2009年05月10日
超絶感性
超絶感性 (竹書房文庫)
著者:桜井 章一
販売元:竹書房
発売日:2008-12
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ぼくが麻雀を始めたのは20歳頃だったと思う。元来賭博に興味がない僕が何故麻雀を始めたかと言えば「運」と言うものの存在を見たかったからだ。
古代の中国では戦争の時には必ず占い師を連れていた。そして王様は彼ら占い師の意見を聞きながら戦争をしてたのだ。
いくら古代だからって言っても今と過去の戦争の心理面にそんな違いがあるわけはない。
と言うことは当時戦争をしてた王様連中からすれば、やっぱり人智を尽くしても天命には勝てないという共通理解があったのだろう。
じゃあその天命、「運」ってナンだ?
元々カジノにも興味はないしパチンコに至ってはあのじゃらじゃら音や軍艦マーチがあまりにダサすぎて、お店のドアを開けることもなかったくらい賭博に興味はない。
けど麻雀だけは、どうもこれは何かあるなと思ったのはそんな中国の古代の歴史を読んでからだ。
中国の宮廷を建築するときは東西南北の方位が重視されており、それぞれの門ごとに守りの象徴を配置していた。どうもこの方位とか星の位置とか天の動きとかが人の運命を決定するようだ。
それと同じように、麻雀は4人でやるゲームで東西南北が存在してて、通常の確率ではあり得ない偶然がしばしば起こる。
例えば西洋のゲームの代表みたいなポーカーは2人でも4人でも出来るし、最終的には計算可能な確率のゲームであると言われている。
それに比べて麻雀は、あり得ない確率でたった一枚の上がり牌を引いてくることがしばしば起こる。
なんかあるんだろうな、そう思って始めた麻雀だけど、実際に始めて見ると、お〜、これが運なのか、てか「気の流れ」なのかと感じ始めるようになった。
要するに西洋で発明された統計などの計算方式やインドで発明されたと言われてるゼロとか1とかの概念ではなく、四人が東西南北を背負って戦うことで発生する「気の場所」なんだなって分かったのが20代前半。
この頃は東京に出張に行くと歌舞伎町の雀荘で飛び込みで麻雀してた。いや〜、あの連中は強かった。
女モノの寝巻きで寝癖の付いた髪の毛を指で梳きながら煙草をくゆらしてる、如何にもひもですって感じの若い兄ちゃんが実に流暢な麻雀を打つ。
かと言えば何かと調子よく喋ってる小太りのおじさん、牌の切り方も調子良さそうに人に振り込んでもけろっとして「なんぼでっかな?」みたいな感じ。
彼が顔を出さなくなったその数日後に「あいつ銀行強盗で警察に引っ張られたぜ」と言う話が広まった。
他にも、とにかくまともじゃない連中しかいない雀荘で打ってると、何となく空気の流れを感じるようになった。
なるほど空気ってこういう事か、それが分かってきてからニュージーランドに移住したので麻雀を打つ機会が思い切り少なくなって、特にオークランドに住み始めてから麻雀をする事もなくなった。
麻雀も音楽もある程度まで成長すればそこから先は技術だけではない。むしろ毎日麻雀牌を振り回したりピアノの前で一日10時間も練習するより、全然違うことをして人間力を高めるほうが有効だ。
技術だけなら誰でもある程度までいける。けどそこから先、麻雀を楽しんだり「気の流れ」を読もうと思ったら人間を読取る力が必要になる。そしてその技術は雀卓では学べないのだ。
桜井章一に対する評価は毀誉褒貶、霊感みたいなことを言って金儲けしてる嘘つきって話もあれば、いやいや、ありゃあ凄いよという評価もある。
今回読んだ「超絶感性」は、作品としてはそれほど重くもないし内容も大したことはない。ある意味麻雀の基本的な打ち方と牌の切り出し方を教えてるだけなので読み物として気軽に読める。
戦前の甘粕など「満州もの」を続けて読んだ後なのでこのあたりで一息と思って手に取った本だから丁度良い息抜きが出来たという感じ。
麻雀を知らない人は食わず嫌いの人も多いと思う。煙草臭いとか博打なんてとかやくざのする事とか、いろんな批判が麻雀にあるとは思う。
けど「麻雀」は誰にどう評価されようが全然気にしていない。何故なら麻雀の本質は普通の人間が日頃考える「こっち側の世界」に存在しないし依存していないからだ。
「感じる力を身に付ける。考えると不安や恐怖が出てくる。それよりも直感で浅く考える」
桜井章一の言葉はそれなりに真実であるが、切り取り方で思い切りうそ臭くもなるし本当にも聞こえる。要するに聴き手によって全く評価の分かれる人物なのだ。
二十年間無敗かどうか、それは僕にとってどうでも良い。ただ彼が伝えようとしている「気の流れ」と言うのだけは、間違いなくそこに存在すると思う。