2008年10月28日

10歳の子供が見た大恐慌

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Kit Kittredge; An American Girl

 

オハイオ州シンシナチに住むキットは新聞記者になることを夢見る10歳の少女。1930年代の世界大恐慌に巻き込まれてそれまでは比較的裕福だった家族は、父親の失業と共に現実に引き戻され、家族や友達と共に生き残る為の戦いを始める。

 

普通ならまず観る事もなかっただろう映画だけど、数日前に偶然他のブログで紹介されていたので、チャンネルを切り替えてみる。

 

そこでは大恐慌で仕事を失った家族の家が競売にかけられていく場面がある。

 

近隣に住む家族同士の昼食会を催している最中、小学校の同級生だった近くの子供の家のうちが競売にかけられる。

 

家の前に杭が打たれ、家財道具はトラックに積まれて、母親は泣きながら助手席に乗り込み、子供たちはなす術もなく立ち尽くす。

 

仕事がなく家族は離散して、一部の人々は橋の下でテント生活を始める。

 

「以前、私は株のトレーダーでした」。橋の下でなければ立派な紳士で通るような人々が、橋の下を流れる川の水と薪で料理を作っている場面。

 

これって、今の米国と全く生き写しではないか?

 

住宅は次々と競売にかけられて、証券会社は倒産して、人々は住むところもなくテント生活を余儀なくされてる。

 

カリフォルニアではすでに大テント集団生活が始まり、州政府が補助をしている。解雇された人々は次の職のあてもなく町をさまよう。

 

失業してシカゴに仕事を探しに行った父親は何ヶ月経っても帰ってこない。そのうち手紙も来なくなる。そんな中でもキットは明るさを失わない。

 

自分の家をボーディングハウスにして下宿屋を始めて、彼女は母親を手伝って洗濯や掃除をしながらも、自分の視線で見たこの不況を記事にまとめていく。

 

ある時彼女は母親が鶏の卵を売ろうとしているのを見て、「それだけは止めて!」と訴える。今の感覚では分からないが、当時は卵を売るというのは流民生活に入る一歩手前を意味しており、学校でも恥ずかしい思いをする。彼女はそんな屈辱には耐えられないと訴えたのだ。

 

でも母親の悲しそうな顔を見て、今自分がすべきことは何かと考えて、最後には彼女はにこっと笑って鶏の卵を売るために街に出る。大きな声で「卵はいりませんか、新鮮で安いですよ!」

 

世の中の大人でも少し気の弱い人間なら耐えられないような生活を、彼女は持ち前の明るさと行動力で突き進んでいく。友達と助け合いながら毎日起こるいろんなことを10歳の子供の視点から記事にしていく。

 

そしてある時・・・・。

 

そうは言っても全体的にディズニー映画のように明るさと希望と夢が常に前面に出ているから、観ていても苦しい映画ではない。ハッピーエンドではない分、現実にこの後どうなるんだろうと思ってしまう。

 

てか、個人の手で世界大恐慌なんて止める事は出来ない。やってくる大恐慌の大嵐の中では、家族と一つになって大嵐が通り過ぎるのを待つしかない。それでもやがて夜明けがやってくる。

 

昨日までの資産家が今日は破産してしまうような、そんな激しい時代だからこそ生き残る能力が要求される。

 

物語の設定が1930年代初頭であり、大恐慌から米国を救う為に米国政府が取るべき手段は工業製品の増産であり、収縮してしまった工業生産を思いっきり増産体制に切り替えるためには、欧州におけるヒトラーの台頭は、まさに渡りに船だったろう。

 

そして太平洋では日本を追い込み戦争に突入させて、米国では爆撃機などの航空産業、銃や大砲を作る重工業メーカーはそれから1945年まで未曾有の大増産体制に入って、ついに米国経済は復活した。

 

そして米国はその後1970年代まで経済を謳歌する。

 

そんな歴史の大きな波を感じながらも、映画は子供たちの日常の視点から仕事を失って悩む父親、テント生活を余儀なくされる子供たち、カリフォルニアに移住する家族たちを描いていく。

 

それにしても、何故今このテーマ?この映画?って思う。

 

あまりに今の米国の状況=証券会社の倒産、失業、住宅の競売、テント生活、と似過ぎている。タイミングとして最高だ。

 



tom_eastwind at 20:51│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近観た映画

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