2010年07月25日

アジアの隼 黒木亮

この本は「トップレフト」とは違う意味で更に“はまって”読んでしまった。この本の主な舞台は1990年代の香港とベトナムのハノイ、そしてパキスタン。

そして主な主人公はアジアの隼と呼ばれた「ペレグリン証券」(1998年に倒産)のアンドレ・リー、同じく1998年に倒産した長期信用銀行ハノイ支店のプロジェクトファイナンスマネージャー。

勿論そのストーリーの進み方は実に良く出来ており取材だけでなく実際に自分の足で回った時の記録を付けていたのだろう、時代背景や街の雰囲気、街の裏道のどぶ板、その一つ一つがかなり明確に書き込まれていて、東南アジアの旅行記録としても充分に読み応えがある。

しかし僕が個人的に“はまってしまった”のは、実はこの場所と時代設定。

1991年から1996年まで僕は香港で昼間は日通旅行のセールスマネージャーとして日本人の中でどっぷりと、そして夜は一切日本人を見ることのない香港人の中で生活をしていた。

朝会社に行くときは穴の空いたぼろいジーンズに運動靴、夏はTシャツで冬は迷彩模様のジャンパーと言う、いかにも香港人らしい格好。冷房もないぼろぼろの2階建てバスの中では座席で足を突っ張り出している香港人の足を蹴っ飛ばして広東語でバカヤローと怒鳴る。

会社に着くとロッカーの中にいつも入れてるスーツとネクタイ、それに革靴を引っ張りだして日本人ビジネスマンの出来上がりである。この格好で社用車に乗り取引先に営業に行き、「いや〜、香港の生活は大変ですな〜」などとお客様と話を合わせて、夕方仕事が終わればまたロッカーでジーンズに着替えてスターフェリー桟橋へ。ここで目つきがまた香港人系になる。

フェリー桟橋の船着場の右側にあるテイクアウェイ中心のお店、美心(マキシム)で鶏腿肉を一本とサンミゲルビールを2本買ってフェリーに乗り、地元民に混じってビールと鶏肉をぱくつきながら、夕陽の沈むビクトリア湾の美しさを眺め、その後はまた汚い2階建てバスの2階の一番前に腰掛けてネオンの輝くネイザンロードを楽しんだものだ。

日本語を使うのは取引先にいる時とオフィス内で日本人と打ち合わせをする時のみ、後は香港人として生活をしていたので両方の人々の考えていることがよく分かった。

駐在員は僕の事を日通の社員として見ているから思いっきり彼のオフィスの香港人スタッフの悪口や香港の愚痴を言う、そしてにやっと笑ってお互いに大変ですな〜と仲間意識を確認しようとする。

香港に住む日本人の殆どは駐在員であり常に東京を見ながら将来の出世だけを考えて仕事をしていた。

つまり目先の売上よりも東京で作られたルールを守ることが第一であり現地事情なんて関係ない。折角香港まで来れたのだ(当時の香港は優秀な社員が送り込まれていた)、下手にリスクを取って仕事をして失敗すれば減点主義の人事部でバッテンを出されてそれ以上の出世が出来なくなる。

だから香港人スタッフには日本ルールを押し付けて無意味な書類を作らせて手間ばかりかけて結局そんな書類もムダになるのがしょっちゅう。そんな日系企業に愛想を尽かせた真面目で成長思考の香港人スタッフはすぐ欧米系の企業に転職してそこでばりばりと働く。

または日系企業を「こりゃ美味しい!」と思って上司が英語もろくに出来ず広東語は全く出来ずに現場の仕事を見ていないのを良い事に取引先と組んで思いっきり会社の金を横領しまくる。そうやって倒産した会社の一つがヤオハン香港である。あそこの香港人バイヤーは皆ベンツを運転していた、上司が地下鉄で会社に通っているときに。

そんな日系企業だから実はあまり会社の利益など考えずに保身に走り何かあればすぐに東京にお伺いを立ててたから香港人ビジネスのスピードに勝つわけがなく次々と不良債権を掴まされたり大損させられたりしていた。

大京観光が香港の不動産を高値で掴まされて安値で売却せざるを得なくなり、そこを買い戻した香港の企業はその不動産を更に他の日系に押し付けて何度も美味しい思いをしていたものだ。

本書は日本企業の社員が東京でなくて現地を見つめてベトナムの発電所計画に取り組み、時には本社の指示を無視したり社内規定を違反しながらシンジケートローンを構築していく過程を描いている。

個人的になるが、実は本書の主人公である長期信用銀行の出張の手配は殆ど全て当社で行っており担当者も支店次長もよく知っている。更に副主人公格となる住友商事の入居しているビルなど、日通旅行もまさにその住友商事のオフィスの一角を2年ほど借りて住友商事の手配もやっていたので当時の統一中心の場所を描く場面も懐かしい。

本書のもう一つの舞台であるパキスタンに出張する日銀理事の出張の手配もうちで取り仕切っていたが、当時はインターネットが今ほど発達しておらず、パキスタンのような都市への出張はカラチ空港へ迎えの車を時間通りに到着させるだけで至難の業であった。

1990年代前半の香港と長期信用銀行。ベトナム直行便、パキスタン、どれを取っても当時の景色や街の匂いやあの頃が思い出される。

ぼくが住み始めた当時、香港は返還前景気と呼ばれてハンセン指数は毎日ぐんぐん伸びて従業員の給料は毎年10%以上賃上げで日本の証券会社や銀行も進出して、香港で利益を稼ぎ出そうとしていた。

しかし当時の証券会社でまともに香港で利益を出せたところはなく、それから数年のうちに30数社あった証券会社は数社にまで縮小した。所詮判断の遅い日系企業は地元証券会社の敵ではなかった。

日系銀行は主に外国に進出する日系企業のお手伝いとして活動して中国やベトナム、パキスタンに進出する企業の応援を行い、どこもそこそこに頑張っていたが、銀行も遂にバブル崩壊による不良債権処理という問題を抱えて本社の土台骨が揺るぎ始め、銀行も次々と香港から撤退していった。

僕が香港を離れたのは1996年。香港はまだ元気があって、「来年はもっと稼ぐぜ!」そんな雰囲気が満ちていた。日通旅行アウトバウンド部門の売上もアジア景気に合わせて右肩上がりに急成長しており、仲間からは「何でこんな絶好調の時に辞めるんだ、来年はもっと給料が上がるのに」とも言われた。

その頃は誰もが、明日は今日より儲かる、来年は今年よりも良い年になる、そう信じて疑わなかった。長期信用銀行の人々はまさか2年後に自分の勤める銀行が倒産するなんて思いもよらなかったし、そして日銀の理事は、自分がまさかそれから数年後に逮捕されるなど思いもよらなかったのは当然だ。

そんな時期ではあったが、そうは言ってもうちの奥さんが決めたことだから一切の反論はあり得ないわけで、ぼくは1996年7月にオークランドに渡った。

そして1997年5月14日、タイ最大の金融会社「ファイナンスワン」の倒産によりアジア危機が始まった。バーツの大幅切り下げ、インドネシアリンギの切り下げと通貨危機はアジアを飛び火しながらペレグリン証券を焼き尽くした。

1997年に三洋証券、拓銀、山一證券と次々に倒産して日本の長期にわたるデフレ不況が始まったその翌年、長期信用銀行も国有化された。

あの頃お付き合いのあった人たちは、今頃どこに散らばっているのだろう?世界の外銀で頑張っているのか、それとも日本で「もう金融はいいや」って全然違う業種で働いているのだろうか?




アジアの隼 (講談社文庫)アジアの隼 (講談社文庫)
著者:黒木 亮
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
おすすめ度:4.0
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tom_eastwind at 14:39│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

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