2012年05月17日

バンコクの雨

シンガポールでの仕事を終えて朝早い便でバンコクに移動する。この日のバンコクへの約2時間のフライトは快適だったが到着時は曇だったのが黒い雨が近づいて来て一気に土砂降りになった。

 

高速道路を時速100kmで移動中、一部の区間では車がフワって浮いたり途中に水溜まりが出てきたり、危ないな。高速道路は香港の熊谷組が受注したって聞いた事があるんだけど、もしかしてこの区間は韓国企業に発注したのか(笑)?

 

シンガポールでも最近出来たマリーナサンズが開幕当日に大停電を起こして冷房のない部屋で一晩を過ごすことになった世界中から来た国際会議参加者が「ぼけ〜!賠償金払わんかい!」と怒ってたが、これは韓国企業の建設だ。

 

その後すぐに日本企業が修理をしたという話を聞いたが、他にも韓国企業の場合は実績が欲しくて赤字で受注するんだけど実際に建設する時は企業努力で合理化(手抜き)を行い最後にはデスマーチとなる案件が多い。海外に出たいのはよく分かるが建設は安全第一である。自分の家族を住まわせる気持ちで作ってもらいたいものだ。

 

あ、そうだ、ぼくが何故韓国や中国を非難しないのか、領土問題とかあるじゃないか、そうか君は親韓親中なのか?とコメントが来た事を思い出した。

 

ぼくは韓国や中国と対等に仲良くしてきたい。価値観も地理的にも欧米諸国より近いしあえて「近くて年中口喧嘩してて領土問題を抱えているから」って感情的になる必要はない。もちろん問題があればきちんと整理して話し合うべきだろうしその手の喧嘩が嫌いではない。

 

中国政府が自分たちの問題をすり替えた「江沢民の反日教育」のおかげで関係ないこっちまでとばっちりを食らって随分頭にくる話ではあるが、こちらが取るべきは大人の対応であり相手と同じレベルに陥ってはいけない。

 

「中国政府や韓国政府による反日教育を受けた若者」」がそれでも何故日本文化を好きになり日本人を好きになってくれるのか?現実的に考えてみればそれは日本人の道徳の高さや礼儀正しさ、嘘をつかない文化、他人を大事にする文化があるからだ。

 

そのような文化が自国にないことを知っている若者は必然的に日本を良い国と見てくれる。一段上の位置にいる日本が大局で利益を得ているわけであり、目先の問題でいちいち反応して自分の位置を下げる必要はないしすべきでもない。

 

多くの問題は外交的に解決可能だし引き伸ばし可能だし話し合いが出来る状態にある。それを何故僕らが自分たちの品位を下げてまで安定した状態を壊す必要があるだろうか。

 

「中国だから嫌い」とか「韓国だから嫌い」など僕の脳みそにはない。海外で20年以上生活して香港でも6年生活して中国人のイヤなところも普通の日本人以上に見ているが、ニュージーランドに来てしまえば皆アジア人だ。ぼくらが喧嘩して喜ぶのは西洋人である。彼らに東洋の猿と言われたくないからだ。

 

しかし、だからと言ってそれはニコニコするだけで何の戦略も持たずに彼ら中韓の人々にやりたい放題にさせるという意味ではない。相手と平等に仲良くなるためには絶対にこっちの実力を見せつけねばならない。

 

言葉でどうこう言っても無意味な場合は実力を見せるという意味でそれが相手をねじ伏せるのならばいつでも遠慮なくそうするだろう、その意味においてはたぶんぼくは普通の日本人以上に過激な行動を取る方なので。コメントをくれた方、ご心配なく(笑)。

 

ところで本題に戻る。

 

「今は雨季なんですよね〜」そう言われてふと目を上げて車の窓から外を見るとたしかに真っ暗な空から強い雨が降っている。こんな時にいつも思い出すのは大東亜戦争だ。

 

大東亜戦争当時、日本軍はシンガポール「昭南島」から英国軍を追い出した。そしてその後もインドネシア、マレーシアなどを植民地としていた欧州勢を追い出した。今から見れば日本の政策も東南アジアを欧州支配から解放するって部分まではOKだったと思う。

 

実際に当時の日本では様々な考え方は存在したが基本的にアジアの自立であり植民地支配からの解放であった。戦いそのものには大義があり現地の人々も日本軍に協力して自分たちなりの独立を進めていった。

 

結果的に日本が米軍に負けて日本は撤退したがインドネシアなど一部の地域では日本兵が地元独立派軍隊に義勇隊として参加してアジアの独立のための大きな礎となった。日本は戦後米国や日教組=中国の傀儡に押し付けられた偏向した歴史教育を刷り込まれてしまい日本が悪いことをしたと学んでいるが、実際には中国以外の国では日本は好意的に受け入れられている。

 

それにしても日本軍は現場では強かった。当時世界で最も戦闘能力を持った部隊と言って良い。では何故戦争に負けたか?それはひとえに軍隊という組織のトップが戦争立案能力において無能であったからだ。

 

何故無能だったか?それは長い間本格的な戦争を経験しなかった日本軍内部では上部にごますりをする連中が出世して耳に痛い直言をする部下は予備役に編入させられ上に行けば行くほど無意味な精神論とごますりと他人の足を引っ張る者ばかりが残り結果的に組織として戦争を出来る状態ではなくなっていた。

 

これは日本軍に限らず現在の多くの日本企業でも同様の状況だろう。現実を見る。出来る選択肢を考える。最良の解を出す。そのために日頃何をすべきか、そういう事を把握している社長がどれだけいるだろうか?

 

ぼくの父親がニューギニアに従軍して大本営の無謀な作戦に振り回されたが、この時ニューギニア島に送り込まれた日本軍及び軍属は約20万人、無事に日本に帰国出来たのは約2万人と言われており生存率10%の戦場だった。

 

最近民主化されたミャンマーは日本軍がインパール作戦を実行した時の出発地点となったが、約8万人がまさに3月から7月まで雨季のビルマからチンドウィン山脈に送り込まれ途中に補給なく奇跡的にコヒマの戦いで相手の陣地を一時期奪うことが出来たがその頃にはすでに武器も弾薬も食料も尽きて3個師団はほぼ壊滅状態になり約1万6千人が帰還出来た。

 

結果的に自壊した三個師団はそれぞれ撤退を開始した。この詳細は高木俊朗の「インパール作戦」に詳しいが、日本軍が歴史上初めて抗命を起こした事件でもあった。

★ウィキより抜粋

現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。

余は第三十一師団の将兵を救わんとする。

余は第十五軍を救わんとする。

軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。

さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、61日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため[33]、独断で更にフミネまで後退した。

★抜粋終了

 

この戦いの悲惨さは戦死した兵士のうち殆どが飢餓とマラリアであったという点だ。そのような状況に対して710日当時司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

 

大和魂と神州、こんな事を軍司令官が口にだすようになれば終わりだ。同じ司令官でも日露戦争当時の日本軍は新聞記者が「もっと戦え!」とけしかけたのに対して「わしらは大砲の数と相談しとるんじゃ!」と現実的であった。

 

ホテルのバーで出張最後の夜を過ごす。お供はいつものクラブハウスサンドイッチだ。スターウッドグループのクラブハウスサンドイッチって、どこのホテルで食べても同じ料理法で食材だ、まるでマックみたいだな。

 

近くの席でアメリカ人がはしゃいでる。お前ら自分たちのおじいちゃんが何やったか知ってるのか?思わず聞きたくなる。うるさいラップ音楽が耳に痛くて席を移った。

 

今回の出張で気づいたことがある。今後5年間で起こるだろう日本の出来事だ。今までの10年間もほぼ予測通りの動きであった。これから5年で起こることはここ1年の日本政府の動きと一致している。明日から数日に分けて書いてみる。



tom_eastwind at 23:07│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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