2011年05月31日

隣人を愛する心


仕事しながらBGMNHKつけてたら今回の災害で東京に住む多くの人々が寄付を行い救援物資を郵送し最近は日常生活必需品を自分で買いそろえて自分で送るようになったとか人は愛を信じて誰かを愛したくて結婚相談所は申し込みが急増しご近所付き合いのなかったのが急に打ち解けて話すようになったとか。

 

オークランドに住むぼくからすればちょっと不思議なのだが、では東京に多く住む青いビニールシート住民のことは彼らには目に入らないのだろうか?と言う素朴な疑問が浮かび上がる。彼らも人生における被災者なのだが・・・。

 

というのがオークランドは大都市でありながらいわゆる浮浪者が非常に少ないから東京の浮浪者の多さにどうしても気になるのだ。オークランドではつい5年前までは一日2~3名、いつも同じ顔の人間が、住むところもありながら他人と接触したくて出てきてたくらいだ。それでも地元のおばあさんは道端に座り込む彼らに「あんたら何やってんの!ちゃんと働きなさいよ!」と怒ってたりしてた。

 

今は街の中心部では10名程度に増えたが、町はずれではゼロである。中心部に行けば仲間に会える、くらいな感覚の住むところも保障されている浮浪者であり日本のような本格的な住むところのない浮浪者ではない。ときどき車のウィンドー磨きをやったりしている(迷惑だが)。

 

つまりどのような人間でも必ず救い上げる仕組みがニュージーランドにはある。この国は貧しくて自殺した人は国家開闢以来いない(他の理由で自殺することはあるが)。どのような人でも最低限の人間らしい生活を保障されているからだ。

 

ところが日本ではここ十数年で急激に増えた彼らを、同じ街に住む人々が救い上げようとしてあげないのだろうか?そういう仕組みがないのだろうか?

 

今日偶然用事があって渋谷に出たら宮下公園の交差点にたくさんの若者やお金持ちに混じって、60才過ぎの薄汚い服装の白いひげぼうぼうで何日も風呂に入ってない浮浪者の老人が立っていた。誰も老人を振り向かず誰も老人がそこにいないように振る舞い、けれど彼らは東北大震災の話をしたり「大変だよね、おれたちどうするかな」って言ってた。

 

冬の寒いさなか薄汚いぼろ服にくるまって歩く彼ら、夏の暑いさなか渋谷の宮下公園の線路沿いにべニア板とブルーシートと板戸を組み合わせて紐で縛ってひっそりと住んでいる彼ら、東京住民にとって路上生活者は不可触選民なのだろうか??不可視の存在なのだろうか?

 

彼らの多くは昔はきちんとした仕事があって生活をしていた。ところが1990年代から始まる大不況とリストラ、住宅ローンの逆ザヤで家庭崩壊、父親はそれっきり新宿中央公園でブルーシートのお世話になる生活が始まった。

 

つまり日本と言う社会は一度落ちこぼれたら這い上がれない仕組みになっており、1億2千万人のうち常に最下層の数%は一般社会から振り落とされて路上生活者の中に埋まってしまう。大人たちはよく分かっているから自分の子供には「ほら、ちゃんと勉強しないとあんな人みたいになるよ」と言う。

 

大人たちは自分だけは何とか一般社会から振り落とされない為に上司の無理なサービス残業要求にご無理ごもっとも、取引先からの次々と出てくる厳しい条件に赤字覚悟で「はいお客様」とやるが実際に仕事は利益が出ないから自分たちの給料は減らされ、今度は自分たちの下請けに対して非人間的に「おいこら、次回の納品から一律20%値引きや、品質は同じやぞ、でないと切るぞ!」と恫喝する。

 

社会にしがみつく、ただそれだけの為に個性を殺して上司の無理を聞き取引先に何を言われてもへらへらして下請けには非人間的な恫喝、これが母親が俺に望んだ生活か?そう疑問に思っても忙しくてそんなこと長く考えている時間なんてない、毎日残業で子供と会話も出来ないが実は自分が恫喝した下請けも同じように夜中まで仕事して更に安月給で子供との会話も出来てないって知ることがあるのだろうか?

 

そんな東京、日本はどこかおかしくないか?もう一度根本から見直すべきでないか?遠く離れた場所の「清い人」には同情も出来るけど、今目の前にいる「汚い人」は見えないのかな?

 

足元の、東京都下の公園で生活をする人たちには支援は不要なのか?彼らだってほんの少しの支援があれば元の生活に戻ることが出来るかもしれない。直接彼らの話を聞いてあげて可能性があると思うなら自分たちの自宅の一部屋を貸すことは出来ないのだろうか?

 

フラットメイトと言う習慣がない日本では難しいだろうが、では彼らの保証人になってアパートを借りさせることは出来ないのか?アパートを借りるお金が彼らになければ、あなたと同じ価値観を持っている他人を5人くらい集めて一人から2万円出させて彼に投資をすることは出来ないだろうか?

 

彼はその頭金と保証人でアパートを借りることが出来る。そして履歴書を出して仕事を探すことが出来る。最初の半年くらいは仕事がないかもしれないが、その場合は投資家が再投資すれば良い。一人2万円をもう2〜3回出せば彼は就職できるだろう。それでも就職出来なければ投資家の見る目がなかったということで手を引けばよい。そこから後は自己責任だ。

 

このような投資型救済支援の良い点はすべて自分の眼で見えるし何にいくら投資(寄付)したかが分かるし途中に役所も税務署もなんちゃら機関などの中抜きが一切入らない。

 

今東北に食糧を送ってもそれは食われて終わりだ。布団を送っても寝て終わり。肝心の復興支援、つまり自立支援には到底たどり着かないし個人がどれだけ寄付をしても政府の方向性が変わるものではない。

 

けれど同じだけのお金を数名が集まり、今一般社会から落ちこぼれてしまったばかりの若者を救えばどうだろうか?それとも浮浪者は人にあらず不可触選民であり不可視であり街を汚すだけの悪い存在であるが、遠く離れた東北の人々は清らかであり、彼らに寄付をすることは免罪符を大バーゲンで買っているようなものでとっても気持ち良いのだろうか。

 

その東北の一部では被災地に届けられた食糧や生活必需品をしっかり受け取り、仮設住宅に入り込んで新しく発行された通帳をにやにや見ながらたばこをふかし、仲間と「おい、うちの漁協では東電からいくらぼったくってやろうかね〜、全然働かなくてもいつもと同じだけの水揚げ高を請求すりゃいつもと同じように朝から風呂に入って酒飲めるってもんだ、ふわははは、こりゃええ、一年くらいは働かなくても食えるど〜」となるやからが存在するかもしれないのだ。

 

東北の人々を助ける気持ちは誰にでもある。ただ東京の場合、それよりも足元でやるべきことがあるのではないかと感じた。もちろん人助けを言い出せば距離感にきりがない。アフリカの難民を直接救うなんて出来ない、あれこそ政府の仕事だ。

 

けどぼくらが日常生活の中で周囲の人々に何かを与えることで「喜び」を感じるなら、そしてそれが自分の住む町の浄化になればもっと良いのではないか?そうやって考えてたどり着いた答えは汚い人に施しをしても「喜べない」からなのだろう。ぼくはどうしても東京の冷たさが好きになれない。



tom_eastwind at 18:33│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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