2010年08月05日

デモシカ

香港時代の幼稚園では、竜馬君に接してくれる誰もが本当に“教師”だった。僕はもちろん教育のプロではないが、彼ら彼女らの子供に対する接し方を見ればすぐ分かる。目線が全然違うのだ。

子供には柔らかな言葉で話しかけながら、同時に子供の様子をじっと見つめている。

日本と違って香港では英国式教育なので「Ms Wong」みたいに相手の苗字に敬語を付けて呼ぶ。ニュージーランドでも同じで、単純に先生と呼ぶことは絶対にない。だって先生と言う言葉が存在しないからだ。

Teacher?それは教師だ。Teach、教師ってのは教える師であり、日本にあるセンセイって言葉は、教える子供よりも先に生まれたってだけであり、教師ではないのだ。

子供に教える仕事の大変さを理解し、そしてなおかつプロとして仕事をする。

日本ではデモシカ先生というのがごろごろして彼らが将来ある子供の芽を次々と摘み取っていったものだ。進路指導という名目の元、子供の将来をセンセイが決めていた。センセイの中で一人でも子供に「おい、オマエくらいに夢があるなら独立して起業しろ」なんて言うのはいなかっただろう。

そりゃそうだ、だって自分が出来なかったことを今目の前にいる子供が出来るなんてあるはずもないし、あったら自分のせっかくしがみついてきた人生が否定されたようで悔しいじゃないか。

ちなみにデモシカってのは、先生に“デモ”なろうか、先生“シカ”出来ないなって意味である。

けど、子供の未来をそんな人生のど素人が決めて良いのか?彼らは児童心理学をきちんと学んでいるのか?てか、幸せっての意味とか個性ってとかの意味を分かっているのか?

いつも思うことだが、日本では教師は聖職なのか労働者なのかと考えられる。

その意味でニュージーランドでは一つの答が出ていると思う。それはプロフェッショナルと言うことだ。労働者でもあり聖職者でもあるプロ。だから昇給を求めてストライキもするし同時に子どもたちに何故私たちがストライキをするかを教える。

もちろんニュージーランドの全ての教師が素晴らしいわけではなく、うちの家庭の夕食の時にも娘が学校の教師の批判をしたりするし、お母さんも竜馬君の学校の教師の批判をしたりする。

けど僕からすればそれは基本的に「程度の問題」であり「絶対的な問題」ではないって部分でニュージーランドの教育方法を評価したいと思っている。

僕自身が小学校の頃から何度センセーに潰されたことか、いまだもって怒りをもって思い出すくらいだ。

これは別に、個人的に誰が悪いとかではなく、日本式教育ってのは一部のエリートを除き90%以上の人間を型に嵌める教育であり、落ちこぼれは“だめだめ”であり、ましてや自閉症の子供なんてあり得ん、そんな感じだった。

何故か?答は簡単で、そうしないと日本と言う国家組織が運営出来ないからだ。

僕はその当時の政府の選択を間違いとは思っていない。実際にそうやって日本と言う国を世界のトップクラスに押し上げたのだからたいしたものだとおもっている。

ただ、そのシステムは“普通ではない人々”にとってはとってもきついシステムであった。普通になれってのは、僕にとっては、既成の靴に合わせて足を大きくしろとか言う話であり、それは僕の中であり得ない解決策だった。

竜馬君を見るたびに自分の子供時代を思い出す。やっぱりこの子がこの国で生まれ育って良かったな、日本だったらこの子は完璧に潰されて、自殺していたかもしれないって現実。

一体どれくらいの日本人が自分の立っている場所を安定しているって思っているかもしれないが、安定ってのは本人の心構え次第であり、それなしに社会にすがって生きているのは安定ではなく甘えでしかない。

誰かに何かをしてもらおう、その気持ちは分かるけど、親である自分がしっかりとした価値観を持っているのか、他人の価値観を自分の子供に押し付けてないか、子供は意外と強いのだ、あるがままに認めてあげればよいのだ。

自閉症?何が問題だ?ぼくはこうやって生きている。あるがままに生きている。

続く



tom_eastwind at 16:32│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

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