2011年05月30日

AKB48 年齢信仰について

 

このグループの名前を「えーけーびーフォーティエイト」と呼ぶのは今回東京に来るまで知らなかった。Youtubeで検索しておけば呼び名も分かったのだろうがぼくの頭の中では彼らの名前は文字で入力されてるし活動の場所が秋葉原なのでてっきり「あきばよんはち」だと思っていた。その方が短くていいじゃんか(笑)。

 

篠山キシンと言う写真家がいる。もうすでに70歳過ぎているが今でも現役で写真を楽しそうに撮っているしとくに女性のヌードを撮らせたら日本一と言われている。

 

そんな彼がNHKの番組に出演して今までの作品集の話をする時の一つに、AKB48の子供たちと楽しそうに写真を撮っているのがあった。インタビューでアナウンサーから「彼女ら年齢差を感じませんか?」と聞かれた彼は、「仕事やってるのに年齢格差なんてないない、大体それ、あなたの勝手な思い込みでは?」みたいな発言があった。

 

かたや天下の篠山キシン大先生でありましてや70過ぎであるのに、16歳の女の子と同じ感性であるというのは日本型ではない、年よりはもっとエライのであり篠山キシン先生は社会的地位が高いのである、だからあなたから見ればずっと格下の16歳と一緒に仕事をしてるのはどうなんでしょうと言うのが「年齢差を感じませんか?」と言う言い方になるのだ。

 

ぼくはこういう日本人の考え方を「年齢信仰」と呼んでいる。

 

日本や中国など東南アジアの一部では相手の個人能力を評価せず年齢と社会的地位だけで相手の相対的位置を決めてそれで話が始まる。相手が子供だけど実はとても賢いとかすんごい年上だけどよく見りゃ「生まれっぱなしのバカ」ってのもいるがそれでも年齢が↑なら「はは〜!年上様〜」となるのだ。その代わり自分の番になれが後輩に自分に対して「ははー!」ってやるんだから悪くない。バカでも年を取れば威張れる世襲バカ構造である。

 

社会を秩序立てていくために分かりやすい手段ではあるが、そんなのは社会が秩序立っている時にしか通用しない話である。今の時代は大手企業であっても平気で年齢を飛び越した昇進があるし降格もある。要するに年齢で相手の位置づけをしても「だからなに?なにが決まるの?」でしかない無意味な判断だ。

 

ニュージーランドでは10歳の子供が50歳の大人と堂々と話をする。相手に対して年齢に応じた尊敬の念ははらうものの基本的に年齢はお互いの人間関係の中で何の意味も成さない。

 

だいたい会話の中で相手の年齢を聞く状況など普通にない。フラットメイトは数名いてもお互いの年を知らないのは普通だし隣の家のご夫婦がおいくつかなんて聞いても単なるのぞき趣味と思われるのがおちだ。皆さんが実際にニュージーランドに住んでみれば、彼らがどれだけ年を聞かないかがよく分かる。大事なのは年齢ではない何を語っているかなのだ、誰もが自分を幸せで永遠に若いと思ってしゃべっている時にわざわざこの世に登録された年月日を聞かれてうれしいだろうか?しらけるだけですぜ。

 

ニュージーランドは大学の入学枠を巡って同級生と競争するという仕組みが存在しないから受験勉強はあるけど日本のような他人を蹴落とす勉強ではなくあくまでも自分が行きたい大学の学科に必要な単位を取るための、つまり自分のための勉強をして18歳で大学に入る。

 

けれど同時にニュージーランドは誰でも大学に行ける仕組みがあるので、あえてそんな勉強して入学する必要もない。まずは15歳で義務教育は終了するので一旦社会に出て、例えばお父さんの牧場でお父さんと一緒に牛や羊を育てる仕事を10年くらいする。

 

22歳になってそろそろ次の仕事を覚えようとなりオークランド大学の情報処理コースを選択する。大学の授業に追いつくために彼は、その時点から入学準備コースに入って勉強をする。そして半年くらいで授業に追いつくようになれば学部に編入である。つまりこの場合は受験勉強さえ不要なのだ。そして大学で3〜4年勉強すれば学位が取れて新しい社会に旅立つことになる。

 

人間は22歳だから若いのではない、挑戦してみよう成長して見ようと言う若い気持ちを持つから若いのだ。挑戦も成長も無くした若い気持ちのない22歳なんてじじいですぜ。

 

実際にうちのおくさんは40歳過ぎてオークランド工科大学に入学してSociologyと言う学問を学んだ。社内でも現役社員でありながら大学に通っているスタッフもいる。当社で3年ほど働いた27歳の若者がもっと自分を磨きたいからと大学に入りなおして専門技術を学ぼうとしている。

 

3人ともアジアからの移民であり大学受験のため15歳の子供が勉強しているような勉強はやっていないが大学の門戸は開かれている。

 

説明会ではニュージーランドの教育の仕組みを説明して「だから22歳過ぎると誰でも大学に入れるんですよ」と言うと、「え?新卒になるんですか?」とか「18歳で入学した人と扱いは違うんですよね?」などと聞かれる。

 

あのですね、大学は資格を学ぶ場所であり学ぶ人の年齢が何歳かなんて何の関係があるのでしょうか?誰でも好きな時に大学で新しい専門知識を身に付けて次の世界に旅立つのです。

 

受け入れる企業の方でも年齢なんて関係ない、会社が存在して必要なポストに空席が出たら随時募集する。その時に大事なのは候補者の資格や能力であり、22歳で新卒よりもむしろ30歳くらいのいろんな社会経験を積んでいる候補者の方が使いやすいケースもある。

 

日本の大学は入学することが企業に対する「ぼく、利口です、僕を採用してください」と言うシグナリングであるから現在の日本の教育システムを常識として考えてる多くの人々はそれが実は社会歯車ロボット製造装置の一環であると気づいていない。

 

日本は戦後重工業生産を開始した。大きな工場を作りそれがいくつもつながり、そこに中東から石油を購入してコンビナートで商品化して太平洋を渡って米国に売るビジネスモデルが出来上がった。これはすべてが毎日きちんと動く必要がある、労働者も含めてだ。

 

労働者が毎月ぱらぱらと入ってくると新入社員教育が大変だし大きな工場を動かすのにそんな少人数の動員ではどうしようもない。そこで出て来たのが全(中高大)学生とも毎年3月31日学校卒業4月1日企業入社と言う仕組みである。つまり学生のジャストインタイムなのである。

 

こうしておけば工場にすれば中東の石油がいつ何トン入荷するのかと同じレベルで、ヒトはいつどれだけ入荷するのか、そのヒトはどんな商品を作らせるのかが作業表に書き込める、あはは。ほーら、人は歯車人はモノ、戦後の日本は人間までも商品を作るための部品としてしか扱わないようになったのだ。

 

そして次に大事なのが社会的地位である。4月1日の入社時点で優秀な大学を卒業したモノから日本株式会社の優秀なポジションに配置される。

 

一番優秀なのは大蔵省などのキャリア官僚に入り二番目はノンキャリア官僚、その次には大手民間企業の東京本社採用。都内の私立三流大卒だと地方のどさ廻り、高卒は地元の営業所で一生現場職員として東京の指示に従う。最近はあまり見ないが中卒は以前は金の卵と言われたがその配置先はすべて工場である。こうやって日本株式会社の中の階級が決まっていく。

 

逆に言えば三流大学や高卒だといつまで経ってもうだつが上がらないわけで現場で同期にこき使われることになるから母親としては子供に「あんた、いい大学に行きなさい!」となるのだ。大学で何を学ぶかではなく大学に入れたかどうかがシグナリングだと、高卒の自分の旦那を見てる賢い母親は良く分かっているのだ。

 

母親はもちろん子供を歯車にして社会に放り込むことに何の疑問も持たない。チャップリンの映画を観て人間が歯車に挟まれるのを観て「まあこんな世の中嫌よね、チャップリンは名優よね、さて、勉強の続きしなさい」となる。なぜなら今の日本にはそれ以外の選択肢がないからだ。「起業?そんな空恐ろしいお上にたてつくような事、させられません!警察に捕まりますわよ!」


 

年齢信仰の日本、いつの時代も「それって少しおかしくない?」と言う若者が出て来たがいつの時代も政府及び同級生によって排除された。何故なら誰もが秩序だった日本株式会社の中でぬるま湯で生きてこれたから、そこに波風を立てるような「人間」は支配する側からも支配されてる側からも同じように理屈抜きに「あいつおかしいよね」と排除されるのだ。

結局アジア人が持つ年齢信仰をうまいこと支配層に利用されて社会の歯車に放り込まれただけではないか。そして異端者を排斥して何とか生き残ったような顔をするが、そんな年齢信仰と歯車生活が幸せだろうか?ほんとに人間らしく生きているのはどちらだろう?




「はかない青春」

ヘルマン・ヘッセ





疲れた夏が頭をたれて、
湖に映った自分の色あせた姿を見る。
私は疲れ、ほこりにまみれて並木路の影の中を歩く。



ポプラの間をおどおどした風が吹く。
私の後ろの空は赤い。
私の前には、夕べの不安と、
―――たそがれと
――― 死とが。






tom_eastwind at 03:16│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

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