2011年09月03日

未来予想図

クライストチャーチの復興計画が出来上がった。未来予想図だ。十年以上かけてクライストチャーチを新しい街に作り替える計画だ。

 

2月に発生した地震の際にぼくはあえて「クライストチャーチをゼロから見直して都市機能を移転させるべきだ」と書いたら批判ごうごう、大変な騒ぎになり日頃ぼくのブログをバカ扱いしている無記名の連中までが「そこまで書いたらダメでっしょ」と心配されるくらいに言われた。

 

なんなのかな、この意識の違いは。

 

ぼくは今生きている。いつか死ぬ。けれどたぶん僕の子供はぼくより長生きする。その子供たちの為により良い社会を作ってあげたい。だからぼくの個人的な「気分」よりも冷静に将来を考えた街創りと言う発想は必要だと思う。

 

だってぼくが死ねばぼくの「気分」はそこで終わりだが、子供たちの人生は終わらない。だから彼らが生きやすいように、楽しく過ごせるように、地震の影響や津波の影響のない街づくりをしたいと思う。

 

そんな時に自分の目先の感情に流されてどうする?

 

だれの為に生きているのだ?人類がこの地球上に発生して今も絶滅せずに生き残っているのは、やっぱり種の保存って本能があるわけだし子供たちの笑顔を見ると何故か分からないけどうれしくなるわけだし、その為には自分や家族の生活を守る、つまり安全を求めるというのは当然な作業である。

 

だからこそクライストチャーチの地震が起こった時に敢えて「何故そこにいる必要があるのか?」と疑問提起をした。「地震」はすでに起こった事だ、それよりもこれからをどうするべきかを考えることが大事だろ、この震災をどうやって積極的に理解して自分たちに取り込むかを考えるべきだろって提起した。

 

けれど答えは「そんな事言ってもわたしは今いる場所に住みたいんです」って言われた。今、未来予想図が発表されても「そんな事より今目の前の道路が歪んでるし、仮設トイレがあるほうが問題でしょ」と言われる。

 

どうもポイントがずれている。何か話のポイントがずれている。今クライストチャーチの震災復興は政府の費用で進めている。つまりニュージーランド全体で毎日働いている我々の払った税金で復興をしようとしているのだ。なのになんか「あ、そこ壊れてるから治しといてね」感覚である。

 

じゃあ自分たちは復興の為に何をするのか?政府の役目が云々以前に自分はどう貢献するのか?社会って皆で助け合ってお互いに困った時に助け合いましょう、だからクライストチャーチで地震があれば日頃ぼくらが納めているお金=税金を使う事をぼくは何ら厭わない。

 

しかしそれはまずクライストチャーチの住民が「街づくりとはどうあるべきか?」を真剣に考えるべきではないか?そして最終目標=ゴールを作ってそこから逆算して今は何をすべきか次は何をすべきかを考えるべきではなかろうか?

 

「未来予想図なんてよりも目の前の道路を早く治してよ、仮設トイレなんてまだあるなんておかしいい」と言う事は果たして街づくりから見て正解だろうか?地震が被害であると思うだけでなくこれを機会と捉えて今まで地主の権利などで整理出来てなかった都市つくりを未来に向けてゼロから構築する、これこそまさに政治の主導することである。

 

もちろん道路整備も必要だし住宅整備も重要だ。もしかして市役所も修理の優先順位の判断を間違う事もあるだろう。しかしそのような部分のみを取り上げて文句を言うだけでは仕方ないだろう、少なくとも未来予想図を作ることは道路整備よりも優先すべき、少なくとも役所の企画部門は彼らの仕事、つまり予想図創りをすることが仕事だし建設局が手が遅いってのは別問題だ。違う問題を一緒くたにするから話が進まなくなるのだ。

 

たぶんこんな事を書けばまたも反発を買うのだろうが、ぼくはどうも自分が自分の人生に責任を持ち自己責任を常に考えているし、だいいち他人に助けてもらうのは当然と言う発想がないから、自然災害が襲ってきても何とかまずは自分で生き残ろうとするし自分で自分の家を立て直そうと思う。今までの人生をそうやって生きて来たし自分の意志で3回も移住したし何もないところからゼロから出発して何かを作り上げる生活を繰り返してきた。だからこそ敢えて言いたい、人間に必要なのは今日の米よりも明日の夢である、未来予想図頑張れ!と。



tom_eastwind at 14:05│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔