2007年09月01日

会議中の電話

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「こら〜!会議中に電話を取り次ぐなと言っただろうが!」

 

一昔前の会議では、会議中の電話取次ぎなんてなかった。そんな事すると必ず出てくる理論が、「今ここで10人で会議をしている。君が電話を取って他の話を1分すれば、ここに集まった僕ら10人の1分だから、合計で10分の損失を出したことになる。この10分の損失と君の電話の緊急性は、どちらが重いと考える?」だ。

 

僕としては、こういう連帯損失ってのは連帯責任と同じくらい好きじゃない言葉だが、言ってること自体は間違いではないと思う。

 

会議とは皆が会って議論をする場なのだから、そこで決めたことは全員に責任と権利が発生するわけで、それなりに皆が時間の都合をつけて集まっている場所なのに、そんなところで自分のケータイが鳴ったからって、今この時間にこの場所で取らんといかんのか?

 

これは何も日本人に限ったことではない。キーウィ、アジア人も同じように、ビジネスをしている最中に、ケータイが鳴ったら普通に取ってる。

 

まあビジネスマンでなければ、例えば家庭の主婦の自宅に上がりこんで住宅の修理の打ち合わせをやっている時に、子供の学校からの電話とかがかかってくれば、「あら、ちょっとごめんなさい、子供からみたい」そりゃ奥さん、電話を取るだろうし、打ち合わせはその後でも継続出来るからよいとは思う。

 

ただ、普通にビジネスマン同士が前日に時間を決めて議題を決めて会う時間を作って場所を設定して、いざその時間になって会議が始まると、ケータイが鳴って、「あ、もしもし、何?」となると、こりゃどういうことよとなる。

 

これじゃあ会議をしているこちらも白けるわな。ほんとに会議をしたいのか?忙しいならこの時間にアポ入れなきゃいいのに、何でそのケータイ、自分の机に置いておかないの?と思う。

 

最近のケータイは、かかってきた相手を着信音で分けることが出来る。だから、かかってきた電話に緊急性があるかどうかって、ある程度見当はつく。また本当に「親が死んだ」とかの緊急であれば、ケータイに出ない場合でもオフィスに電話がかかるだろう。

 

一度だけ、キーウィの中年女性を入れた3人くらいでミーティングやってた時に、彼女のケータイが鳴った。彼女は「ちょっとごめん」と席を立ち、隣にいたキーウィ男性は、ちょっと鼻白む顔色になった。俺と同じ派閥だなと思ってたら、彼女30秒後に戻ってきて、「皆さん、申し訳ないのですが、ちょっとここで失礼させて頂きます」と礼儀正しく言って書類をまとめ始めた。

 

隣にいたキーウィが不審そうに「おいおい、どうしたんだよ?」と聞くと、彼女、申し訳なさそうに、「すみません、実は父親が入院してて、様態が悪くなったみたいで、どうも死にそうなんです」って。

 

だったら書類をほっといてでも、すぐ行けよっていう、本当の緊急事態があった。

 

緊急のための連絡なら必要だし、仕事や会議よりも大事なものは世の中にいくらでもある。しかし、ケータイにわざわざ電話しなきゃいけないような緊急性の高い用件が、一日何件もあるかい?

 

そこでふと思った。僕の電話に対する基本認識が間違っているんじゃないか?

 

本来なら必要ないことまで、わざわざケータイにかけるってか、この「わざわざ」がすでに「わざわざ」ではなくなってしまい、昔のケータイ電話が持っていた本来目的である「緊急時の連絡」というのがすっかり「本来目的」ではなくなり、通信手段の一種のユビキタスとして変化したのだと思う。

 

いつでもどこでも誰とでも、話も出来るしニュースも読めるし写真も撮れるし友達にメッセージも送れるし音楽も聴けるしお金も払えるし目覚まし時計になるし予定表も書けるし住所録にもなるし、えーと、他に何があったかなとケータイ取り出して機能ボタンを押すと、ストップウォッチに世界時計に計算機にカウントダウンに青い歯?

 

まったくこれじゃ、日常生活に必要なすべてがケータイ機能に収まっているのに、はたと気づいた。

 

今頃気づくなよ、おまえんとこ、ケータイレンタル何年やってんだと言われそうだ。

 

携帯電話は、最初はトランシーバー会社であったモトローラ社によって、1980年代に開発、実用化された。モトローラ社が最初に作ったケータイの重さは約8kg。

 

僕が生まれて初めてケータイ電話を持つようになったのは、1991年の香港からである。本当に大型のトランシーバーみたいで、重さ5kgはあった。長さも20cmくらいあり、警察が使う大型の懐中電灯を太くした感じだった。

 

おまけにバッテリーが、待ち受けだけで10時間も持たない。だから自宅と会社に充電器、そして常に予備のバッテリーを持ち歩くことになるから、常に肩掛け式のストラップを付けていたくらいだ。

 

そんなもん持たされたのは、僕が当時の香港日通旅行社員で一番新参であり、日本から来た駐在員よりはちょびっとだけ英語と広東語が出来たので、香港滞在中のお客様に何かあった時の緊急連絡先として「一番ふさわしい」という、要するに、重くて面倒で、おまけに香港あたりに当時やってくる、それも夜中に電話をかけてくるような問題に、いちいち日本から来た駐在員がやってられっかよというのが理由だった。

 

香港でも当時はケータイを持っている連中ってのは、何か訳ありって感じだった。携帯電話の事を当時は大可帯?だったっけな、要するにやくざ用語の「兄貴の持ち物」って呼ばれてたくらいだ。

 

それが通信の自由化で、日本では電信電話公社だかNTTだか忘れたが、それまでのケータイの「お上からの貸し出し」から売り切りになって、爆発的に広がった。それから十数年、すでにケータイは日常生活の中に普通に入ってきた。

 

だから、最近では会議に紙と鉛筆を持ち込む感覚でケータイを持ち込んでくるようになったのだろう。

 

そりゃそうだ、会議中に計算したりボイスメモを取ったり予定を確認する為には、ケータイは必要なのだ。

 

ただ、その結果として、何だか他人とのコミュニケーションの取り方を忘れた、てか、生まれた時からケータイ世代なので、最初からコミュニケーションの取り方を知らないって人種が増えたのではないだろうか。

 

なるほど。じゃ今度から会議もケータイでやりますかって気になるような時代の変化だが、しかしやはりケータイの機能が発達するって事と、会議中はケータイは取らないって言う、会議本来の機能を重視するし、他人への気遣いも考えるってのは、矛盾するものではないと思う。

 

打ち合わせの最中に電話がかかってきたら、ほっときゃいいさ。緊急ならまたかかってくるし、メッセージを送ることも出来るし、留守番録音もある。ケータイは発達しているのだ。

 

結局ケータイの発達ってのに振り回された連中が、コミュニケーションの本来の意味を忘れて、会議中でも他人を無視してケータイを取るなんて本末転倒な事態を招いているんではないか?

 

ケータイは、人を幸せにする為に作られた機械だ。それが鳴こうと喚こうと、取りたくない時は取らない、取っちゃいけない時は取らない、そういう、人間同士の間で生きる為の知恵を忘れてはいかんだろう。

 

それとも彼ら、実は僕との会議がめんどくさくてケータイ取ってるんかな?次回、誰かが会議中にケータイ取ったら、それとなく聞いてみよう。

 

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tom_eastwind at 10:19│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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