2005年07月21日

2003年3月 漁船に乗ってきた移民たち

漁船に乗ってきた移民たち

 

1900年代初頭に、日露戦争で賑わう日本を背にして多くの漁民が北米大陸に渡ってきた。彼らの多くは太平洋側に住み着き、乾ききった土地を耕し、山地を開墾し、持ち前の一生懸命さと勤勉さで現地社会の発展に尽くした。

 

特にバンクーバー、ロサンゼルス等では当時から日系新聞も存在するほど多くの日本人が住み、白人からの差別を受けながらでも「郷に入らずんば郷に従え」と、積極的に外国人社会に溶け込んでいった。

 

そして荒れた畑を耕し野菜を作り、子供には片言でも英語で話しかけ、日の出前から日沈後までも働く日本人の働き振りと正直さは、ストレートを好む米国人社会にいつの日か溶け込んでいった。

 

その中でも米国に移住したフレッド和田は、戦前は日本人社会をまとめながら野菜店チェーンを広げ米国人や日本移民の間で信用を得て、戦時中は収容所に入れられながらも、戦後再度ビジネスに活躍し、戦後間もないロサンゼルスで開かれた水泳選手権で、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古川広之進をサポートした人としても有名である。

 

カナダに移民した人たちも、その悩みは、毎日いかに生活をしていくか、何を食べるかという事に集中しており、将来の事など考える余裕は到底無かった。「日本人同士の団結と地域への融和」という二つのテーマを持ちながら生活してきた彼らは、気づいた時には既に二世、三世の時代になっており、子供達は近くの道端で地元の子供たちとベースボールをする、完璧なカナダ人になっていた。

 

今バンクーバーで働く60歳台の日本人寿司シェフは、カナダ生まれのカナダ育ちだ。当然ネイティブの英語を操る。アルバータ州の郊外の農場で、アルコールランプしかない掘っ立て小屋に生まれた彼は、貧しくとも一生懸命働く両親の手伝いをしながら夜学を終え、バンクーバーに出てきて仕事を見つけ、最近やっと生活が安定してきた。日本語は、ご両親の方言だけを聞いて育った為に、どこか違和感を感じる。

 

彼のような人たちは今、カナディアンである自分のルーツを探している。二世や三世は親から日本の事を殆ど何も教えてもらっておらず、また教えてもらう余裕も無いまま生きてきた。自分の祖先がどこから来たのかも分からない。

 

徒手空拳でやってきた移民の生活に余裕が出てくるのは、通常二代目くらいからだ。20世紀も終わり頃になって、日系移民は初めて自分の過去に興味を持ち始めたのだ。移民が始まって約100年かけて、過去を振り返る時間が出来たのだ。

 

今カナダのテレビでも女優として活躍している日系三世の方は、おばあさんの言葉だけを頼りに日本で過去を探し、最近ついに家族を探し当てた。

 

永住=移住とは親だけの問題ではなく、その後生まれてくるすべての世代に影響する問題である。「郷に入らずんば」で溶け込む事は日本人の得意技だが、その子供達が将来根無し草になると感じた事はあるだろうか?英語を覚え、海外生活を覚えても、その根っこのところがどこかに定着していないと、子供は言葉にならない不安を感じるものだ。そしていつの日か、心の安定を求めてルーツを探しに旅に出る。

 

いずれは溶けるアイスクリームのような民族性。アイデンティティを守るという中国的発想はそこにはなく、子供に英語のみを教える日本人文化。今、バンクーバーの日系三世の多くは日本語を話せない。

 

カナダ移民は、アイデンティティとは何か等を考える暇もなくカナダに溶け込んだ。彼らは祖先が日本出身というだけで、今は完全にカナディアンである。我々がここから学ぶべきは「歴史」だろう。

 

今、ニュージーランドの移民は多くが一世である。そして昔の移民に比べれば生活の余裕もある。移民は決して流行ではなく、生活の一大決心であるし、その影響は親だけではなく、子供に大きく現れる。日本語を教えずに日本文化を教えずに育てるのも一つの選択だろう。

 

しかし、子供の選択の可能性を出来るだけ多くして、子供の心に将来生まれるであろう「私は誰?」という質問にいつでも答えられるような環境作りも、親にとっては大事な問題ではないだろうか。よく「日本人と付き合うと〜」等と聞くが、その場限りの格好良さよりも子供の将来を考えた生活設計を考えるべきではないだろうか。

 

アイデンティティは、時には母国の為に祖国と戦う事を要求する。



tom_eastwind at 21:21│Comments(0)TrackBack(0) 2003年 移民昔物語  

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