランドでラグビー研修をしたそうだ。そこで教えられた事は、まずラグビーを楽しむ事だった。

日本に帰国した彼らが対戦したチームは、悲壮感漂うほどに一生懸命な顔でラグビーしたのだが、ラグビー研修をして楽しんできたチームがにこにこと楽しそうにラグビーをやって勝ったそうだ。

ニュージーランドではスポーツは楽しむものとして子供の頃から学んでいる。だからヨットにしてもラグビーにしても、皆楽しんでやりながら世界一になっているのだ。

米国みたいに勝つ為に手段を選ばずとかスイスのようにカネを湯水のように注ぎ込むとか日本のように優秀な外国人選手を高い金で呼び寄せるとか、そんなのはなし。

普通に原っぱでラグビーをやってボールを投げ合ってキャアキャア騒いだり、お父さんの小型ヨットに大きめのライフジャケット付けて乗り込んでキャアキャア言ったり、けどそれだけ。

それでもなぜか世界に出るとラグビーもヨットも勝つんだよね。

そんな彼らに今回の話をして、実際に国母選手の格好を見せたとしても「Oh!Cool!」で終わるだろう。かっこいいね、である。

要するにスポーツに何を求めるか、である。

皆が同じ格好をして丸坊主で熱血で汗と涙を流してれば、それでいいのか?である。

第一ぼくが意味不明なのは、だったら彼の髪型はあのドレッドヘアでOKなのかって点である。日本人なのにまるでどこかの土人のような薄汚いぐるぐる巻きの髪の毛の方が余程見苦しい。そこはテレビでも新聞でもニュースになってないから誰もいわないってか?それこそマスコミに操られているバカな国民と言うことになるではないか。

格好の事をいうなら髪の毛も注意しろよ。そしてその次は歩き方を注意しろよ。選手らしく右手と左手を交代に前に振りながら胸を張って歩きましょうってね。

でもって次は、選手なら日常生活から注意しましょう、歩きタバコはもってのほか、電車に老人が乗ってくれば席を譲り、お酒を飲む場でもお茶しか飲むな、あげくの果てに顔が悪いから整形してこいなんてなるんじゃないか。

問題は二つだ。一つは、今まで連盟は彼の髪型も服装も注意せずに放置しておいて「あいつは特別だから」ってやってたわけだ。だから写真にあるように国母選手の右側にいるコーチは普通の顔で歩いている、つまり連盟公認の格好だったわけだ。

それが抗議の電話がかかってくると突然手のひらを返したように「お詫び」ですか。まるでモンスターペアレントにひたすら頭を下げるガッコウのセンセーみたいで、みっともないったらありゃしない。

そしてもう一つがもっと大きな問題で、彼の服装に抗議する人々は、その瞬間の彼の服装だけを見てぎゃーぎゃー言ってるけど、じゃあ普通に渋谷の街中で薄汚い格好をしている若者は許すのか?

オリンピックが特別ってのか?だったらオリンピックに参加している他の国の選手の格好もきちんとしないといけないのか?

こういえば勿論「いやいや、他国はいざ知らず、日本の代表としてはきちんとした格好をせねばならない」と言うなら、じゃあ国体だったらどうなの?県民代表としてきちんとしろってか。じゃあ市民大会だったらきちんとしろってのか?だったら村の盆踊りだったらきちんと浴衣を着ろってか。だったらだったらその行き着くところは、日本人である限り「おらが村」の服装以外は許さんと言うことになるのだ。

その行き着くところは全体主義、全員が同じ格好をして同じ話し方をして同じ料理を食べて同じ事をして「村の秩序を守る」って理屈ですべての人間に強制させてしまうことになりはしないか。

ここでスノーボーダーの品性を語る気はない。以前のブログでボーダーの品性の低さや知性の低さ、道徳心のなさ、社会で生かされているのにそれに気付こうともせずにいきがってるチンピラ連中の集まりであるボーダーへの批判はしたのであれで十分。

ただ今回は、こんな服装のようなちっちゃなことまで無責任な外野がいちいち口を出してそれで連盟が振り回されるようなことを許してしまえば、これはいつかこちらにもとばっちりが来る、それが分かるからあえて言いたい、これは許容範囲です、こんなことまでキセイするようになれば、まさに誰も何もやらなくなりますよってことだ。

回りに振り回されず、マスコミに振り回されず、自分の眼でよくこの写真を見て欲しい。それほど大問題になるほどの格好か?

おれがもし国母の年齢でオリンピックに出るだけの実力があってそれでいて服装くらいの事で、自分の正体を明かしもせずに無責任に批判をするような国民と連盟には愛想を尽かすだろう、そして「はいはい結構です、もう分かりましたよ、次回はニュージーランド代表でオリンピックに出ますよ」と言うだろうな。


tom_eastwind at 02:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月12日

火遊びモンコック

b0cee25b.jpg旺角(ウォンコッまたはモンコック)の夜を歩く。

旺「おう」に角「かく」だから日本語で発音すればおうかく、なんとなく広東語の「ウォンコッ」と近い発音。香港で使われている広東語は日本語の発音に近いものがある。てか、中国語のオリジナルの発音がそのまま日本に来て日本語になったのだろうか。

香港に着いて体内時間はすでに真夜中過ぎ。それから久しぶりにモンコックに出てみる。

ここはどっちかと言えば女人街(ロイヤンガイ)の夜市のニセモノ時計や服やカバンを売ってるところで有名であるが、それはあくまでも観光客向けの表の顔。大通りをはさんだ反対側の通りに行けば、そりゃあんた、観光客は絶対に立ち入り禁止の場所ですよ。

ここはいかにも怪しげな電飾看板といかにも怪しげな風体の人々が仕切る街である。とにかく道端で携帯電話で話している連中もまともな会話をしていない。

電話がなる。するといきなり「こら、話せ!」と電話に向って言い放つ。「おう」でも「はい」でも「もしもし」でもない、いきなり「こら、話せ!」なのだ。

こういう場所は香港人でもまともな人は夜9時以降はまず立ち入らない。業界の方ばかりの街には麻雀屋、カラオケバー、バー、終夜営業の屋台、そんな店が軒を並べているのだ。

けれども、一旦この街の仕組みが分かれば後はそれほど恐れる事はない、彼らのルールに従って行動していれば、至ってまともに楽しめるし、また値段が地元向け設定なので手頃である。

でも難しいのは、街のルールを理解するって言う部分であり、これが実際問題としてきちんと伝わらないから、たまに街のあちこちでビール瓶の割れる音や何かの物体がゴミ箱にバーンとぶち当たって「痛ってー!」と言う声が聞こえたりする。

冬とは言ってもそこは香港、夜でも20度以上の気温なので屋台で飯を食って飲んでても気持ちよいくらいなので、そんな街の景色を見ながら久しぶりのモンコックを楽しむ。

外に出してる食事用のテーブルなどは実に汚い。テーブルの上は前のお客が食い散らかした料理を汚れ雑巾で乱雑に拭いただけの状態なので気をつけて手を載せないと長袖の服の裾が大変なことになる。

でもってそうやって飲んでてふと思い出したのが切手の話である。

日本の切手は誰でもご存知のとおり、裏側に糊が付いているから、自宅等では普通にぺろっと舌でなめて貼る。

ぼくが奥さんと知り合った最初の頃、クイーンズタウンで売っている切手も普通に裏に糊が付いているやつだったので、彼女の見ている目の前でいつもの通り「ぺろっ」と舐めたらそれを何気なく見ていた奥さんが突然びっくりしたような顔で「あんた、何してんの!」と僕の口、じゃなかった、手から切手を奪い取るようにしたのだ。

こっちもびっくりである。何が起こったのだ?きっての裏に毒でも塗ってあったのか?そんな小説まがいの事を考えてたら、彼女がこちらを見ながらまるで汚いものでも見るように「何でこんなものを舐めるのよ、不潔にもほどがあるでしょう!」と言い出したのだ。

そう、香港では切手を舌で舐める等考えられない行為、例えて言えばトイレの便器をぺろってやるような行為と同等と思われていたのだ。

あり得ん。切手がそんな汚いわけがないだろうと言う常識で生きてた僕からすれば、切手が汚いと言うこと事態が理解不能である。

しかし触るものすべてが汚いと言うことが前提の香港では、何でも「汚い」のが基本である。

そういえば今この屋台でもべたべたしたテーブルの上にお茶のカップとお箸と取り皿があるのだけど、隣のテーブルの家族(こんな真夜中でも子供と一緒にご飯食べてる!)は普通の顔をしてお茶のカップの中に全員のお箸をツッコンで、お茶でお箸を洗い、次にお皿もお茶をかけて洗っている。

そうなんだよな、これが香港の常識なんだよな、汚いの基準が違うわけであり、彼らは彼らなりにきちんと「きれいに」使っているのだ。

だったら最初から店が綺麗にすればいいではないかとなるが、そんな事したら余分なコストがかかるので屋台あたりでは競争力が低下する。なので皿を洗うのは客の仕事となっているのだ。

比較的清潔な屋台もあるにはある。どうするかって言うと、最初にテーブルが全部かぶるような大きなビニールシートを10枚くらい重ねる。そして四隅にホッチキスを打ち付けてビニールシートが動かないようにする。

でもってお客は比較的きれいなビニールシートの上で食事をしてぎとぎとに汚すわけだが、食事が終わるとこのビニールシートをそのまま剥ぎ取って四隅から丸めてポイ。はい、次には2番目のビニールシートがありますと言う算段である。

ほんとに、ところ変わればであるが、久しぶりの火遊び、ハードでコアなモンコックを歩いた夜だった。

注意:普通の人はこんな火遊びみたいな事はしないで下さいね、つまり夜にモンコックの裏通りを歩くってのは梅雨時の雨に降られるのとほぼ同じ確率で大変な災難が降りかかることになります。


tom_eastwind at 01:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月11日

無知の知

fbdb0518.JPG「あなたはあまり英語力がないので次回のカウンセリングには広東語を話せる通訳をつけることが必要です。政府に申請してください」みたいな手紙が医者から来た。

去年末頃に何度か連絡が来て「カウンセリング受けろ」みたいなことを書いてたのだが、竜馬くんは現在至ってまとも(100%ではないが)であり、会うたびに薬を飲めなんて患者も見ずに偉そうなことを難しい言葉で話すバカ医者を相手にする気もなかったので放置しておいた。

すると今年になってまた手紙が来て、通訳付けてカウンセリングを受けろ、お前の英語じゃ通用しないから」みたいなことを平気で無神経に書いている。

一体こいつはどんなバカだ?うちの奥さんの英語がネイティブではないからって言っても普通に不動産売買の仕事をして契約書を読んで交渉をして全く不自由はしていない。

唯一彼女が困るのが、こういう専門医のところで原語が何か分からないけどAとかQとかなんとか10いくつ並ぶような、普通に読んだら絶対に舌かむような、てか、そんなもんネイティブのキーウィでも知らないぞって単語を機関銃のように並べておいて、息切れでふーふー言いながら「おい、分かったか」って、分かるわけないでしょ。

おい医者、お前らはガキの頃から英語使ってて、高等教育を4年以上受けてやっと難しい単語を話せるようになったのだろうが、要するにプロとしてその単語を覚えたんだろうが。だったら君らが話せるのは当然だしこちらが理解出来ないなんて当然ではないか?

自分の知識が相手の知識より上位であれば、本来は相手の知識レベルに降りてきて説明するのが知識者としての義務だろうが。

大体世の中の事なんて知れば知るほど分からないことばかりで、だから日本では「実るほど頭の垂れる稲穂かな」って言うんだし、西洋では「無知の知」と言われている。

ところがこの南太平洋に浮かぶ小島の中の大草原で育った素朴な連中は、自分が難しい単語を覚えたら嬉しくて仕方ないのだろう、素人相手にそれを連発して、相手が分からなくてそれがアジア人なら「あんた、英語出来ないのね」となる。

ふざけんなっちゅうに。

僕は基本的にこういうバカは相手にしない。けど奥さんは人が良いからついつい医者に言われて「あ〜、そっか」なんて引っ込んでしまうほうだ。

だから僕は言った。

「おいおい、相手はそれで飯を食ってるプロだぜ。プロは相手を見て相手に分かる言葉で説明出来るからプロってんだ。業界用語ばかり並べて、それを知らないからとバカにするってのは、まさにバカ丸出しだぞ、そんな奴を見たら笑ってこういえばいい。

「“あんた、リナックスとウィンドウズの互換性のここの部分のこの言葉の意味って分かりますか?それとも貯蓄-投資=輸出−輸入って等式における理論のこの部分のこの英語って読めますか、バカね”って」

要するに専門バカというのは自分の専門領域がすべてでありそこを亡くしたら存在価値がゼロになるほど人格及び教養に乏しいから一生懸命自分が社会に認知される分野で難しい言葉を放つのだけど、もちろんそれ以外の専門分野は全く分からない。

おそらくこういう人にIT専門の人や経済学専門の人が英語で話したら、彼は言うだろう、「お願いだから英語で話してくれ」って。

この傾向は英語しか話せない人間に多いような気がする。英語が世界の共通語であることは全く肯定する。しかしだからと言って英語が出来なかったら人にあらずか?

ましてや専門用語を並べておいてそこにあぐらをかいているなんて学問を学んだ人間と呼ぶに値しないぞ。

初めてニュージーランドで生活をすると、日常のご近所との会話でからかわれているのか単なる冗談なのか輪からない事があると思う。けどそんな時は釣られて笑うよりも「どこがおかしいの?」と突っ込んだほうが結構受けるし、そうすると相手もあまり英語に関する変な冗談は言わなくなるのは自分の経験で理解している。

かなり以前、数人が集めっておしゃべりをしてて、ある冗談を交えて「こいつは可愛くて肌の下にいれておきたいくらいだよ」と言った男がいた。

ぼくはすぐに聞いた。「肌の下?痛いでしょ?」

すると彼は当然笑って、「あはは、冗談だよ、英語では可愛いって時に使うんだよ」

そこでぼくは「あ、そうか、冗談でよかったよ、ところでぼくらは、相手が可愛いときはめんたまの中に入れるんだよ、あ〜はははは!」と笑うと、彼ら思いっきり引いてた。

それから彼らは肉体の部位に関する冗談はあまり使わなくなった。

英語なんてしょせんそんなもんだ。話せたからえらいなんてことはないし、話せないから駄目なんてこともない。大事なのは人間としてどのような思考回路で考えて他人とコミュニケーションを取るかである。

まあ金持ちのどら息子が無意味に威張るのと同じで、英語が出来ればえらいと思う連中もその程度なんだろうなと思う。少なくとも日本人が英語出来ないからって「引く」必要は一切ないと思う。

写真は手軽にシェイクするだけで作れるカフェラテシェイカー。英語が出来なくても、コーヒーの難しいこと知らなくても片手で振るだけで、はい美味しいラテの出来上がり、です。

あ、そうだ、もし次に医者に会う機会があれば聞いてみよう、古代世界史の中でのニュージーランドの地理的位置付けについて。そして彼が答えられなければ「あんた、ほんとにキーウィ?もぐりじゃないの?てか、オレの英語、分かった?」って。



tom_eastwind at 00:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月10日

154

eadafdbb.jpg今日から3週間の出張である。
正月から片付ける暇のなかった出張道具を週末に整理してたら、電話線が出てきた。

そうだよね、10年くらい前はちょっと地方に行くと電話線でインターネットを繋いでいたんだもんね。

そいでもってLANケーブルもある。2メートルくらいの奴だ。そうそう、5年くらい前はホテルの部屋にLANはあるけどフロントでケーブル借りるのが面倒だからこれを持ち歩いてた時代もある。

今は出張先で電話線やLANケーブルが必要になる場所はさすがになくなり、それよりもびっくりしたのは今自分が使っている日本で使用可能な携帯電話が3台になった事。

一台は日本で5年位前から使っているプリペイド。これは今年半ばにサービス停止される第二世代機種だが、まだ電話代を課金すれば使える。

二代目は日本で買ったアイフォン。これはSIM入れ替えしなくても日本でもNZでも使えるが、SIMLOCKを外せばNZのSIMを入れて使えるので、通話料がNZ国内扱いとなり圧倒的に安くなる。第一NZの電話番号が使えるので、将来的にはこいつが一番利用頻度が高くなりそう。なにせ有難いのが世界中のGPSが出来る事で、道路検索に弱いぼくには重宝だ。

三台目は現在ニュージーランドで使っているボーダフォンだけど、去年後半から日本でも使えるようになった。難点は日本で使える電波回線が限定されているようで、ドコモとソフトバンクの間を行ったり来たりしながら電波を探しているので、つながらない事が多い。

けどまあ考えてみれば、これはまさに携帯電話ビジネスでもインターネットビジネスでも世界中の企業がどんどん新しいサービスを取り入れて世界中の顧客の利便を図っている事の分かり易い例だろう。

元々パソコンがビジネスに取り入れられるようになった20年くらい前には「これで仕事がはかどる!ライバルに有利だし早く仕事が終わるので早く家に帰れますよ」なんて広告があった。

けど、その当時から「バカジャン、こっちが核武装すれば相手も核武装する、こいう武装強化の世界においては自分だけ楽になるなんて絶対にない」と思ってたので楽観視せずに、敵との違いを出すにはどれだけ装備を使いこなすか、しかないなと思ってた。

結局時代はその通りになり、誰もがビジネスツールで重武装して戦闘状態に突入。「片手に!携帯〜!胸元にIpod〜!カバンに〜パソコン、無線LANで繋いでる〜」と言う状態になったのが今の時代。

1月になってアイフォンでメールが取れるように設定して、ついでにNZで加入しているVodafoneのスマートフォンにも設定したら、一番びっくりしたのはNZ製品でありながら日本語の表示が可能なのだ。

キーボードは英語なのでこちらから日本語発信は出来ないが、相手から来た日本語は100%完璧に読める。うわ、すごいな。

つまりこれで、ぼくは朝起きてパソコンを立ち上げなくても、アイフォンまたはVodafoneで日本から来たメールを読むことが出来るって状態だ。

もちろんこれは僕の自由な時間をどんどん削っていくと考えても良い。

けど同時に、インターネットの発達のメリットは大企業も中小企業も情報発信においては平等になりつつあると言う点だ。これは大きい。今まで情報発信と言えば新聞やテレビや広告代理店を使った方法しかなかったが、インターネットがそこに完璧で修復不可能な大穴を開けて、これは更に拡大している。

ならば間接経費の少ない中小企業が小回りを生かして世界中の商品情報をこの体に吸収して、そこで情報整理を行って僕自身が情報発信基地として発信してやろうではないか。

去年1年の出張日数を計算したら154日だった。このうち130日は海外である。海外に出たからにはニュージーランドとの連絡手段は限られる。

今年は連絡手段が大幅に増えたな。あとは、こっちが文明の進歩に追いついて内容の濃い仕事が出来るかどうかだ。

そういう意味でも21世紀の情報産業においてはどこで仕事をするかなんてのは意味がなくなっていく。そして勤務時間と言う概念がますます薄れていくだろう。毎日同じ時間に会社に来て定時に退社する、そんなことに何の付加価値もない。

それよりは世界中に散らばっている情報を集めて整理してそれぞれの顧客向けに提案する、そういう付加価値を理解して構築出来る能力があるかどうかが勝負である。

文明はある意味機械を一個一個付け加えれば出来る。けどそれを使ってどれだけ付加価値の高い仕事が出来るか、これは一個一個付け加えて出来るものではない。

何故なら他人も同じように機械を付け加えて仕事の速度を上げているから、それだけでは付加価値が付かない。付加価値とはあくまでも差別化であり、それがなければ価格競争に陥るのみである。

こういう機械を普通に使いこなしてそれを自分の仕事に生かして自分の仕事の付加価値を高める、これが今年の出張中の一つの目標かもしれんな。

しかし振り返ってオークランドを見ると、今だもって顔を見ながら話をすれば仕事をした気持ちになるビジネスマン(日本人、キーウィに限らずだ)が多い。

「おい、ちょっと話があるんだけどさ」
昼間に呼び出されて会ってみると実にしょうもない駄話である。

その間にも手元にあるアイフォンをシュパっと指走らせてみたり、かかってきた電話にカッコいい言い回しで話してみたり、情報を検索するときだけはさすがに底が浅いせいもあり、いつまでたっても探したい画面に行けずに「まあいいや、ところで」と話題をそらす。

それ、情報武装とは言わないんだよね。顔合わせて話するなら、顔合わせてしか話せない事を話そうよ。


何の生産性もない事をぐだぐだとだべって、しばらくお茶を飲んだらそれで終わり。

その間何の議論もなく何の提案もない、ただ無駄な時間が過ぎるだけ。終わってみたら、二度とこいつの誘いに乗らないぞと堅く心に決めているぼくがいる。

お前らさ、それで仕事をした気になって、儲かるのはカフェだけだ。ばっかじゃないか。脳みそがせっかく首の上に載ってるんだから、死ぬ前に少しくらい使えよ。

結局は変化のない田舎で自分のある程度の既得権益が守られてて居心地が良いから(または親からもらったお小遣いで一生食っていけるから)、テレビで見た北半球の格好良いビジネスマンの真似をして街角でコーヒーを飲んで仕事をしている演技をしたいのだろう。暇人め。

こういうところはオークランドも日本も同じである。ばかに付き合っているヒマはない。

「絶対やっちゃいけない絶対やるなよな」とまでは言わない。

時にはお茶もいいと思うし息抜きにもいいかもしれんが、ビジネスでかっこよくお茶を飲む事や無駄な会議を増やす事が自己満足になった瞬間に確実に利益は落ちる。その覚悟があって付加価値を下げるならどうぞである。

今年は何日出張になるか分からない。けど出張の長さではなく内容で勝負をしなければ。身を引き締めていこう。


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2010年02月09日

起業家ビザルール変更

5f80b7a6.JPG年末にまた少し変更があったのがニュージーランドの移民法。

今までは起業家ビザと言えばIETLS(英語テスト)が5.0だったのが、現在は4.0で申請可能になった。
4.0なら英検2級以下。かなりの人が半年程度勉強すれば取れるし、日常で英語を使っている人ならまず確実である。

そしてNZ50万ドルを自分が始めるビジネスに初期投資して3名以上の社員を雇用すれば、今までは2年経過して永住権が取得出来ていたのが、今回のルール変更では申請後すぐに永住権が取れるようになった。

その代わり、技能移民はあいも変わらずこの失業率なのでまだまだ厳しい。そりゃまあそうだ、自国の失業者がいるのに他国から競争相手となる労働力を移入するなんて反国民的行動ですからね。

それにしても分かり易い移民法である。失業率が増えた⇒雇用を増やせ⇒外国人が起業してキーウィを採用しろ⇒その代わりビザもあげるよ。

ある意味、ビザを売っているのだ。

なんだか理屈や建前のdaisukiな日本人は多い。ビザの話になると「弁護士に頼んでお金を払ってビザを取るなんて卑怯だ」とか「そんな、ビザがカネで買えるなんておかしい!」とか「自分で申請すべきだ、その実力で申請すべきだ〜!」とか、とにかく理屈である。

それも日本人の歴史観の中で日本人の就業感覚とかで、要するにガラパゴスの原理をガイコクに押し付けて「こうあるべきだ」とやるんだから、たまったものではない。

この国ニュージーランドは雇用者が必要なのだ。国が成長する為に売れるものがあれば売る。その一つが永住ビザである。

移民政策は国家にとって大きな判断が必要である。19世紀半ばのダニーデンで起こったゴールドラッシュでは多くの中国人が単身でダニーデン、クイーンズタウン、アロータウンと移住して金掘りをした。

ところが19世紀後半のニュージーランドでは東欧からの移民は引き続き受け入れたが当時のリチャードセドン首相は中国人嫌いだった為に、中国人の受け入れはここで一旦途絶えた。

それ以降の移民政策としては、第二次世界大戦後の羊毛輸出景気があって南太平洋のアイランダーを労働力として受け入れをした。

ところが彼らが働かない。全く働く意志がない。元々彼らの生まれ育った島では「働く」と言う概念が非常に乏しいのだ。手を伸ばせば木の実があり海に足を漬ければ魚も貝もある。

畑を耕せば芋も食えるわけで、そんな環境では労働⇒貯蓄⇒拡大⇒資産保全、などと言う発想がない。

なのでこの移民政策はある意味大失敗で、それが現在まで60年続くニュージーランドの負の遺産となっているのは事実だ。

しかし、だからと言って移民流入を止めてしまえば国の発展も止まる。

だから南太平洋に懲りた移民局は、1990年代になって教育留学生の受け入れを開始、同時に中国や東南アジアからの優秀な移民を受け入れるようになった。

現在のところ先住民との軋轢や一部白人からの中国人に対する反感はあるものの、それ以外のアジア人に対する印象はそれほど悪くない。

とくに日本人に対しては「特別待遇」的な印象がある。

ある夜のシティの街角。道を歩いてた数名の中国人カップルが地元の不良に囲まれた。

カップルはとっさに「僕たちは日本人だ!」と言うとその不良、あきれた顔で「ナンだ、だったら早く言えよ、お前ら危なかったぞ」なんて笑えない笑い話もあるくらいだ。

今は日本人に対して印象も良く、起業家ビザであれば取得しやすい。

しかしこれは何も申請者の都合を考えてビザ枠の設定をしているわけではない。

ニュージーランド政府だって心情的には宗主国である英国や欧州から10万人単位で移住してきてもらいたい、けど実際問題として人種バランスを考えればアジア人も必要である。

Diversityというんだけど、いろんな人種が混ざったほうが社会的には成長しやすい、お互いに違うものを持ち合ってその中で競い合って良いものが出てくるという考えだ。

だから今ならアジア人にも一定枠でビザが発給されるし、お金を持ち込んでくれる起業家はなお優遇である。

ほら、この時点ですでに国家がビザを売って優秀な労働力や経営者を招きいれようとしているのが分かるでしょ。

言葉を変えて言えば、一旦ニュージーランドが「これで充分、もう移民は不要」となれば、門戸はガチンと閉ざされる。移住したい人の事情が何であれ「もういらない」なのだ。

「いつまでもあると思うな永住権」である。

写真はアンガスステーキハウスの2枚目です。シェフはブラジル人か?大量の肉をシュラスコみたいな雰囲気で捌いてました。


tom_eastwind at 15:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年02月08日

インターナショナルリビング

インターナショナルリビング

米国の移住専門誌が今年度の移住最適国の5番目にニュージーランドを選んだそうだ。

まさに行く人来る人である。

米国に移住したい人はたくさんいるが、同時に米国での生活に区切りをつけて次の新天地を探す人もいる。

ぼくがいつも思うのは適時適地。自分に合った土地に自分のライフステージに合わせて住む場所を地球サイズで変えていく。一所懸命と言う発想は、ない。

廃国置球、国家がなくなる時代においては、どこで生まれたか、どこで働いたか、どこで生活を楽しむか、どこで老後を過ごすかはすべて本人の実力次第で決まる。

もちろん生まれ育った場所がdaisukiならそこで一生過ごしても良い。要するに好きな場所に好きなときに住むのである。

その実力にはいろんな要素があるが、まずは健康、そしてお金に換算出来る仕事をする能力(これは一般的な日本人の作業の意味ではない・社内遊泳や社内稟議書類の作り方の上手い下手は、この場合は能力ではない)、今使えるお金(多ければ多いほど良いが本人がお金を作る能力が非常に高ければ今すぐ持ってなくてもよい)。

次に趣味があるか、他人との生活を楽しめるか、など、その本人が持っている素材としての能力である。海外に行っても引き篭もりをするのであれば住む場所を動かす意味はない。

ゴルフやヨットやスキーなど、アウトドアスポーツが好きでお金があって英語さえ出来れば、ニュージーランドは素晴らしい老後を過ごせる一つの国であろう。

つまり米国で「頑張って」資産を作った人がニュージーランドに移住すれば、米国に比べて安い生活費、素晴らしい自然環境、優しい人柄の人たちとの生活を楽しむ事が出来るのだ。

その意味で大事なのが教育だなって思ってしまう。「頑張って」と言っても、そういう競争の入り口に立つ為には、まずは教育がないとほぼ不可能なのが現実である。

入り口にさえ立てない人間は一生空を見ながら地面にへばりついているしかない。これこそ究極の差別である。人は生まれ育ちで差別されるべきではないが、現実は生まれ育ちで差別されるのだ。

例えば米国ではMBAを取った優秀な学生は一流企業に入って出世するだろうし、法律を学んで優秀な成績で卒業した学生は大手法律事務所から次々とオファーが来るだろう。

けど、その大学に入るためにかかるお金が半端でないのは誰でも知っている事で、毎日の生活をするだけで精一杯な家庭で子供を大学にやる事も出来ない。

世界的に見ても、子供が成長して成功する機会を得るためには、何よりも教育が大切だ。ここで出てくるのが子供の成長の機会均等を国家が保障しているかってところだろう。

ニュージーランドはその点、機会の平等は徹底していて、子供がその気になれば大学まで一切親の世話にならずに入れるし、その間の生活費や医療なども政府が保障してくれるので恵まれている。

結果的にそのシステムを使って勉強して成長するかどうかは本人の判断だが、教育のないバカばかりの国家よりもきちんと学ぶ機会を持った人々の多い国家の方が成長するのは間違いない。

そりゃもちろん、世の中には成功物語として小学校卒業資格しかない田舎の土建屋の親父が総理大臣になったりするだろうが、それはあくまでも例外である。

システムとして子供の機会均等を保護しているか。

ここは本当に大事だなって思うのは、オークランドでもちょっと裏通りを歩くと、何を勘違いしたかフーディを頭から被ってズボンをずり下げて肩を揺らしながらついでに道を歩く姿も千鳥足で、片手にタバコ、片手はラップダンスしているようなバカを山ほど見かけるからだ。

システムとして機会均等を保護していてもその子の親がバカで教育の大事さを理解していないと子供は何も学ばずに、水は低きに流れるようにバカな親の子供はそのまま教育を知らずに社会に出される。

しかし勿論そんな子供が社会で役立つわけはなく、ましてや高い給料を取れるわけではない。そこで自然とだらしなくなり、結局は政府の補助金で朝からマリファナ吸って、一週間も風呂に入ってないような薄汚い格好で道行く普通の人々に汚い言葉を吐きかけるようになる。

そんな親の姿を見て「かっこいい!」と思った子供は、やはり親の真似をして子供の頃からマリファナを吸って・・・etcetcと、結局は同じ事の繰り返し、貧困の環から抜け出せなくなるのだ。

システムがあってもこれですぜ。なかったらこの国、どうなってたのかな、と思ったりする。

ましてやそのような機会均等システムも存在しない国ではどうであろうか?

自分が住みたい国に住む権利は自分で勝ち取るしかない。けどその競争地点にさえ立てない子供はどうすればよいのか?

どうすれば良いかを理解出来ないまま大きくなってしまった(機会がない)多くの子供たちは残りの人生を「自分で人生をコントロールする」と言うことを一生理解出来ないままに劣等感とそれを隠すための無知な暴力を周囲に振りまいていくのだろう。

だからと言って日本の教育熱心を手放しで褒めているわけではない。あれはまた違った意味でバカを粗製乱造しているのだから、まあないよりはましだけどって程度か。

バカな親が自分の果たせなかった夢を子供に託す、つまり子供が自分の所有物と思い込んでおもちゃか奴隷のようにこき使うわけだから、それも「お前の為に!」と悲壮な顔で言うんだから、これまたバカにつける薬はないわけだが、それでも教育がないよりは、あった方がましであるのは事実。

運よく米国で成功してニュージーランドに移住して人生を楽しむ。だったらモノポリーみたいに世界すごろくでも作ってみるか。

中国の山の中で生まれて子供の頃に中国政府に見いだされて国費で勉強をする。優秀な成績で北京大学を出ると米国のスタンフォードあたりに国費留学。

5年ほどして中国に戻り、米国の友達と起業。

米国と中国で大成功して会社を売却して資産家になりプライベートジェットを買う。

その勢いでニュージーランドの永住権を取得してクイーンズタウンあたりの牧場を買って、余生を楽しむ。

こんなモノポリーもありかも。

tom_eastwind at 14:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 移住相談 | 諸行無常のビジネス日誌

2010年02月07日

ピコラエヴィッチ紙幣

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去年の第2回城山三郎経済小説大賞受賞作である。自分の感じとして、本屋に平積みされてたこの本をちらっと見た瞬間に「あ、いけそうだ」と思った作品。


案の定、単行本でありながら一晩で読んでしまった。正確には土曜日の昼過ぎから真夜中過ぎ、午前1時までである。

戦前の日本の歴史を読むと移住と言うキーワードで日本が見えるような気がする。

明治維新。それまで300年にわたる鎖国を続けて来た日本がその門戸を開くと同時に、多くの日本人が海外に出て行った。

しかしその多くは故郷で食えずに海外で一攫千金を狙った貧しい人々であり、現在のような「移り住む」ような優雅さは全くなく、まさに海外で失敗すればそのまま海の骸(むくろ)となり、例え成功しても今のように「今年は日本に帰るかな」みたいなことが言えない交通事情だったのだ。

つまり、残るも地獄行くも地獄の中で、どうせ同じ地獄なら前に進んで死のうぜと言う感覚だったのだろう。または、周囲に引きずられて何も考えてないFollower、かな。

東洋の島国であった日本が世界でその名を知られるようになったのは日清戦争である。

一応1300年代までは世界の中心であった「あの」眠れる獅子である中国と、その属国であった日本が戦っても日本に勝ち目があるわけないではないか。

そう思われた中、日本は必死の戦いで日清戦争を勝ち抜いて中国での権益を勝ち取った。結果的に三国干渉などでその権益は削られたものの、中国、特に東北部において足がかりを得たのである。

更にその後、世界を支配する民族である白人相手に日露戦争で大立ち合いをやって、これまたあり得ないような偶然と僥倖と兵隊たちの命を賭けた戦いとそれを支えた現場の戦国武将たちの相乗効果でロシアを破って、ついに白人世界に楔を打ち込んだのが日本であった。

国内的には軍部や統制の問題などが山積みしつつも、それでも日本は、今度はユーラシア大陸へ支配者として進出するようになった。

各個人は帰るべき狭き故郷はありながらも、あえて広大な満州やロシアや東南アジアに進出して人々は自分の実力だけを手に海外で挑戦していった。

散髪屋、米屋、乾物屋、料亭、日本人が進出する街に将来を見いだした人々は広大な大陸に自分の将来を賭けた。

そんな時代に「ぼくも行くから君も来い、狭い日本にゃ住み飽きた」と日本人でありながら中国で馬賊になった伊達準之助や小日向白朗がいたかと思えば、その正反対の商売の道に進み、まだ年端もいかない若年の身一つで中国東北部に飛び込み、アムール川沿いのニコラエフスクで財を成した日本人がいた。

この小説では、一つの街で殆ど全ての商品を扱い、輸入や輸出も殆どを取り扱い、ついには生産現場から販売先まですべてを一貫して扱う、まるで政府のような商社になった島田商会が舞台となって話が展開していく。

島田は最終的には自己発行小切手を予め5ルーブル、10ルーブルなどと印刷しておきその小切手に自分の署名を入れることで支払い方法を標準化させて、遂にはその小切手が紙幣化していったのである。

日本で言えば約束手形の金額を予め決めておき、支払いにも受け取りにもその手形で精算をしたという、まさに通貨の発展そのものを極東の小さな街で実現させたのだ。

そこで通用していた小切手通貨がピコラエヴィッチ紙幣である。

ほんの一時期だけとは言え、人口1万5千人の街に住む700人の日本人(日本軍駐留兵350名、民間人約350名)が街の経済全てを握っていた事になる。

これだけで経済小説としては非常に読み応えがあるのだが、更に歴史上の実話である「尼港事件」の舞台であるのも、まさに歴史の織り成せる「小説ではあり得ない」展開となって物語りに深みを加えていく。


本編は明治維新は過去のものとなった東京の印刷所から話が始まる。一市民が社長に「ちょっと呼ばれて」外国の日本人街勤務を命じられる。

とは言っても今のように飛行機で移動するわけではないし、行った先の様子も何も分からないから、その意味では移住に近い。

ぼくのように「ガイコクに移住した日本人と言う視点」から見れば、この展開がまた面白い。

英語はもちろんロシア語など出来るわけがない。しかし戦前の日本は極東においては支配民族であり、日本語が出来れば誰かが対応してくれた。米、味噌、醤油、散髪、生活はどうにかなったのである。

そんな中で本人が意識しない間に支配民族として街に住みながらも、やっぱり日本人はロシアの街では“Englishmen in New York” なのである。「僕は異邦人、法律的に合法な異邦人」、なのである。

異邦人はやはり異邦人、その街の人間と完全に同化することはあり得ないし、またその街の人間を同化させることも出来ない。

どれだけ個人的に友達が出来ても彼女や彼氏が出来ても、その人々とは同化しないのである。

そんな状態でガイコクから来た支配民族と地元で生まれ育った被支配民族の関係は表面的にどれだけうまくいってるようでも、やはりいつかはどこかで無理が来る。

移民ってのは、まさにここが問題点なのだ。いつかどこかで何かが起こる。悪いときに悪い場所に悪い奴と一緒にいた、それが運命の分かれ目となるのだ。

まあ日本でも同じと言えば同じだが少なくとも人種差別という形を取る事はない。けど移住は国と国の関係に左右されるし、国家関係は10年単位でどんどん変化していく。昔の友好国が今の敵国になっているかもしれない。


第二次世界大戦下の米国では日系移民にいわれのない差別が行われた。その偏見を何とかして払拭する為に日系人の若者は442部隊を結成してヨーロッパの戦場で米国のどこの部隊よりも活躍し、どこの部隊よりも多くの勲章を得た。

戦闘においては勇敢だった日系部隊ではあり、その後ハワイではダニエル井上上院議員などを輩出したが、米国政府が戦時中の日系人収容所問題について正式に日系移民に対して謝罪をしたのは戦後数十年経ってからだった。

ロシアは戦後60年以上経った今も、終戦間際における日系民間人の虐殺、日本兵捕虜のシベリア抑留など一切の事実に対して「知らぬ存ぜぬ」である。北方4島返還に応じようともしない。

その理由の一つがこの本に書かれているように極東ロシア人の持つ強烈なまでの劣等感と怒り、そして一般的ロシア人自体の持つ破滅的な民族性があるのではないかと、どうしても考えてしまう。

一世は移住してもいつか戻る日本の故郷があるから良い。

しかし二世、三世と続けていけば国際関係が悪くなる事もある。そんなとき果たして親としてその移住が正しい選択だったのかを反省することも出てくるだろう。「おれって悪いときに悪い街に移住しちゃったなかな?」。

その意味でこの本を読むときに通貨などの経済だけでなく移住と言う視点から見ても面白いと思う。

非常に読みやすい文体だし分かり易い内容であり、城山三郎賞を作った人たちも「今年はいい作品が来たな〜」とほっとしているところだろう。

ただし最近流行のM&Aとか巨大銀行の裏側とか石油利権がどうのこうのとか、そういう経済小説と思って読むと、そういう系列の話ではないのでご注意。

これを読んだらこれだけ知識が付きますよ、他の人と会話するときにネタが増えますよって的な本ではない。

あくまでも歴史と経済の流れがありながらも、そこにいる人間に焦点を当てているので、人間ドラマや社会全体を俯瞰して楽しむと言うことに興味がなく目先の資料として読むのなら、これは合わない。

だからどっちかと言えば昔の城山三郎のような系列と考えて読む必要あり。「小説日本銀行」を経済小説として捉えるかどうか、である。

あ、、やっぱりこの賞、合ってるじゃん。

写真はフォートストリートに改装開店したAngus Steakhouseです。大きな肉がごろごろしてますが、ちっちゃい肉でも300グラム、大きなランプステーキになると1000グラム、つまり1キロくらいあります。この日も世界中の観光客と地元のお客様で賑わってました。



ピコラエヴィッチ紙幣―日本人が発行したルーブル札の謎ピコラエヴィッチ紙幣―日本人が発行したルーブル札の謎
著者:熊谷 敬太郎
販売元:ダイヤモンド社
発売日:2009-10-02
おすすめ度:4.0
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tom_eastwind at 14:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

2010年02月06日

日本観光客激減

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★抜粋開始
日本観光客激減
 国の経済を支える観光業界では、主要観光マーケットである日本からの観光客数がここ数年で3分の1まで減少したことで、現在この状況を奪回しようと計画がなされている。

 ニュージーランドでは長期にわたって続いたスランプの後、約1300万人が住む大都市である東京の人々をターゲットに休暇の地としてNZに呼び込みたいとしている。

 Tourism NZの日本担当マネージャーのJason Hill氏はニュージーランドの美しい風景のイメージのみならず、食事やワイン等、他にもっと洗練されたイメージを日本人が求めていると話す。

 また、これまで飛行機の収容能力が低いことも長年問題視されていたものの、最近低価格でしられるJetstar航空がゴールドコースト経由のオークランド−東京間のフライトを始めたことから、今までの日本マーケット層が50代以上であったが、今後は若者層も増えていくと期待が膨れる。
★抜粋終了・NZdaisukiより。


こんなことを本気で書いているなら大バカだし、嘘と知ってて上司向けのアナウンスで書いているのならヒラメみたいに上ばかり見ずに、もっと本気で働けと言いたい。

時代が変わったってのを、東京に住んでいるんだから理解しようよ、東京に住んでる皆さん。

人々が旅行に行かないのは、旅行以上に楽しい娯楽があるからだ。

例えばニュージーランドに1週間の旅行をするとすれば、旅費だけでなくお土産とか旅券取得とか自由行動時のお小遣いとかで、一般的に旅費と同じ金額が支出される。

つまり標準的なコースであるクライストチャーチ〜クイーンズタウン〜ロトルア〜オークランドの一週間ツアーの旅費が平均20万円(季節によって40万円から18万円まである)とすれば、実際に旅行客の費消するお金は一人40万円であり、こんなコースに一人で参加するバカはいないから夫婦で行くとなると二人で80万円の支出である。

80万円を7日で割ってみれば、一日11万円の支出である。

今の時代、11万円あれば何が出来る?これだけデフレが進み、お昼ご飯がワンコイン以下で牛丼が300円以下になって、ワインもビールも安くなり、食材も最高のものが最低価格で買えるようになり、大体自宅から出なくても好きなものが宅配で手に入る次代なのだ。

何でそんな時代に自分の体を動かして、大きな荷物を抱えて電車に長いこと揺られて狭い飛行機に押し込まれて十時間以上もの旅に出て、ましてや到着した場所では日本語なんて通じない世界である。

そんな苦痛を押し付けられて一日11万円だぜ!誰が払うかよ。

結局ジェットスターを使ってニュージーランドに行く旅費がどれだけ安くなろうが、それは1時間当たり二人で4583円なのだ。

今時映画で2時間で一人1500円としても、1時間あたり750円だぜ。映画は街中で観れるしパスポートも要らない。

ビデオレンタルとなれば更に安いわけで、週末にまとめ借りすれば一本あたり50円程度だろう。

つまり二人で観れば2時間映画を25円で観れるわけで、一時間で言えば12円50銭である。

さあ、これに対して一時間ごとに4583円課金されて、それが途中で面白くなくても払い戻しはないわけで、どう考えてもリスクと娯楽の内容を考えれば、3Dでアバター観た方が確実に楽しめるよね。

何で無理して海外に行く必要があるの?

ニュージーランドの今日や観光地を観たければいつでもDVDがあるしテレビでは有名な俳優が無料で紹介しているし、どう考えても費用対効果、合わないでしょ。

今、若者の財布の中身に手を突っ込んで取り合いをしているのは、牛丼やでありコンビニのワンコインでありケータイのパケット料金でありカラオケの1時間無料付き飲み放題プランでありツタヤであり、旅行業界はその後塵を拝しているだけなのだ。

それなのに何でこんな「これからはもっと東京で集客を」と言えるのか?

答えは簡単で、彼らの生活は給料と言う形で政府に守られており、頑張ってますという姿勢さえ見せればまだまだ後何ヶ月かは給料が貰えると知っているからだ。


給料がもらえるうちは「いや〜、現在の旅行業界は〜」と物知り顔で語っていれば良いわけで、何も自分が難しい事を取組んで失敗して今の席を追われるようなことはしたくない。

けど、試しにJohnKey首相が「日本は駄目ですね、仕方ないから政府観光局の予算を削ります、人件費も半分にします」となれば、それまで涼しい顔をして「あ、た、し、リョコーギョー」と光り顔だったのが突然真っ青になり、日食のように真っ黒になり、そして「私たちの労働条件は!」とか「そんなの経営責任だと思います!」とか、他人のせいにするようになるのだ。

けど、そんな風に自分の首にナイフが刺さりそうになってから「どうしよ?」なんて考えても答えが出るわけはない。だって普段勉強していないんだから、今になって突然答えなんて出るわけがない。

そしてそこで臨終の音、ちーん、である。

とにかくどんな産業であれ、担当者が他人のせいにしたり危機意識を持たなければ何も変わらない。そして今の旅行業がすべてをちっちゃな飛行機や不況のせいにして自分が危機意識を持たねば、これから先も長いことはないと認識すべきだろう。

旅行業はこれから大きな変化を迎える。世界を旅する人は増える。ただ、それを今の日本でどうアウトバウンドとして実現していくか、このためには既存の旅行会社とつるんでいても何も答が出ないと言うことだけは明確である。

写真は僕の机から見えるメトロポリスアパートメント。一ヶ月間暮らしたアパートである。職住接近ってほんとに便利ですね、会社まで歩いて2分です。


tom_eastwind at 19:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月05日

ブンヤ

小沢問題にほぼ決着が付き、これからは今まで小沢叩きをやっていた新聞マスコミは自己保身を図る為に「どれだけ小沢が悪いか」とか「検察は何を弱腰になっているのだ」とか、暫く、たぶん2週間くらい言い続けるんだろうな。

でもってその頃には違う新聞ねたが出るだろうから、いつの間にか自分たちのリーク依存報道や一般大衆が既存マスコミから離れつつある問題を無視出来るだけの、一時の心の余裕が出てくるんだろう。

しかし数年の期間で見れば既存マスコミは「検証可能かつ不可逆的な」撤退に追い込まれていくしかないのも事実である。

江戸時代もマスコミは存在した。瓦版と言う形で。一般大衆に情報を提供する手段として、その時代における技術を利用して「媒体」が発生したが、それは時代の技術とともに変化していった。

媒体=メディアである。テレビはここ30年程度の、しかし強力な媒体である。新聞は100年の歴史がある媒体である。

しかし結局媒体に過ぎない。時代が変われば媒体は変化するしかない。大事なのは正確で最新の情報を提供することであり、それが出来なくなれば撤退するしかないのは当然のことである。

経営者とはそういう時代の波を読んで、自分たちが[記事=コンテンツ]を集めることが出来る間にその[記事=情報]をどういう形で読者に届けて、どういう形で課金するかを考えるのが仕事だ。

けど、既存の印刷会社や配達システム等、要するに既得権益の中にどっぷり浸かった上に、自分もリーマン社長だから自分の時代だけは何とか無事に過ごしてほしいと言う気持ちで一生懸命既存の仕組みを守る。

それが地獄への一歩と分かっているのに、自分だけは地獄の手前で定年を迎えて退職、後は悠々年金生活と逃げ切りを狙っているのだろう。

日頃あまりマスコミのことも書かないのに、何で今回は小沢とマスコミをセットにしてるかって言うと、これは僕の個人的な思いいれもあるからだ。

僕の父親は数十年前にある地方のちっちゃな新聞社で記者をしていた。

まともに着替えさえ買えない家計で「今日の夕ご飯は、卵うどんかね〜」と言う母親の言葉を聞きながら、父親はそれでもいつも夜中に帰ってきては仲間の記者と人のうち(あばら家)に上がりこんで、金もないのに酒を食らいながら政治について語り社会について語り、そのまま朝になるとまたも取材に出て、殆ど家に帰ってこない」生活を送ってた。

たまに夜遅く酔っ払ってで、たぶん取材の後にタクシーで帰る途中にどこかの国道の道端で買ったのだろう、ソーセージ入りのパンをお土産にしてくれたものだ。

ぼくの嫌いな炒めキャベツを抜いてもらうだけは、酔っ払った親父の頭の隅っこにかろうじて残っていたようだ。

ぼくが人生でたった一人、本気で議論して勝たないのはその男だけだ。

そういう男が若い頃第二次世界大戦に従軍し、まさに奇跡としか言いようのない生存帰国率5%と言う激戦地から内地に戻り、その人生の一部を「政治との対決」に賭けていた。

そういう人間を生まれた時から見てきたわけであり、それが新聞記者であると思って育ってきたのだ。

だからこそ今のへなちょろで弱虫で日和見な根性無しを見ると、どうしても怒りがこみ上げてくるのだろう。

もともとニュージーランドをネタとしたブログなだけに、あまり政治ばかり書いても仕方ないのでこのあたりで元に戻るが、そういう無骨な父親の背中を見て育った人間として現在のマスコミに言いたい。

恥を知れ。


tom_eastwind at 19:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本

2010年02月04日

木鐸(ぼくたく)=サーフボード

ほんとに偶然だけど、昨日の池田ブログでも「記者の質」の問題に触れていた。

大雑把に書くと
「20年ほど前までは記者も自分でネタを見つけてたけど、今は政治ネタは政治家からの逆襲があるので、「検察によると」とか「検察が逮捕した」とかの責任転嫁先が必要なのだ」

なるほど、だから逆襲のしようがない一般市民向けには、養鶏業を営んでいた老人夫婦を自殺に追い込んでもケロっとしているのだな。

なのでもう一つ、海外では大きな問題になっているけど日本ではあまり問題にされてない記事がある。

例えば去年の終わりに出てきた「地球温暖化は嘘だった!」暴露記事など、日本では殆ど取り上げられていない。

元々地球温暖化というテーマはかなり頭の良い学者が特定の機関から予算を貰い専門に取組んでみてはじめて「おい、地球は温暖化しているんだぞ」と言い出した。それまで温暖化なんて言ってる専門家はいなかった。

それに反対するものには「じゃあデータ出せよ」とか、「お前ら素人が何言うんだよ」と言う論調である。

でもって気象の専門家がちっちゃな声で反対意見を述べると今度は「へ、お前ら何人だ?おれたちは100人以上の専門家の意見だぞ」ってやってしまう。

最後は、「もう決まってしまったんだ、後戻りはしないよ、本殿である排出権取引に行くので、入り口でがちゃがちゃ言わないように」だってさ。

それが「地球温暖化と排出権取引」である。

★抜粋開始
最近では、地球温暖化問題を世界的に扇動し、新興諸国から温室効果ガス排出の罰金として資金をピンはねする温暖化問題の構図があったが、昨年末のコペンハーゲンのCOP15の失敗や「クライメートゲート」の暴露によって、温暖化問題を使ったピンはね作戦は破綻しつつある。それだけに、英国は、今回の世界政府作りにうまく乗り、世界政府がトービン税で集めた金で英国が救
済されるようにせねばならない。
抜粋終了

上記記事は田中宇のメルマガで、彼はかなり以前から地球温暖化の詐欺について記事にしてきた。

数ヶ月前に地球温暖化が事実ではなくお金が欲しい学者に金を渡して嘘のデータを作ったことが英語圏では暴露されている(これもまだ真実かどうか議論中であるが)ので、これ以上バカ話に付き合う必要はないって考えてる人が増えてるかと思ったら、何のことはない最近の日経の記事の何処を見ても「バカ話=クライメート事件」の事は全く書かれておらず、反対にあいも変わらず「おんだんか〜♪排出権取引〜♪」とかばかりやっているので、さすがにイラ!っときたのである。

要するに「人為温暖化」とは何かと言う事実認定もされてなければ何が事実かの基準さえ明確でないのにまるで予定調和のように排出権取引だけが一人歩きをして、それが日経ビジネスの記事として「規定路線」であるかのように書かれているその場傘加減がイラっとするのだ。

「地球に優しく」、とか「地球温暖化を少しでも僕らの手で止めたい〜」だとか、勘違い自己中心的自分に酔っちゃう自惚れ型の人々が何を言おうと止めようがないので一般的には「バカに付ける薬はないからほっとけ」となる。

しかし経済雑誌にも普通のように「地球温暖化」って書かれると、後代の人々に「tom、お前もバカだったのか?」と言われそうなので、他人の尻馬に乗っかってはしゃいでる「わたしってエコ!わたしってかわいい♪」系の人々にも含めて、また将来、ぼくの子供に「お父さんも“地球温暖化、やだ、じゃあ私もMyエコ!”とか言ってたの〜」なんて言われないための防御策としてこれだけ書いておこう。

地球温暖化は、人為温暖化の事実は判明していないし何を持って事実とするのかも確定していないし、もしかしたら地球冷却化に向っているかもしれない。

けど温暖化ビジネスは間違いなく金儲けを狙った連中の策略でありその流れの中で日本は大きな被害を蒙りそうになっているって事は事実である。

実は地球が温暖化しているか冷却化しているのかってのは、何千年の世界の歴史を見ても答が難しい内容である。だって地球が出来てから何億年経ってる?

地球は温暖化することもあれば冷却化することもある。

大規模な火山爆発で太陽光が届かなくなり地球全体が冷却化することもある。
現在のように太陽黒点の動きで冷却化が発生していることもある。

温暖化ってのは、冷却と冷却の間なので問題ないんだって考え方もある。

つまり、ここ何千年かに地上の主人公として出現して、100年ほど前に地球の表面をゴキブリのように擦りながら走る「クルマ」が出てきて米国がdaisukiな「OIL」を大量に使用しただけで、大体地震一つまともに予測できず明日の天気も外すような連中が、どうやって地球が温暖化しているって「断言」出来るのか?

まあいきなりここまで飛躍しても仕方ないので、順序だてていってみよう。

1・地球は温暖化しているのか?
では温暖化とは何を指してどれだけの期間の事を言うのか?去年の冬より今年の冬の雪が少なければ温暖化!と言うのか?来年が温かければ来年は温暖化なのか?去年は寒かったから冷却化なのか?これは普通、世間では暖冬とか冷夏って言うんだけど?

温暖化のデータはホッケーのように20世紀前半は安定していたのに後半から急激にホッケースティックのように右肩上がりになっているから温暖化だってのが以前の主張だったが、それは化学者が都合の悪い部分データを改ざんした結果だと言うのが今回の暴露記事で判明されているので、まず今までの主張の基本的事実というのがすでに存在しない。

これで温暖化って言えるのか?

2・地球が温暖化した場合、その原因が「CO2だけだ」とどう証明出来るのか?他の理由はないのか?羊や牛のゲップが本当の理由ではないのか(冗談)?

3・地球が温暖化してホッキョクグマが困っていると言うが、それで人間様はほんとに困るのか?

南太平洋の小島が沈んだとしても、島と一緒に人間が沈むなんて思い込んでる人はまさかいませんよね?その前にもっと安全な国に移住しますよね。

むしろ温暖化で世界で食料がたくさん作れるかもしれないし、温暖化することで暖房不要、冬場に使う薪の使用量が減る事で森林が守られてCO2を吸ってくれるではないのか(笑)?

4・じゃあどうしても地球の温暖化がCO2だけが原因であり、近い将来シロクマ君の住む場所がなくなってツバルの人々が島と一緒に沈むのが可哀相だと言うならば、CO2を減らしましょうぜ。まずは不要不急なクルマを減らしましょうぜ。

なのになんでCO2削減が排出権取引ってビジネスになるのだ?

地球は温暖化しています⇒犯人はCO2です⇒自然が大事です⇒CO2を排出する企業はCO2を減らしましょう⇒CO2を減らす事が出来ないならお金で買いましょう???

どこかで理論がずれてないか?温暖化が嫌だったらクルマを使わなければ良いし飛行機はすべて廃止して風だけで動くヨット移動にすれば良い。

または、どうしても温暖化がいやで、それが人間が作るCO2が原因なら、人類すべて滅びれば良いではないか?

「そんな極端な事を!」って言うあなた、だったら全人類60億人のうち25%、15億人だけ削減しましょうよ、でもって日本はそのうち1億2千万人くらい負担してくださいよって、これなら良いのか?

それとも人を削減する事になるってーと、突然人類愛が湧いてきて「人の命は地球より重い」って言い出すのか、どっかの政府のように。

つまり、皆さん立派な事を言ってるけど、車は捨てたくないけどCO2は減らしたい、その為のカネを自分で負担するのは嫌だけど企業が負担するならいいんじゃないの、要するに自分だけは楽してカッコウ良い事を言いたいと考える一般市民をうまいように操ったくすぐりの結果なのである。

現実的に人類は適度な発展が必要で、人類が滅びるのは嫌で、ある程度は地球の資源を使って生きるしかないのが大前提であるならば、どこかでバランスを取るしかない。

だから基本的には自然と共生して出来るだけ持続出来る生活を行い、いつも自然に感謝すると言う昔からの日本人の生活をすれば良いのだ。

てか、西洋人が突然中世に発達してきて彼らの勝手な理屈で「人間だけが偉いんだ、がおー!」って地球を無茶苦茶にしたんじゃないか。自分たちはその反省もないままに今回もまた目先の金儲けの為に地球を利用しようとしているだけだ。

少なくとも地球を大事にしようって言うのならCO2問題がいつの間にか排出権取引に摩り替わるなんておかしな話になるわけがない。

だいいち、今すぐ酸素がなくなって死ぬって話じゃないし、温暖化が何を引き起こすかも分かってない状態で、一体何人の人々に影響が出るか分からない状態で、けど目の前では毎年何十万人もの子供がアフリカで餓死してて、今死につつある彼らのことはどうでも良くて、自分の痴的好奇心と自分可愛い精神を大事にしたいようなお姫様的連中がぬくぬくと温かいベッドで転がりながら満足すれば良いってのが地球温暖化問題=「私も地球を愛してる〜」なら、それもそれなりに彼らの精神的充足を購入する手段としては安いのかもしれない。

何せ今目の前で死に掛けている子供のことなんかどうでも良いのだ。

飲み屋のかっこつけ話や職場で偉そう講釈を垂れたい、パーティトークとして使いたいのだから、そんな上品な場所でアフリカの子供のお話なんてしてしまって誰かに「じゃあ今すぐその子を救うことをしろよ」なんて突っ込まれると、ほんとにすぐ実証する為には自分の財布でどっかの慈善団体に寄付する必要がある。

けどこれが地球温暖化であれば自分の懐からお金が出て行く危険性はまずないし、「だったらクルマに乗るなよ」って言われても「あらま、あらやだわ、あなただってお車にお乗りになるわよね」と言い返せる。

腹の中では「そんな、お互い分かってることじゃないのよ(ギラリ)!お下品だわ」となるのだろう。

要するに問題を頭で理解せずに恋に恋した女性のようにのぼせて憧れて自分をヒロインにしたいんならそれはそれで良いし目先で死に掛かっている子供のことはどうでも良いのはそれで良いが、それが世界基準となり結果的に政府の税金が使われるとなると、これは話が別だってこと。

お姫様どもがカネを出して自己満足を買いたければ自分の金でやってくれ、バカに向ってバカとはイワンが、こっちまで巻き込むバカには積極的に喧嘩を売るぞって言いたくなる。

いずれにせよ地球温暖化問題。クライメート事件がどこまで本当か分からないが(個人的には本当のような気がする)、何でCo2削減が排出権取引になるのか、そこの点だけでも少しは自分の頭で考えてみてもらいたいものだ。

http://ascii.jp/elem/000/000/481/481355/

ここまでが長くなったけど排出権取引の話。

でもって記事が日経ビジネスを飾り、新聞や雑誌ではエコが素晴らしい!みたいな記事や広告を見るたびに、こりゃ絶対マスコミのミスリードでしょって思うのは僕だけではないだろう。

嘘でも100回聞くと本当と思い込むのが人間の心理なら、新聞が社会の木鐸であるならば、そのような世界的な嘘に対して健全な疑問を提供して一般市民に対して考える資料と解説を与えるべきではないか。

どちらが本当であるか分からないなら、少なくとも両方を併記することで、データを直接読者にぶつけて、そこから先は読者も考えてみれば、くらいの提案があっても良いのではないか。

なんて書くと必ず出てくる反論が「クライメート事件なんて嘘ですよ、だってうちはちゃんと専門家から確認取ってますから」だろう。けど、では聞きたい。その専門家が嘘を言っているかどうか、新聞記者は科学的に理解出来るのか?

だいいち、推測するところ、データどうのこうの以前に「折角始まった排出権取引を壊すようなこと、言うなよ」ってのが今の風潮であろう。

一般的に、ある機関から金をもらってその機関の都合の良い答が出た場合、それに対する反証があっても当然である。その両方を追い詰める中で、科学は分からなくてもお金の流れとその後誰が儲かったかを見れば、ある程度答えは見えてくるだろう。

そういう健全な疑問もなしに排出権取引だけが進んでしまう現状に社会の木鐸が乗っかってしまうようでは、そりゃもう木鐸じゃなくてサーフボードだ。波乗り記者とでも改名すればどうだろうか。


tom_eastwind at 11:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本ニュース

2010年02月03日

記者の見識

小沢ネタだけでなく日本のマスコミのバカさ加減には呆れるものがあるが、とくに海外から見ていると「何でこの記事が取り上げられないの????」と言うのがしょっちゅうである。

とにかく日本のマスコミとニュージーランド(つまり英語圏5カ国)の記事のずれの大きさに、毎回びっくりして、「おれ、今、英語読み間違った?」とか「聞き間違った?」とか本気で思ったりする。

一昨日のNZヘラルドでも、「自由諸国がタリバンに入隊しようとする人から武器を買い上げてお金を渡してそれで“まっとうな仕事に就いてもらう”話し合いがあった」事に触れていた。

それに対してNZの外務大臣は「ふざけんな、お前らがやるのは文句ないけど、NZはやらないよ。豪州、英国、日本は乗り気だそうだけど、気が知れないね」と丁寧に語っていた。

要するに、そんな事で金渡してもタリバンはその金で再武装するだけで意味がない、それよりも根本的原因である米国のイスラム敵視を止めるべきだというのがNZの本音である。

けどこんな記事、日本のマスコミの何処を見ても書かれていない。第一日本の外務大臣がTetsuro Fukuyamaとなってて、おいおい、外務大臣は岡田さんだぜと思ってたら、副大臣の福山哲郎の事だった。

そこで外務省のウェブサイトを見てみると、あった、ありましたよその記事。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/fuku/f_1002.html#1

平成21年2月の副大臣会見記録
★抜粋開始
28日、アフガニスタンに関するロンドン国際会議に出させていただきました。これはもう報道でご案内のとおりでございますので、あまり私から細かいコメントはさせていただきませんが、英国政府、アフガニスタン、国連による共催だということと、それから、私の印象で言えば、カルザイ大統領の就任式の演説をさらに具体化した形での課題を設定したような状況で、より詳しくカルザイ大統領からの演説があったと承りました。

ご案内のように、この会議は治安、ガバナンス、再統合、地域協力等がテーマになっていた訳ですけれども、我が国としては、再統合の問題について主張をさせていただきました。我が国としては、「昨年発表した支援のパッケージの中のひとつとして再統合を位置づける」、そして「カルザイ大統領の今回の演説については、非常に再統合に対して積極的な対応なので、そのことについて評価する」、それから、「目下準備が進められている再統合の基金が設立される場合には、2010年度予算が成立すれば、我が国は5000万ドル程度の拠出を行いたい」、「再統合のプログラムというのは非常に継続性が重要なので、継続性の進捗状況を見て、追加的なものについては検討していきたい」と私から発言をさせていただきました。

 印象的だったのは、議長やカルザイ大統領や潘基文国連事務総長が演説をされた後、いわゆる参加者からの演説で、クリントン国務長官は最初にされた訳ですけれども、その中で、個別に日本の積極的な協力を評価する発言をいただきました。

また、イギリス、韓国、オーストラリア、ドイツ等からも、日本の貢献の評価と、さらには基金への拠出等について意思表示がありまして、今後、この再統合のプログラムについては、具体的に進んでいくと承りました。今後また、具体的な形で、アフガニスタンについては継続的に国際社会はコミットしていくことになると思います。
★ 抜粋終了

「報道でご存知の通り」とあるが、どこでどんな内容が報道されたの?少なくとも武器買い上げって書いてないよね、でもってこの会見のどこからニュージーランド外務大臣が語ったような「武器買い上げ案」が読めるか?

実際は「5千万ドルの支出」に買い取り費用が含まれているんだろうけど、外国では大きな問題となるものが日本では「秘匿」されているのか?問題にならないのか?

まあ一時が万事日本の記事はこうである。新聞に書いている事だけを問題として皆が狂ったように騒ぐけど、記事にならなければ最初から無視である。誰も問題視しようとしない。

記事にならなければ「起こってない事」なので、問題にならない。

こうなるとますます大本営発表がすべてではないか?

小沢事件で新聞記者たちは「記者の涙ぐましい努力で足で稼いだ情報を世間に伝えるべく」って、嘘つくな。

君らが涙ぐましい努力をしたのは、ガッコウに入るときの受験勉強だけではないか。足で稼いだのは合コンの時のネタ仕入れだけだろうが。

大学では遊び呆けて、新聞社に入ったら新聞社語と新聞記者行動要綱を覚えるだけで、肝心のジャーナリストとして政府に対応する第四勢力と言う認識等まったくない。

社内遊泳術なんて、そんなもの世界では全く通用しない技術だっちゅうのに、政府を監視する役目がいつの間にか政府に取り込まれるようになって、結局は馴れ合いでお互いに「やらせあい」をしているだけではないか。

記者クラブに座り込んで政府からの情報を漏らして頂いて、夜中に官僚の自宅にお伺いできる事が「オレ様の実力さ」と、要するに権力との癒着を自慢するような程度の連中が記事を書いている。


いよいよ小沢問題も明日には決着が出そうだが、事前の「検察リーク」では小沢不起訴とのこと。嫌疑不十分だから訴えませんって、まるで犯罪人扱いではないか。

そこんとこ、新聞記者は会社で「疑わしきは罰せず」とか「推定無罪」とか習わなかったのか?たとえ起訴されても有罪が確定するまでは無罪なのだ。なのに検察に捜査を受けただけで犯罪人のような書き方とは、どういうことだ。

それこそ記者の不見識ではないか。

皆さんも、もし時間があれば英語新聞のウェブサイトに目を通してみてください。同じネタでもこれほど切り口が違うのかと、びっくりする事請け合いです。


tom_eastwind at 17:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月02日

おらが村の民主主義

「みんなの党」を書いている時点で小沢さんの第二回目の聴取記事が出てなくて、今朝起きてみると「いよいよ引責辞任!」なんてマスコミが叩き始めている。

なるほど、政治資金規正法ではなくダムで叩きたかったのだね、検察の皆さんは。けど、問題はダムで賄賂を貰ったかどうかではないんだよね。

要するに小沢が生き残れば公務員改革をやられて今まで権利はあるけど義務はない状態で国民に隠れて天下りから何からやりたい放題に出来てた官僚が潰されてしまう、だからその前に潰してしまえってことでALL霞ヶ関がマスコミと手を組み、米国の一部も乗っかってきての小沢潰しであるから、ネタがダムでも痴漢でも良いのだ。

「あなたは法律違反しました、では遠慮なく罰します。何?同じような事をしている人もいるって?検察は忙しいので、他の人は見逃します、小沢だけ叩きます」ですね、国策捜査である。

じゃあ例えば皆さんがdaisukiな坂本竜馬の話で例えてみよう。

皆さんは小沢が犯罪を犯したと言う。だから裁けという。なるほど。では坂本竜馬は犯罪を犯して死罪とされたのだから、殺していいのですね?

彼が犯罪を犯したのは土佐藩に対してである。つまり土佐藩領民が土佐の法律を破ったから死刑宣告をされたわけだ。じゃこれは合法ですね。では坂本竜馬が薩長同盟をやる前に殺してよかったのですな?

こういう事を言うとすぐ「いや、そりゃ極端だ」とか「あれは土佐藩の方がおかしい」とか岡目八目で偉そうな理屈を並べるやからがいる。しかし理屈で言えば法律違反は同じなのだ。

だからここが問題であり、「法律がその立法の趣旨を無視して官僚の恣意で適用されるようになれば」、それこそ違法なのである。

現在の政治資金規正法も実はとっても変な法律であり、植草痴漢冤罪事件のように法律の適用において「権力側がどうにでも適用出来る」と言う問題点を抱えている現状は誰も問題視しようとしない。

「法律に違反してます、なら有罪です」なんて本気でやり始めたら、今の日本で普通に生活している人の100%が間違いなく有罪にされる現実をどこまで無視しているのだ?だいいち冤罪って方法は、犯罪を犯してなくても逮捕しますって話なんだから、元々から犯罪しているかどうかなんてどうでもいい、お上に逆らったかどうかがすべてなのである。

政治をやる以上、どうしてもカネがかかる。資金を透明にする為に法律を作ったと言いながらも、それがきちんと活動していないから今日の問題がある。

何故なら有権者が自分の票を「売る」からだ。

その時点ですでに民主主義は崩壊しており、崩壊させたのは実は民衆であり、今えらそうな事を偉そうな顔をしてしゃべっている一人一人の有権者なのだ。

民主主義とか綺麗な政治と言うなら、まずあなたたちに聞きたい。

あなたが働いている建設会社が公共事業を取るために一度でも政治家に賄賂を渡しませんでしたか?会社命令で選挙に一度でも協力しませんでしたか?

あなたが働くIT企業で政府の発注を貰う為に、一度でも政府役人に接触しませんでしたか?そこで天下りを一人でも受け入れませんでしたか?

自分のお店を役所に使ってもらうために役所の「預かり金」をプールしてませんでしたか?

自分の子供の交通違反をもみ消してもらう為に政治家の秘書を使ってませんか?

自分のポケットに金が入るときは「こほん・・」と黙っておいて、他人の財布に金が入るとなると「民衆の敵!」みたいに騒ぎまくる。

だいいち、考えても見てほしい。日本のトップに立てるような人間が本当に自分の金が欲しければ、民間企業で社長やるよ。

武富士の創業者はいくら稼いだ?
ソニーの創業者はどれだけの資産を残した?

まさに襟を正すべきは賄賂と付け届けと盆暮れの現物支給を行っている古い日本の「村社会体質」をひきずっている村民のほうではないか。

ダム問題などまさにその典型である。

役にも立たないダムを「建設中止」としたら、途端に地元で「それはおかしい!」とやり始める。おいおい、最初にダム反対派を結成したのは誰だ?

要するに「民衆」がその程度だから政治も「その程度」で行うしかない。高潔な政治などやっても選挙で勝てない現実が日本にあるのだ。

ところが官僚はそこにつけこんで誰でもいつでも逮捕出来る様に法律の罠を作っておく。そしてその罠は、必要な時に必要な人間にだけ適用する。

こんな無茶苦茶な世の中じゃ駄目だから、けど古い自民党では手直し出来ないからって、民衆は今回「民主党」を選んだのではなかったか?

それなのにマスコミと官僚に振り回されて小沢叩きに走る自分たちの浅はかさはどう考えているのだろう?

何度も書くが、問題は今の日本をどの方向に持っていくかである。

今、21世紀の最初の10年を迎えて米国が崩壊しようとしている。世界が三極化しようとしている。その時の日本の位置付けがどうなるかと言うときに内輪喧嘩をしているヒマはないのだ。

これで日本が出遅れて中国や米国に権益を取られて21世紀の日本が沈んでしまえば、それこそこれは、今この時代に生きている全ての日本人の責任である。マスコミ記事に浮かれている連中全ての責任である。

今ちょうどユーゴスラヴィアの歴史を読んでいる。バルカン半島の火薬庫と言われるくらい紛争の勃発している地域である。

けど、あれも突き詰めていけば個人が自分の利益ばかり社会に要求して、払う段階になると嫌だ嫌だとごねた結果、周囲の大国であるオスマン帝国やハプスブルグ帝国にやりたい放題にされて現在のような状態になっているのだ。

小沢を叩きたいならそれでよい。しかしその結果として官僚組織が生き残って米国の操り人形になってしまったらこれはもう未来の若者に「お前らが国を駄目にしたんだ!」と責任を問われても「知りませんでした・・・」では通らないぞ。

みんなの党でも良い。松下政経塾を卒業したような高潔で志の高い人々が集合すれば、今のような金権政治も村組織も破壊してくれるだろう。

もしくはすぐに河野政権でも良い、古い連中が全部出て行けば自民党も変わるかもしれない。

けど、誰にやらせるか、それこそが選挙で選択されるべきであり、現在のようにマスコミやALL霞ヶ関の恣意で好き勝手にやらせていいことではない。

誰にやらせるか、まさにこれこそが選挙であり民主主義なのだ。今変わるべきは政府ではなく国民なのである。


tom_eastwind at 13:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年02月01日

みんなの党

みんなの党

連休最終日のオークランドは、今日も薄曇、軽い雨、日差しと交互にやってくる天気。

三連休とは言いながら月曜日の今日はオークランド地域限定のAuckland Anniversaryと言う「休日」なので、南島の人々は普通に出勤している。

その代わり南島では「カンタベリー地域」で2月に休日を採る。ならば同じ日にやればよいのにと日本人なら思うが、別に、いいじゃん、と言うのが一般的なキーウィの考え。あまり難しく杓子定規にしなくてもいいじゃん、てなことか。

でもって昨日はシーフードフェスティバルで結構遅くまで遊んでたので、今朝はひさびさに熟睡をしてたっぷりと夢想を楽しむ。

すると、おお、出てきた、水戸藩。

江戸末期の日本で最初に「新しい日本作り」を唱えたのは水戸藩であるという話が司馬遼の坂本竜馬にも出てくる。

けど結局水戸藩では内部での殺し合いになり優秀な人々が皆死んでしまった。これで明治維新の際に乗り遅れたと言われている。

これが何故か夢の中でぴたっと頭にはまった。小沢殺し、はと殺し、こうやっていくと民主党の上層部がやられるぞ、そんなんじゃ日本は誰が後を継ぐんだ?水戸藩みたいに能力のある政治家が全滅して日本が滅びるぞって思いながらベッドに入ったのだ。

とその時、脱藩志士が見えてきた。イメージとしては自分の出身母体を捨てて日本全体を俯瞰出来る立場の人々である。

そこで具体的な名前が出てきたのが、渡辺喜美(わたなべよしみ)である。自民党の世襲議員でありながら自民党を「脱藩」して出てきた人物である。

世間がそんなに小沢が嫌いならそれでも良い。渡辺が「日本のために」自民党と民主党を割って、第三の新党を立ち上げれば良い。

自民党左翼(老人支配嫌い)と民主党右翼(労働組合嫌いが)みんなの党に合流して、一気に参院選で勝利して衆議院でも一気に政党を鞍替えさせてみんなの党で合併させてしまえば良い。

そうすれば世間(マスコミ、官僚、米国の一部)の嫌いな小沢を潰せるよ。

けど、その「みんなの党」でも官僚支配からの脱却を訴えている。

政治的には綺麗なメンバーが集まっているし、小沢ではないんだから、これでもうマスコミも官僚も米国一部も文句はないよな。

正しい日本の為に国作りをしようとする人に反対はないよね。

今度こそは潰さないよね。これで渡辺が出てきてそれで官僚+マスコミ連合にまたも釣られて踊らされて渡辺さえも潰すような世論になれば、それこそ日本が水戸藩になる日である。

小沢がきれいだって思ってる人は世間でも少数だろうし、それには僕も同意するが、世間を動かす際には毒も薬になる。その薬の効能が切れかけているってんなら、幕府が小沢を清河八郎みたいに殺したいってんなら、そりゃもうし方ない。

小沢さんだってその程度の腹は括っているだろう。何せ今の時代、本当に刀で切り殺される事はないんだから、小沢さんもよくやったって事で後見人くらいには残れるだろう。

だから、本当に日本に政治家がいなくなって日本が滅びるようになる前に、優秀な政治家が残っているうちに、早いとこ日本を一枚岩にすべきなのだ。そうしなければ前面の虎と後門の狼に囲まれているこの国は、ますます追い込まれていくばかりだ。

格差社会なんて言われてるが、お隣の中国や海の向うの米国を見てみれば今の日本がどれだけ恵まれているか。そしてその超大国に完全に食われてしまった国家がどうなるかを考えて欲しい。

小沢でも良い、渡辺でも良い、とにかく全員が真剣に、自分だけの利益ではなく国益を考えるべきときである。

夏の夜の夢は面白い。いろんな可能性を見せ付けてくれる。

ただ、殆どの人には申し訳ないが、僕自身の最終的政治形態は地球政府日本県である。

基本的な人権(教育、医療)や警察権(治安)は地球政府にまとめながら、それぞれの地域が移動自由とされて自分が住みたい地域に住む、と言う発想だ。その代わりにその地域の独自性を尊重する人々は、その地域で全体の同意と違う事を主張することは出来ない。

この行き着くところは二つで、一つは肌の色による地域社会、二つは宗教=価値観による地域社会である。実際には更に細分化された、どの肌の色かどんな宗教かによって決まるだろう。白人だけどモスリムとか黒人だけど仏教とか。

50年後か100年後か分からないが、もしそんな世界が出来たならそこには日本人が現在考えているような社会ではなくなるのも事実だ。

日本の地域性を理解して住みたいと言う白人、黒人、モスリム、中国人が来るだろう。同時に日本が嫌いだと言う日本人は海外に出て行くだろう。結果的に人種交流が広がるだろう。

ちょっと乱暴に書いたけど、ぼく自身が国際結婚をして子供に3つの国籍があるという現実から50年後を予想すると、人間が太陽を求めるように自然にその方向に世界が動いていくと思う。

そのうち、50年後の未来の夢を見てみようっと。


tom_eastwind at 18:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌