2006年09月28日

ユダの福音書を追え

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最近読みたかった本の一番手。

 

大阪に着いて早速本屋に飛び込んで買った。

 

東京までの出張の移動と、東京での夜中の空き時間を利用して読了。

 

 

こりゃ、聞きしに勝る凄さだな。やっばいっしょ、これって。本気で宗教学者がこの問題を取り上げたら、まじで今のキリスト教、崩壊するかも。おお、ほうかいなんて気楽な事が言っておれるのはアジア人くらいかも。

 

ユダの福音書を追え」では、主にこの福音書が発見されるまでの事実を、時系列に小説風に書いているのだが、勿論その内容にも触れており、そこにはキリスト教の根本的な思想を吹き飛ばしてしまうほどの、それこそ原子爆弾級の事実が書かれており、これに比べれば「ダ・ヴィンチ・コード」の衝撃など子供のお遊びに過ぎないくらいの過激さだ。

 

日本人は、神社で七五三の記念写真を取り、キリスト教の教会で結婚式をして、死んだらお寺の墓に入るくらい宗教に関してとても寛容な日本人からすれば、今のイスラム教原理派のように、宗教が原因でキリスト教(主に米国)やユダヤ教(主にイスラエル)と殺し合いをするってのは、なかなか意味不明の現象だと思う。

 

その上去年あたりからキリスト教の世界を激震させている「ダ・ヴィンチ・コード」等は、当事者であるキリスト教信者の喧喧諤諤の議論などそっちのけで、日本人が団体ツアーを組んでパリへひとッ飛び、それこそ小説の舞台のルーブル博物館で「高みの見物」を楽しんでいる。

 

日本に限らず極東アジアでは仏教が中心であり、これって宗教というよりも哲学で、お釈迦様は神様じゃなくて人間で、一生懸命勉強して彼岸、つまり悟りの境地に入った、だから、人間その気になれば誰でもいけるよって言う親しみがある。

 

これに比べてキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神様はたった一人で人間じゃなくて、人間を支配する絶対神で、だから逆らってはいけないし、自分の神様だけが正しい、他の宗教は間違っている!という思想。

 

これじゃあ戦争にもなるわな。ところが面白いのが、この3つの宗教、実は同じ神様を信じているって言う点だ。元々はユダヤ教が紀元前から存在しており、その宗派の一つとしてキリスト教が紀元30年頃から、そしてイスラム教がその数世紀後に始まった。

 

だから何の事はない、同じ神様を信じているのだから喧嘩する必要もないと「寛容な日本人」からすれば思うのだが、当事者同士は、お前の信じ方は間違っている、俺の信じ方が正しいんだと、お互いのちょっとした違いを針小棒大にして何かと他人との差別化を図りたいのだろう。まあ、同じ日本人なのにちょっとした違いを取り上げてわーわー言う奴もいるから、そこんとこは同じだな。

 

この3宗教の中でも特に戦闘好きなキリスト教は、新興宗教として親であるユダヤ教を敵に回して信者獲得に走り、その後も台頭するイスラム教とは十字軍遠征とかでどんちゃん騒ぎをやってきた。(ここで戦闘好きなキリスト教という言い方を敢えてするのは、基督の磔、ユダヤ排斥、十字軍、ナチス容認、最近では大ボスによるイスラムへの冒涜発言など、歴史を踏まえての事であり、現在の一般的キリスト教信者の話ではない事は明言しておく)

 

さてこの福音書。今から約2千年前に書かれた「ユダの福音書」がエジプトで発見され、長い時間をかけてやっと現代語に翻訳したところ、そこに書かれていた内容が既存の新約聖書を完璧なまでに否定している、てゆ〜か、全く無視しており、新約聖書に書かれている事を基本にすべての行動規範を作って来た、特に米国人やカソリック教徒にとっては恐るべき内容になっているのが、この福音書だ。

 

そこでまず「ユダの福音書」の前に、現在のキリスト教の主流派が使っている新約聖書を考えてみよう。新約聖書は4つの福音書と外伝などで纏められているが、多くの日本人に理解して欲しいのは、

 

1・新約聖書が完成したのは基督が死んで300年近く経った後であり、基督が自分で書いたものは何一つ無い。

 

2・聖書を作る際に、当時たくさんあった福音書(20以上あったと言われている)の中で、当時の支配者に都合良い4つだけ抜き出して、更に添削して出来たのが、現在の新約聖書。

 

3・基督やその使徒はイスラエル生まれで、全員ユダヤ人でユダヤ教だった。

 

4・米国で作られた映画等では基督は白人としてよく描かれているが、考えて欲しい、紀元前の中東に白人がいたか?中東生まれの基督だけ白人なんてあり得ないのに、何故か基督を描く時は白人になっている。

 

そしてユダの福音書。この書では、実はユダは基督の信頼を最も受けており、最も基督の考えに忠実で、他の使徒には理解出来ない事まで学び、最後にユダは、基督の考えを具現化する為に基督本人から命じられて当時の支配者層に基督の居場所を通報したのだと書かれている。

 

また、この福音書では基督が死ぬまでを書いているが、その後の復活は全く書かれていない。これが意味するのは、新約聖書に書かれた基督の肉体の復活は何の意味もないという事だ。

 

現在の教義においてはイエスの復活こそが宗教の根幹みたいに扱われていて、イースターなんて言う、神様が復活した事を祝うようなお休みがあるくらいだ。

 

が、同時にキリスト教の葬式では「肉体は滅びても魂は天に還る」と教えている。つまり人間の体は魂の借り物であり、肉体が滅びるのは魂が天に戻る事なので、何も哀しい事ではないと教えている。

 

では何故基督の肉体が死後3日で「肉体を復活」させる必要があるのだ?魂が全てと言う宗教で、何故肉体を日活、じゃない、復活させたのか?

 

それは民衆に基督を信じさせる為に「ほ〜ら凄いでしょ、基督は肉体も復活出来るんだよ!」と言うだけの示威行動だった。これって、どっかの松本さんが「僕、空中浮揚出来るんだよ〜」と言ったのと、ほぼ同じ程度の話ではないか?

 

キリスト教をある程度知ってて興味のある方、少し内容が硬いかもしれないけど、読んでみる事をお勧めします。

 

今現在キリスト教の方、読まないほうが良いと思います。あなたの思想が吹っ飛ばされる可能性があります。

 

宗教に興味がない人、新約聖書を知らずに読んでも意味が分らないので、まずは新約聖書と旧約聖書を読んだ方が良いです。

 

(ユダの福音書が実在すると言う事は、紀元3世紀頃のキリスト教主流派がこの福音書に対して文書で猛烈に反発したという歴史的事実によって知られている)

 

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tom_eastwind at 00:31│Comments(0)TrackBack(0) 最近読んだ本  

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