2011年04月

2011年04月30日

オークランドプラン


昨日書いた政府と国民の立ち位置について分かりやすい例「オークランドプラン」があったので書いておく。

 

オークランドはつい最近グレーターオークランドとして単一の市になり今後30年の長期都市計画の原案を発表した。

 

概略はウェブサイトに掲載されており分かりやすいようにアニメ動画になっているので興味のある方は見てほしい。

 

www.theaucklandplan.govt.nz

 

2050年には260万人が住むと予測されるこの街は実際に住んでみると分かるが、人々の顔が明るくて前向きで元気である。

 

現時点でオークランドの人口は約140万人だから、これから毎年生まれる子供や海外から移住してくる人々やニュージーランド国内からの移住者が増加するという事だ。

 

今でもオークランドの住宅は高い高いと言われているが、オークランドと言う地形は南北に細長く東側は南太平洋、西側はタスマン海に挟まれており物理的に東西に広げることは不可能だ。自然第一であるから埋め立てて土地を広げるなんて発想もない。

 

そうなると南北に延びていくしかないのだが、増えてくる人口の中には多産のパシフィックアイランダーも含まれておりオークランド南部のマヌカウシティ付近に集中する低所得者地帯に住みたいと思う人は少ない。

 

だもんで中流層以上向けの住宅開発はどうしてもは北に北にとなるのだが、1959年に建設されたハーバーブリッジはすでに老朽化しており拡幅は難しい。なので現在はトンネルを掘るかもう一本新しい橋を架けるかと言う議論になっている。

 

さらに問題なのはハーバーブリッジを渡った国道1号線はすでに車線を拡幅したのだがこれでも朝晩のラッシュ時には車通勤1時間、ほんとに痛勤となる。運転している最中にトイレ行きたくなったらどうするのだろう?

 

これは現在はPark & Ride、つまりノースショア地域の一号線沿いに作られたバスターミナルまでは自分の車で来て無料駐車場に停めてそこからはバスに乗るという方法である。

 

ただこれはバスの本数がもともと少ないし時間通りに来ないし道は平気で間違えるし夏は乗降ドアを開けたまま走ったりするし一般車を平気で押しのけてしょっちゅう事故を起こしている社会主義的発想のバス会社とその運転手の為にまだあまり普及していない。

 

(バス会社に限らずだがオークランドは時々恐ろしくなるくらい社会主義時代の生き残り労働者がいて、顧客よりも労働者が偉いと思っている節がある)

 

このように人口増加を予測しながらその対応に様々なプランを用意している。このプランをオークランド市民にインターネットで公開して、一定期間後に公聴会、修正を経て来年3月には決定される予定だ。

 

つまりこれは官僚が人口動態予測の専門家が2050年のオークランドがどうなっているかを予測して様々なプランを政治家に提案するという事だ。そして政治家はそれをわかりやすくまとめてインターネットで市民に発表する。

 

市民はそのページを読んで自分たちの意見を述べる機会を得る。その後公聴会が開かれて最終案が決定される。全員がハッピーなんて結論が出ないのは誰でもわかっている。そのあたりをどうみんなに納得してもらうかが現市長レン・ブラウンの腕である。

 

ここで知ってもらいたいのは、政治家は役所に対して基本的に人事権を持たないって事だ。役所は官僚組織として独立している。だから彼らを「首にするぞ!」と脅かすことが出来ない。つまり日本のように政治家が官僚と対決出来ない仕組みなのだ。

 

そして役所は各部署の長や高級官僚は一般公募で世界中から選ぶ。つまり今の日本で盛んに話題になる官民交流が今オークランドではすでに普通に実行されているのだ。

 

昨日まで民間人だった建設のプロが今日から市役所建設局の局長になるようなものだ。彼らの給料は非常に高く、大体15万ドル程度からもっと↑だ。最初から高い給料であるから日本のように最初は安月給でこき使われ、長く働いたらいつの間にか昇給して役にも立たないのに高い給料だけもらって最後は天下りってのとは随分違う。

 

そんな民間企業から来たら業者選定で自分の好きな会社を随意で選ぶんじゃないの?って普通の日本人なら思うだろうが、そこは政治のクリーンさが常に世界のベスト3に入る国だ、賄賂なんて非常に考えにくい。

 

工事はすべて入札でありデータはすべて公開されるから変な事したら一発で告発されてせっかくの仕事を棒に振ることになり周囲からも「あ、あいつだ〜」となるので住み辛くなるのは確実。そんなしょうもない賄賂で職を失いメンツを失いなんて出来るわけがない。つまりシステム上賄賂を貰いにくいのだ。このあたり、日本の役所と全く違う。

 

そして数年働いたら高級官僚でもその時の気分でまた民間企業に戻ったり全然違う仕事を見つけたりして職場を去っていく、だから日本のような天下りはあり得ない。

 

国民は政治に参加することが義務であることをよく理解しており彼らに選ばれた政治家が官僚に問題点を提起して、官僚はそれを公平な立場で解決策を示す。

 

官僚は政治家に解決策を示したらそれで完了(笑)。あとは政治家と市民の対話である。このように政治風土そのものが最初からクリーンになっているしシステム的に汚れないようになっているから汚職の問題も起こりにくい。

 

何よりも大事なのは市民が常に政治を監視しており市民が社会の中心であり市民の権利を守るために政治に参加するという発想があることだ。

 

日本に住む日本人が持つ政治参加意識は結局社会全体に反映される。昔の日本は経済一流政治三流と呼ばれていた。今は経済二流政治三流である。

 

ある意味国民が政府に向かって文句を言うのも天に向かってつばを吐きかけているようなものだ。吐いたつばは自分の頭に降りかかってくるのだ。

 



tom_eastwind at 11:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月29日

ニュージーランド経済リポート


当社では地元で発行される各種新聞、雑誌、テレビ発表、経済コラムなどをまとめて毎月一回定期的にニュージーランド現地経済情報として提供している。その中の一つに現地市場調査会社の発表があった。

 

***

NZ地震復興の臨時課税案、国民の4割支持

市場調査会社UMRによると、NZの緑の党が提案しているクライストチャーチの地震復興を目的とした臨時課税案が国民の40%の支持を集めている。

 

UMRが行った電話調査では、回答者の40%が臨時課税または歳出の大幅削減を支持。22%が臨時国債の発行、29%が歳出の削減をそれぞれ支持しているという。臨時課税案の支持率は、被災地のクライストチャーチが最も高く49%、オークランドが最も低く34%だった。

 

緑の党は、個人所得税を年収が48,000NZドル(約310万円)以上の場合は1.5%、7万NZドル以上の場合は3%、それぞれ増税する案を提示。ノーマン副党首は調査結果について、臨時課税案に「強い支持が得られた」と主張している。

 

同党は、臨時課税で年間10億NZドルの復興資金が調達できると主張。35年間の期間限定で実施することを提案している。

 

だが、NZのキー首相は、クライストチャーチ復興のための臨時課税について、経済成長を鈍化させるとして反対しており、代わりに歳出を削減する考えを示している。

****

 

日本では経済ブロガーの間では「最初にまずは公務員減給20%だろ!でもって公務員数20%削減だろ!それやってから増税だろ!なんでこんな大事なことをテレビでは言わないんだ!」と怒ってる記事が目立つようになった。

 

ところが政府と官僚とメディアのトライアングルは絶対に役人人件費給与削減案などのニュースを流そうとしないし討論会を組むわけでもない。

 

民主党の公約である霞が関改革にしても全く逆の動きでむしろ官僚と労働組合の言いなりに動かされて大事な国民視点が全く抜け落ちている。そして今回の原発処理費用も大震災費用にこっそり隠しこんで国民に負担させようとしている。役人は東電を天下り先として裏資金の出し手としてすべての利益を自分たちが得るが東電が損失を出した場合には自分たちが負担するのではなく国民に払わせる。

 

要するに「ここに一枚の1ドルコインがある。表が出ればこの1ドルは俺がもらう。裏が出ればお前は1ドル払え」である。やればやるほど儲かるぼったくりビジネスである。

 

同じ被災国でもニュージーランドでは半分近くの国民が「増税になってもよし」とか「歳出削減もよし」、「国債発行もあり」と支持している。そして逆に政府の方が「おいおい、増税なんてしたら経済が停滞するぞよ」と言ってる。

 

この違いは何か?それはまさに政治の違いである。ニュージーランドでは政治がクリーンである。いわゆる二世政治家もいなければ政治で飯を食う政治屋もいない。地盤も看板もカバンも存在しない。

 

基本的にニュージーランドの政治家は素人である。オークランド南部で弁護士やってた人が首相になって経済改革やったりウェリントン北部で牛飼いしてた人が首相になって労働組合改革を断行したりメリルリンチで上級副社長を務めていた人が金融危機の際に首相として旗をふる、そんな国である。

 

政治家は自分の信じることを国民に訴えてコミットメントを提出する。選挙民はそれを見てだれに投票するか判断する。政治家が素人か若いかなんて関係ない、実務はプロである官僚が行うのだから。

 

政治家は定期的なアンケートや集会など様々な機会を作って国民の意見を広く集めてこれを集約して官僚に投げる。すると官僚はそれを具体的に実現する方法、プランA,プランB、プランCなどと作って政治家に投げ返す。

 

もちろんそれぞれのプランにはメリットとデメリットがある。例えば橋を作るのであれば「まっすぐ作れば半年で1千万ドルで作れるけど環境破壊の影響がこれこれ出てくる。遠回りに作れば一年かかるし予算も2千万ドルかかる」と言った具合だ。

 

すると政治家はこのプランを国民の前に分かりやすく提示して「みなさん、どれが良いと思いますか?自分たちの世代の利益だけでなく将来の子供たちの利益も考えて判断してください。皆さんの意見をお待ちしています」となる。

 

国民からは「そんな橋は不要」から「国家予算で払うのはおかしい、利益が享受出来るのはその地域の人に限定されているのだからその地域の予算でやって欲しい」とか「2千万ドルかかっても環境を大事にしよう、その為の増税ならOKだし国債を発行すれば買いましょう」まで様々だ。

 

そのような意見を集約して国民を説得しながら最終的に一つの案にまとめていくのが政治家の力量である。大事なのは国民との話し合いや国会での議論であり根回しや貸し借りではない。

 

政治が国民の方を向いている。だからこそ国民も政府を信頼出来る。その結果として国民にとって良い政治が実行される。

 

ところが面白い事に、キーウィに「ニュージーランドの政治は良いよね」と言うと、「何だ、こんな国のどこがいいもんか、あれがどうこう、これがどうこう」とぶつくさ言いだす。

 

要するにほかの国の政治を知らないから、自分がどれだけ恵まれた民主主義と公平な資本主義の上で生活出来てるかを理解出来ないのだ。だったら日本に住んでみろ、発狂するぞって言いたいが(笑)。

 

まあいずれにしても同じ地震と対策を見比べても国家が違えばこう違うというのがよく分かるニュースだった。

 

さてみなさん、ここに一枚の1ドルコインがあります。表が出ればこの1ドルは私がもらいます。裏が出ればあなたが1ドル払ってください。どうですか、このゲーム、やりますか?



tom_eastwind at 15:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月28日

自分を説明するということ

「一流の技術が二流の広報活動で格下げされ三流の政治に足をすくわれる」

 

今の日本、て言うかいつの時代も同じだが日本を象徴的に表す言葉だろう。世界で最も進んだ携帯電話技術を持っているのに他国に対する広報がきちんと活動せずに携帯電話の標準と言う技術とは関係ない、しかし一番大事な基盤となる部分を他人に説明して理解させるという作業を怠った為に一番大事な世界標準になるという部分を他国に持っていかれてガラパゴスになった。

 

Iphoneにしても一つ一つの技術は日本の技術者からすれば「枯れた技術」であったのにアップルはその枯れた技術に「広報」と言う技で見事に大ヒットさせた。なぜ日本が乗り遅れたかと言えば大声を出すだけのバカな山猿連中や何でもかんでもケンリケンリ!と主張して自分だけの既得権を守ろうとする無意味な「著作権無解放運動者」が邪魔をして政治的に「じゃあまあやめておきましょか」と無難に先送りした結果として他国に一番美味しいところを奪い取られてしまった。

 

原発もその意味で言えば同じである。世界に誇る技術力を持ちながら原発事故の際は国内向けには政府の情報管理の不徹底と読み違えを繰り返す対応だった。

 

特に問題なのが海外向けには外人記者に対する情報発信が全くと言ってよいほど対応されなかった為に多くの外国人記者は自分なりに日本語の新聞を読みながら自分なりに判断していった。その結果として「いったい日本政府は何をやっているんだ?嘘ばかりじゃないか!この原発、メルトダウンを起こしているじゃないか!」となって世界を駆け巡った。

 

その後は日本政府がどう説明しようと外国人記者は「いや、あなたの話は信用できません、本当の事を言ってください」と抗議し政府が更に説明しても「いや、だから信じれないのですよ」と言う疑問のループになってしまった。

 

その結果として海外からの旅行客は激減し日本からの農産物が売れなくなった。これなどまさに一流の技術で原発の爆発と言う最悪の事態は防ぎながら二流の広報で国の内外に疑問を持たせ三流の政治で原発事故処理が後手後手に回り「一体日本は何やってるんだ??」と世界の信頼を失った良い例である。

 

これが日本の特徴であると言えるし一番の弱みである。何より自分を表現することが下手であり「良いものを作ってればいい、それでわかってくれる」と言う文化の中で何百年も生活をしてきたからすっかりそのDNAが染み込んでいて、外国の文化では自己表現が出来ないと通用しないという現実を理解出来ない。

 

しかし、なぜこんな文化になったかと言えば、情報発信は政府がやるから国民は黙って田圃を耕してろ、良い者さえ作ればそれでよいのだと江戸時代から徹底的に叩き込まれたからである。

 

ところが肝心の政府が情報発信能力を失ってしまっている。これはなぜか?それは日本の学校教育が情報発信やコミュニケーションを無視した上からの押し付けになっているからだ。

 

「ここはこうなってるんだから黙って聞いてろ、テストの時にはこう書け。何?ちょっと違うんじゃないか?そんな事言ってるとテストで点が取れないぞ、志望大学に行けないぞ」となる。

 

子供なりに健全な疑問を持っても先生は間違った答=受験に受かるための答えを出すだけで、そんな教育を一方的に押し付けられて育った子供が、大人になったからと言って突然コミュニケーション能力が付くものではない。

 

先生のいう事を疑問を持たずに自分で考えずに勉強する子供が良い大学に行き公務員試験に合格して日本の中枢を担っているのだから、そりゃだめっしょ。

 

りょうまくんと話をしていて面白いのは、平気で Nothing is Safety (世の中に安全なんてものはない)とけろっと言いのけるしKiwiの子供たちとおしゃべりするときでも普通に自分の主張に数字的裏付けとかの根拠を持ってきて「ね、だからこうだろ」とやってる。つまり子供にきちんと世の中の真実を伝えて他人と話をする時に声が大きければよいものではない事を教えてくれる。

 

ニュージーランドは田舎な国ではあるが子供の勉強にはとても良い国である。米国のような銃の乱射される国ではなくシンガポールのような競争社会でもなく、ほどほどに子供たちの自立心を伸ばしてくれる。

 

お金を残しても子供がバカであれば何も考えずに全部失ってしまって結果的に不幸な生活を送ることになる。けれどそのお金で教育を身に付ければお金がなくてもお金を作れる。

 

同じ「持っているもの」でも、カネは盗まれることがあっても教育は盗まれることはない。今の日本を見ると戦後の日本人が一生懸命働いて作り上げた資産を、立派な大学を卒業した会話能力なしのバカな子供がどんどん無駄遣いしているようなものだ。



tom_eastwind at 16:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月27日

あの鐘を鳴らすのはあなた

ホリエモンが今日、鐘を鳴らした。

 

 

あるブログで「堀江は越えてはいけない一線を越えたから有罪」と言うコメントがあった。まさにその通り、ただその意味はブロガーの意味する点と僕の意味する点は違うと思う。

 

このブロガー(司法書士)の発想は「堀江は粉飾決算という越えてはいけない一線を越えた」と言う点であろうが、僕の発想は「堀江は検察と徹底抗戦をして更にそれを本やブログで世間に訴え検察の無謬性を否定するダブルパンチをくらわすという越えてはいけない一線を越えた」と言う点だ。

 

法理的な面はいろんな解釈がありそれは事件当時よりたくさんの書籍が出ているのでそちらに譲るが、当時の法律においてどの企業において誰も違法性の認識はなく同様の処理がされておりそれが税理士による決算書作成や会計士による監査を受けて認められていたという事実一つを取っても明白な違法認識性を問う事は出来ない。

 

そのような状況では精々が決算書の修正申告と追徴くらいだろう。ましてや実刑などあり得ない、真面目に起業して税理士や会計士の指導を受けながらビジネスをしてたらある日突然逮捕起訴?そんなので誰が起業しようと思うものか。

 

第一彼がやった事が粉飾決算でありそれが実刑に相当するならば彼の行った粉飾?の数百倍の粉飾をやった日興証券を先頭に何十社の上場企業社長が実刑にならねば法の下の平等とは言えないのは確実だ。

 

つまりその当時は合法であり多くの会社で行っていた会計処理を、後になってそれは違法であると決めつけ、次にホリエモンだけを実刑にして他の会社は罰金、不問などで終わらせたのはどう見ても法の下の平等に反するのである。

 

 

ホリエモンだけが問題になったのは彼がお上に逆らったからである。つまり今の日本ではお上は絶対であり逆らうこと自体が違法なのだ。けれど戦後の法律では検察や社会権力に対する「不敬罪」と言う項目がないので他の理由を付けて罰しているだけだ。

 

こういうのは世間一般では一罰百戒、もっと分かりやすく言えばみせしめと言う。

 

ホリエモン叩きは元々が既存の経済界から出た意見でありそれに政治家が絡み世間の評価を得たい検察までもが動き出してついには実刑判決が出てしまった。

 

元々ホリエモン逮捕のきっかけになった海外送金事件が実は合法で事件性がないと分かり、その時にホリエモンに当時の検察が「そこに直れ!悪うございましたと言え、そうすれば許してやる」と言ったのだろう。

 

それに対して江戸時代からのお上の無謬絶対主義に頭を下げなかったホリエモンは結局全然関係ない容疑で起訴されるに至ったのは様々な本で描かれている。

 

「この06年の事件が、その後の新興市場に与えた打撃は深刻だった。ベンチャー企業の育成を目指した市場からは個人投資家が離れ、取引高は大きく減少したままだ。大学生のときに起業し、「IT時代のヒーロー」ともてはやされた被告の責任は重い。起業を目指す若者たちの気概までも摘んでしまったのではないか。(信濃毎日新聞より」」

 

こういう記事が目立つが、若者の気概を摘んでしまったのはホリエモンではなく彼を逮捕して若者に対して「大人にたてつくな、逆らうとこうなるぞ!」と言う明瞭なメッセージを送った「大人たち」ではないか。

 

一体どういう風に解釈すれば物事をここまで反対に書けるのか、書いて恥ずかしくないのか、本当に不思議な記事である。彼が何も知らずにこの記事を書いたなら無知の罪で記者失格、分かってて嘘を書いたのなら人間失格。どっちにしても失格である。

 

起業家育成の芽を摘んだのはまさに検察と「大人たち」であり、日本社会で何かするなら俺たちのルールに従え、法律に従うなんて生意気な事、言ってるんじゃないよって明確なメッセージだから、メッセージを受け取ったやる気のある人間は結局公務員や大企業を目指して長いものに巻かれる道に進む。すると今度は大人たちが「最近の若者は覇気がない」と言う。いい加減にしろ、彼らはお前らくそじじいのおもちゃじゃないんだ。

 

ついでに書いておくと最高裁の上告棄却と言うのを勘違いする人が多いが、これは最高裁がホリエモンの起訴事実を「審理した結果お前が悪い」と言ったのではないって事だ。

 

最高裁が決定した事は「事実の誤認や量刑不当などでは上告理由に当たらない」であり上告自体を受け付けないと言ってるのだ。内容を審理した結果でダメと言ってるのでないってのをしっかり理解して欲しい。

 

世の中にはいつまで経っても裁判所が正義を行う場所だと思っている人も多いが、あれは政府が自分の気に入らない誰かを叩くために「合法」と言うマントを与えるだけのものだ。だから裁判になれば事実が証明されるなんて思わないでほしい。裁判になれば法律を知って策略を駆使した方が勝つだけの駆け引きなのである。

 

「事件後も堀江被告は、インターネット上や著書で大きな発言力を持ち、検察批判を続けてきた。その背景の一面には、強引な地検特捜部の捜査に対する国民の不信がある。検察自身にも十分反省してもらいたい。:2011年4月27日付け信濃毎日新聞より」

 

最後に書いておくと上記のマスコミの記事のバカぶりもここに至りである。発行部数を守るために時の寵児を作り上げ褒めあげ英雄として記事にして新聞を読者に売りまくるが、時の寵児が峠を越した瞬間に民衆の敵であるかのようにぼこぼこに叩きまくる。

 

そして最後は「検察だって反省しろい」だって?元々はお前らマスコミが作り上げた虚像ではないか、反省すべきはマスコミである。

 

時の神はある意味平等だなって思う。ホリエモンを潰したテレビや新聞などのマスコミは結果的にネット時代に自分を変化させることが出来ずに自滅し始めている。テレビは広告収入の激減、新聞は発行部数の激減でどちらも破滅に向かって一直線に進んでいる。

 

経済界では米国のような若い起業家が現れず古い企業は世界の流れについていけずビジネスモデルのコアの一番美味しい部分を米国に持っていかれて、それこそIphoneIpadなど日本の技術者から見れば「枯れた技術の組み合わせ」を組み合わせなおして全く新しいものに見せて日本の消費者が飛びつくという現象が起こっている。

 

ぼくは検察に対してブログや本で徹底抗戦するホリエモンを見ながら、最高裁判決でホリエモンが勝つとすれば判決が出る時点で日本社会に検察批判や官僚不信が盛り上がっている時だと思っていた。世間を味方に付けねば勝たない。

 

検察批判は元検事のデータ改ざん事件があり流れは良かった。しかし官僚に対しては政治が完ぺきに負けており、これは勝ち目が薄くなったなと思ってた。そこに東北大震災が起こり世間の目は完ぺきにホリエモン事件から離れてしまい勝ち目はなくなった。

 

時の寵児が今日、時の弔辞の鐘を鳴らした。「皆さん、もう自由とか権利とか自分勝手な事を言うのは止めて一番頭の良い人は官公庁、次に頭の良い人は大企業、普通の人は一般社会に入って、今までと同じ階級社会で何も考えずに毎日黙々と働いてください、そうでないとお前を塀の中に放り込むぞ」

 



tom_eastwind at 18:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月26日

ガラスの地球を救え


ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ (知恵の森文庫)
クチコミを見る
手塚治虫が晩年に書き残した「ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ」と言う本がある。20年も前に発刊されたが手塚文学を現代生活の警鐘として打ち鳴らし未来がどのように変化していくか、そしてそれがどのように人々の生活に影響を与えていくかを描いている。


手塚治虫の事を考える。科学、医学、神学、仏教と様々な面で彼がこの世に問うてきたテーマの幅広さと深さに改めて唖然とする。こういう幅広い学問を彼はおそらく最初の頃からどれも見極めていたのではないかと思えるくらいだ。



時間をかけて知識を身に付けて成長してきたというよりも、最初からそこにあるものをかみ砕いて小出しにして、その時代に合わせて子供たちに分かりやすいように手を変え品を変え「マンガ」として提供してきた。



アトムの科学として日本の子供たちに空を飛ぶ夢を見せた。ブラックジャックでは医学を通じて人間の身体とは何かを教えてきた。ブッダではもちろん仏教思想、そしてその集大成でありおそらく日本で作られたマンガとしては最高峰に位置するであろう「火の鳥」で輪廻転生、人間とは何か地球とは何かを訴えてきた。



昨日の夜ベッドの中でごろごろしながらイースターを振り返り、たまたまだが医療関連の本を読みOMENを観て神々の指紋を読んで未来から来た人の話を読み、この三つが昨日の夜頭の中にすっと納まってしまった。


それはもしかしたら手塚治虫は未来から来た人ではないかと言うことだ。



100年先の世界から1950年代の日本にワープしてきた彼は、自分が知っている未来の怖さを経験してきており、原爆、戦争、飢餓、心の乱れ、など等はどれだけ訴えてもしょせんは「宗教」と思われて聞いてもらえないことは最初から分かっていた。



だから彼はそれを「マンガ」と言う形で子供たちに提供して子供たちの心の中に平和の大切さや科学の正しい発展の仕方を教えていこうとしたのではないか?



そして大人たちにはブッダや火の鳥を通じて、生きるとは何か人生とは何かを教えて、人類が協力していかない限り地球は滅びるぞと訴えて来たのではないか。


彼には強烈な危機感があった。地球が滅びる日は近い。その日までに何とか自分の考えを伝えていきたい、その為に寝食を削ってマンガを描き続けた。



つまり彼は未来から来た人間であり預言者であり彼の住んでいた世界は荒廃しており子供は食べるものもなく大人たちは殺し合い文明はすでに過去のものとして忘れ去られてしまった・・・。



日本は今地震、津波、原発と大きな被害を出して更に政治がマヒし役所までが身動きできない状態だ。しかし日本を取り残してでも世界は確実に毎日の営みを続けている、国益と言う名の下に。



ここでせっかくだから宇宙ステーションに乗っている自分を想像してほしい。ステーションの窓から地球と呼ばれる星を眺めている自分を思い浮かべてみてほしい。


宇宙から見る地球に国境なんて存在しない。坂本龍馬の時代は藩が国家であり藩同士が争いをしていた。



ところが藩が県になり中央集権が敷かれると廃藩置県となり、隣の県の奴は嫌いだと言ってもそれだけの理由で殺し合う事はなくなった。中央政府により各県ごとに分配制度が出来上がり不満を持つ者が武器ではなく言語で訴える先として裁判所を作った。



ならばここで今一歩進めるべきなのは「廃国置球」ではないだろうか。


今日もタイとカンボジアが国境線の争いで殺し合いをしている。インドネシアが調停に入ろうとしたがそれも不調、すべては国益と言う名前の下に人々の命が奪われているのだ。



日本と韓国がお互いに相手をどうのこうの言っても、戦後にそれが理由で殺し合いになった事はない。日中関係も同じであり日本は世界の中では比較的平和に隣国と付き合ってきているのだ。



ならば日本自ら国益と言う利己主義言葉を捨てて球益の下に活動をしてみればどうだろうか?日本なら出来ると思う。それほどに日本とは変わった国であり自分の利益より相手の利益を考えることが出来る「思いやりの国」なのだ。



今回の災害を期に、手塚治虫のように地球全体を考えてその中で日本がどうあるべきかを見極める、それを基盤にして日本復興計画を作ってみればどうだろうか?



「ばかやろお前、そんな事したら中国に乗っ取られるぞ!」とびびっている人たち、どうせ地球は一つなんだし人類は一つなんだから、彼らが日本に興味を持って乗り出してくるなら北東アジアの平和を守るために手を組めばよいではないか。それが最終的に地球全体の平和につながるんだ。



5年の短期では日本の不利になることがあっても10年の長期で見れば彼らのためにも我々のためにもなる、そういう方向性を検討すべきではないだろうか。その為には日本が持つ最新技術を提供すればよい。


心配しなくても彼らは「今ある技術を真似して安く作る技術」はあるけど、今ここにないものは彼らに作るセンスはない。これは日本人にしか出来ない事であり自信を持って交流していくべきだ。



国益と言う言葉が世界中で猛威をふるって結果的に多くの国民が殺された。ならば見方を変えて球益と言う言葉ですべての人々が殺し合いではなく話し合いをする、そういう方向に持っていけないだろうか。



手塚治虫が未来から来た人かどうか、もちろん本当の事は本人しかしらない。けれど彼が指摘した戦争の悲惨さ、科学を間違って使う事の怖さ、人が人を差別することの非道さこそがまさしく今の世界の不幸を作っている。


そしていつまで経ってもそういう事を止めようとしない人類に対する地球の反応が今回のクライストチャーチ及び東北の地震であったとすれば、残された時間は多くない。マヤの予言2012年12月22日が現実のものとなるかどうかは、もしかしたら我々自身の問題になっているのかもしれない。




現役のビジネスマンがこんなこと書くと「こいつ??」と思われるかもしれないが、現役ビジネスマンであるからこそ見えてくる違った視点からもあると思うし、ビジネスマンである以前に子供の親である。現役のビジネスマンが目先の残業の仕事ではなく自宅で寝ている子供の将来を真剣に考えることが大事ではないだろうか。 



tom_eastwind at 17:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月25日

5・15


朝、目が覚める寸前にふと足元に5.15と言う数字が出て来た。5月15日。何の意味か分からない。小沢さんが政局を仕掛ける日か?それともまた地震か?

 

イースターの4日間は家族と自宅でゆっくり過ごし最終日も本を読み家族で映画を観て過ごした。「神々の指紋」は大体のストーリーは記憶にあったがきっちりと本で読むのは初めてだ。2012年12月23日に地球が滅びるってのはマヤの予言であるが、彼らがぼくらの住んでいる世界の事を示しているのか隣の世界の話をしているのかは分からない。

 

タイムトラベラーとして有名になったジョン・タイター(JohnTitor)はパラレルワールドと言う概念をインターネットで説明している。世界は同時並行にいくつものよく似た世界が並んで進行しているという考え方だ。

 

2012年12月まで正しい生き方をしている人々が多ければ12月23日に滅びるのは隣の世界の話かもしれないし、もしくは正しい生き方をしている人々が少なければその人たちが何も起こらなかった隣の世界に本人が気づかないうちに瞬間移動するのかもしれない。

 

そして警告を受けたにも関わらずあいも変わらず反省をしない生活を送っている人々は結局マヤの予言のまま来年のクリスマスを待たずにあの世に行くことになるのかもしれない。

 

りょうまくんが「OMEN」を観たいと言うのでイースターの間に1から3まで“一気見”した。これまた怖い映画でありながらも、今までに何度も観ているので細部に目が行くようになっている。

 

オーメン3は1981年に撮影されており、コンピューターもインターネットも携帯電話もない時代の米国東部のエスタブリッシュメントの仕事場、木目の壁に囲まれて広々とした木製の机の上に3つほど違う電話を置いてる。

 

ロンドンも古き良き時代の香りを残しており古い箱型のカラーテレビではニュースで「生まれたばかりの子供が次々と死んでいる」と報道がある。この世に生まれてきたキリストの再来を殺すためにダミアンが次々と仕掛けていく場面だが、事故そのものよりも当時使われていたベビーカーや病院の様子の方が面白かったりする。

 

映画ではアンチキリストと言う言葉が頻繁に出てくるが、アンチキリストって考え方はキリストだけが正しくてそれ以外はアンチになるってのが基本にあるのだろうが、じゃあぼくもアンチになるが別にキリスト教そのものを否定しているわけではないのでアンチと言う考え方そのものを認めるのが嫌だな。

 

アンチと言えば原発でもクジラでもそうだが、狂信的な連中ってのは科学的発想は全くないまま自分の主張と違っていれば「アンチ」のレッテルを貼りつけて言論と暴力で抑え込もうとしている。

 

捕鯨反対の連中はグリーンピースなんて名前を付けていかにも正義面しているが実際はアメリカの会社から金を貰って活動しているだけの能無しである。それに釣られて本気で捕鯨反対をやってる日本人を見ると情けない限りである。

 

原発についても同じで「原発絶対反対!」と髪を振り乱して騒ぐような連中は原発で作られた電気で自宅の風呂を沸かして電気を付けっぱなしで外出して原発で作られた電気を使って動いている電車に乗り原発の電気を使った工場で作られたウォークマンを聴きながらデモ会場に向かうのだ。その会場で使われているPAシステムも照明もすべては東電から来ているのだが、そういう事は問題にしようとしない。

 

どうもぼくが原発反対派だと思われているようだがぼくの立場としては「安全性が確保出来れば原発もありだ」の条件付き推進派である。科学は進歩するべきだしそれが人類の平和利用に貢献するのならば「安全なエネルギー」を開発するのは当然である。

 

ただ現状では原発の安全性が確保できているとは到底言えず、ましてや六ヶ所村から今現在溢れ出している放射能はどう考えても安全とは言えない。さらにここで「最悪の事態」が起きたら北半球に与える影響はチェルノブイリなど子供の火遊び程度に見えてしまうほどだ。

http://galasoku.livedoor.biz/archives/2968258.html

 

だから現状では原発は安全性を確保する為に技術研究を続けるべきであるがそこに政治が入り込む余地はないと考えている。ところがすでに原発は政治マターずぶずぶになっている。

http://twitter.com/#!/konotarogomame/status/51676469671374848

 

結局2兆円の金が流れる六ヶ所村をやめるって事は他の原発事業を停止することにもつながり、原子力村の政治補助金漬けで生活をしている人々や原発を今さら止めて「お上の無謬性」を否定されることが嫌な経産省の問題である。つまり最悪の事態が来ない限り誰も何も変えようとはしないのだ。

 

その最悪が2012年12月22日なのかもっと早く来るのかは分からない。人々の気持ちが地球を変えることが出来るというシャーリーマクレーンの話ではないが、今回の原発事故は予兆でありここで国民が踏みとどまって考えていけば最悪の事態は来ないかもしれない。

 

僕は安全性が確保出来ない原発が必要なほど日本人が電気を垂れ流しているその現実に問題を感じている。その意味で問題なのは「原発」ではなく自分の頭で考えようとしない「思考停止に陥ってる一般国民」の方ではないかと思ってる。

 

ぼくは現実的な選択として原発のないニュージーランドに住んでいる。このオークランドでは年に数回停電するが蝋燭を引っ張り出して「今日はキャンプだね」と楽しめる心の余裕のある生活を生活を送っている。今日も夕方から嵐になって、りょうまくんが嬉しそうに「お父さん、今日はろうそくの晩になりそうだね、あはは」と楽しそうに笑ってた。

 

日本ではほんの数分の停電でも住民が気が狂ったように怒り出して「どうしてくれるんだよ、おれは急ぎの仕事があるんだよ!」と東電に文句を言う。その生活自体をもう少し変えることで、もう少しゆっくりと考える事で国民全体が電力の垂れ流しよりも原発の方向転換を訴えることが出来ると思うのだ。

 

ニュージーランドで大停電が起こって市の中心部が一か月近く電気なしの生活になった時、人々は普通の顔で車を運転して先を譲り合い、パソコンが使えない時は「おお、今日は早くビールが飲めるぜ!」とけろって笑ってた。

 

考えてみればニュージーランドの住民はそれなりに「足るを知る」生活を送っている、心の余裕があるのではないかと思ったりするイースター最終日だった。



tom_eastwind at 00:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月24日

ソニーの経営方針

★経営方針☆

 

不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ

 

経営規模トシテハ寧ロ小ナルヲ望ミ大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル


ソニーの大賀氏が4月23日に亡くなった。音楽家でありビジネスマンであり多方面にわたって活動し、自分の個人資産を軽井沢で音楽堂を作るために寄付しようとしたら「税金」で大揉めに揉めた人でもある。

 

ソニーが戦後の焼け野原から立ち上がって電機メーカーとして活躍を始めた時、彼らの社訓は上記のように「規模の拡大を追わない」と言ってた。さらに「経営規模としてはむしろ小さなサイズを好み大企業の出来ないビジネスに取り組みたい」とも書いている。

 

現在のソニーはその方向性からすればかなりずれているとしか言いようがない。増収増益、領域拡大、株主利益、もともとソニーが持っていた精神からすればかなり離れた場所にいると言わざるを得ない。

 

それもすべては株式市場と言うものを理解しないままに導入した日本的経営にあるのだろう。和を持って貴しとなる社会では株式売買が頻繁に行われる株式市場を作る事自体に馴染まないのだ。

 

短期的な利益を追う投資家を対象に株式市場で公開すれば四半期ごとの決算が求められる。四半期決算数字に一喜一憂しながらやるビジネスって、一体どんなビジネスだ?そんな事やってても長期的視点でのビジネス構築は出来ないだろうと思うのだが。

 

極力製品ノ選択ニ努メ技術上ノ困難ハ寧ロ之ヲ歓迎、量ノ多少ニ関セズ最モ社会的ニ利用度ノ高イ高級技術製品ヲ対象トス、又単ニ電気、機械等ノ形式的分類ハサケ、其ノ両者ヲ統合セルガ如キ他社ノ追随ヲ絶対許サザル境地ニ独自ナル製品化ヲ行フ。

 

要するに社会的に役立つ高級製品を大量生産などは考えずに作り既存技術の組み合わせで製品の独自化を行うと書いている。製品の独自化と社会的に役立つ技術は同時に企業にとっても利益になる。どんな素晴らしい技術を持っていても売り方を間違えれば企業として成り立たない。

 

戦後の日本はソニー、ホンダ、トヨタなどで多くの優秀な経営者を輩出したが、彼らはいずれも戦争体験者であり技術者であり米国の強さを理解しており、要するに現場視点で理詰めでものを考えることが出来る人々であった。出来ることは出来る、出来ない事は出来ないのだ。そんな簡単な理屈が分からずに日本国民に無理を押し付けるのが現場を知らない素人官僚である。

 

今回の原発事故でも結局は素人が政治のトップに座り現場の玄人の意見を無視して自己保身と出世の為に進めた結果として起こった「事件」である。

 

その素人は子供の頃から勉強ばかりで社会の実生活を理解せずに、学校卒業後も閉鎖された一部勘違い連中の中で出世して常に上司の目を伺う事の上手な連中だけが生き残ったゾンビーのような官僚社会で民をバカにして自分たちだけがこの国の支配者であるという顔をした。

 

昔の話だが町内会で順番で町内の掃除をすると決まった。その時に回覧板を持って隣の家に行った奥さんが「ねえねえ、来週は私たちが当番ですよ」と言うと隣の家の奥さんちょっと困ったような顔をして「あの・・・宅は東大なんですけど・・・」と答えた。

 

それくらい一般社会から隔離されてずれている連中が口を出すビジネスに限って次々と失敗していったのは有名な話である。半導体ビジネスなど惨澹たるものである。

 

大賀氏はオランダのフィリップスと組んでCDを開発する際に、彼らが主張する60分のCD規格に対してベートーベンなどクラシックが75分程度であるからとして75分規格を主張して押し通した。

 

洋楽クラシックの本家であるフィリップスに対して東洋の島国の会社が洋楽クラシックのベートーベンを持ち出して文化規格を通したわけだ。立派なものである。

 

このような優秀な人々が次々と鬼籍に入る中、次に続く人々はどれほどの気概を持って堂々と戦っていけるだろうか?日本社会はますます法律に縛られ「権限あれど義務はなし」の官僚が好き勝手にやりまくっている。

 

教養とか知識とか文化とか、そういう目には見えないけれど人生を生きる上でとっても楽しくなるスパイスを持った人、時間をかけてでもそんな人になりたいものだ。



tom_eastwind at 17:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月23日

目くそ、はなくそを褒める


これは原発とは全然関係ない話であるが、先週当社を訪問頂いたお客様、モノづくりの日本で非常に付加価値の高い商品を作り出して成功された方である。同時に非常に短気でもある(笑)。

 

彼が先週非常に怒った声で「おい!この街の日本人ってのはどうなってんだ!」と言い出した。聞いてみるとなるほど納得、しかし怒ってもどうしようもないでしょって内容だった。

 

1990年代にニュージーランドに移住してきた人は日本でのビジネス経験のない人が多く、日本人と言う立場を利用して見よう見まねで何かのビジネスをやるのだが、彼らはビジネスに哲学が必要だという事を理解していない、つまり彼らはあまりビジネス哲学を学んでいない。

 

海外に出て日本食レストランをやったりビジネスをやったりするのだが成功すればするほど「俺はすごいだろ!」と威張りたくなる。周囲の連中も「しゃっちょ!すごいっすね!海外で単独起業なんてかっこいいっすね!」とほめそやす。

 

結果として日本のビジネスからしたら「めくそ」にしかならないビジネスモデルとサイズをひけからして自分を褒めて認めてもらいたいものだからすぐに「xx会」などを作ってつるんで喜んでる。

 

「自分を褒めてもらいたい」とか「認めてもらいたい」なんてのは日本だと中学生が悩む「僕は何故生まれたんだろう?」とか「社会に僕の居場所がない」程度の問題である、

 

本来はビジネス社会生活を通じて「企業は社会貢献するものであり貢献の方向性でのみビジネスモデルを構築すべきだ」という哲学を学んでいるものだ。

 

ところがそういう部分の哲学が抜けたまま外国に出て西洋式のビジネスの外側だけを見てビジネスとは単純に金儲けをする手段であるとしか考えられない。

 

西洋式ビジネスの場合はビジネスを通じて得た利益を社会に還元するという習慣が根付いている、例えばビルゲーツのような財団を作ったりするのだが、寄付と言う部分だけこの「しゃっちょさん」の頭の中では欠落して日本式になっていて社会に貢献するという発想が出てこない。つまり日本と西洋の自分に都合の良いところだけを取り上げているのだ。

 

そして親睦団体などとかで「日本と当国の〜」なんてそれらしい事をやっているのだが、その内容の殆どはめくそがはなくそに向かって「はなくそさん、あなたの形は何てきれいなんでしょ、うらやましいわ」とやり、褒められたはなくそが「そんな事ないですよはなくそさん、あなたのめくそはとても輝いていますよ」とお互いに褒め合い、相手の汚い面は黙っているだけの仲良し会に過ぎない。

 

このような仲良し会は海外進出企業が現地でxx会を作り更に駐在員の多い日本人社会ではオクサマまでがxx会などを作り旦那の地位に応じてオクサマ会での位置が決まったりして、彼らの中で疑似企業化するのもよく似た構造である。

 

シンガポールに出張した時にセントレジスホテルで打ち合わせをしていたらその現物を見かけたのだが、昼下がりの高級レストランで3名の日本人駐在妻がべちゃくちゃべちゃくちゃとしゃべっている。

 

その内容は「おくさま〜、英語がとっても素晴らしいですわね〜どちらで学びましたの〜」とめくそがはなくそを褒めて、「シンガポールでは誰もかれも仕事が遅くて困ってしまいますわ、昨日も頼んでおいた商品がまだ届かなくて〜」と目くそが文句を言うと鼻くそが「そうですわよね〜、オクサマも駐在生活は大変ですわね〜」と言う。

 

しかし心の中では「うちの旦那たちはエリートコースで選ばれて駐在に来ているのよ、だからわたしたちもこの街に住むってのはエライのよ、ねえオクサマ」と思っていて、大事なのはそのメッセージをいかに確実に相手に伝えるかである。

 

海外において日本人が現地で日本人社会を作ろうとする行為は戦前から海外集団移民としてブラジル等では互助会として成立していたが、現在では殆どの場合が傷のなめ合い会か褒め合い会になっている。

 

冒頭で「現地の日本人はどうなってるんだ!」と怒ってた人もまさにこの点を突いている。企業の存在価値は社会貢献であるのを理解出来ないとか、褒め合い傷のなめ合いはお互いに弱くなってだらしなくなって人間をダメにするのが理解出来ないとかである。

 

日本社会で頑張って働いている人からすれば「なぜこんな簡単な事が分からないんだ!」となるが、現実はそういうものなのである。傷のなめ合いをする人たちと付き合っても得るものはない。それよりは自分の目で相手を見て同じ価値観を持っているかどうかを見極めてから個人的に付き合っていくべきだろう。



tom_eastwind at 17:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月22日

danKogaiのブログより

★抜粋開始
(宋文洲氏の「逃げるが勝ち」より引用)

「でも、つらい人生なんてありません。つらい状態がつづくようなら、つらい現実を変えるか、つらいと思う自分を変えるか、逃げ出すかやめるか。解決策はその三つです。」

 

宋さんにとって度し難いのは、「つらいに耐える自分はえらい」という自己陶酔。そしてそれを他人に評価してもらおうという傲慢。そう。実はそういうつらさへの対処というのは、意外と近所迷惑なのだ。

 

自分がつらいだけでももったいないのに、これではまわりまでつらくなってしまう。それなら、つらさから逃げる方がよっぽどいい。少なくとも本人は幸せになる、というわけだ。

 

しかし、それがつらいか、そしてつらいとしたらどれくらいつらいかは、味わってみないとわからない。宋さんが逃げるのは、あくまで体験してから。その点が「働いたら負けだと思っている」人々と決定的に違う。

★抜粋終了

 

最後の文の「働いたら負けだと思っている人々」と言う言葉がすごいな。dankogaiの言葉使いには時々感心する。事象を全部見極めて一言でまとめてしまう。だから敵も作りやすいのだろうが、きちんと理解すればその言葉の深さには驚かされるばかりだ。

 

もちろん意見の合わない部分も多いが、非常に参考になるブログの一つだ。

 

今回の大震災後の対応で東京在住の外国人が一時期海外に避難し、今も家族は香港やシンガポールに残したまま東京に戻ってきて仕事を再開し始めたとの記事。

 

「皆が震災後の片づけをしているときに自分だけ逃げて、それで日本社会で通用すると思ってるのか?」こういう意見が目立つ。

 

しかしこの意見の中にどうしても日本人の危機意識の薄さと思考停止を感じるのは僕だけだろうか?

 

逃げられる時に逃げられる準備=何から逃げるのか?なぜ逃げるのか?何を持っていくか何を置いていくか?どこに行くか?、失うものは何か?得るものは何か?こういう事を日頃から真剣に考えていれば生存率は飛躍的に高まる。

 

生きるという事を主体的に考えていけば必然的に守るべきものの優先順位が出てくる。日本人は何もかも守ろうとして何もかも失うのは、日頃から生きるという事に真剣に取り組んでないからだ。

 

何かが起こってから「逃げる計画」を作り出しても間に合うものではない。ところが日本人のほとんどは今日と同じ明日が来ることを前提に生活をするからいちいちめんどくさい「逃げる計画」など作らない。

 

何よりも問題なのは「逃げる計画」を考え始めると、自分がどれだけ“どつぼ”にはまってて逃げられない状態なのかに気付き、自分の心で決断すべきことを「まあいいや、時間が解決するさ」と先送り、放置している自分に直面してしまうのだ。

 

だから結局「逃げる計画」を持たないままに非合理な状態で残留するわけだが、これを無知の結果や自分の人生に対する怠惰のせいだと自分が知りたくないから、戻ってきた人々に対して感情的に「お前ら何やってんだよ!」となる。

 

ぼくは逃げるも踏みとどまるもありだと思ってる。今回の放射線が東京までは届かないし届いてもたいした被害はないと計算して残留するもよし、子供だけは海外に一時疎開させるもよし、その時の判断だ。

 

ところがそうやって自分の判断で逃げた人たちを何も考えないまま残留した人たちが批難する。これはいったいどういう事なのか?他人の価値観と判断を尊重出来ずいたずらに自分の感情論と価値観だけを振り回して自分だけが正義みたいな顔をして他人を批難するのは何故なのか?

 

クライストチャーチで地震が発生して多くの日本人学生が亡くなった時、日本の親は元気でクライストチャーチやオークランドで勉強している子供に「とにかく帰ってきなさい」と言った。これも感情論だ。

 

「つらいに耐える自分をえらい」と自己陶酔に陥るのは構わない。けれど周りを巻き込まないでほしい、臭くてたまらない。



tom_eastwind at 20:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月21日

分県制度

★記事抜粋開始

「福島第一の場合も、運転そのものは緊急停止したので、最悪の事態ではないのだ。この程度の事故なら、斑目氏のいうように割り切ることは妥当である。被害を確率的に計算して、経済的に見合うなら建設すればいいし、他のエネルギーのほうが経済的なら無理して進めないほうがいい」

 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51700098.html

★記事抜粋終了

 

池田ブログで池田氏が述べている、ごく普通の正論である。ところが今の日本ではこのような正論でさえ「許せない!このような大事件なのに“この程度”とは何事か!」と怒る人間がいるのだから、今やるべきは官僚の解体よりも日本人の二分化だと本気で思ってしまった。

 

つまり何もない時でも日頃からきちんと勉強して理論でものを考えて何かあった時に自分なりの判断が出来る日本人と、毎日何も考えもせずに勉強もせずにぶらぶらとしながら友達とだぼら話をして何かあった時には脳みそ停止状態でパニックになってマスコミに振り回される連中とだ。

 

日本を感情県と理論県の二つに分けておき、感情県には日刊スポーツと読売新聞、それにテレビを置いておくがインターネットは使えないようにする。理論県には新聞やテレビは置かずネット環境はユビキタス状態にする。

 

感情県は政府天領にして政府は直接彼らに指示を出してあっち行けこっち行けとやる。そして感情論で「お国の為に〜!」と夜中まで働かせて彼らの稼いだ分をたっぷりと納税させる。

 

理論県は自治領として政府は口出しせずに人頭税として一人当たりいくらの納税をするだけだ。

 

今のまま理論派と感情論派とが「同居」している状態では結局「民同士の足の引っ張り合い」ということで政府に乗りこまれて、最後は政府が感情論者に肩入れして正論が潰されて、次に政府が自分たちの利権を増やすための法律を作る。今までもこの繰り返しであった。

 

感情論者は結果的に日本国民から自由と権利を奪っているのだが本人は自分の利害と関係ないところで白馬の騎士を気取りたいからどうしようもない。ポテチよりも薄っぺらい脳みそで日頃は何も学ぼうとせず考えようともせず、なのに事件が起きた時だけ自分だけが正義を知っている=みたいな勢いで書き込むバカ。相手が国家なら戦いようもあるが国を良くする為に戦う相手が同国民であり彼らは自分だけが正義と思っているのだから話が通じない、戦いようがない。これが価値観の違いである。だから同じ場所に住むこと自体が間違いなのだ。

 

感情論者の一番の特徴は読書をしない、又は読書をしても意味が分からないままうわっすべりで終わっている。そういうメディアリテラシーのない連中がいきなりインターネットと言う世界に入り込み他人の書いている事に書き込める事を知った。

 

そこで発狂したようにバカな事を書き込みそれに反対する書き込みを見てはじめて自分の存在感を感じる。まさに虚しく寂しい世界であるが、リテラシーがないというのはそういう事だ。

 

そしてそのバカどもの隙に付け込んで「権利はあれど義務はなし」の官僚は自分の失敗は東電に押し付けて20%の給与削減をさせるが自分たちの給与はたっぷりと全額頂く。

 

龍馬伝を見ていたりょうまくんに「お父さん、どうして英語や中国語の字幕ないの?」と聞かれた。なるほどね、そりゃそうだ。今までそんな事思いもつかなかったけど、考えてみれば世界に日本の文化や情報を伝えるのに大河ドラマは効果的である。

 

とくに日本国内では絶大な人気を誇る坂本龍馬を世界に知らしめれば、日本人と日本政府が違うのは分かってくれるだろうしなぜ日本人がこれだけ素晴らしいのか、なぜ原発事故をまともに処理も出来ないまま呆然としている日本政府が存在するのかがよく分かるだろう。

 

ところが今、その日本人自体がバカになり始めている。かつては素晴らしかった日本人とでも言われそうで情けないくらいだ。

 

龍馬伝は何のために放映されたのか?多くの人はあの番組を見て感動して次の日はまたロボットのように会社に行き毎日の生活に振り回され怯えて生きていくだけか?



tom_eastwind at 15:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年04月19日

ヒトはどうして死ぬのか

 

ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)
著者:田沼 靖一
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販売元:Amazon.co.jp
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東北大震災で2万人以上の方が亡くなった。その精神波動は凄まじいもので、今も世界中を駆け巡っている。

 

シャーリー・マクレーンと言う米国の女優兼作家は魂とか輪廻転生をテーマにした本を出しているが、その中で面白いテーマがあった。

 

南米など世界中で起きた大地震や災害で同じ日に同じ場所にいたにも関わらず生き残った人々と亡くなった人々の違いである。

 

そんなもん偶然でしょって片付けてしまえばそれまでだが彼女はそこに何かあるはずだと思って研究した。

 

1983年には300万冊のベストセラーとなる「アウトオン・ア・リム」を世にだし、そして同時に様々な名言を残している。

 

•「地球は人類の集合意識に正比例して呼応している生きた有機体だ。― その逆ではないのだ」

これは天譴説としても使われるが人類が欲望の塊になった時に地球は正比例して反応する、つまり地震や大津波、火山の爆発などによる自然災害が発生するという考え方である。

 

現在の人々の多くはまず天災があり人間が被害を蒙ると考えている。しかし実はその反対であり、人間が悪い気を作り出してしまいそれが天災を起こすという発想だ。

 

天譴説は彼女だけでなく日本でも昔から語られてきた事で関東大震災の時に石原莞爾も「この天災は神による譴責である」と訴えた。もちろんシャーリー・マクレーンが生まれる前の人物であるから彼女のコピーをしたわけではない。

 

・「魂はまわりの自然環境にも影響を与える。魂がすべて なのだ」

これも上と同じで、スウェーデンボルグにしても合理主義者であったシャーリー・マクレーンにしても、自分の頭で合理的に徹底的に分析して研究していくと、そこに目に見えない「あるもの」の存在を理解し始めるという事だ。

 

いつの時代の人間かは関係ない、いつの時代でも人と魂は同居しており、その魂がうす暗かったりねじけていると周囲にその影響を与えてしまい、周りまで悪い気分にさせる。それが最終的には自然にまで影響を与えてしまうのだ。

 

松下幸之助の名言の中でも「運の悪い奴とは積極的に付き合わないようにする」というのがあった。これなど暗い魂を背負っているとその不幸が自分に転移してしまうので避けていきなさいと言うことだ。

 

•「人生において偶然はない。もし人が心を開き、感情を素直に表わし、あまり心配しなかったら、他人に対してとてもよい影響を与えることができるんだよ」

 

ここで初めて「人生において偶然はない」と語りかけてくるシャーリー・マクレーンは合理的な米国人でありながら東洋的な思想の影響を受け、その後同じ俳優仲間のピーター・セラーズの死を予言したり幽体離脱を経験したり、まさにスェーデンボルグと同じような行動をとる。

 

魂の存在をどれほどの人が信じるだろうか?多くの人は「なんとなくありそうだけどよくわかんない、まあいいやゲームしよ」とか「たましい?ごめん、今ね、仕事が押せ押せなんで後でね」となる。

 

結果的に多くの人が真剣に魂の問題に取り組まないまま毎日を過ごし、自分の不幸に対しては世間が悪いと文句を言い、自分に訪れた幸運(と本人は思っている)は自分の力で勝ち取ったものと思い込んでいる。

 

そして「誰か見えないもの」に与えられたせっかくの機会なのに「見えないもの」の存在を理解しようとせずに結局不幸になっていく。

 

今回の震災で亡くなった方の中にはもちろん素晴らしい学者も高貴な精神の持ち主も優れた人間性を持つ人もいただろう。

 

そのような彼らは、この世の役目を終えて次の世界に移動したと考えたらどうだろうか?そして生き残った人々にはまだこの世の中の役目があると考えたらどうだろうか?

 

そんなことを考えながら「ヒトはどうして死ぬのか」を読了。人間から神性を完ぺきに切りはがして単純に肉体のみを遺伝子とタンパク質で語り、なぜ人が死ぬのかを科学的に分析している、実によくまとまった一冊である。

 

この本を買ってからもう2か月以上「積読(つんどく)」状態だった。ほかにも読みたい本があるし出張もあるしで、なかなかたどり着かなかったのだが、この本を今読むことになったというは偶然ではないのだろう。

 

徹底的に精神論を抜きにして完全にヒトを肉体として扱いその仕組みを表そうとするこの本はとっても興味深い。人間は普通に生きてれば100歳くらいまでの寿命はある。そこまで至らなければ人生の途中で遺伝子やたんぱく質が傷ついた事である。

 

おもしろいな、魂を徹底的に突き詰めていこうとする道、肉体を徹底的に突き詰めていこうとする道、どちらも面白いと思う。今回の未曾有の大震災、せっかくの機会である、どちらの道でも良いから自分が納得出来るまで徹底的に突き詰めて考えてみればどうだろうか。



tom_eastwind at 20:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

2011年04月18日

懲罰的賠償

★記事抜粋

日本の親として知らなければならないのは、福島原発以外の原発も、耐震や津波、台風、大雨・・すべて「想定外なら被ばく」という考え方で作られているという事です。

「日本の原発は地震や津波で破壊されるようにできている.その時には電力会社のヘマを付近住民の被ばくという形で片付ける」という方針です.

福島原発は「方針どうりの結果」で、「想定外だから、大量の放射線がでて何が悪い」というのが保安院の態度に出ています.また、知事さんも市長さんもこのことはご存じです.

自治体は「原発は爆発するものとして、住民の安全を守る」方法を早急に検討しなければならない。(それは)

1)原発は推進したい、

2)でも事故が起こったときには責任はとりたくない、

3)自分の任期の間には地震は起こらないだろう、

という役人の考えだからです.

東京の電気が足りなくなったのは、不安全な原発を作り、50サイクルと60サイクルの調整をせず、漫然と暮らしていた政治家、官僚、都知事のサボりが原因。彼らはコンビニではなく料亭でおにぎり食べる。冷えた水は秘書が出してくれる.そして、銀座で飲んで楽しむ。彼らはなにも不自由はしていない。「おい」と言えば、食事もコーヒーも、そして楽しみまでもが目の前にそろえられるのだ。だから、庶民に必要なものを排斥する.

1年に1ミリシーベルトで、過剰発がんは「たった」1億人に5000人ですから、集団としてはたいした事はないかも知れませんが、幼くしてガンになる人は「その人、一人」だから可哀想に思います.それも、しばらく汚染された土地を離れたり、汚染された食材を売らなければ回避できるのですから、私はそちらの方が良いと思っています.

今回の事件では「パニックを防ぐためには、ウソを言っても良い」ということで、政府、専門家、メディアが統一した行動を取りましたが、私は日本人は「事実を冷静に受け止める」という「勇気」も「謙虚さ」も持っていると思います.特にお子さんをお持ちのお母さんやお父さんは、心配はしていても子供のために「勇気、謙虚」をもって頑張っているのは間違いありません.人間は「自分のため」より、「愛する人のため」にこそ勇気がわくからです。

★抜粋終了

 

この記事は武田邦彦中部大学教授の抜粋である。最近4日分を抜粋してテニオハを訂正しているので実際の文章はこちらを読んでもらうと良い。もし文意が違っていればそれは私の責任です。

http://takedanet.com/

 

てゆーか、やっぱりって感じ。武田邦彦教授は原発に関する本を出しており政府の原発関連の委員会にも出席した人だが「数の論理で負けてしまった、あの時もう少し踏ん張っていれば、けれどそうしたら守衛に追い出されて終わりだったろう」とも書いている。

 

1億人のうち5千人しか死なないんだろ、それくらい「想定の範囲内」でしょ、これが政府の基本方針である。

 

その5千人は福島を中心とした地域のちっちゃな子供や女性がほとんどである。甲状腺ガンを発病するのは圧倒的に子供と体力の弱い女性だからだ。東京のブラックホール付近で働く人々には影響しないのだからどうでもよいというのだろう。

 

では原発は安全に作れるのか?答えはどうも「安全に作ることは出来るけどそうすると化石燃料発電にかかる費用より高くなるからやらない」である。

 

全く、いつまで経っても国民のことを考えない連中だ。

 

元々原発を導入した際は政治的理由であり効率性は考えていなかった。しかし時は流れて原発村が金を生む金の卵だと分かった通産省がどんどん原発を作り安全性と経済性を秤にかけて、安全性を落として削減できる費用と5千人が死んで死体処理にかかる費用を比べたら5千人の方が安かったという事だろう。

 

信じられないような話だが以前ある米国の大手自動車メーカーが新型車を開発した際の事である。

 

車のガソリンタンクを後輪のすぐ上に置くか後部トランク付近に置くかで原価計算をした。すると後輪のすぐ上に置く方が費用が安い。ところが技術者は「後輪のすぐ上だと発火事故につながる可能性が高い」と言い出した。

 

そこで経営陣は技術者に対して、1000台に対して何台が発火可能性があるのか計算させた。同時に経営陣は顧問弁護士に「もし発火事故で訴えられた場合の最大補償額はいくらになるか?」と聞いた。

 

その結果として訴訟が起きた時に賠償する総額の方がトランク付近にガソリンタンクを設置する設計費用よりも安くなることが分かり経営陣は技術者に対して「後輪の上にタンクを置け」と指示した。

 

その結果としてこの車は見かけもよく値段も手ごろで人気が出たのだが案の定それからしばらくして発火事故が起きた。

 

訴訟を受けた裁判所は設計ミスでメーカーを有罪としたが、その後更に調査すると経営陣が事故を予測できていたにも関わらず対処をしなかった、つまり人の命を金に換えたという事で懲罰的罰金制度を導入した。

 

これにより人が死ぬことを前提として行われた行為すべてに対して多額の罰金が懲罰的に課されるようになった。

 

その後環境汚染訴訟で有名になったエリン・ブロンコビッチや映画「インサイダー」でテーマとなったたばこ会社の巨大な懲罰的罰金が巨大企業を追いつめる事になった。

 

日本ではたばこ訴訟をやる弁護士がいない何故ならたばこ会社は元々専売公社、国営であり、たとえ海の向こうで訴訟が成功したからと言って、その理屈、つまりタバコは人をガンにしやすくするという事由で国を相手に戦っても、国は何百人の弁護士で弁護団を作って、訴訟相手の訴訟費用が底をつくまで裁判を長引かせるからだ。兵糧攻めである。

 

ところが最近はたばこに関しては結構その危険性を国が認めるようになった。何故ならそれまで国税として毎年1兆円程度の税収があったのが健康ブームでたばこを吸う人が減りはじめ、もういいや、たばこの財源は先細りだしこれを地方に下賜して地方自治って名目で格好つけようってなったわけだ。

 

でもって自分の収入じゃなくなった瞬間に政府は突如として「たばこは体に悪いっすよ」と言い出したのだ。

 

今回の原発事故では子供たちの被害が出るのは5年後か10年後か分からない。発病しても「あ、これね、この人、体弱いからね」で終わらせる積りなのだろう。

 

つまり政府が守るものは東京都のど真ん中にある皇居と霞が関と国家であり、守る対象としての国民は優先順位が一番低いって事だ。


これこそまさに懲罰的賠償が必要な案件だ。東電が支払いをするだけではなく、その周囲に群がって利益を得た人々すべてに賠償請求をする。

こんなこと書くと「安い電気を享受していたのは国民の皆さんでしょ」となるが、本来いくらかわからないものをこちらでは計算根拠がないのだから勝手にそちらの計算で高いとか安いとか言われても無意味だ。 

訴える先としては経産省、保安院、東電、学者、たくさんあるぞ。

そして間違っても被害をこうむった国民にさらに増税で負担させようなんてバカな話になってはならない。国債発行も増税もすべては役人の給料一律20%削減、公務員の一律20%削減を行ってからだ。


いずれにしても国民は自分の身を自分で守るしかない、当然のことである。その代わりに中央への納税を拒否するのだ。例えば地方自治意識の強い知事の自治体で全体投票を行いその結果として今まで中央政府に納税していた様々な費用をすべて一旦自治体に納税する。そしてそのお金は自治体の為に使う。

 

結果的に大規模な工事は出来なくなるかもしれない。しかし身の丈に合った生活をする分には問題なくいける。出来ればこれを東京都が実行してもらいたい。とにかく早いうちに中央政府から権限を取り上げて地方中心の行政にしなければ国民はますますやせ細るばかりである。

 

それにしても誰か保安院あたりにハッキングしてこいつらが内部で作ってる「予定最大死亡者数5千人、死亡場所は福島、福井、青森」と言うデータを公表してくれないものだろうか。



tom_eastwind at 17:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月17日

メディアリテラシー

 

アゴラで公認会計士・税理士が東電株主責任について書いている。

http://agora-web.jp/archives/1308566.html

 

これは今政府内で出てきている東電国営化論に関してだ。東電の株を100%減資して国有化してしまえという意見に対して「民間企業を国家がいきなり乗っ取る方法はルール違反ではないか」と訴えている。

 

内容を読むと至極まともな事である。

 

株主は日本の法律で決められたルールで株を購入してその株の価値が下がれば損をする。

 

損をして最終的に会社が倒産すればその時は一切残余財産を受け取ることは出来ない、そういうリスクを理解して購入している(はずだ)。

 

取締役が原発の危険性を知っていながら対応しなかったという事で株主訴訟になる可能性はあるし更にその原発を認可した保安院も訴訟の対象となるであろう。

 

しかし株式会社の株主有限責任制度では出資した資金以上の責任はなくその意味で100%減資による国営化は今だいくらかでも価値のある資産を政府が強制的に没収することであり、それはダメでしょ。

 

大体こんな趣旨であるが、それに対してコメントでは「株主救済するのはおかしい」とか「本来負担すべき株主の損失を子供達に付け回すような誠に以て言語道断、卑劣な行為です。」とか、かなり感情的な書き込みがされている。

 

最初にコメントを読んだ時は夜だったので、あれ?どうも話が噛んでないぞ、ずれてるぞと思ってもう一回読み直した。んん、やっぱり分からん。作者の文意とコメントの文意が完全にずれている。

 

それともぼくが何か見逃している事実があるのか?彼らはお互いに暗黙知の部分があり、それを文字化してないだけか?なんて思いながらもう一回読み直す。

 

やっぱりどうもおかしい。株主は出資金全額を失う事は理解している(はずな)のだ。出資金を救済をするなど作者は一言も書いていない。

 

負担すべき株主は損失を負担しているのだ。東京電力の株を購入した人は今頃大変であろうが、少なくとも彼らは購入価格で買い戻しをしろなど一言も言ってない。

 

東電の株価は3か月前に比較して既に74%も下がっている。2千円で買った株が5百円程度に下がっているのだ。それ以上何を負担しろと言うのか?

 

本来ここで語られるべきは「100%減資」と言う処理が東電に適用されるべきかどうかであるのだが、そういう法的な議論を専門家がやり取りするレベルではなく、東電の株主がまるで禿鷹か悪人のような書き込みである。

 

要するに最初は書き手が書いてない事をまるで書いてあるかのように批判して次にその批判を正しいものとしてもっと酷い批判をして、それを読んで原文を読まないままの連中が更に次の批判を書き込んだりして炎上するパターンである。

 

アゴラは本来かなり高いレベルの議論がされる場であるが、それでもこのような書き手の趣旨を理解出来ずに自分の感情で書き込むコメントが多いのには呆れる。要するに人の書いた文章を読めてないのだ。

 

以前もあるブロガーが「竹槍でB29は落とせない」と書いたら「そんなの当り前だ、お前はバカか」みたいな書き込みがあった。

 

B29を竹槍で」ってのは物理的に不可能なものを精神論でどうにか出来る、どうにかしようと本気で思ってる連中に対する皮肉であり、言葉そのものをまともに捉えられてしまえば議論など出来なくなる。

 

それこそかわいい孫を見て「目の中に入れても痛くない」って言ったら「じゃあ入れてみろ、とっても痛いから」って言うようなものだ。

 

このような書き込みを読んだ普通の人々は「何だ?ネットの世界っておかしいぞ、こんなのよりも新聞やテレビの方が信頼出来るぞ」って思うかもしれない。

 

リテラシーの本来の意味は識字率でありLiteracy rate となるが、それが最近では文字や言葉を操る事が出来る=教養があるという解釈が一般的である。メディアリテラシーはコンピューターやインターネットや映画や本から発生するイデオロギーをそのまま鵜呑みにするのではなく主体的に判断する能力を言う。

 

このような書き込みは、もしかしてネットを常に「危険であり異常な人々の住む世界」と規定して出来るだけ一般国民をネットから離しておきたい政府の依頼を受けた電通あたりがやってる作業なのではないかと、結構本気で思ったりする。

 

もしこれが政府の教育宣伝活動ではなくて本当に日本人のメディアリテラシーが下がっているのだとすれば、その方が怖い。

 



tom_eastwind at 14:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月16日

復興抗争会議

 

★記事開始

東日本大震災の被災地復興を論議する「復興構想会議」が14日、初会合を開き、復興計画作りをスタートさせた。

 

 被災地から様々な要望が寄せられる中、どれだけ具体的な青写真を描くことが出来るか。官僚との調整や、広範な被害対応の財源確保など課題は山積しており、取りまとめは難航も予想される。

 「原発問題も扱うべきだ」「官僚をなぜ入れないのか」

 黙とうで始まった14日の初会合では、委員から会議のあり方への疑問が相次ぎ、波乱含みの幕開けとなった。

 委員から最も強い不満の声が上がったのは、福島第一原子力発電所事故は「あまりにも大きな問題」だから扱わないという、会議冒頭で五百旗頭真議長が示した菅首相の方針だった。

会合後、赤坂憲雄・学習院大教授は「原発問題を引き受けずに会議が進めば、原発事故で苦しむ人から背を向けられる」と強調。

脚本家の内館牧子氏も「津波、地震、原発の三つの災害だ。これを話さずに何のための復興会議か」と不満をあらわにした。

このため、今後、原発問題も議論することに「転換」したという。

 

 復興計画の実現には野党の協力も不可欠だが、その見通しも立っていない。

首相は12日の記者会見で「野党の皆さんにも青写真を作る段階から参加してほしい」と協力を呼びかけたが、自民党の大島理森副総裁は14日、「会議踊れど、実のあがるものになるかどうか」と突き放した。

★記事終了

 

この会議に参加した哲学者梅原猛氏の意見に今注目が集まっている。

「日本は原発をすべて廃止して太陽エネルギーなどの再生エネルギー社会にすべきだ」とか「首相がバカなのは知ってたが他の連中もバカばっかりだ」とか。

 

この会議は被災地復興よりももう一段上の、今後の日本をどう再構築するかと言う視点から様々な議論が始まった、、、、はずなのだが、初日からバカのあふぉの原発のと、全然話がかみ合わなかったようだ。

 

池田ブログでも「じいさん、今は原発の話じゃなくて街づくりだろ、文明論はよそでヒマな連中とたっぷりやってくれ、ここではあんたの文明論聞いてるヒマはねえんだよ」と言う趣旨を丁寧にオブラートに包んで書いていた。

 

池田氏の原発の意見についてはぼくは理解は出来るものの違う立場を取っている。ただこのような老害が飛び出してきて政府の会議で文明論を持ち出したら、まとまる話もまとまらないでしょってのは全く同意見だ。

 

他のメンバーを見てもこの会議はいったい誰が何の為に開催しているのか、まったく趣旨不明である。建築家の安藤氏、哲学者梅原猛氏、内館牧子氏、まったく方向性の違う人間を一つの箱に放り込んでおいて会議のテーマすらまともに決まってない。原発は議題にしないと言ったかと思うと、やっぱりやりますとか。

 

もしこれが管首相が自分の生き残り作戦として主催したなら本当に病院に行って一年くらい休んでもらった方が良い。「管、寝とけ」だ。

 

もしこれが頭の良い官僚連中が時間稼ぎで国民向けにやってるなら大した役者である。政府に呼び出されて誇り高そうにうれしそうにスキップしながら首相官邸に入っていく爺さん連中が目に浮かぶようだ。

 

復興の方針についてはかなりの部分が民間でも議論されており、あとはこれをどのように実施するかである。首都機能を分散化する、エコタウンを作る、様々な案が実行されるだろう。問題はこれでまた官僚が焼け太りをすることが目に見えている事だ。

 

この復興予算をどれだけ自分の省庁にかっぱらえるか、どれだけ原子力村を解体して自分の省庁の権限、つまり天下り先に引っ張り込めるか、役人連中が虎視眈々と狙っているのがよく分かる。

 

復興予算は税金で賄うのだ、官僚の腹が痛むわけではない、やりたい放題である。

 

「こういう時こそ国民が一丸となって!」と国民が一生懸命考えている間に「こういう時こそおれが一番となって!」と役人が出世の為に頑張ろうとしているのが哀しいくらいに分かるのが辛い。

 

しかしこの緊急事態において唯一主導権を取って行動出来るのも政府のみである。

 

とにかく望むべくは100年の街つくりであり、その為には少しくらい役人が焼け太りしても、彼らのやる気を引き出すためには仕方ないかなと思ったりする。しかし、これが終わったら今に見ておけって感じだが、たぶんこれも東北の人々からすれば「お上が助けて頂いたい」となるんだろうな。変わらない国、日本なんだろうな。

 

これからは復興に向けて進んでいく。予算と権限を分捕るための復興会議、まさに復興抗争会議である。



tom_eastwind at 21:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月15日

コーヒーミーティング

今週はコーヒーミーティングに何度か呼び出された。コーヒーミーティングとは名のごとくコーヒー(紅茶でも水でも良いが)をオフィス外で飲むこと。

 

つまりどこの企業も最近は情報管理や企業倫理と言った分野にうるさく、オフィス内ミーティング(議事録、録音)や電話(ケータイ電話も含めて自動録音装置が付いてる)では話せないようなことをざっくばらんに話しましょうやって意味だ。

 

隣のビルに入ってる大手中国系ファイナンス会社の社長からも呼び出されいくつか仕事の話をした後、「ところで今後、日本はどうなるんだ?」「管はInvisible(見えない)」だってほんとか?とか、地震関連で今後の日本がどう動くのか、現状は実際に海外のニュースで報道されているものと比べてどうなのかを知りたいらしい。

 

確かに日本にいると日本語の統制報道しか入手出来ず、英語圏では英語で作られたある意味無責任な記事が出回っている。

 

管は平時の司令官としてもかなりInnocentだが今回の原発対応でどうやらOvercapacityになったようだ。いたずらに補佐官を増やしているが誰が責任を持って対応するのか、ますます不明確になっている。

 

Edanoって誰だ?って聞かれたから、今一番首相の座に近い人だと説明しておいた。ついでに「今一番面白い政治ジョークは、枝野寝ろ、管起きろ!だ」と言ったら笑ってた。どうやらこれ、英語版でも使われているようだ。

 

他にも「管 有能」と検索すると「もしかして」機能で「もしかして、管 無能?」と出るそうだとも話しておいた。

 

こういう内容をオフィスで話してもコンプライアンスに触れないとは思うが、会議室の中でいきなり大爆笑されると働く人々の士気に影響するだろう、カフェを選んだのは正解だった。

 

ぼくは彼に「あなたは地震に遭ったことがありますか?」と聞いたら少し考えながら、「えーっと、あったっけ?おれ、ロンドン勤務とここと米国だったから、米国で何かあったかな〜?」程度

 

「津波ってのはこのカフェの天井くらいの高さですよ」って説明すると、3階まで吹き抜けになってる天井を見上げながら「う〜ん」とうなってた。

 

彼らはニュースで映像を見ながらもあまりに映画っぽくて、どうなのだ?と心の中で思っているのだがそんな事を日本人に聞くのも不謹慎だよなっていう思いやりもある。けれどやっぱりほんとの事は知りたいって感じだろう。

 

「震度9の地震ってのは立ってられないほどだが日本の東北は木造住宅も多く、地震そのもので亡くなった人よりも津波で流されて亡くなった人の方が圧倒的に多いでしょう」

 

「しかしあまりに死体が多すぎて検視が追いつかず、検視を待っていると死体が腐ってしまうので、全国から集まった法医学者が死体を検視するのは、口のまわりで泡が残ってれば溺死、そうでなければ不明のまま次の死体の検視に移ります。おそらくですが津波で死亡した人が8割を超すでしょうね」

 

最初は興味深そうに聞いていた彼も、最後はけっこうまじで青くなってた。今夜彼は自宅に帰って奥さんに「おい、地震って知ってるか、立てなくなるんだぞ」とか「津波の高さがビルの3階くらいまで来たら逃げようがないぞ」とか話しているのだろうな。

 

ニュージーランドでも2月の地震で多くの方が亡くなったが、あれは古いレンガつくりの建物や地盤の問題でありある程度理解可能である。しかし津波に関しては、まさに理解不可能であり映画の世界のようだったのだろう。

 

最後にぼくから聞いた。「原発、どう思う?」彼はゆっくりと落ち着いて答えた「絶対に安全ならそのような選択肢もあるだろうね、絶対に安全ならね。だから今もニュージーランドには原発がないのさ」

 

 

 

 



tom_eastwind at 19:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月14日

生まれくる子供たちのために

★記事開始

松本健一内閣官房参与は十三日、菅直人首相と官邸で会談した後、首相が福島第一原発周辺の避難区域に関し「当面住めないだろう。十年住めないのか、二十年住めないのか、ということになってくる」と述べたと記者団に明らかにした。

 

 松本氏はその後、問題の発言について「私の発言だ。首相は私と同じように臆測(認識)しているかもしれないが、首相はそんなことを一言も言っていない」と訂正。首相も同日夜、官邸で記者団に「私が言ったわけではない」と否定した。

 

 これに関連し、福島県の佐藤雄平知事は同日夜の県災害対策本部会議で「私どもは(被災者に)一日も早くふるさとに戻ってもらいたいと思って苦労しているのに、信じられない」と不快感を表明した。2011414日東京新聞より

★記事終了

 

原発事故現場で生活が再興できるかどうか、政治的に言って良い事と悪いことがある。今がその時期かどうかはそれぞれの立場で判断が異なるだろう。

 

こういう場合、つまり「よっしゃ、これを機会に今までのしがらみを取っ払って新しい街づくりをしよう!」と思ってても簡単に口に出さないのは上手な政治家である。

 

その意味ではニュージーランドの政治家はクライストチャーチの復興について「復興しよう!」とは言うものの、どういう形でやるのかってのは一切口に出さなかった。

 

口に出す代わりにどんどん実行していく。壊れた建物を撤去してついでにその隣の建物も撤去して、その地域の住民が知らない間に全部を更地にしているのだ。

 

これには被災地住民もびっくりして「おい!何やってんだ!」と言うと工事側は「だってみなさん、必要なものは全部持ち出ししたでしょ、後はこの建物、危険だから壊すんです」となる。やめてくれって言ってる横からクレーン車持ってきてドーン!と鉄球ぶつけておいて「ほら、壊れてるでしょ」てな感じだ。

 

これは日本じゃ出来ないな、ほんとに白人って、ドライになるときは徹底してドライだよなって思わせた瞬間でもある。

 

日本だと被災地の流された車の処理ひとつでも「個人の所有物だ、どうしよう、ここに置いておくか、勝手に片付けて後で文句を言われても困るな〜」と誰か責任を取ってくれる人が出てくるまで目の前にあるガラクタさえ片付けられない。

 

大地震で空襲の後の焼け野原になったような場所では福島県知事としては「県民の皆様が一日でも早く故郷へ」と言うしかないのだろう。しかしこれからの100年の街づくりを考えたとき、果たして同じ場所に戻り同じ場所に家を建てることが正解なのか?

 

これからの生まれくる子供たちの将来の為にはどうなのか?自分のノスタルジアを叶える為だけにせっかくの機会を失いはしないだろうか?

ならばこれを奇禍として東北の街づくりをゼロから再構築してみればどうだろうか?自然と共生して三世代が味噌汁の冷めない場所に住む、移動にも車を使わずにコンパクトな街にする、そういう本音が、今はまだ政治家には言い出せない時期なのだろう。

 

今までは既得権などがあって調整できなかった事も、今回の事件で法律的には不明だが一般国民の感覚としてはすべて帳消しになった。

 

だから、今はもし東北の人々が自発的に全国に向かって「100年住める街づくりをしますのでぜひともみなさん協力してください」と言えば、日本中から支援が寄せられることは間違いない。これは政治主導ではなく民間から発案すべきことである。

 

幸い東北の人々は粘り強い。守りをさせれば日本一である。その能力を利用して適材適所の業種、出来れば政府機関も一部を東北に持ってきて再構築を考えるのはどうだろうか?

 

そして誰も住めなくなった原発から30km以内の土地については東京電力にすべて買い取ってもらい、東京電力本社を原発現場に移転させて周囲に社員寮を作り、自分たちで再復興してもらおう。

 



tom_eastwind at 18:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月13日

晴れた日には本を読もう

「幸福への近道」と言うタイトルのブログがある。現在は殆ど繋がらないほどアクセスを集めているが、ぼくは偶然にもアクセス急増の寸前に読むことが出来た。

http://shohweb.com/

 

このブログでは原発事故と陸前高田崩壊について書いており、彼女はあくまでもこれは誰か知らない存在から教えられただけですと言ってる。

 

他にもマイケルジャクソンの死を予言した米国の予知能力者も原発と津波を予知していたという。

 

こういうのは「え〜?うっそ〜」で済めば良いのだがここまであたってしまうとそういう訳にはいかないのだろう、少しづつマスコミでもニュースになっている。

 

このような霊能者と言うか予知能力者を信じるかどうかは個人の判断である。ただし信じるにしてもむやみやたらに「だってこう書いてあるんだもん」とか、信じないにしても「そんなん、あるわけないじゃん」と思考停止した状態で判断するよりも、せっかくこの時期なのだから出来れば少し考えてみればどうかと思う。

 

普通の人は時間はA地点からB地点に一直線に向かうし遡る事などあり得ないと考える。またぼくらが生きている世界以外にほぼ同じだけどちょっと違う世界が存在するなんて考えもしない。

 

死んだ人と会話できるなんて言ったら、「こいつ、離れておこう・・」と思われるだろう。

 

しかし上記の霊能者以外にも世の中には多くの不思議な現象が発生している。そのような事実を無視して「ばっかじゃん!」と片付けるよりはこの世の中ってもうちょっと深いのではないか。

 

例えば時間ってのは塊であり一方方向だけに流れているのではない、だからこそ過去にも未来にも行くことが出来てそこで起こっていることを話すことが出来る。

 

それから自分が住んでいる世界の隣には、こことよく似たような世界があるけどちょっと違う、そのどこの世界に生きるかは自分の意志力次第ってこと。

 

例えばあなたが一生懸命努力して成功したとする。それはこの世の中で起こったことか?もしかしたら成功しているあなたが住む世界に横移動しただけではないか?そして今まであなたが生きてた世界では、あなたはいつまで経ってもうだつが上がらない生活をしているとか。

 

例えば世の中は原子核が集合して今の形が存在するけど、自分の体をどんどん小さくしていって原子核のサイズにまでなって、そこから更に小さくなっていったら、そこには別の宇宙があったとしたら・・。

 

スウェーデンボルグと言う中世の天才がいた。彼は元々キリスト教を否定して物理学に真実を探し、鉱山技師から始まり様々な仕事をやったがそれこそガリレオレベルの仕事ぶりであった。

 

そんな彼がある日「全然知らない人」の訪問を受け、それから聖書研究に入り、同時に「あの世」と「この世」を繋ぐ橋渡しになったのだ。

 

彼は死んだ人と会話が出来た。彼は数百キロ離れた場所で起こった火事を見ることが出来た。彼はあの世に何度も出入りしてその仕組みを紙に書いて後世に伝えた。

 

スエーデンボルグは日本でも学会があるので詳細はそちらを見てもらうと良い。

http://swedenborgjsa.web.infoseek.co.jp/

 

こういう話を信じるかどうかは個人の判断である。ただ、このような時期なので出来れば自分で読んでから判断してもらいたいと思う。それがもしかしたら自分の家族の為になるかもしれないのだから。

 

ただ最近の予知で必ず出てくるのが「今年は地震が増加する」、「日本全体が地震に襲われる」である。東京大地震を予知した内容もある。そんなもん、40年も前に小松左京が本にしているけど実現してねーじゃん!ってのも事実。

 

けれど地球のサイズからすれば40年と言うのはあっと言う間である。太平洋プレートの南端がクライストチャーチで、ここで大地震が起こり、その後すぐに太平洋プレートの北端である東北で大地震が起こった。

 

プレート全体が動き出しているとすれば次に来る地震は自然と想定できる。またプレート地震以外でも直下型地震がある。

 

取りとめのない書き方になったが、ぼくは子供の頃からSFを読んでたせいもあり予知とか地球サイズの大変動と言うのは普通の人よりは比較的理解しやすい脳みそを持っている。そしていろんな予知本にしても、どれが本当かはある程度読み解く自信はある。それだけの基礎知識と柔軟な頭はあるつもりだ。

 

そういうのを全部合算して今回の一連の地震とこれからの予知の内容を考えると、どうしても悲観的にならざるを得ない。

 

日頃ある程度でもこの世の中の事を勉強していれば下記のようなことは起こらなかったと思う。

 

今回の原発事故でパニックに陥った母親が「子供を守れるのは私だけ!」と気が狂ったように「外に出ちゃいけない」とか水を買いためたりして、周囲に「そこまでしなくても」と言うと、「何よ!あんたは子供の心配をするのが間違いって言うの?!」と食って掛かるそうだ。

 

こういう手合いは世の中に多い。普段は全然脳みそ使わずに蝶よ花よと下らんことばかりしてて、いざ何かが起こるとどう判断していいか分からずにメディア情報に振り回される。

 

最初に目にしたニュースが悲観的だと徹底的に悲観的になって何を読んでも悲観的に見えてくる。旦那の浮気を疑う奥さんとおんなじレベルだ。

 

災害に備えて用意すべきなのは水や食料だけではない。何もない毎日の中でどれだけ情報を読む力を身に付けるか、最低限の科学知識を持てるか。

 

出来れば晴れた日にSFチックな本を一冊持って太陽の下で読んで「もしかしたらあの世って本当にあるのかも?」とか「時間って実は一方通行じゃなくて単なる塊なのかも?」とか考えてみるのも良いと思う。

 

 

 



tom_eastwind at 12:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2011年04月11日

人はなぜ生きるのか? 老いの才覚

人はなぜ生きるか?

 

ここ一か月の東北大地震、原発事故が続く中でも地震の際はまさに名古屋にいたしその後はシンガポールや香港への急きょ出張が入ったりで忙しかった。

 

名古屋でお客様から「これ読んでみて」と勧められた一冊がある。それが曽野綾子の「老いの才覚」で、シンガポール出張の間は鞄に入ったまま読む機会がなく、香港で時間が取れたので一気に読み上げた。

 

あ、これだ。これでまた一歩上の段階に登れたって思った。

 

子供の頃から長く考えていたテーマの一つに「人はなぜ生きるか?」がある。もともとスウェーデンボルグの本で神との対話や天国と地獄、あっちとこっちの繋がりもある程度理解出来てた積りだし仏教に輪廻転生があるからこそ仏教はキリスト教よりも崇高な位置にいると捉えていた。

 

しかしそこから先、うむむと言うことがよくあった。とくに何かを判断するときの基準として何が普遍的であり何が刹那的なのか?どう使い分けるのか?

 

曽野綾子はそこに明確な指標、てか、明確具体的ではないのだが誰にでも理解出来る指標を持ち込んだのだ。

 

それが「良心」である。人は他人の前で嘘を付けるし泣くふりも笑うふりも出来る。けれど自分と対峙した時、そんな“ふり”は何の意味もなく自分の取った行動に対して心に強い鞭をあててくる。

 

キリスト教信者の純粋な気持ちは認めるが突き詰めていけばキリスト教は随分と傲慢で持続する社会を構築するにもっともふさわしくない宗教である。

 

その点において仏教から入るのは良いと思ったが、曽野綾子のような現場のクリスチャンから学ぶことは実に多い。その意味でキリスト教徒はまさに日本帝国陸軍、下に行けばいくほど優秀で上に行けばいくほどバカである。

 

人はなぜ生きるのか?それは人生そのものが試験会場であり、人が人として生まれて寿命を全うする時まで人でいられるかってことを試されているのだ。実は多くの人が人として生まれていながら老いが近づくに連れて動物に近くなったり人生の真ん中へんにいる政治家でも官僚でも人間性を失ってとんでもない事をやってしまい、自分たちの行った動物以下の行動を反省しなくなる。こうなると彼らを待っているのは次の世界に行った時の地獄の炎である。

 

今生きてる人生はあくまでも試験会場であり、本当の人生は死後にある。そしてその後の輪廻転生にあり、人はそうやって時には鳥になり時には樹木になりながら自分の寿命が尽きたらまたあの世に戻るのである。

 

だからこそ、この世で起こる様々なことはすべて試験であり、試験の度にあなたの点数が採点されていることに気づこう。

 

そして自分が今日何点だったかを知りたかったら、誰もいない場所で今日自分がやった事を振り返り考えてみれば良い。そうすれば良心が出てきて「はい、今日は30点、だめね」とか「今日は80点、よく頑張りました」とか語ってくれる。

 

だから自分の心の中にある良心に耳を傾けよう。この良心は最初に書いたように判断基準が明確でなく、普遍的な原理原則しか語らない。それを自分が今直面している状況でどう刹那的に判断するか、ここが難しい。

 

けれど答えがあるんだな、さすが曽野綾子って感じだ。自分も素人なりに子供の頃から本を読み様々な宗教や考え方にも触れているのだが、それをこれだけ簡単な言葉にまとめて、更に「だからさ、人生は甘くないけどさ、良心に従って生きてれば楽しいわよ」って語りかけてくれる曽野綾子を感じる。

 

原発の話は?って思うだろうけど、まさにこの「良心」こそが今の御用原発学者に一番欠けている要素ではないかと思った。けど同時にそんな彼らでもいつの日か自分がやった過ちに気付いて反省をする。

 

その時が彼らが死ぬ前に来るのを御用原発学者に望んでいる自分がいるのを見てちょっとびっくりして、更に曽野綾子の影響力の強さってか、生きる力の強さを感じさせてくれた。

 

この本はもちろん今回の東北大地震の前に発刊された本であるが、その中で「老人がむやみやたらと病院に行って薬を貰って高い医療費を使うようなことは自発的にやめなさい」とか「あの人がもらってるのに私がもらってない」などと言って不必要なものまでもらおうとする悪い不平等を自発的に「遠慮しましょう」と言ってる。これなどまさにそうだ。

 

この本、年を取る前にじっくりと読み、年を取ってからもう一度読み直す、そういう何度も読むことが出来る本である。



tom_eastwind at 17:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

2011年04月10日

時は流れて

香港人の英語

 

香港に観光旅行に行った人は、香港ではどこでも英語が通じて楽ちんだとよく言う。これは半分正解で半分間違いだ。

 

観光客が行くような場所では誰もが当然のように英語を話す。そうしないと飯のくいっぱぐれになるからだ。ところが一般の人々が生活をするような街では英語など全く通用しない。例えばぼくが生活をしていた官糖では道端で英語で誰かに話しかけようものなら広東語で「くそったれ」と言われておしまいだ。

 

しかし1990年代はシティのホテルや高級レストラン、金融街や大型ショッピングセンターでは間違いなく皆がそれなりに流暢な英語を話していた。

 

今回は滞在が長く途中に時間の余裕があったので少し街を歩いたりしてたら、とにかく大陸中国人のうるささが目立つだけでなく、道端のあちこちで普通に北京語が使われていた。

 

香港人にとっては1980年代は日本語、1990年代は英語、2000年代は北京語と、第二言語が変化している。

 

彼らの腹の中では「くそったれ大陸中国人め」と思ってるのだがそんなのはおくびにも出さずに大陸レベルの接客態度、つまり店に置いてある商品を盗まれないように相手からいくら金を引っ張り出すかを考えて嘘をつきまくり、最後は売りつけた方が勝ち、買った方があふぉとなる態度で接している。

 

困るのは英語力が思いっきり低下してきたって事で、これは裏を返せばそれだけ中国ビジネスが増大して英語を使う機会が思いっきり減ったって事だ。

 

とにかくホテルに泊まっててもまともな英語が通じない。I’ll let you know なんて言ってもぽかんとされる。「れいたーれいたー」と繰り返してやっと通じる。

 

シンガポールでも道端英語は見事にシングイッシュであり、これに合わせて発音するのは英語圏で生活をする者としてのプライドを捨てる事である。セントレジスホテル(StRegisHotel)は「ッセンート、レギ〜〜ス!」と言わないと通じない。通じないからって彼らのシングイッシュを話すのは嫌だし、だからと言って炎天下でホテルに歩いて帰るわけにもいかない、そこでホテルカードを持って毎回これを提示したのだが、今度はカードの文字が小っちゃすぎて運転手が老眼鏡を右手で上下させながら一生懸命見つめてた。ちなみになぜかシンガポールでぼくが見た運転手は皆中国系だった。

 

しかしホテルや金融街に行けばそこは英語の本場に留学した若者がほとんど完璧な英語を話しており、この点もシンガポールの競争社会の厳しさを感じた。

 

両方の国を総じて感じたのが、国家の相対関係なんて10年もあれば変わるという事だ。

 

1980年代から90年代半ばまでの香港はイケイケであり、一旦カナダに家族で移住しながら旦那さんだけはまた香港に戻って働く「単身赴任」も多かった。

 

ところがその後中国に返還され民主派政治家がだんだん少なくなり子供たちの教育も第二言語が英語から北京語になり、そしてもちろん中国の独裁国家の枠にはめこまれるようになった。

 

つまり1997年から香港は政治の混乱に巻き込まれ経済を誘導する仕組みが弱まり更に中国の意向を聞きながら活動する為にどうしても不明朗な部分が出て来た。

 

ところが当時は数段地位の低かったリークワンユー首相率いるシンガポールはさらに徹底した独裁主義で人々に政治の事を一切考えさせず、子供の教育にむちゃくちゃ力を入れて地元の大学に入学できない子供は欧米の大学で学ばせるのが当然の風潮になった。

 

同時に金融の自由化を図り世界中から誰もが参加出来る市場を作りその公正さを世間に訴えた。

 

とくに有名な事件が2005年に起きた中国航化燃料事件である。シンガポール市場で航空機用燃料を買い付けて中国の航空会社に販売する中国の国家企業であるが、このシンガポール現法の社長が本社が禁じる先物売買をやり大損。そして社長はすぐ中国の実家に逃げ帰った。

 

今までならこれで終わりだったのがシンガポール金融庁は徹底した調査をする為に中国政府に対して社長および北京本社の責任者の召喚及び逮捕まで行った。世界はこれにびっくりした。中国にここまで堂々と対応するなんて・・。

 

他にも日本ではホリエモン事件がある。これは基本的に冤罪であり国策調査だ。しかしシンガポール金融庁としても日本政府として銀行口座情報の開示依頼を受ければ、それにはきちんと対応した。

 

その後もシンガポールは「ごみの落ちてないきれいな街」であり「誰もが金さえ稼げれば永住権が取れる国」となった。

 

方や政治の乱れと経済の不透明化により10年かかってアジアの金融センターの地位をシンガポールに奪われた香港、方や政治を安定させて強い方向性と経済の透明性を表に出して10ねんかけて香港からアジア金融センターの地位を奪ったシンガポール。

 

今これと同じようなことが日本と韓国の間で起きているのではないか?アジア金融危機でIMF管理下になった韓国は危機感をばねに財閥解体、老齢者早期退職、海外留学組の登用、韓国文化を世界に知らしめるための映画産業の興隆、政府と民間が一体になった技術開発と世界に向けた販売網の構築。安定した政治と明確な経済の方向性、ここでは競争に負けた者は去っていくしかない。

 

ところが日本ではいつまで経っても不安定な政治、不明朗な経済の方向性、更に意味不明な官僚による縄張り争いとしての規制、国民はそんな中で過去の遺産を食い潰しながら「おい、平等なんだ、おれにも一個よこせ」と不要なものまで受け取ろうとする。

 

韓国は日本より少ない人口であるのをばねにして海外に販売網を展開してその際に役立ったのが留学組の英語力であった。

 

今の日本は英語を学ぶための留学もせず海外に目を向けずひたすら国内でぶつぶつ言ってるひきこもりのようなものだ。スペインやポルトガルのような超大国でもいつの間にか過去の国になった。今のままでは日本が韓国から抜かれる日が数年後に来てもおかしくはない。

 



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2011年04月09日

日本人の諦観

 

良い意味でも悪い意味でも日本人は忘れやすい人種である。それは日本という土地や空気や水に関連するのだろうが、今回の地震も常に自然と共存する地元の多くの人にとっては「起こったことは仕方ないこと、前に進もう」と言う意識が出始めているのではないか。

 

このような前向きの姿勢が良い意味での忘れやすさであるとすれば、悪い意味での忘れやすさは原発であろう。毎日のマスコミ報道にも次第に慣れていき、「お、今日は放射線がこっちに降ってくるぞ、子供には傘を持たせなきゃ」と言うことになる。

 

ただ、同じ災害でも一発で終わってしまう自然災害である地震と、これから何年もつきあっていく必要のある放射線、その放射線が生み出す被曝した子供たちの将来における障害についてはどう考えているのだろうか?

 

Wrong time, Wrong place, 悪いときに悪い場所にいたもんだって英語があるが、人が自分の5分後の出来事を予測できないのだから、そこにその時間にいたって事がその人の責任であるってのは言えない。

 

ただ、そこにいればどうなるかってわかっていても「今、目の前に起こってないから」って理由だけで何の対応もしないってのはどういう事だろう。

 

そう考えていたらある人から「日本人の諦観」ってのを教えられた。

 

どうやらほとんどの日本人は一定の状況下になると蕭然とその状況を受け入れる要素があるって事だ。

 

そこでぼくは気づいた、あ、おれ、やっぱりかなり変わった日本人だわなって事を。子供のころからそうだったな、いつも人と違う事をしてそれを先生に指摘されても何が悪いか分からなかった。

 

おれの人生をどう生きるかはおれの決める事、先生はおれの人生の責任を取ってくれないわけだし他人についていってもレミングの集団自殺になるってわかっている時は絶対についていかない。

 

そういえば子供の頃からいつも危険と隣り合わせに生きて来たけど、いつも危険はぼくの両耳の横を物凄い勢いで通り過ぎて他の人を襲ってた。

 

1988年、バブルがはじける前に日本を飛び出した。あのまま日本にいたらどうなってただろう。

 

偶然ながら最初の滞在先で選んだクイーンズタウンでは、その頃は日本のハネムーンブームで大忙し、観光ビザで入国して2か月後には何の審査もなく永住権を取得した。今ならあり得ない話である。

 

1991年に奥さんの強い希望で香港に移住することになった時も、香港には誰も知り合いがいない状態でのまさに落下傘降下であったが当時の香港は返還前景気でハンセン指数はうなぎのぼり、街は盛り上がっており面白いほどに仕事が取れた。

 

香港に移住して1年後くらいかな、クイーンズタウンの知り合いに電話すると「日本からのハネムーナーが激減しだした」というのだ。バブルの崩壊である。

 

1996年にこれもまた奥さんの強い希望で香港を出る時も周りの連中からは「なんでこんな好景気の香港から離れるんですか?」「だって奥さんがそう言うんだもん」

 

オークランドも1996年当時はさびれた街で、土日となるとKロードからQuayストリートまでの約20ブロックをスケボーでノンストップで駆け下りられるくらい一台の車も走ってなかった。(あくまで比喩、“くらい”です、 実際には5分に1台くらいはクイーンストリートを横切ってました“笑”)

 

ところがその後ニュージーランド政府およびオークランドシティカウンシルの大幅な政策変更で街中にアパート建設が始まり、東南アジアから語学留学生を呼び寄せて一気に景気が上昇、不動産価格は急上昇して給料は毎年10%賃上げである。その後もオークランドは上がり下がりがあるものの、基本的に右肩上がりの上昇だ。

 

そんな中で会社を作って何とか運営して、ふと時間が出来た1998年に香港の昔の職場に電話すると、ぼくがいた時代のスタッフは半減されて仕事量は激減、利益は日本から出向した社長の生活費を賄うにも青息吐息であった。

 

毎回こうなんだよな、いつも滑り込みでセーフしているんだよね、振り返ってみてそう思う。虫の知らせと言う訳ではないだろうが、背後霊のおかげ(笑)でもないのだろうが、その場その場では苦労しているのだが、振り返ってみると常に正しい場所に正しい時にいることが出来た。

 

そんな人生なものだから、政府広報よりも自分の肌感覚を常に大事にして、「気の流れ」に常に注意を払っている。そして今の日本で感じるのが、まさにこの「気の流れ」である。

 

地震だけではない、戦後の日本が抱えてきたものが今まとめて噴き出し始めている。肌感覚で感じてたけど言葉にできなかった部分だが、偶然お客様から頂いた曽野綾子の本を読んで「あ、これか!」と気づいた。

 

それは「くれない病」である。日本人は常に「あの人はこうして“くれない”」とか「この人に言ったのにやって“くれない”」とか、さらに「次にその店に行くんだったら私を連れてって“くれない?”」から「あ、あの人に会うんだったらxxと言っといて“くれない?”」である。

 

同時に日本の戦後教育が作り上げた間違った平等だ。あの人がこうなのに何で私はダメなの?例えば被災地に100個のパンを届けると「うちは101人いるので不平等になります、受け取れません」となるのだ。

 

そんなもん、100個のパンを少しづつ分け合えばいいだけだろ、そんな機転も利かない戦後日本の間違った平等教育が今日本を支配している。

 

他人に無責任に甘えて間違った平等に乗っかって、その結果として出来上がるのは硬直化した、つまり1950年代のロシアや中国のような、皆が右を向いた時に一人だけ左を向いたらその場で殺される、そういう時代だ。

 

地震は一過性であるが教育と社会は毎日付き合っていく必要がある。戦後、中国とロシアが仕掛けた共産教育=日本を骨抜きにして自分たちの農場としようとした、その戦略が今成功している。

 

日本人の主体性を失わせる、その一点において日教組は成功して、その結果として日本人は恐ろしいほどバカになった。バカが子供を産むのだから家庭教育なんて出来るわけがない。結果的に子供は更に洗脳されたスーパーバカになる。

 

この地震復興を機会にいろんな連中が自分の仕掛けを用意している。その中には右翼も左翼も官僚も政治家もいる。この仕掛けに引っ掛るのは何も知らない国民である。

 

それでもたぶん、多くの日本人は諦観を持って「まあ、そんなもんかな」と諦めながら、明日も畑に出て、外国人に飯を食わせる仕事をするのだろう。

 

何だか知らないが、今香港にいるがここもどうも「むずむず」する。たぶんこれは昨日と今日の昼間シティを歩いてあまりの多くの大陸中国人を見たからだろう。出張の予定を切り上げて早くオークランドに戻ろうと思う。

 

 



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2011年04月08日

香港の和食屋にて

【香港=槙野健、シンガポール=岡崎哲】福島第一原発事故で日本在住外国人の国外退避が相次ぐ中、香港が「有能な人材を呼び込もう」とビザ審査手続きを大幅緩和した。

 

 これに対し、シンガポールなど周辺国は「流出は一時的現象」と冷静。香港は国際金融センターを支える人材の流出に悩んでおり、震災がその危機感をあぶり出した形だ。

 

 香港政府による特別措置は3月17日から開始。通常4〜6週間かかるビザ審査期間を2日間に短縮し、3月末までに日本滞在者270人にビザを発給した。うち158人が就労ビザで、その約8割が月収10万香港ドル(約110万円)以上の投資会社幹部や証券アナリストなどの専門職という。

 

 入管当局幹部は2日の記者会見で「ビザ発給を迅速に行わなければ、他国に人材が流出する」と発言。国際金融センターとして競合関係にあるシンガポールへのライバル意識をむき出しにした。

 

 一方、シンガポール政府は、東京からの人材流出は一時的なものとみており、香港の対応は「過剰」と映っている。

 

2011472159  読売新聞)

 

今日の香港は晴れで25度くらいか。せっかく香港にいるのでチムシャツイの吉野家で牛丼を食べる。ぼくが香港で初めて吉野家の牛丼を食べたのは90年代半ばのアドミラルティ(金鐘)だった。

 

当時のオフィスからも歩いて10分程度なので頻繁に利用していたが、当時は香港人に対してどのように料理を提供すれば良いか分からず手さぐりしながらのオペレーションだった。

 

朝ごはんとして吉野家に来てもらう為に牛丼のごはんの代わりに即席めんを使ったりした。地元の日本人からすれば「吉野家ともあるものが何をするか!」だった。最初は生卵を出す時期(冬場)もあったがそのうち通年で生卵はやめになった。

 

地元の生卵の鮮度管理を考えればそうなるのだろう、「ぼくは死んでもいいから生卵を売ってくれ」と言っても「NO」と言われたのを覚えている。サルモネラたっぷりの生卵でも消化する自信はあったのだけどな(笑)。

 

そうして今、吉野家は香港のあちこちで「大家楽」や「家郷鶏」と同じ地元民の定食になっている。

 

狂牛病騒ぎで日本で吉野家で牛丼を食べられなかった時期、香港の吉野家で牛丼を食べるのがとっても楽しかったのを覚えている。

 

投宿先のシェラトンホテルにある日本食料理店「雲海」にお客と同行した。ここは寿司カウンター、鉄板焼き、テーブル席と3つの島に分かれている。鉄板焼きカウンターは地元香港人家族で大賑わい、テーブル席もカップルなどでほぼ満席であった。

 

ところが寿司カウンターの客はたった一人だけ。職人二人がヒマそうにしている。テーブル席について「ひらめの焼き物」を注文すると、最初は「はい!」って返事だったのが3分もせずに戻ってきて「すみません、ひらめは売り切れです」

 

ふ〜ん、じゃあタイは?イカは?何の焼き物ならあるの?答えは「タイの兜焼しかない」。

 

事ここに至って気づく。この店でも先週のシンガポールの日本食店と同じで、魚は築地から仕入れているのだ。そしてうちの店でも使っているからわかるが「タイの兜焼き」は冷凍ものが手に入るから、これが本日唯一提供出来る魚料理となる。

 

じゃあ寿司ネタは?と言うと、じつはかなりのものが中国産のカトキチ冷凍物が手に入るので何とかカウンターに並べる事が出来る。しかし普通に使う魚は築地ルートに固定されており、急に仕入れ先を変更するのが難しいのだろう。

 

そう思ってふと鉄板焼きカウンターを見ると、そこで焼かれているのは豪州産和牛、豪州産ロブスター、なるほどな〜。

 

これだけ日本贔屓の香港でもやはり日本の魚は避けられている。今日のニュースでは千葉産の魚が仲買業者に敬遠されて漁協が「うちの魚は安全だ!しっかりと説明してほしい!」と言ってた。

 

けれど安全と安心は違うのだ。あなた方が昔吉野家に対して異常なまでの反応を起こして吉野家を拒否した事実は変わらない。あなた方自身が「他人事」である吉野家のビジネスに対しては「会社が潰れても自己責任でしょ」と突き放した態度を取った。

 

それが今、北日本の漁協に対して世界が反応しているのだ。シンガポールのレストランも香港のレストランも、なんであえてやばい橋を渡って北日本産の魚を買うか?

 

日本人は「他人事」の時は実にエラそうに理屈ばかり並べてどうのこうのと言う。ところがそれがいざ「自分の事」になると過剰反応を起こして安全でもない魚でも「食ってくれ」と言うのだ。

 

安全でないという書き方が風評と批判されるかもしれないが、ぼくからしたら安全と説明する科学的根拠である数字をしょっちゅういじって嘘ばかりつく政府のいう事など一切信用出来ない。それは水俣病の時でも十分に示された。

 

魚が安全か?ふつうに健全な疑問と高校生程度の知識があれば安全と言えないことなど誰でも分かる。

 

政府としては「風評被害を取り締まる」とか言ってるが、風評ではない場合はどうするのだ。

 

この際ぼくは政府の人々に提案したい。それは東京の官公庁で働くすべての人々が政府の予算で魚を全量買い上げして、官公庁の職員及びその家族、生まれたばかりの子供を含めて毎日三食北日本産の魚を食べて10年にわたって安全性を証明してもらいたいって事だ。



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2011年04月07日

香港出張

急な出張で昨日のキャセイ航空108便で香港入りする。シンガポールに比べて少しおとなしい感じだが景気の戻りを感じる。

 

香港ではまだまだ日本の存在感があり、ホテルではNHKが見られて部屋に届けられる新聞は日経だ。

 

日経のトップニュースは世界的な金利上昇だ。リーマンショックで世界各国がお金を刷りまくってそのお金がいよいよ経済にバブル的過熱を与えている。

 

そんなニュースの中でも日本だけは地震と原発で経済の不透明さが表れており、その上各国が金利を上げているものの日本では金利上昇が出来ずに世界各国との金利差が発生、これが円売りにつながっている。

 

長期的に見ると外資が日本から流出する方向性だ。その理由は二つあり、一つ目は原発事故における日本政府のあまりに不透明な対応で、「日本人は、まったく意味が分からん」と言うことと、二つ目は今後予想される東京直下型地震である。

 

外資からすればオフィスをどこに置くかは政治の安定性、経済の透明性、法治国家である事、そしてオフィスのある地域の物理的安定性である。

 

政治が不安定であり経済は官僚に統制されて見えない障壁がたくさんあり法治国家と言いながら後出しじゃんけんのように法律の解釈を変更する。

 

そのうえ今回の原発対応で日本政府の外国政府に対する情報提供の不透明さ、自国民にひたすら事実を隔して情報統制を行い、今までは原発は安全だと言ってていざ事故が起きると今度は「安全だ、気にするな、大したことはない」と言いだした。

 

これで原発が爆発しても「大丈夫だ、大したことはない、気にせずに仕事を続けてくれ」とでも言うのだろうか。これではどうやって自社の社員を守って行けるのかとなる。

 

「やってられんな全く、日本は経済がでかいから支店置いたけど、これで次に地震が来るとなったらわざわざ東京に置く必要もないだろう」と言う話になる。

 

これだけインターネットが普及して航空機の長距離化高速化が進めば、あえて東京にオフィスが必要なのかと言う事になる。

 

こんな事を書くと必ず出てくるのが「そんなガイジン、出てけ!」であるが、今の日本の経済は世界とリンクしていなければやっていけない。感情論で突っ走っても意味はないのだ。

 

地震は少なくともどこでも起きる可能性がある。これは当然だ。しかし問題はその対応なのである。地震が起こった時に社員を守るためにどうすれば良いか?今回明確になったのは、日本政府は国民を守るよりも国家を守ることを優先する姿勢を明確にした事だ。

 

NHKのニュースを見てたらどこかの大学の教授が「世の中にはいろんな危険があるものですよ、少しくらい我慢することも必要ですよ」と言ってた。そうかそうか、我慢しろってか。けど我慢する必要のない人間にとっては出ていくという選択肢もあるのだ。 



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2011年04月05日

Liar's Poker  (嘘つきポーカー)

米国からもすでに何度も指摘されているのが「日本は危機感あるのか?」だが、ありますよ、ちゃんとある、どのように国家の仕組みを守ろうかと毎日危機感を持って対応している。

ただ対応策を考える時に常に「民間人の存在は無視している」ってだけで、それが米国からしたら「危機感あるのか?」って話になるだけだ。

 

何故なら米国からすれば民間人の命を守ることが何より優先するのに日本では民間人の命よりも政府の維持を最優先するから、彼ら単純な米国人からすれば「おいおい、国家は国民を守るために存在するんだろ!その国民の危機なのに何だこの対応は!」ってことになる。

 

確かに英国系の人々には非常に理解出来ない考えである。彼らは1600年代の権利の請願から始まり常に権力と戦いながら自分たちの権利を守ってきた。国民の権利や自由と財産は国民に相続されていると学んでいるからこそこの権利を守るために常に注意深く政府の行動を監視する。

 

国家は国民の集合体であり国民の間の調整機関であると考えている。権利は自分たちで勝ち取る事を理解しているし、それは国民の個人力を強くしている。常に堂々として周りがどんな格好をしてても気にしない、自由闊達な雰囲気を作る。

 

このあたりが日本人のいつも誰かに頼っているようなきょどきょどと踊った目つきや外出時に着るものさえも周りの視線を気にして彼らと同じような服を選ぶ文化と異なったものとなる。

 

日本では豊臣秀吉の時代あたりから牙を抜かれた百姓が領土の領民となり徳川に引き継がれて3百年の平和を貪った。その結果「こんな官僚独裁も悪くないじゃん、何かあれば大岡越前や水戸黄門に泣き付けばいいんでしょ」と言う文化になった。

 

自分で何も考えなくて良い、選挙に行かなくて良い、難しいことはお上がちゃんとやってくださる、時々お上が怒ることがあるが、そんな時は逆らわずにじっと下を向いてれば明日はまた晴れだ。

 

統治と言う意味では統治する側に置いては実に便利である。釣り師に釣られて死ぬるまで漁場に戻る習性を付けられた魚のようなものだ。

 

だから災害が起こっても一致団結、ではなく元々が自己判断をせずに常に集団で行動をすることを習性とする為に「いつも一緒=烏合の衆」になってしまうのだ。

 

日本政府が一番恐れるのはこの習慣が裏目に出てしまい、政府に向かって一致団結して攻撃を始めた場合である。こうなるともともと理屈なんてないから徹底的に政府を攻撃にかかる、自分の命を捨ててでも今自分が所属する組織の為に「カミカゼ」となって自殺攻撃をすることさえ厭わなくなるのだ。

 

だから日本政府が一番恐れるのは民衆のパニックによる無政府状態であり数千院が将来ガンで死亡する率が高まろうがどうでもよい、大事なのは、今全体のバランスを取って国民を政府に刃向わせない事なのだ。

 

放射能に関する記事は日本の記事を読んでいるだけで山ほどのミスリードやポイントを外した説明を見ることが出来る。ちょっと自分の頭で検証すれば分かるのだが、それをしようとしない。

 

何故ならお上が「大丈夫、直ちに健康被害は出ないから」と言ってるし周りが誰も動いてないからだ。

 

これが日本の国民性でありどれだけ経っても英国系の人々に理解出来ない理由である。片方は個を守るために武器を取って国王と戦って権利を勝ち取った。片方は政府を守るために普段はこえ担ぎと年貢納めをして武器の代わりにクワと鋤で田を耕してきた。

 

あるお客様から送られてきたメールによると大前研一の原発批評が政府にとって大きな問題になっており、何とかそれが一般国民に気付かれる前に消してしまおうと躍起である。

 

インターネット以前であれば情報統制は可能であったがネット社会ではすでに不可能な話である。問題は、日本人の多くは今だネットは騙しと思ってる人が多い事だろう。

 

どっちが騙されているかに気付いた方が勝ち、まるでLiar’sPoker(嘘つきポーカー)の様相になってきた。

嘘つきポーカーにおいては騙された方がかもられるがカモられてる最中はそれに気づかない。ゲームの最後にせーのどん!で全員が手札を見せて初めて「おれ、かもられてたんだ・・・」と分る仕組みだ。



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2011年04月03日

魚が出て来た日

1968年のSF映画の題名だ。原爆と放射線物質を積んだ爆撃機が地中海の小島で墜落、二人のパイロットは墜落寸前に2発の原爆と放射線物質を落下傘で落とすが原爆は海中へ、放射線物質は小島に落ちる。物語はそこから始まる。

 

地中海の小島に落ちた原爆と放射線物質を秘密裏に探す政府部隊と彼らがばら撒く「島ごと売ってくれ、観光地にするから」と言う言葉に踊らされる島の人々。最後まで事実は知らされずに衝撃的な結末で終わり、当時の人々の原子力開発に対する理解や姿勢が良く分かる。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=8525
 

「鹿島灘の魚は安全です!」茨城県の漁協が4月2日に安全宣言を出した。茨城の野菜は、安全なものもありますからぜひとも買ってくださいと農協が訴えている。

 

放射線には人間が勝手に決めた県境も漁協の権利も関係ない事だ。つまり3月11日から「非常に強い放射線」が原発から茨城の土地や海中に流れ出しており、放射線の放出を完全に止めることが出来るのは数か月後と言う細野首相補佐官の発表があったので、それまで放射線は福島の海を中心に周囲にずっと流れ出していくという事になる。

 

「ただちに健康に被害が出る量ではない」なら、一か月の間ずっと身体に放射線を浴びても放射線を浴びた野菜を食べて放射線をのみ込んだ魚を食べても安全なのか?

 

水銀に汚染された水俣でイタイイタイ病に罹って多くの方が亡くなった時も政府は経済開発を優先させて水銀汚染の事実を一年間公表せず更に多くの人災被害者を出した。

 

ぼくは北日本の地理に詳しくないので福島のすぐ南にあるのが茨城県だとはあまり認識しておらず、今回の事故で初めて「こんなに近いんだ」と思った。これだけ近ければ被害が出ないってのは言えないだろう。すでに茨城の魚や野菜の購入を制限する動きが出ている。

 

政府は危機対応については全くのバカだが正確な放射線の流出量を把握して今後数か月にわたって海中に流れ出した場合の被害想定と言う高度だけど単純な作業はお得意である。すでに政府は実際の放射線流出量を把握しているだろうしそれがどの程度の被害になるかも理解している。

 

しかしもし政府が民間に対して正確な情報提供をしていないとしたら?情報統制されているとしたら?「情報操作などは絶対にありません」と水俣イタイイタイ病事件の時も農林水産省、経産省の役人は口を揃えて「水俣の病気とチッソ工場が海に流す水銀には何の関係もありません」と言い続けたのだ、経済優先と言うお国の御旗のために。

 

そのような体質を持つ国家が敗戦前夜の満州で一般人を見殺しにして水俣で人々を病死させた国家が、「今回は本当です、正確な情報を提供しています」と言ってどれだけ信じられるか?

 

今回の政府の錦の御旗は「パニックを起こされて経済活動が低下しない為に」である。東京の経済活動が崩壊した場合の被害想定は出来ている、パニックさえ起こらなければどうやら東京なら大丈夫だ、いや、この大丈夫って意味は、これからの放射線被曝による死者が長い時間をかけて出てくるだろうが、それが数千人であろうが東京全体の経済からすれば大したことはないって意味だ、本気でそう考えるのが政府である。

 

数年前に狂牛病が日本を襲った。それは多くの人が今でも覚えているだろう。あの時吉野家の安部修二社長は「安全と安心の違い」について出来るだけ多くの人に分かってもらおうと自分の意見を展開した。

 

その頃の日経ビジネスでも特集を組んで、安全は基準で図る事が出来てそれをクリアーすることは出来る、しかし安心は基準がなく一度パニックになると合理的な理由もないのに不買運動が起こる、これにはとにかく情報公開と同時に啓発が必要であると。

 

他社はすぐに豪州産の牛肉などに切り替えたが味にこだわった吉野家は米国産の牛肉がなければ牛丼は出さずと言う徹底した姿勢だった。それでも人々は吉野家の牛丼を食べずに吉野家は大きく業績を落としてしまった。

 

その時どれだけ多くの人々が米国産の牛肉を批判しただろう。プリオン体とプリン体の違いも分からないレベルの人間が「まあ、米国産の牛肉って怖いわ、今日はお魚にしましょ」となった。

 

その時米国政府は「牛肉は安全だから食ってくれ!」と州知事がビーフステーキを食べるパフォーマンスをしたにもかかわらず「安全だけど安心ではない」からと全然米国産の牛肉を買わなくなった。

 

今回の事態はまさにその正反対である。政府は何の根拠も示さずに安心しろと言ってるのだ。悪いが僕は今までの日本政府のやってきた事を自分で見聞きしているので今回の安心話も与太話としか取れない。

 

シンガポールの老舗寿司屋に行った時のこと、店主は「良い魚入ってるんですよ、食ってくださいよ」と勧められる。地震以降地元客が刺身を食べなくなっている。東北産かどうかに関係なく、築地から来る魚と言うだけで拒否反応を起こしているそうだ。

 

築地から送られてきた魚が東北産でないのは、東北で漁業が再開されていないってのだけで分かる事だが、これはもう安全と言う感覚でなく、なんで今あえて日本産の魚を食べないといかんのかと言う地元の人々の正直な感覚であろう。

 

その発想でいけば日本産の食物は当分食べないってことになるのは自然の理屈だろう。外国人卸売業者からすれば嫌がってる人の口に「茨城の野菜は安全だ!」と言っても誰も食べない事を知っているから仕入れをすることは当分あり得ない。

 

結局人は安全と安心の関連性を冷静に判断することはない。日頃からそういう事を考える訓練をしていないから、いざとなった時に思考停止してしまい、政府のいう事をそのまま信じて安全だけど安心できない吉野家の牛丼は食べずに、安心だけど安全ではない茨城の食物を買う事になるのだろう。



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2011年04月01日

逃げろ!

月曜日の真夜中過ぎのフライトでシンガポールへ。火曜日の早朝シンガポールチャンギ空港到着後にランチミーティングを行う。仕事は超忙しいのだが、ちょっとでも時間が空くとぼけーっとしている。どうも自分の体が東北の震災時のどこかの場所と同期しているようだ。

 

早く逃げろ!そう言ってるのだが次の瞬間には自分が波に飲み込まれている感じ。寝ててもふっと見える夢があまり夢ではなく既視現象のような、今まで一度も行ったことがない場所に自分の体があって、古い木製の細い階段を上がったり下がったりしながら次々と違う場面にぶつかる。

 

シンガポールは32度、人々は優しくてちょっとしつこいくらい話しかけてくるが、総じて賑やかだ。景気の良さを感じる。こんなちっちゃな島を一つの独立国家として創り上げて今の繁栄をもたらしたのは一重にリークワンユーの努力が原因である。

 

貧しい人を国家組織として守る一方、成長しようとする国民には手を差し伸べて誰でもどんどん上に行ける仕組み。その結果として埃の舞う建設中の道路の端っこで汗をかきながら働く外国人労働者とその横を走る高級車に乗る地元シンガポーリアンがいる。

 

ドバイと似たような構図だな、そんな事を思いながらシンガポール金融庁ビルに入居している弁護士事務所を訪問する。

 

今回のシンガポール出張の目的は日本とニュージーランドを繋げる中継地点としての基地設立である。

 

こちらの考えているビジネスモデルを説明すると、「へー、これって日本では一般的なのか?」と聞かれた。東京でもニュージーランドでも同じ質問をされたが、誰もまだやった事のない全く新しいアイデアである事を説明する。

 

「へー、こんな事、出来るんだ〜、全部を見てしまうと“え!”と思うけど、一個一個をばらしてみるとごく普通の事なんだよな」最後にはそう納得してくれるのだが、洋の東西を問わず弁護士は頭が固い。

 

飛行機では飯も食わずにひたすら寝て、アポを全部終わらせた後はシンガポールの燦々と降り注ぐ太陽とショッピングモールを全く無視してカーテンを全部閉め切って寝た。

 

髪を振り乱した生首が正面から飛んでくる。自分の頭の左側にぶつかって、思わずベッドの中でのけぞる。右手の上の方には欄干にぶら下がった和服の女性の死体が見える。

 

昔からこんな場面に遭遇しているからもう慣れた。無理に体を動かさずにその場の流れに乗せていくとそのうちに古い田舎の家の薄暗い廊下にたどり着く。廊下の突き当たりの左側に障子のようなところがあり、そこを潜り抜けると次にまた長い廊下があり、階段を上がったり下がったりする。

 

そんな事をしているうちにどーん!ってすごい音がして体が舞い上がるのを感じる。本当にベッドから持ち上がって宙に舞っている感じ。

 

そこで目が覚めて体中が汗びっしょりで重くなっているのに気が付く。シャワーを浴びてもまだ生汗が出る。時計を見ると午後5時。前日の夕食から計算すると約24時間何も食べてない事に気づき、ホテルのバーでサンドイッチとジントニックの夕食を取る。

 

月曜日以降、原発はまるで何もなかったかのように静まり返って、しんしんと放射能を東北日本に降らせている。

 

サルコジが日本を訪問してネタ探ししている。プーチンは日本人に「サハリンで仕事提供しますよ」だって。お人よしの米国は自国の軍艦出して原子炉に真水注ごうとしてくれてる。こういう時は歴史的に性質の悪い欧州よりも単純なお人よしの米国人に親近感を覚える。

 

行きつけのバーで震災の話になる。そこで働いている彼女は埼玉出身のワーホリだが親戚の多くは東北にいるので毎晩電話で喧嘩になるという。

 

「あんたは外国に行った人だからエラそうなこと言うけど、こっちではみんな一致団結してるんよ、外国に行くなんて考えもしないわよ」そういう母親の上にも放射線は降り続けている。

 

日本人は土地と共に死ぬことを潔良いと思うのか?少なくともぼくは逃げる。空から降ってくる放射線は竹槍や団結では止めようがないのだ。おれって日本人の皮をかぶった外国人か?自分でだんだん疑問が湧いてくる。

 

けど、ぼくが何人と呼ばれようが、自分が変わることはない。生きて生きて生き抜く、どんな状況でも最後まで戦う。いつの時代もそうやって生きてきた。それをもって潔くないと言われるなら、日本人らしくないと言われるなら日本人の名前を返上しても結構。

 

ぼくの前に道はない。ぼくの後ろに道は出来る。人は一生懸命に生きてこそ人であり、どうしようもない時におたおたすることはないけど、そこに可能性がある限り精一杯努力をして生きたいと思う。

 

シンガポールでの仕事も金曜日に終了、これからSQ285便、20時45分発のフライトでオークランドに戻る。

 

シンガポール滞在中に突然の案件が飛び込んできた。この件、実現するようであれば4月上旬には北京に出張になりそうだ。世界は動いている。焼け跡からでも立ち上がって、戦って前に進んでいくしかない。ぼくの前には焼け野原しかなくても、そこを歩けばいつか道が出来る、そしてそこを人が歩くようになる。

 

僕の前に道はない、僕の後に道は出来る。たとえそれが逃げることでも。



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