2008年12月09日

英語は翻訳ではない

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今日も池田ブログを読んでて興味深い記事あり。

 

「日本語が亡びるとき」という本に対する書評で、彼の意見としては「日本語は現地語であり世界標準では最初からない」と言うこと。

 

 

これは当然の話であり、世界で使われている標準語は時代によって変化しており現在は英語だけど、だからと言って日本人が日本語を使わなくなることはなく日本語が亡んだことは一度もない。

 

まあそういう論旨はとても面白いんだけど、もっと面白かったのはコメント。その中で流れがいつの間にか「日本で生まれて日本で育ち日本で仕事をしている人」対「実際に海外に住んで海外を居住地としている日本人」とのやり取り。

 

その中で「在日日本人」は英語は翻訳だと言う。つまり日本語がしっかりしてなければ英語なんて出来るわけないから、まずは日本語をしっかり身に付けろと。

 

これはいかにも論理的。

 

これに対して「在外日本人」は、翻訳と言う部分については、「そりゃ違う。頭の中で日本語で考えて、それを英語にしてたら堅くて使えない」と言ってた。これ、わかるんだよね。

 

そして日本語が大事だと言う意見はよく分かるけど、だから英語は後でよいという考え方は、正解でもあり間違いでもある。という部分。

 

この意見は本当に英語圏で生きてきたから出てくる言葉だなと思った。

 

僕の自宅では3ヶ国語が日常飛び回っており、時にはそこに北京語が入り込むわけで、だから会話をする時は翻訳ではないというのが良く分かる。

 

英語力ってのは移住をする際の大きな要素だから説明会でも個人面談でも常にそのことは話すけど、その英語のレベルと上の人たちが話している英語の話は全く違う。

 

最初は誰でも日本語で組み立てた文章を英語にするし、それしかないしそれで良いんだけど、本格的に現地で生活をして仕事として英語を使うようになれば、そのレベルでは正直言って間に合わない。

 

会話の中で時には冗談も言い、時には辛らつな意見も言い、間合いの取り方、そんなのをやっていると、勿論日本語のベースがあるにしても、やっぱり英語の会話をする時は最初から英語で考えていかないと、会話は成立しない。

 

少なくとも、楽しい会話、継続できる会話にはならない。要するにコミュニケーションツールなのに相手が話をしたくなくなるのだ。

 

これは発音の問題ではない。論理構成の問題。発音は、正直言って日本の公立学校で日本人の先生から英語を最初に学んだ世代の人は、こりゃもうご愁傷様としか言いようがない。勿論僕もそうだ。発音は、悲しいほどにどうしようもならない。

 

けど論理構成は、これはどこかの文化の中でしっかり見につけるべきだってのは良く分かる。だから在外日本人が二番目に言ってる「正解でもあり間違いでもある」と言う意見になる。

 

うちの場合、みゆきの文化の基本は香港広東語でりょうまくんの場合はニュージーランド英語だ。つまり何かの文化を理解してれば、そこにいくつ言葉を乗せても良いけど、文化がなければ悲惨なことになる。

 

要するに問題は根無し草にするなと言う点。どこの国の文化をベースにするにせよ、一番悪いのは中途半端に子供を放置して海外に追いやったりする親である。

 

実際にニュージーランドには全く文化の基礎を持ってない日本人の子供をよく見かける。中学生くらいでNZに来たのかな、とにかく日本文化の基礎もなければ英語文化の基礎もないまま、それを誰にも指摘されずに体だけ大きくなるから、もうこれはどうしようもない事になる。

 

じゃあどこの国の文化でもよいのかという問題になるが、大雑把に言えばYES。

 

けど、僕は東アジア、それも中国か日本の上質の文化が、多分世界で一番良いと思ってるから体験的にはNO。

 

だから最初の話に戻るけど、英語の早期教育は不要って話になると、体験者の経験から言えばYESでもありNOでもなってしまうのだ。

 

けど正直言えば、英語程度の言語と日本語を二つ同時に学ぶのは子供にとってはそれほど難しいものではないですよ。学べない大人のレベルで議論するから二者択一みたいなおかしな話になるのではないかと思います。

 



tom_eastwind at 00:54│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

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