2005年07月22日

2003年12月 宗教紛争から国際紛争へ

タイトル

Twelve・Y・O−2

 

小見出し

宗教紛争から国際紛争へ

前回で述べた通り、歴史的にはイスラムとユダヤの対立は比較的少なく、聖地パレスチナでも3宗教が共存する時代が続いていた。しかしそれも欧州にロスチャイルドが現れ、国際社会の中でシオニストとしての発言力を持ち、それに迎合する英米政治家が現れるまでだった。

 

本文

土地争い

今世界を揺るがすテロ事件の根源であるパレスチナ問題は、平穏に住んでいる人々を政治力と暴力で追い出したという意味では成田闘争や地上げと同じだ。そこにユダヤ対イスラムと言う宗教を絡めたから話がややこしくなった。

 

この土地争いを首謀したのは1914年当時のイギリスである。中近東は元々イスラムの支配地域であり、税金さえ払えば「信教の自由」が認められていた場所であった。そこに自らの利権を獲得する為に三枚舌外交を行って人種問題に火をつけたのがイギリスであり、その結果としてクルド人難民問題、イスラエル問題、そして現在のアル・カーイダ、テロへ連綿と繋がっているのだという事は、しっかり認識しよう。

 

それでは、具体的にどんな三枚舌を使ったのだろう?

 

一枚目

フセイン・マクマホン書簡 (1914年)

アラブ地域の豪族であるフセイン(現ヨルダン国王の先祖)と、アラブ地域にアラブ人独立国家を作ることを取り決めた契約。当時トルコの支配下にあったアラブは、この契約を信じてトルコへの反乱を行った。この時イギリス側から送り込まれたのが映画でも有名になった秘密情報員「アラビアのロレンス」である。

 

戦後アラブは独立宣言を行ったが、結局イギリスによって阻止され、その土地は更にイギリスの信託統治領とされてしまったのだ。

 

二枚目

バルフォア宣言(1917年)

時のイギリス外相バルフォアが戦費獲得の為に欧州の銀行家ロスチャイルドから借金を行い、その際に交わした契約がバルフォア宣言である。戦後のパレスチナにイスラエル国家を樹立する事に賛同するという内容だ。しかし当時人口比はアラブ人683,000人に対しユダヤ人60,000人であった。

 

6万人が68万人を支配する?という非常識がどうして発案されたか?それが前回の旧約聖書に出てくる「神とユダヤ人の契約」である。ユダヤ人からすれば、2000年以上も前に神から授かった土地であり、そこに誰が住んでいようと関係ないという訳だ。

 

2000年以上にわたりパレスチナの土地を離れ世界を放浪したユダヤ人たちは、行く先々で差別や弾圧、時には虐殺さえされた。そんな彼らが19世紀頃から自分達の生命と財産を守る為に国造りに立ち上がった。これがシオニスト運動であり、そのリーダー格がロスチャイルドなのだ。

 

一番厚かましいのはイギリスである。元々イギリスの土地でもないものをユダヤ人に「どうぞ使ってください」と差し出したのだ。差し出す方も受け取る方も、そこに実際に住んでいるアラブ人の事は全く考えていなかった事だけは事実である。

 

三枚目

サイクス・ピコ条約(1916年)

敗戦したトルコ領を仏、露等で分割する契約であり、実際には1920年4月のサン・レモ会議において、フランスによるシリアの、イギリスによるイラク・パレスチナの委任統治を決定した。この時イラクが分割され,民族に関係なく国境線を引いた事でクルド人難民問題が発生した。

 

エクソダス 栄光への脱出

1948年、英国のパレスチナ領地権利放棄と同時にユダヤ人はイスラエル国家の樹立を宣言した。この時点で120万人のアラブ人が同じ地域にいたにも拘わらずである。当然これは周囲のアラブ国家の反感を買い、パレスチナのアラブ人を保護する為に戦争が起こった。これが第一次中東戦争である。

 

しかし英米の庇護を受けたイスラエル軍は圧倒的に強く、翌年イスラエルの勝利に終わったが、周囲すべてを敵に囲まれるという異常な状態でスタートした国家は、最初からその「生き残り」がすべての優先条件であった。

 

その為には世界の耳目を集め、世論を巻き込み、この土地戦争に違った視点を持たせる事だ、そう考えたユダヤ人は、「宗教戦争」という視点を取り入れた。多数民族イスラムによる少数民族ユダヤへの攻撃。これにより西洋社会はアラブを正当に攻撃する理由が見つかった。

 

米国のユダヤロビーは、米国在住のユダヤ人500万人の代表として政府を動かして、武器供与、資金供与、兵士の訓練など、様々な援助を与えつづけた。弱いイスラエルを攻撃する悪いイスラム。この構図なら米国民は納得するし、おまけに武器が売れる。死ぬのはアラブやユダヤだ、アングロサクソンに関係のない戦争であれば、良いではないか。これには勿論英仏も乗り、中東に武器を売りまくった。

 

勿論ここで一番の力を発揮したのがメディアである。連日のキャンペーンでアラブ非難を半年もすれば、白いものも黒くなる。こうやってパレスチナ戦争は作り上げられた。

 

この戦いを合わせて合計4回の戦争が1973年までイスラエルとアラブの間で繰り広げられていくが、結果的に領土拡大をしたのはイスラエル側であった。そして戦いの度にパレスチナの人々は当事者としての発言権もないままに、難民ととしシリアやレバノン等に追いやられ、泥の中でテントを張り、戦争の度にどこかの兵隊によって殺され、無視され、その存在は全く片隅に追いやられてしまったのだ。

 

イギリスの帝国主義による利権拡大の暴威の中で振り回されたのがアラブ国家であり、その象徴となったのが「誰も助けてくれない」状態に置かれたパレスチナ難民なのである。

 

CNNを観て外人の友達とパレスチナ問題を語る時は、この背景を理解した上で語るべきであるが、実際西洋社会でもパレスチナ問題が正確に把握されているかどうかは疑問の残るところである。



tom_eastwind at 23:23│Comments(0)TrackBack(0) 2004年 移住とは自分を知る事 

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