2004年05月28日

核家族化からオヤジ狩りへ

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1955年当時の日本の総人口は9000万人、総就業者数は4000万人。第一次産業従事者は1500万人。第二次産業従事者は1000万人。第三次産業は自営業者とその家族。

 

これが1970年、たった15年後には第一次産業は800万人に、第二次産業は1400万人になる。そしてその後も第一次産業人口は減少の一途である。

 

この数字が意味するものは何であろう?それは、精神論で戦後の日本を再興させる為には、農業中心で資源を持たない国から、いつでも誰とでも戦争出来るだけの国家体力と経済力を持つ工業国家にシフトさせる政策を敗戦国家日本が選んだという事である。

 

精神論と竹やりで戦争に敗れた霞ヶ関には、当時30歳台の憂国かつ優秀な官僚がいた。彼らは国を再建する為に、国が持つ資源を重厚長大産業に傾斜投資させる。

 

官僚は様々な手法を使ったが、一番気を使ったのは、如何に米国に気づかせずに体力(軍事力、経済力)を取り戻すかという点であった。

 

幸運な事に、軍備に関しては、憲法によって再軍備が禁止されたにも関わらず、米国は日本を東アジアの橋頭堡としてソビエト、北朝鮮、中国への防波堤とする為に、1950年の朝鮮戦争開戦に時期を合わせて75,000人の警察予備隊(後の自衛隊)を創設した。

 

その目的は東アジア、特に日本国内で戦争が始まった場合に、米軍が緊急展開出来るまでの間、敵の進撃を食い止める為である。今の自衛隊が航空自衛隊とレーダー網が発達している割に、陸上自衛隊に国土防衛、基地機能を持たないのは、元々それが米軍の戦略だからである。

 

次は経済だ。吉田茂は昭和21年5月22日に総理大臣になり、その後通算7年間日本を運営した人物だが、彼及びその後継者である歴代首相、岸信介(3年)、池田勇(3年)、佐藤栄作(7年)等は、米国に対して徹底的に面従腹背政策を取った。

 

つまり表面的には米国礼賛をしながら、外交上の駆け引きで常に「弱い日本を助けて下さい」という立場で米国からの援助を引き出したのだ。

 

そして工業国家として国民を効率的な「歯車」にする為に、世界でも珍しく、学校教育を3月31日卒業、4月01日入社という仕組みにした。

 

これは成長する日本の工場が的確な時期に優秀な労働力を学校から導入出来るようにする為である。もし入社日がばらばらだったり、個人の能力に格差があれば、導入コストが高くついてしまうからだ。

 

そして民主主義を導入させたい米国の命令で、当時の日本政府は英語授業を取り入れたが、これも実際に英語を使えるようになると、国民が米国民と直接対話をされてしまい、日本の問題点を追求されるのをかわす為に、「学ぶが使えない」英語教育を導入したのである。

 

現在40歳以上の日本人の殆どが英語を話せない理由は、先生の能力が不足でも生徒の能力が不足でもなく、政府が賢かったからである。

 

海外旅行の解禁が、戦後20年近く経ってからだったというのは、何も外貨の持ち出しを恐れただけではなく、海外の良さを知ってしまえば日本の政治体制に反発が出ることを恐れた為でもある。これは韓国でも最近まで海外旅行の自由化が認められなかった事にもつながる。

 

またある時は「共産主義の脅威」というものを逆手に取り、米国と共産主義中国やソビエトの間でシーソーゲームを行いながら、経済の強化という点を徹底的に追求した。そんな彼らの時代に農業から工業への経済シフトが行われたのである。

 

今時「電気」冷蔵庫等、そんな言い方さえ思いつかないだろうが、昭和30年代は「白黒テレビ」「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」を持つ事が人々の生活の基準であり、憧れでもあった。

 

勿論急激な工業化と冷戦時代のバランスの中で綱渡りを行った訳であるから、当時は共産党、安保問題、日教組問題、公害等、一つ間違えば日本が転覆する程の問題が続出した。当時の政治家はまさに命がけで、彼らの信じる日本を守り、創ろうとしたのだ。

 

そして1972年、田中角栄の時代が来た。田中が行った労働人口シフトは更に激しく、列島改造計画という形で日本の国土を変貌させた。それまで農業に従事していた農家の次男を都会の工場で働かせ、同時に日本各地の農地を潰して工場にし、工業製品を作らせた。

 

日本中を鉄道と高速道路が走り、当時3Cと呼ばれ、人々の憧れの的だったカー、クーラー、カラーテレビが日本中に広まった。同時に田中角栄は、農地を持っていた人たちを離農させて建設業として開業させたのだ。

 

今建設業界は構造不況であるが、建設業界が一気に成長したのは1970年代であり、彼らは成長させてもらったお返しとして、自民党建設族の票田及び資金源となったのである。

 

このあたり、マスコミに振り回された「国民」が最近の建設業界の談合や政治家との癒着を追求しているが、1970年代に交通網や快適生活等の恩恵を蒙ったのは、実は誰よりも国民であるという視点が欠如しているのは、如何なものかと思う。

 

無知、無定見なマスコミに同調する主体性のない国民を作ったのは政府であるから、文句も言えないとなるのだろうか。

 

1980年代になると、ついに日本は世界でナンバー2の経済力を持つ事になった。戦後30年、国家、と言うよりは優秀な官僚と国家思想を持った政治家の指導のもとに、戦前と同じように国民が一丸となって働いた結果として、遂に米国の背中が後一歩まで近づいたのだ。

 

NOと言える日本、ジャパンアズナンバーワンの時代になった。戦争では奪う事の出来なかった米国本土の土地を民間会社が買収し、実質的に米国の一部を日本の国土にする事に成功した。

 

その頃米国は、ベトナム戦争後の泥沼経済から抜け出せず、日本の工業化による国際競争力の衰退、そして国が何を行えばよいのか、国家戦略を見つけられない時代にあった。中曽根とレーガンの時代は、おそらく日本が最も幸せな時代とも言えただろう。

 

しかし米国は、ここでもまた伝家の宝刀を抜き出した。「ゲームに負ければ、ルールを変えればよいのさ、自分に有利なようにね」。したたかな米国は、戦前と同じように日本に戦争を仕掛けてきた。

 

今度は経済だ。そう考えた米国はプラザ合意という罠を日本に仕掛けてきた。日本にとって最も不幸だったのは、戦後の一番大事な時期に、敗戦を経験して危機感を持って国家運営を行っていた官僚や政治家が、すべて引退、または退職していた事だった。

 

そして日本の、二度目の敗戦の幕が開けた。しかし今度の敗戦は、失うものが多すぎた。それは対米経済戦略の敗戦だけではなく、急激な社会構造変化による日本の都会化、そして核家族化の始まりであった。

 

二度目の敗戦と急激な社会構造の変化が日本にもたらしたもの。それは大きく日本を動かし、目に見える形としてはホームレス、オヤジ狩り、介護疲れの殺人、子供や中年の逆切れであり、目に見えないところでは日本的道徳観念の消失と倫理観念の構造変化に現れた。



tom_eastwind at 09:09│Comments(1) 2004年 日本人って何?  

この記事へのコメント

1. Posted by buy tramadol   2006年04月18日 22:59
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