2007年01月28日
根岸線
汽笛一斉新橋を〜という鉄道唱歌がある。
九州出身の僕は、どうして日本最初の電車が新橋から横浜なのか、よく分からなかった。
というのも、僕の頭の中では横浜=神奈川県、だから横浜ってのは伊豆や箱根のあたりにあるんだろうくらいに思ってて、黒船も随分江戸幕府から離れた港を使ったんだなと疑問だった。
ニュージーランドにやって来て、横浜出身の友達が出来ても、「東京に通勤している」という話を聞き、随分遠距離通勤だよねと言うと「う〜ん、そうね〜そうかもね」という返事が殆どだった。お互いに遠距離という意味が違うということに気づいたのは、それからしばらくして、横浜に行くことがあってからだ。
なんじゃこりゃ!新橋から横浜まで、東海道線でたった25分程度、こりゃ近い。時間だけで考えれば、新橋から新宿を山手線で回るより近いじゃんか。山手線より離れていると意味で言ってた友達の言葉と、単純に東京通勤圏より遠いと思ってたぼくの、大きな勘違い。
九州からすれば、関東と東京の区別がつかないし、距離感の違いをひしと感じた。
そんな横浜、今回はインターコンティネンタルホテルに行く事になった。相模原のお客様からすれば、横浜に出るだけでも1時間近くかかるようで、東京にいる僕と待ち合わせをどこにしようかとなった時、お互いの共通になる目印が、ここしかなかった。正確には、僕が横浜ではここしか知らなかったということ。
もっと突っ込んで言えば、実はインターコンチに行くのは初めてだが、たまたまそのホテルがみなとみらいという場所にあり、横浜駅からタクシーに乗ればそこにいけると言う事だけを知ってたのだ。
それにしても美しい景色だな、ホテルの正面にタクシーを止めてもらいロビーに入ると、一階のバフェットレストランから見える港が、燦燦(さんさん)と輝いている。
そんなことを思いながらお客様をホテルのロビーで待つ。仕事は約1時間で終了し、再度オークランドでお会いする約束をして面談終了。
帰路、横浜駅で東海道線のホームに立ち、ふと階段の方を振り返ると、そこに「根岸線」という文字が見えた。
1月、肌寒いオークランドの自宅ででずっと聴いていた小田和正の歌を想い出す。
「My home town」という歌に、「出来たばかりの根岸線で」という歌詞がある。
根岸線が初めて命名されたのは1964年だから、小田和正の高校生の頃だったのだろう。
小田和正は1947年生まれなので、もう60歳だ!それでもまだ、現役で歌っている。去年はタクロー、ようすい、かぐやひめも頑張った。
おいおい、30代のみんな、夢はあるのか?目先のちっちゃいところで、こちょこちょと保身に走ってないか?
初めて新橋から横浜を走った汽車には、みんな明治の夢を背負っていたと思う。坂の上の雲を見ながら、日本人としてみんな西洋に追いつこうとがんばっていたと思う。そのとき、西洋はせせら笑っていたと思う。ふん、東洋のサルに追いつけるかよ。
横浜で海を眺めた。この海に黒船が浮かんでたのかと感じる。サルがどれだけ強いか、見せてやろうと思う。社会の底辺から昇っていく戦いは、僕の一番得意とするところだ。
何か、横浜でパワーを受け取ってきた、そんな金曜日の午後だった。やっぱり小田和正は、僕の元気の源泉のひとつだな。
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この記事へのコメント
ココに未来がないことを。
でも簡単に動けない50代はココを住み心地良くしていかねばならない。
若者が夢を持てる国に・・・。
私に何ができるだろうか?