2008年05月29日

長崎市長射殺事件

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長崎市長射殺事件

 

地裁で死刑判決が出た。それはよく分かる。人のために手を挙げて公職に就こうとしている人を殺すのでは、こりゃ誰も政治家のなり手はなくなるのだから、民主主義の根幹に関わる大問題というのも、それもよく分かる。

 

でも、人の命の重さに違いがあるのか?てか、あるって事を裁判所は認めるのか?その点を知りたい。

 

光市母子殺人事件では無期懲役判決と言う量刑で「少なすぎる!もっと重罪を=死刑だ」と言う議論が出ている。

 

日本の裁判では、一人殺せば最高でも無期懲役、二人殺せば死刑の可能性ありって事になってる。これは別に法律に書かれているわけではない。運用の段階で決めているのだ。

 

公職者を、その地位にいるからと言って殺すのは、勿論どう見ても違法だし民主主義を否定するものだ。それは十分認める。死刑判決も納得出来る。

 

しかし、それなら他のケースはどうなのか?二人殺しても死刑にならない時に、一人殺したら死刑ってのは、法の下の平等とは言えない。それとも、市長一人の命は母子二人の命より重いってのか?

 

これはどう見ても、要するに体制側に手を出したら死刑ですぞって言ってるようなものだ。政治家が、自分の命を守る為に作ったような量刑でしかない。

 

大事なのは法の下の平等であって、今回のように「身内が殺されたら死刑、他人なら懲役」なんて話は、どう見ても不公平だ。

 

大体それなら民主主義の根幹を揺るがすような事件なんて、官僚がしょっちゅうやっているではないか。社会保険庁による詐欺事件、社会福祉を受けられずに死んでいった人々、水俣事件、実にたくさんの一般市民が政府や役人の作為や無作為で殺されているのだ。

 

そういう公権力による犯罪は全く罪を受けずに、その役人は退職後に年金を貰ってのうのうと生活をしているのは、法の下の不平等ではないか?水俣病で苦しんで亡くなった人への責任はどうなるのだ?

 

殺人事件の量刑については色んな議論があるだろう。僕個人としては、被害者の家族が死刑を要求した場合は死刑にすべきだと思っている。何故なら殺人はそれだけ重い罪だからだ。

 

被害者の感情を無視して人権など語れるものではない。人の体を殺したら死刑なら、人の心を殺すのも死刑である。

 

なのに、肉体にのみ重みを置いて精神に重みを置かない現在の裁判制度には非常に疑問を感じる。でもこれは俺の個人的意見。だからきちんとした場所で全員が納得出来るような決まりを作ればよいと思う。

 

ただ、今回の判決については、こいつを死刑にするなら、他のケースでも死刑判決を出して欲しい、この日本をもう一度法治国家に戻して欲しいという事だ。

 



tom_eastwind at 00:15│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本

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