2005年07月22日

2004年4月 Twelve Y.O

Twelve.Y.O

 

連載期間中、このタイトルを見て「どういう意味だろう」とお考えの方も多かったと思う。これは福井晴敏という1968年生まれの作家の小説のタイトルであり、彼は米国に帰国したマッカーサーが公聴会で「日本人は12歳の子どもである」と発言した事でこのタイトルを想起したとの事だ。

 

日本人とは何であろう?国家とは何であろう?そういう疑問を持たずに生きてきた日本人が、上滑りの形ばかりの議論をする中で、この小説は世の中に蔓延するすべての中途半端な誤魔化しや現実無視、自己に対する甘えを切り捨てて、読者に対してまるで刃物を突きつけるように答を迫る。

 

戦前は「東洋のサル」と言われ、米国の人類学者から「あと10cm背が高ければ、サルは戦争をしなかっただろう」と言われ、原爆を完成後、すぐに落とす決定をした当時のトルーマン大統領は、その理由を日記の中で「日本人は野蛮人で、無慈悲、残酷、狂信的」」だからとしている。

 

ところがこの狂信的なサルが、戦後は米国が投げ与えた偽りの自由に飛びつき、米国に飼い慣らされたサルになった。本来戦って勝ち取るべき民主主義と自由をただでもらったサルは、その使い方を知らなかった。

 

米国が日本を飼い慣らした目的は、米国の安全保証であり、1950年代当時に米国の敵と予想されたロシアと中国、そして北朝鮮などのアジア敵性国家に対する不沈空母として日本が自衛隊を持つ事を認めた。つまり「自衛」とは言いながら自衛隊が守るべき相手は米国であり、日本自体の生残ではない事を忘れてはならない。

 

ちなみに日本の航空自衛隊は最新の戦闘機とレーダーで世界第三位の要撃力を持ち、海自も米国に次ぐ対潜哨戒機能を持っているが、基地構築や長期地上戦は弱い。この事実が示すのは、敵が攻めて来た時に情報収集をして迎撃の時間を稼いでもらい、捨石になってくれという米国の意思である事は明らかである。

 

しかし戦争に負けた日本には多くの選択肢はなく、こうやって日本は戦後、敗戦を知る日本人官僚集団と政治家が、敗戦の悔しさをバネに日本株式会社として80年代まで一枚岩で米国と渡り合ってきた。

 

しかし彼らが引退した後を引き継いだのは、敗戦の苦しみをしらない、拝金主義や利己主義の政治家と官僚であった。また、たまに本気で国を良くしようと考える政治家がいても、選挙に通らなければただの人である。だから彼らは選挙区からの請託を聞き、法を捻じ曲げる。選挙に勝つ為に企業に都合の良い法律を作り、選挙資金を貰う。政治家の言い訳はいつも「そうしないと選挙に勝たないし、自分の理想の国作りが出来ない」からだ。

 

そこにつけこんだ一部企業や地域の既得権者が政治家を利用し、「おらが村の代表」を国会に送り、「おらが村」だけが金持ちになればよいと言う、今の金権政治の仕組みを創り上げた。その結果、お互いに自分の権利ばかり要求して、国全体の事を考える人がいなくなった。今の政治的混乱は自由の意味を学ばなかった国民が自ら創り出したと言っても過言ではないだろう。その結果失われた10年が発生した。

 

何故日本人がこのようなミスをしたのか?その理由は、中途半端な米国的個人主義が浸透した日本で国民すべての判断基準が「お金」になってしまい、日本人が本来持つ民族性=道徳や社会規範が破壊されたからだ。

 

それでは日本は今後どのような道を進めばよいのか?パレスチナのように西洋に蹂躙されず、米国のような覇権主義を歩まず、正しい道を行く為にはどうすればよいか。

 

その第一歩は、国家と国を混同してはいけないという事だ。「お上」に飼い慣らされた日本人は、国家=国と考えがちだが、「国破れて山河あり」という言葉通り、日本人として持つ民族性は、その属する国家とは関係がない。従って日本人が帰属すべきルールは普遍的な日本民族性であり、期間限定国家(おまけに賞味期限切れ)それもしょっちゅうボスの代わる政府ではないという事だろう。

 

そして大事なのは誰の為に生きているのか?自分が命を捨てても守るべきものは何なのかを徹底的に考え抜くことだ。中国人とユダヤ人はそれを「家族、そして民族特性(宗教も含む)」であると考えている。家族は時代や民族を越えた団結を生み出す。そして家族を離散させずに永遠に継続させる為には民族特性が必要となる。従って彼らは世界中どこに行っても自分の言葉と自分の文化を持ち続けている。

 

しかし同時に、そのアイデンティティが「自分達が良ければそれでいい」的利己主義を生み出しているのも事実である。何故なら彼らの発想は自分達の民族が生き残れば他はどうでも良いという発想であり、民族の壁を越える事が出来ないからだ。

 

だから彼らはその利己主義の為、いつまで経っても他人に好まれない。時代の覇者にはなれない彼らが今目指しているのは、一つの民族による力による全世界支配である。しかしこれは結局パワーゲームであり、いつまで経っても世界レベルの安定した統一はあり得ない。なぜなら力による押さえつけは、力による反発を必ず生むからだ。

 

世界から戦争がなくなればよい、みんなが幸せになればよい。言葉ではどうとでも言えるが、ではその実行の為に何をすべきか?実はここに日本が生き残る一つの道がある。それは全世界全ての人種と宗教を一つの器に入れてしまう、地球国家構想である。

 

かつて藩という国家同士が争っていた。大した違いもないのに、お互いの利権や考え方の違いで争っていた。そこに明治政府という中央集権政府が出来て、軍備の集中と法律の国家的統一整備を行う事で日本という統一国家を造った。

 

その際には勿論多くの人々が反対した。薩摩の人々は自分のアイデンティティを大事にするし、それぞれの地域に独特な文化や風習が残っている。しかしその壁を壊す事が出来たのは、日本人のみが持つことが出来る「滅私」の思想があったからだ。

 

この明治政府構想を世界レベルで当てはめてみればどうだろう?すべての軍隊を地球政府=国連の下に集合させ、地域レベルでの武力は持たせない。無理やりにでも国境をなくして、国家間のパスポートなしの移動の自由を認める。同時に労働の自由を認める。すべての貿易に関税を撤廃する。世界レベルでの法律と地域法律を導入する。そうすれば自ずと、人間が好きな地域がどこなのか分かるだろう。

 

この結果、一時的に人口がゼロになる地域が出てくるかもしれない。水と安全がただで治安が良い日本に人々が集中し、日本は一時的に麻痺してしまうかもしれない。しかしそれでも世界が平和になれば良いではないか。「滅私」である。滅私を美徳と捉える事が出来る国民性。ある意味、他人を無条件に信じる事の出来る国民性でなければ、このような世界的事業は出来ないであろう。

 

水と安全がただの国で生きてきた12歳の子どもたち。机上の空論を振り回していつまでも答を先送りしてきた政治家。しかし世界の価値観が大きく変動する今なら、世界に対してその国民性を発揮する事が出来るだろう。

 

今日と同じ明日は来ない。自分で作り出すのみだ。



tom_eastwind at 19:19│Comments(0)TrackBack(0)2004年 移住とは自分を知る事 

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