2005年08月15日

NZの政治 ロンギの死去に関する追加記事

第2次世界大戦後の2大政党制を支えた3人の首相
キース・ホリオーク、ノーマン・カーク、ロバート・マルドーン


 回は第2次大世界大戦後にできた2大政党制のもとで政権を担った3人の首相、キース・ホリオーク、ノーマン・カーク、ロバート・マルドーンについてのお話です。

 ィリアム・マッセイが政権の座を去ると、時代はすでに移民の時代を過ぎNZ生まれの政治家の時代になっていました。それと同時に、国民党と労働党の2大政党による政治が定着してゆきました。その中で、リチャード・セドン、ウィリアム・マッセイと同じく12年間政権を担当したのが、キース・ホリオークでした。彼は、1960年から1972年まで政権を担いました。彼の任期は、NZが最も恵まれていた時代といえるでしょう。

 
 は1904年にパーマストン・ノース近くのパヒアツアという小さな村で生まれました。学校ではスポーツマンとして知られていて、特にラグビーが得意でした。12歳で学校を終えて農場で働き始め、一日に16時間働き、20歳になるころには、100人以上の季節労働者を監督する職長となっていました。しばらくして南島のモエカツに移り、父親と農場経営を始めた彼は、りんご、梨、煙草などの栽培を皮切りによく働き、父親の出資分を自分で買い取って、独立した経営者となりました。
そのうち村の名士となり、農業団体員、ラクビー、テニス団体の役員なども務め、1931年、28歳で最年少の国会議員として当選しました。その後、1949年の総選挙で彼の属する国民党が政権を勝ち取り、ホーランドが首相、ホリオークは農業相兼副首相になりました。


彼はジョン・リーが始めた国営住宅を払い下げ、輸入制限を撤廃しました。同時に、上院の廃止も行いました。1852年に設立された上院は長く第2院として存在し、議員は首相の任命で選出されていました。しかし、ホーランドは1950年8月17日、廃止に追い込みました。

 この時代はNZに共産主義が上陸した時期でもありました。1950年に港湾労働者のストライキが決行されました。これは1890年の海軍労働者、1912年の鉱山労働者のストライキと並んで、NZ労働争議史上の三大ストライキといわれています。ホーランドは治安維持法に基づき、緊急事態宣言を発令。政府が介入したことでいったん解決したかにみえましたが、1951年2月に再燃しました。この時、政府は組合本部を差し押さえ、ストライキ中の労働者に代わって軍隊が荷積みをしました。これが功を奏し、ストライキは中止され、労働者も職を失うこととなり、その後大きな労働争議はなくなりました。

 ホーランドとホリオークのコンビは、1957年にホーランドが健康を害して、9月に首相を辞任するまで続きました。この8年間にNZは国際的な経済復興の先頭を進むようになり、素晴らしい功績を残しました。しかし、その70日後の総選挙で、ナッシュ率いる労働党にわずか2議席差で敗れ、ホリオーク3年間政権から遠ざかることになりました。1960年の選挙で彼は返り咲き、それ以後1972年まで4回の選挙を勝ち、長期政権を率います。

 初めて首相に就任した1960年、彼はこの時56歳でした。1960年代前半のNZは、1人当りの国民所得は世界第3位になり、住宅環境、医療施設、教育、社会環境、交通施設、犯罪からの安全、自殺率、離婚率などから見た幸福度に至るまで、およそ人間の幸福に関係があると思われる社会福祉度の総合点で世界最高といわれました。彼の政治の特徴はコンセンサス重視であり、会議の結論が出るまで決断しない「待ちの政治」でした。この時代にNZは幸福を享受しすぎたのか、1970年代に入ると経済停滞が始まりました。

 ホリオーク政権当時のNZの外交課題は、ベトナム戦争とイギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)加盟です。彼はベトナムに500名の兵を送ることを決定しました。かつての宗主国イギリスがヨーロッパ諸国との結びつきを強めるにしたがって、NZは太平洋諸国との連携を深めます。NZの通貨がそれまでのポンドからドルに変わったのもこの時期でした。

 彼は1972年2月、健康を害して首相と党首の座を降り、ジョン・マーシャルが首相となりました。彼はホリオーク政権下で長く副首相を務めた人物でした。さらに、大蔵大臣に就任したロバート・マルドーンが副首相を兼務することになりました。しかし同年の総選挙ではノーマン・カーク率いる労働党に55対32の大差で敗れる結果となり、10か月の短命政権に終わりました。

 労働党勝利の原動力は、ひとえにノーマン・カークの個人的魅力でした。彼は12歳で学校を離れ、ペンキ職人、機関車の運転手などをしながら労働党に加盟して、30歳でカイアポイという田舎町の市長に選ばれました。その4年後には国会議員に、1965年には労働党党首となり、1972年12月に首相の座を射止めた後、1974年8月、心臓発作で亡くなるまで務めました。

 結局在職20か月で病に倒れはしたものの、彼はNZ外交に大きな進展をもたらしました。まずベトナムからの撤退。次いで中国の承認、南アフリカのラグビーチーム「Springbok」のNZ訪問許可取り消し、フランスの水爆実験に対する抗議などです。特に水爆実験に関しては1973年6月末、コールマン移住相を海軍軍艦オタゴに乗せ、ムルロワ環礁の実験水域に派遣して抗議しました。この抗議をうけ、フランスは核実験を地上での実験から地下実験に切り替えました。

 カーク首相の死去後、政権はウォレス・ローリングが引き継ぎましたが、彼は1975年の総選挙で55対32で大敗し、かわってロバート・マルドーンが首相に就任します。彼は1984年まで9年間首相を務めましたが、彼の時代はそれまでの繁栄の陰でたまったうみが一気に噴出したような時代であり、経済改革が必要とされた時代でした。1960年代にはインフレは年率2%でしたが、1970年代中期からは2桁台になり、失業率も10%近くになり、財政赤字が国家予算の2割以上に達し、対外累計債務も140億ドルといったどん底の時代でした。

 彼はこの状況を脱却するために、「Think Big」計画を打ち出しました。エネルギー開発計画を中心とする大規模工業計画を推進し、国民に「大きな事を考えよう」と訴えるスローガンです。北島西部のタラナキに合成ガソリン工場とメタノール工場を、マースデン・ポイントには石油精製工場を、南島チワイ・ポイントにはアルミ精錬工場などを建設しました。

 1983年には、オーストラリアとの間に経済貿易緊密化協定(The Australia New Zealand Closer Economic Relations Trade Agreement、CER)を締結しました。これは両国間の自由貿易協定です。結果として両国のどちらかが強い産業が生き残り、お互いの得意分野を伸ばすことになりましたが、ほとんどの場合、市場規模の違いによりNZに輸入に回ることとなりました。

 
ノーマン・カーク
 
ロバート・マルドーン
 
タラナキに建設されたガソリンプラント
  フランスが核実験を続ける南太平洋・ムルロア諸島。タヒチ島の南東約1,700kmにある


tom_eastwind at 06:14│Comments(0)TrackBack(0) NZニュース 

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