2011年01月01日

南半球のちっちゃな島から

acf6c722.jpg自分の子供に名前を付ける時は、親なりに子供に期待したり望むものがあるのだろう。けれど子供からしたら親が実現出来なかった夢を背負わされたり親が実現した道をそのまま歩かされるなんて、実に理不尽である。

子供だって一つの生き物であり親が自分の何かを強制することは出来ない。

去年の子供の名前ランキングで男の子の一番が大翔(ひろと)との事。その名前を付けた親からすれば大きく飛翔して欲しいと思っているのだろうが、実際に親が言う事は「勉強しなさい、塾に行きなさい、良い学校に行って良い大学に行って公務員とか一流企業に就職しなさい、その為には良い子でいなさい、夜は早く寝なさい、あれこれあれこれ」。

つまり子供を自由に飛翔させずに地上に置かれた籠の鳥のように「型に嵌める」作業を押し付けているだけなのだ。

こんなのは今の日本社会の平均値=ほぼ自由を失って周囲に束縛されて生きている親の価値観の押し付けに過ぎない。

要するに考えている事と実際にやる事が矛盾しているのだ。でなければ子供が一番成長する時期に子供の個性とやる気と自発的感情を擂り潰すような事が出来るはずがない。

「けどね、そんなこと言っても今の日本ではね、そうはいかないのよ」と言うのだったら最初から子供にそんな名前付けるな。

子供の名前を「駄馬」とか「籠の鳥」とかにしておいて子供が物心つくころになったら「あ、そうか、ぼくは駄馬で籠の鳥だから誰かに首を引っ張られて動けばいいんだし籠の中から出るなんて自由を考えちゃいけないんだ」と自分で気付く事が出来る。

ニュージーランドで生活をして一番良いのは、自由があることだろう。同時に何をするにしても自由だけど自分のやった事には責任を取らなければいけないと言う自己責任の原則もある。

これって社会の中で生きていくごく普通の要素なんだけど、何故かそれが日本にはない。

これは日本が西洋のような「一部独占階級から特権を奪うための市民の戦い」を経験していないからだと思う。いつの時代、どんな政権の下でも一般的日本人は黙って従って長いものに巻かれて自由を得る為の戦いをする事はなかった。

明治維新は武士同士の政権争いであり大東亜戦争は一部特権階級が決めた戦いであり敗戦後の日本を成長させたのは優秀な官僚だったが、どれ一つをとっても一般市民が自分の為に何かをやったのではない。

結局いつの時代においても一般的日本人は「お上」の言う事を聞き長いものに巻かれて生きてきた。だから自由と自己責任の原則を理解しようとせずにいつまで経っても子供っぽい議論しか出来なくなっている。

大雪で電車が止まれば駅員に「どうしてくれるんだよ!大事な仕事があるんだよ!」と突っかかるバカ親父。かと言って事故覚悟で電車を走らせて本当に事故が起これば「一体乗客の安全をどう考えているのだ、賠償責任だ、カネ払え!」となる。常に他人任せ、自分の頭で考えるって事をしようとしない。

結局日本が精神的に大人になる為には、つまり自由と自己責任の原則を理解するようになるまではまだまだ長い時間がかかるだろうし、もっと言えば一般的日本人が本当に自由と自己責任を自分の手で掴みたいのかどうかって事だろうと思う。

写真は自宅の庭の木に止まってるいんこ(?)。


tom_eastwind at 14:22│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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