2011年02月16日

就職待合室という大学、大学というバブル

ピカデリー広場銅像青空最近のアゴラでは就活に関する問題提起が多く出ている。就職時期になっても就きたい仕事に就けないとか、そもそも就職さえ出来ないとか。

 

話題は就活からさらに広がり、企業側が最初から大学を指定してくる以上、大学入試が企業入社の第一段階となり大学在学中はたいした勉強をする必要もない(在学中の成績はあまり問われない)けど後半の2年は就活で走り回って授業どころではない、結果的に大学の4年間というのは無駄に失われているという考え方だ。

 

そして池田ブログで出てきたのが「大学(に子供を送り込む)という教育投資と(社会の)経済成長率には全く相関性がない」し「教育(期間)は生産人口を浪費して成長率を下げている可能性がある」だ。

http://agora-web.jp/archives/1241727.html

 

ではなぜ大学に行くかというと、個人的には大卒で就職した方が自分の給料が高くなるからでありより良い企業に就職出来るからだ。ここで大学卒業者に対して出てくる批判が「大学教育を非生産的だが儲かる海賊」に例えている。

 

「日本の国家予算で大学に使われている費用が1兆3千億円である。社会成長に寄与しないどころか一部の人間を個人的に豊かにするためだけに国家予算が使われるのはまさに無駄である」とは、同じアゴラの井上ブログからだ。

http://agora-web.jp/archives/1241078.html

 

社会成長に寄与する教育はむしろ幼児教育や早期教育であり、15歳までに読み書き計算能力の基本を身に着けるだけで十分、それ以上の高等教育をするのなら政府の補助金なしか、または奨学金などを利用してくれって理屈は、おうなるほど、これなりに筋が通ってるなと思わせる。

 

もちろんこれに対する反論として「大学は無駄じゃない、相対性理論だって最初は無駄だったけど今は役立っている」

 

ここで井上、池田両氏が言ってるのは「大学全廃ではなく不必要な就職待合室のような大学は廃止して高卒中心で社会の生産性に18歳から寄与させた方が良い、研究などの一部は今まで通り国家がやっていけば良いが、正直言って文系は大学には不要かも」。

 

僕としては自分の意思を持たないロボットがとりあえず行かなくちゃ行けないからって親に言われて仕方なく行くような大学の存在価値を最初から認めてないけど、自分が高卒だから大卒がどうのこうのという立場にはないな、それに日本では消費税くらいしか納税していないから、ある意味勝手にやれば?と思ってる。

 

ロボット学生については特にみゆきが一年東京の専門学校に通ってた時にしょっちゅう文句を言われたことだ。「お父さん!日本人ってなんで自分でものを考えないの?ばっかじゃないのこんな高いお金払って学校に来ても何もせずにいる学生っていったい何よ!」

 

実際に多くの学生がロボット化しているのは間違いない。それはブログへのコメントを読んでても「今の大学は昔の高校程度の知識しかないし自分で自発的に考えることが全く出来ない」という指摘だ。

 

それは社会人を見てても分かる。とにかく上司に言われたことだけやる。なぜやるかは考えない。高校で読み書きそろばん、大学でちょびっと専門知識は付いたけどそれは首から下がとても健康でよく動く、脳みそが指示されたことを正確に実行できるって意味でしかない。

 

だから指示待ちロボットとしては優秀だけど人間としてはどうなんだ、自分で問題解決能力がないではないか、なんでそこを教育しないのかなんて指摘もある。

 

けどこの指摘だけはな〜、アゴラにコメントをする人ってのは基本的に賢い問題意識を持った人だと思うのだけど、なんでロボットばかり作ってるかが分からないのかな?

 

だってそれが文部科学省の狙いであり、世の中に出てくるまでに徹底的に個性を摘み取り自発的に考える力を奪い上司の命令を何も考えずに実行する人材こそが政府の求めている人材なのだから、まさに政府の思った通りの社会になっているではないか。

 

政府をなめてはいけない、彼らはわかったうえでロボット作りをしており、そうすればロボットは一部の支配層に逆らうことなく毎日毎日擦り切れるまで働いて最後は自殺してくれるんだから、こんな手間のかからない国民はいないよ、わははって感じだ。

 

このように日本の大学に関する問題は山積みであり小手先ではどうこうしようがない状態であるのはよくわかった。

 

結局総論としては生産性のない大学は廃止だ、無気力な学生は間違いだ、多くの親は問題意識を持っているけど、では自分の子供が大学に行くかどうかとなったら各論となり「や、やっぱり自分の子供可愛さで「とりあえず行っておけば?」となる。

 

要するに他人事ならいくらでも理屈は言うけれど実際に自分の問題となった時は理屈抜き、自分の利益だけを守ろうとする。その時に親が言う言葉は「わたしはどうでもいいの、けどこの子の為に」という。これを“お為ごかし”という。

 

日本の大学に関する議論は、その大学に送り込む親が「おらだけ良ければ」という発想を捨てなければ実現不可能である。

 

つまり日本全体が今でも「おらがむら」の集まりである以上、大学の議論をどれだけしても所詮は「は〜!ブログで匿名で書きたい事書いた、あーすっきり、さて会社に行こう」というガス抜きでしかない。



tom_eastwind at 11:47│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔