2007年04月05日

最後の一切れの肉

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我が家は4人家族だ。16歳の娘みゆきと、もうすぐ10歳の息子りょうまは食べ盛り。週のうち4回くらいは僕が近くのスーパーで材料を買ってきて自宅で料理をするが、最近こいつらは口が肥えている。

 

以前ならお父さんが作った料理と言うだけで喜んで食ってくれたが、最近は「お父さん、ちゃんとインターネットで料理法検索してる〜?ちょい味が落ちてるよ」とか、平気で言う。

 

がきどもは香港で「舌で学ぶ世代」を過ごしたから、食べ物にはうるさい。下手なものを出しても、一口食べて、「あ、お父さん、今日はお腹一杯、ごめんね、あんまり食べられないよ」なんて慰めてくれる。

 

ところが、美味しい料理がうまく作れた夜には、すべてが激変する。材料が美味しいという意味ではなく、味付けや調理法に成功した場合だが、食卓に出せば、大体5分ですべてなくなる。子供二人の箸が、ヌンチャク並みに飛び回り、あっという間においしい料理は消えうせて、僕と奥さんの食べ物は、残り物の野菜。

 

一応親としては、途中まで食べて子供の箸の動かし具合を見ている。ぱくぱく食べる時はこちらの箸のスピードを落として、出来るだけ子供にたくさん食べさせようと思う。

 

昨晩は豚バラ肉とほうれん草を軽く海塩を振って炒めただけの料理にパスタ三種なのだが、りょうまくんが自分のパスタの上に肉を載せようと、親の顔を見もせずに、周りを振り向きもせずに、お皿に残った最後の一切れの豚バラ肉を遠慮なく掻っ攫って(かっさらって)いく。

 

それが、親としてうれしい。

 

景気の良いオークランド、今月から全国的に最低賃金が10%近く上がった。

 

最近のある日曜の午後、たっぷりと太ったマオリの親子がマックに来て、子供が楽しそうに笑い、マックを食べていた。そこには誇らしげな父親の顔があった。

 

「どうだ坊主、今までは月に2回しか来れなかったけど、お父さん頑張って働いて、今は毎週1回来れるようになったぞ、お父さん、頑張ってるだろ」そんな言葉が、父親の背中から聞こえてくるようだった。

 

地球上のどんな親でも、子供に対して持つ普遍的な気持ちだろう。どんな法律や理屈を越えても愛情ってのは普遍だと思う。だからその愛情が素直に表現出来なかったり、親子のつながりを壊すようなことがあれば、それは世の中か本人か、どちらかに問題があると思う。

 

こんなもん、当たり前の感覚だろう。子供を持つ親なら、誰でも当然考えることだろう。

 

じゃあ、もう一歩踏み込んでみよう。

 

今日は子供に飯を食わせることが出来た。明日はどうだ?明日も絶対に、今日と同じような美味しいものを食べさせてあげる、そんな自信を持てる人は、日本にどれくらいいるのだろう?

 

ましてや、子供が大人になった時、日本がどうなっているのか?自分が子供の頃には気づかないが、親になれば確実に目の前の問題として考えねばならない。

 

子供のために最後の一切れの肉を残して食べさせ、明日も、もう一切れ、子供のために残せる生活が、ニュージーランドにはあるような気がする。

 

社会保障という問題は、突き詰めてみれば、安心出来る家庭で、明日も子供にご飯を作ってあげる事ができるかどうかという点にあると思う。その基本の上に、すべての個人生活が築かれる。

 

明日がどうなるか分からない、そんな状態では、怖くて子供も産めない。

 

勿論、この国でも交通事故に遭うかもしれない。落ちこぼれで不良になるかもしれない。学校を出ても満足出来る給料も貰えずに、転職を繰り返すかもしれない。先日の事件のように、日本人家族が死ぬこともあるだろう。だから、どこに行っても絶対の安全なんて絶対にない。

 

でも、親として最低限の義務は、子供を餓えないようにして、出来る限りゆっくり寝れる場所を用意することだろう。出来るだけたくさんの選択の余地を与えることだろう。その意味で、この国は、ちゃんとした明日が見えるな、そう思った昨晩の夕食だった。

 

写真は、近くの鍋レストランでアイスクリームを食べるりょうまくん

 

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tom_eastwind at 11:34│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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