2008年10月09日
ネットの中にあるのはすべて「過去の遺物」
養老孟司「先生」のお言葉。
この人の本はまだ一冊も読んでいない。何となく違和感があったのだ。本に触れる前から、帯に書いてある言葉とかその本を紹介するコメントとかを読むと、「あ、これは違う」って電波が発信されてしまい、その電磁波が僕を防止していたようだ。
でもって9月29日付けの日経ビジネスのトップ記事「有訓無訓」が養老「先生」のコラムだったので、ある意味しかたなしに読むことになった。
別に積極的に嫌いではないので、目をつぶってえいや!と次のページをめくる必要もないからだ。
そしたら答が判明。なんで違和感があったのか、分かった。
この人、現実世界ではあまり役立たないしょうもない事を怠惰的に書いてみたりする内田樹「大先生」なんかと似たような流れ。
すでに過去に多くの人が手を変え品を変え話してきたことを、いかにも自分が初めて見つけてきたような書き方で、それを虫の話や柔らかい語り口に混ぜているから、初めて読む人からしたら「お〜、すごい」という事になるのだろう。
例えて言えばちっちゃな子供が父親に向かってうれしそうに「お父さん、僕は月を見つけたよ!」というようなものだ。誰もが知ってるっちゅうに。
今回の話も、書いていること自体は立派なことだし書き口もうまい。
要するに生きて行く時には100%の確実性なんて存在しないんだから未来が見えずに不安になる事は当然だ、だから少しでも不安を取り除く努力としての訓練は必要だけど、完璧に削除するなんて不可能なんだから、ある程度までいったら「覚悟」して「先が読めないから面白い、人生、未来が決まっていたらどきどきもしないでしょ」と言うこと。
それを柔らかい口調で虫捕りに例えたりネットの話に例えたりしているけど、「未来は不安かもしれないけど覚悟して生きろ」なんて、そんなもんすけさんかくさんでも水前寺清子でも岸田聡史でも歌ってることだ。中国の古典を見るまでもなく人生の随所でいくらでも発見される。
勿論言葉ってのは過去の人々のコピーであり、その意味で純粋にゼロから創り上げられた理論や理屈や新鮮な言葉がないってのは当然。
コピーと言うことを前提にいろんな哲学者がいろいろ考えるわけであり、既存の概念に追加の概念を載せることはあっても、それは全くゼロではない。
その意味で朦朧先生、じゃなかった養老先生の仰ることは立派なのだが、別に日経ビジネスのトップ記事で読みたいとも思わない。
内田せんせーと言いこの人と言い、あなたこそ「覚悟して先が読めない人生を生きてみなさいよ」と言いたい。自分はゆ〜だけ熱海温泉、こんなところが学者先生を好きになれない理由なのだろう。