2008年12月29日
夕日と拳銃
日本にいた頃は独身で、一生結婚することはないと本気で思い込んでいた。
そしてもし万が一結婚するような事があったとしても、その相手は日本人以外あり得ないと思ってた。
二十歳前に偶然もらった日本航空のオークランド直行便のポスターを見ながら、こんな国に行けるなんて事は一生ないだろうなと思ってた。
そしたら三十前にはすでに海外に飛び出してて、住み始めた国はなんとニュージーランドだった。
そして自分で約束したことを裏切るように外国人と結婚したのだから、「私はこうやって生きていくって決めたんです!」なんて他人に喋った自分の言葉に縛られるのが無意味だな、そう思った。
これが人生かな、結局未来なんて誰にも分からないんだな、だからその瞬間を一生懸命生きるしかないなって、結構本気で思った。
変化することが強くなることだし、その為には過去の自分を否定していく必要がある。その時に自分が話した過去の言葉に義理を背負っていては生きていけない。
今もこの年になっても思っているし、その思いは益々強くなっている。
さて夕日と拳銃。1958年の壇一雄の名作である。
*抜粋開始*
戦前の朝鮮半島北部から中国満州には日本からやってきた大陸浪人が溢れかえっていた。
「オーイ、日本人か?」
「オレは何も、何処の人間でもヨカろ?」
「ワシは早稲田を出て、本省の官吏をしとったんだが、去年朝鮮に来たもんじゃ。貴様は一体何処を出た?」
「何処を出たっち、何のこつかい?」
「何処の中学だ?」
「ナニ?豊臣秀吉も西郷南州も早稲田大学は出とらんぞ!」
*抜粋終了*
日本人って、一体なんだろう。おれは日本人なのか?ナニがあれば日本人で、ナニがなければ日本人じゃないのか?
おれは自分が日本人だと思ってるし、それを誇りに思ってる。それは何も今経済的に強いからって意味じゃない。人間としてよく出来てると思うからだ。
他人を思いやることが出来る人種。他人を大事に出来る人種。他人と同等の目線でモノが見える人種。これ、たぶん世界でもっとも優れた人々だと思っている。
けど、今の日本に住みたいか、今の日本人と同じにされたいか?そう聞かれたら間違いなくNOだ。今の日本人の方が日本人らしくないんじゃないか?
たとえ少数派でも自分が正統な日本人だと思う今日この頃。けどそれを理解してくれないから悲しい。
そんな感じを主人公は心の中で抱いてたのではなかろうか?
無意味な規則ばかりの学校、年齢だけで序列が決まる不合理、無意味な社交辞令。どれを取ってもある種の人間から見れば全く意味不明で、同席するのに耐えられない苦痛を感じるほどなのは、実に良く分かる。
主人公の伊達麟之介(だてりんのすけ)は伊達藩主の直系の子孫に当たる、所謂殿様の三男である。東京に家はあるがある理由から九州の母方の実家で成長する。
13歳で東京に出てきた彼は品川にある伊達藩主邸宅に住み学習院に通い始めるが、その破天荒な性格のために問題を起こす。彼を庇ってくれた乃木大将が明治天皇の崩御と共に殉死を遂げると、彼は遂に日本という枠を外れた人間になり、様々な事件の後に中国大陸に渡る。
彼は満州に渡った後いつの間にか馬賊のボスとなりその名は満州中に響き渡った、それも義賊として。
常に金のためではなく満州国民のために戦い、その為には共産党軍(今の共産中国)にも付き、時には日本軍とも協力をして、あるときには国民党(今の台湾)にも付き、要するに常にその時点で満州国民に最大限の利益になるように戦いながら、己を棄てて天の道に生きた人物である。
僕も行くから君も行け、狭い日本にゃ住み飽きた。
そんな合言葉と共に多くの壮士が中国にわたっていった。その中には彼のような高邁な思想の人間もいれば、金儲けのために一旗揚げに行った児玉誉士夫、岸信介などの戦後も生き残った連中もいる。
このあたり佐野真一の「阿片王・満州の夜と霧」に詳しいが、いずれにしても伊達さん、それから中国大陸を馬賊の親分として戦争が終わるまで駆け抜ける。
この小説には実在のモデルがいる。伊達順之助という、本当に伊達政宗の直系の子孫であり、学習院を中退して大陸に渡り縦横無尽に暴れ回り、戦争終了後は国民党に逮捕されて上海の監獄で銃殺された人物である。
この小説は上下2巻であるが読みやすく、まるで活劇を観ている様な分かり易いストーリー展開である。
恋あり友情あり青春あり、そして一転戦争の場面では激しく戦い、時には五国協和って何だ、王道楽土って何だって、今も通じる世界観をテーマにした議論も出てくる。
ただ、男として生まれたからには、明日も分からない人生ってのも素敵だなと思うのも事実。
来年の心構えを作る上でも今年の年末にふさわしい一冊でした。