2011年04月10日

時は流れて

香港人の英語

 

香港に観光旅行に行った人は、香港ではどこでも英語が通じて楽ちんだとよく言う。これは半分正解で半分間違いだ。

 

観光客が行くような場所では誰もが当然のように英語を話す。そうしないと飯のくいっぱぐれになるからだ。ところが一般の人々が生活をするような街では英語など全く通用しない。例えばぼくが生活をしていた官糖では道端で英語で誰かに話しかけようものなら広東語で「くそったれ」と言われておしまいだ。

 

しかし1990年代はシティのホテルや高級レストラン、金融街や大型ショッピングセンターでは間違いなく皆がそれなりに流暢な英語を話していた。

 

今回は滞在が長く途中に時間の余裕があったので少し街を歩いたりしてたら、とにかく大陸中国人のうるささが目立つだけでなく、道端のあちこちで普通に北京語が使われていた。

 

香港人にとっては1980年代は日本語、1990年代は英語、2000年代は北京語と、第二言語が変化している。

 

彼らの腹の中では「くそったれ大陸中国人め」と思ってるのだがそんなのはおくびにも出さずに大陸レベルの接客態度、つまり店に置いてある商品を盗まれないように相手からいくら金を引っ張り出すかを考えて嘘をつきまくり、最後は売りつけた方が勝ち、買った方があふぉとなる態度で接している。

 

困るのは英語力が思いっきり低下してきたって事で、これは裏を返せばそれだけ中国ビジネスが増大して英語を使う機会が思いっきり減ったって事だ。

 

とにかくホテルに泊まっててもまともな英語が通じない。I’ll let you know なんて言ってもぽかんとされる。「れいたーれいたー」と繰り返してやっと通じる。

 

シンガポールでも道端英語は見事にシングイッシュであり、これに合わせて発音するのは英語圏で生活をする者としてのプライドを捨てる事である。セントレジスホテル(StRegisHotel)は「ッセンート、レギ〜〜ス!」と言わないと通じない。通じないからって彼らのシングイッシュを話すのは嫌だし、だからと言って炎天下でホテルに歩いて帰るわけにもいかない、そこでホテルカードを持って毎回これを提示したのだが、今度はカードの文字が小っちゃすぎて運転手が老眼鏡を右手で上下させながら一生懸命見つめてた。ちなみになぜかシンガポールでぼくが見た運転手は皆中国系だった。

 

しかしホテルや金融街に行けばそこは英語の本場に留学した若者がほとんど完璧な英語を話しており、この点もシンガポールの競争社会の厳しさを感じた。

 

両方の国を総じて感じたのが、国家の相対関係なんて10年もあれば変わるという事だ。

 

1980年代から90年代半ばまでの香港はイケイケであり、一旦カナダに家族で移住しながら旦那さんだけはまた香港に戻って働く「単身赴任」も多かった。

 

ところがその後中国に返還され民主派政治家がだんだん少なくなり子供たちの教育も第二言語が英語から北京語になり、そしてもちろん中国の独裁国家の枠にはめこまれるようになった。

 

つまり1997年から香港は政治の混乱に巻き込まれ経済を誘導する仕組みが弱まり更に中国の意向を聞きながら活動する為にどうしても不明朗な部分が出て来た。

 

ところが当時は数段地位の低かったリークワンユー首相率いるシンガポールはさらに徹底した独裁主義で人々に政治の事を一切考えさせず、子供の教育にむちゃくちゃ力を入れて地元の大学に入学できない子供は欧米の大学で学ばせるのが当然の風潮になった。

 

同時に金融の自由化を図り世界中から誰もが参加出来る市場を作りその公正さを世間に訴えた。

 

とくに有名な事件が2005年に起きた中国航化燃料事件である。シンガポール市場で航空機用燃料を買い付けて中国の航空会社に販売する中国の国家企業であるが、このシンガポール現法の社長が本社が禁じる先物売買をやり大損。そして社長はすぐ中国の実家に逃げ帰った。

 

今までならこれで終わりだったのがシンガポール金融庁は徹底した調査をする為に中国政府に対して社長および北京本社の責任者の召喚及び逮捕まで行った。世界はこれにびっくりした。中国にここまで堂々と対応するなんて・・。

 

他にも日本ではホリエモン事件がある。これは基本的に冤罪であり国策調査だ。しかしシンガポール金融庁としても日本政府として銀行口座情報の開示依頼を受ければ、それにはきちんと対応した。

 

その後もシンガポールは「ごみの落ちてないきれいな街」であり「誰もが金さえ稼げれば永住権が取れる国」となった。

 

方や政治の乱れと経済の不透明化により10年かかってアジアの金融センターの地位をシンガポールに奪われた香港、方や政治を安定させて強い方向性と経済の透明性を表に出して10ねんかけて香港からアジア金融センターの地位を奪ったシンガポール。

 

今これと同じようなことが日本と韓国の間で起きているのではないか?アジア金融危機でIMF管理下になった韓国は危機感をばねに財閥解体、老齢者早期退職、海外留学組の登用、韓国文化を世界に知らしめるための映画産業の興隆、政府と民間が一体になった技術開発と世界に向けた販売網の構築。安定した政治と明確な経済の方向性、ここでは競争に負けた者は去っていくしかない。

 

ところが日本ではいつまで経っても不安定な政治、不明朗な経済の方向性、更に意味不明な官僚による縄張り争いとしての規制、国民はそんな中で過去の遺産を食い潰しながら「おい、平等なんだ、おれにも一個よこせ」と不要なものまで受け取ろうとする。

 

韓国は日本より少ない人口であるのをばねにして海外に販売網を展開してその際に役立ったのが留学組の英語力であった。

 

今の日本は英語を学ぶための留学もせず海外に目を向けずひたすら国内でぶつぶつ言ってるひきこもりのようなものだ。スペインやポルトガルのような超大国でもいつの間にか過去の国になった。今のままでは日本が韓国から抜かれる日が数年後に来てもおかしくはない。

 



tom_eastwind at 17:43│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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