2007年03月29日

チョイさん

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友あり。遠方より来る。

 

中国名でチョイさんと呼ばれる彼から、突然電話があったのは、自宅で夕食も終えてお皿を洗っていた昨晩8時ごろだ。

 

いきなり呼び出しがかかる。「今からシティに出てこない?」だって。はは、あいも変わらず気軽なもんだ。

 

 

クイーンズタウンに住む彼からすれば、グレンフィールドからシティに出てくるのは、クイーンズタウンヒルからショットオーバーストリートに出てくるような感覚なのだろう。実際には、電話でタクシーを呼んでシティまで行くのに30分くらいかかるのだが。

 

彼はすでに60過ぎで、突き出たお腹でゴルフは上手、クイーンズタウンで大成功したレストランのオーナーとして有名な人物だが、最近は店は奥さんに任せて、中国の株やニュージーランドの土地売買を中心に商売をしている。

 

今回はケンブリッジにある牧場の買収計画でやってきたが、どうも話がうまくまとまらずに、ケンブリッジに泊まらずにそのままオークランドにやってきた。

 

お気に入りの店「ロードネルソン」でステーキを一皿食い終わった彼は、更に突き出たお腹をぱんぱんと叩きながら、丁度お店に到着した僕を捕まえて「明日の午後の飛行機で香港だ、時間があるからどっか飲みに行こうぜ!」だって。元気良いね〜。

 

彼は中国がまだ孫文の中華民国だった時代に広州で生まれた。生家が裕福だったこともあり、それなりに良い生活を楽しんでいたらしいが、1949年の共産党政権成立により、中国では金持ちが生活しづらくなった。

 

更に追い討ちをかけるように、1960年代に始まった文化大革命に巻き込まれ、これ以上中国で生きていけないと決意した彼は、単身で香港に渡る。

 

渡ると言っても当時はパスポートは存在せず、要するに密航だ。月のない夜中に中国の沿岸から集団で海に入り、鮫のうようよする東シナ海を、香港に向けて泳ぎだす。

 

当時は多くの密航が行われていて、泳いでる最中に鮫に食われた人間は数知れず。途中で仲間が食われても、とにかく香港まで泳ぎ着くしかない。勿論鮫だけではなく、中国の巡視艇に見つかっても、その場で撃ち殺されるか強制労働所送りだから、死ぬという意味ではどれも同じだ。

 

体力の限りを尽くしてやってきた香港で彼は、イギリス政府から難民パスポートだけ貰って、ゼロから働くしかなかった。

 

朝から晩まで様々な職場で、安い賃金で働き、その合間を縫ってキリスト教会に通い、無料の英語レッスンを受ける。

 

当時の宣教師にはポールという英語名を付けられたが、後日彼は自分でウェインという名前に変える。

 

当時人気があった米国人俳優ジョンウェインの勇敢な姿に憧れて付けたという事だが、インディアン殺しでベトナム戦争を喜ぶような俳優の名前、今なら誰も付けないだろうな。

 

どっちかと言うと、下手な演技で米国の虐殺の歴史を面白おかしくしたジョンウェインよりも、除さんの生き方のほうがよほど凄まじいのだが。

 

独学で英語を身に付けた後、彼はダニーデンに住む親戚(1800年代半ばのゴールドラッシュの頃に移住してきた親戚だ!)の細いつてを頼って、香港から飛行機を乗り継いで、白人の世界に飛び込む。

 

そこからはテイクアウェイの、屋台のようなちっちゃな店を奥さんと二人で切り盛りしながら、折から始まったクイーンズタウンの観光ブームに目を付けて、クイーンズタウンに乾坤一擲の思いで、銀行から借金をしまくって店を立ち上げる。

 

1980年代後半のクイーンズタウンと言えば、日本人ハネムーンの超人気スポットだった。日本食もないし、中華料理と言えば彼の店一軒しかなかったので、これが当たりに当たった。客席数150席の店を、ディナーだけで3回転させたときもある。

 

そんな時に僕は彼と知り合って、日本人ツアーのコーディネートを専門にやったのが縁で、彼の店でワークビザ、そして永住権まで取得した、そういう長い付き合いだ。

 

彼はレストランで儲けた金で、それまで家賃を払ってた店を買取り、その後この店舗の土地の価値はうなぎのぼりに上がる。まさにビジネスと幸運と土地の値上がりと、一気に資産家に上り詰めた。

 

でも、その後も彼は決して無駄金を使わず、一生懸命朝から晩まで働いた。店の入り口のガラス窓が酔っ払いによって壊された時など、店の泥棒が入らないように、自分で入り口に寝袋を敷いて、ゴルフクラブ片手に一晩過したこともある。周りは「そこまでしなくても、金があるんだから警備員を雇えばよいじゃないか?」と言ったが、彼は聴く耳持たず。

 

それでも自分の趣味であるゴルフと車にはお金を使い、88年当時はAUDIの最新型を購入、ナンバープレートもAUDI88と付けたくらいだ。今はベンツのスポーツタイプを乗り回している。その辺の家一軒くらい買える位の車だが、彼からすれば、それは自分の趣味の範疇なのでOKだそうだ。

 

97年頃に彼が上海のデベロッパーに呼ばれて一年ほど上海で過した時のこと。最初、デベロッパーから手伝ってくれと言われた彼は「おいおい、突然言われても、クイーンズタウンから上海なんて簡単に飛行機の予約できないよ」と言うと、デベロッパーは「何言ってんだ、ビジネスクラスがあるじゃないか?」と答えて、それに喜んだ彼は「おい、tom、俺は今回はビジネスクラスで上海に行くんだ!」と、とてもうれしそうな顔をしたのを覚えている。

 

そんな彼と二人で行きつけのバーに顔を出す。このバーは、オーナーがもう10年近く変わらず、長い商売を基本とする彼からすれば、まるで同志を見つけたようで喜ぶ。

 

彼とはいつも日本、香港、オークランド、クイーンズタウン、どこかですれ違いで、会うのは1年ぶりくらいなので、お互いに近況の話をする。

 

彼には3人の娘がいるが、長女と三女はすでに白人の彼氏がいて一緒に住んでいる。次女は大学の特待生として台湾で中国語を勉強中であり、今年中には北京のニュージーランド大使館に勤務することが決まっている。

 

ちなみにウェインは自宅では広東語しか使わないので、娘たちは北京語が出来ない。なので、次女からすれば北京語は全く異なる言葉で、最初は大変だったそうだ。

 

ついでに言えば、彼の娘たちは広東語は話せるが、書けない。両親が忙しくて書き言葉を教える時間がなかったのだ。今でも彼は、それがちょっと後悔のねたらしい。もうちょっと子供たちと一緒にいる時間を作っていれば・・・・そういう感じが、話の端々から見えてくる。

 

僕が「お、それなら、優秀な中国人の彼氏が出来そうですね〜」と振ると、実にうれしそうな顔で「そうなんだよ、ほっとするよ」と言ってた。中国語が書けて読めて話せて、それでこそ俺の娘だ、そんな気持ちが伝わってくる。

 

彼自身すでにニュージーランドのパスポートを取得しており、キーウィ社会にどっぷり浸かって生活をしているが、それでもやはり彼は中国人であり、彼の故郷は中国だ。

 

だから子供には、出来れば中国人と結婚してもらいたいと考えているが、それを子供に強制することはしない。あくまでも子供の自由を認めているところは、あの年の人にしては立派なものだ。

 

彼からすれば、僕のようにアジア人同士の結婚なら、十分に許容範囲なのだろう。うちの子供の様子も聞いて、色々とアドバイスしてくれる。そんな時の彼は、人の良いお爺ちゃんだ。

 

日本人と中国人、近くて遠いようなお隣の国だ。お互いに憎みあったり喧嘩したり、時には文化交流をしたりするが、偶然という神様が、僕の人生と中国人の人生を、ニュージーランドと言う舞台の上で結び付けている。

 

彼とはそれからも色んな話をした。香港に住む兄弟や横浜に住む兄弟の話。ロスの従兄弟とウェインの家庭の間で、おばあちゃんが行ったり来たりして生活をしている話。ねたは尽きず、カラオケも進み、痛飲した結果、結局時計の針は12時を過ぎる事になった。

 

久しぶりに、安心して飲める酒。友あり遠方より来る、何故に飲まずや?

 

写真は、最近シティに出来たアパートメントホテル。キッチン付きで、短期でも長期でも滞在出来るので、一泊の旅行にも、数ヶ月の宿泊にも対応している。

 

ちなみに、こんなに明るくなるまで飲んでたわけではありません、はは。

 

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tom_eastwind at 18:14│Comments(1)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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この記事へのコメント

1. Posted by Kitty   2007年03月30日 09:50
tomさん、飲み過ぎないように。出会いってすばらしいですね。私もいつも
出会いを大切にしています。この地球で縁あって出会う、感動します。
私の周りには、狭い日本の福岡で不平不満を言いながら親の遺産がころがりこんでくるのを待っている人ばかりです。50歳過ぎのいい叔母ちゃんが夢をかたっても反応なし。悲しいことです。皆、今のままで満足なのかな?

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