2010年09月08日

安全と進歩

aa32eb18.jpgクライストチャーチで今朝また5.1の地震。今度はクライストチャーチから南西10kmくらいの所が震源だったので縦揺れが強かったそうだ。ビルなどの建物で弱ってたところが二次災害で倒壊する可能性が増えたとの事。

考えてみればこの地震、土曜日の朝5時前で誰もが寝てたからよかったものの、もしランチタイムに地震が発生していたら煉瓦の落下による人的被害はもっと増えただろう。

しかしいつ地震が起こるかなんて誰にも分からないから、どこに住んでたら「絶対安全」と言うことはない。

ぼくらは地球上の表面にへばりついて生きている動物の一種なのだから、地球の何十億年の歴史から見ればほんの一瞬地表に現れただけの生き物であり、恐竜でさえ一時期は地上を支配しててもあっという間に絶滅したし、地球からすればぼくら人間を特別扱いする義理もない。

だから地震などの天災に至ってはどこにいるから安全なんて事はあり得ない。津波を避けるなら高台に住めば良いが雷に打たれるかもしれない、じゃあってんで山の中腹に住んだら雪崩が起きて家ごと押し流されるかもしれない、じゃあってんで低地で海のない場所に住んだら土砂降りで川が氾濫してニューオーリンズみたいな騒ぎになる。

第一天災だけじゃあなくて隣の家の火事がこっちに飛び火するかもしれない。集合住宅で高層階で「まあ景色が素敵」なんて言ってたら一階から出火、逃げ場所ないままに焼け死ぬかもしれない。

こういう人災で言えば、一番怖いのは人間だろう。「まあ素敵、お安いわ」と言って買った家は、隣に引っ越してきた少し怪しい、毎日バットを持って歩き回りそのあたりの猫を叩き殺すかもしれない。

だから結論として「絶対安全」は絶対あり得ない。西洋人が日本人より確実に優れているのは現実を理解して「絶対安全はあり得ない、比較安全を考えるしかない」と判断出来る点である。

日本人の一番の問題点は安全神話の中で生活をして無菌状態でいるのが普通と思っているから、ちょっとした事で大騒ぎする。牛肉が危険だって言うけど、それより危険なのは隣家の引き篭もりさんかもしれない。

だから安全は本来その対極にある危険と合わせて数値で判断すべきなのだ。ふぐを食って死ぬ確率とふぐの旨味で舌と心を満足させる度合いを比較すべきであり、米国の牛肉を食って自分がプリオン食ってヤコブ病になって、更にそれが発症して自分の脳みそがすかすかになって死ぬ確率と、毎日安くて美味しいものを食べる事が出来る生活の楽しさとを比較すべきなのだ。

そういう当然の現実を無視して「毒入りの牛肉を食べさせる米国政府なんて!」と言っても、彼らからすれば「はあ?私たち毎日食べてますけど何か?」の世界である。

もちろんどこで狂牛病が発生したか、現状はどうなのかは情報を強制的に収集出来る政府がすべきだろう、個人では不可能だから。けれど情報を国民に提供したら、その後は国民の判断である。

政府による積極的な情報公開とそれを冷静に理解出来る教育の提供は政府の役目だが、そこから先は自己責任、政府は努力しようとしない人間までは救えないのだ。

100g1000円の和牛を食うのか、100g200円の米牛を食うのか、それは危険度を勘案しながら家庭の主婦が決めることだ。

そしてすべて安全でなければいけない等と言ったらそんなもん現実を無視した夢物語、寝てからお話してくださいって事以上の大きな問題を含んでいる事を知って欲しい。

それは、安全だけを語っていれば誰も高層建築に挑戦はしないし宇宙にロケットを飛ばさないし深海に潜って新しいエネルギー探しもしないし、第一北の海に行って蟹を獲ってくる事もなくなるだろう。

つまり安全と危険は常に背中合わせだが、リスクを取らなければ世の中は進化していかないって言う現実があるのだ。雷を集めて電気を発明するのも、一発間違えば自分の体にズドーンでお仕舞い。

爆薬を発明した人だって指の何本かは吹っ飛ばしただろう、しかしニトログリセリンが高度に発達したおかげで心臓病患者が長生き出来る様になった。

ところが今の日本人がいう事は、爆薬を作るのは危ないからだめ、雷に打たれたら危ないから駄目、けどそうやってリスクを取って作られた文明の利器は利用させてねっていうこずるい発想である。

いるでしょあなたの周囲でも、リスクは取らないのに後になって「おれにも寄越せ」ってのが。

結局そうやって日本人がリスクを取らないものだから世界の重要な基礎的技術や産業の一番美味しいところは西洋人に取られて、リスクを取って狩に出た彼らは仲間内だけで暖かい焚き火を囲み美味しい肉を食べて、彼らの環に入れない日本人は冷たい地面に座り込んで、時々輪の外に放り投げられる食べ残しの骨の端っこをしゃぶっているだけしかなくなるのだ。

クライストチャーチでは地震の最中でも21歳のBIG誕生日パーティが開催され、朝からマラソンをしている人もいたそうだ。どんなリスクに曝されても自分らしく生きていく、常にリスクを取って生きていく、そういう人間が結果的に社会を成長させているのだ。

そういえば思い出した、今年クイーンズタウンのスキー場でレースの最中に転倒して亡くなった80歳の日本人スキーヤーに対する評価。

キーウィは「ああやって死ねれば最高だな、おれもああやって死にたいな」と。
日本人は「何でそんな危険なことをするんだ!こんな危険だから人が死ぬんだ!」と。

「何て日本は豊かで安全でコンビニがたくさんあってモノが安くて阿吽の呼吸が分かってくれて素晴らしいんだ!」と思う人、その意見の半分、日本は素晴らしい国だって部分だけは同意しよう、これ以上いう事はないが、最後に現在シドニーに在住するある漫画原作家の文章を紹介しよう。

★抜粋開始
人類は、今亡びつつあると思う。だって、あなた、この狭い日本だけで50基以上有る原子力発電所が、地震か何かで二つ、あるいは三つ壊れてご覧なさい。日本だけじゃない。世界中が、大変な被害を受けます。中国も、どんどん新しく、原子力発電所を作るという。

チェルノブイリ一つであれだけの騒ぎになったんだ。世界中の原子力発電所が四つか五つ壊れてご覧なさい。お終いですよ。どうして、みんな、こんな危険な物を安全だ、安全だと言い張るんだろう。

原子力工学を学んだ者は、特別に頭が良い訳ではありませんよ。原子力のことをよく分かってもいない。(私は、色々な原子力工学関係者から話を聞いて、彼らは、たんに希望的予想に全てを賭けているに過ぎないと確信するに至った。安全について確信を持っている関係者は一人もいなかった)

 工学部で、他に行くところがないから仕方なく原子力工学部に行ったと言う人間も多い。要するに、原子力発電に対して、自らの全てを献身するなんて気持ちはさらさら無い人達が少なくないのだ。

原子力発電所の研究員も、事故が起こる前に、自分の定年が来るようにと、それだけ願っている人々が少なくない。実際の、危険な作業は自分たちでせず、契約社員にさせている研究員が、反論出来るか。


tom_eastwind at 11:46│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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