2012年06月12日

交錯?事実と小説が交錯した日

週末に堂場瞬一の「交錯」を読了する。頭の中が堂場世界になって一気読みできたのですごく楽しめた。小説の舞台の始まりが新宿西口の電器店から京王プラザホテルに向かうあたりの繁華街、このコースはよくりょうまくんと買い物に行くので覚えているから更に感情移入できる。

 

「今回はやられたなー、堂場物はすでに10冊以上読んでおり、多分こうくるな、じゃこう構えようって感じで読んでいるのだが、今回の「交錯」はゆっくりと引きこまれてしまい、結末は分かっているのについつい作者の意図に巻き込まれてしまい、負けました!」

 

「鳴沢了シリーズが好きで一作目からずっと読んでて、ある意味鳴沢の成長物語を楽しんでいた時はこっちのほうが「あったか視線」だったのが、今回はやられた。堂場瞬一のデビューは2000年でそれからもう12年も経ってるのだから当然だが、成長しているなーって思う」ってブログを書きながらちらっと日曜日の午後の日本のニュースを見ていると、なに〜?!「大阪の通り魔殺人〜?!」

 

白昼の大阪の繁華街で刃物を持った男が二人の人間を刺し殺す事件が発生〜??それって、今ぼくがたった今読み終わった「交錯」と全く同じ構図ではないか。

 

「交錯」ではずっと引きこもりだった若者が突然包丁を買って新宿西口の電器店や飲食店のある道でいきなり二人を刺して三人目の子供を押し倒して刺し殺そうとした瞬間に神降臨!名無しが自分の持っていたナイフで逆に通り魔を刺して子供を助ける。危機一髪で助かった子供、名無しはそのまま逃走するところから物語は始まる。

 

大阪の犯人は「誰でも良かった」と言ってるそうだ。「交錯」の引きこもりの犯人もネットに「今から殺します」的な書き込みをして、「誰でも良いから殺す」である。あまりに似過ぎてないか?

 

秋葉原の通り魔事件でもそうだが、彼ら殺人犯には全員共通した歪みがある。誰でもよい、近くにいる人間を殺したい、それで人生を終わらせたい、死刑になるにしても一生刑務所に入るにしても、この社会の「生き地獄」よりはよほどましだ、そう思わせるのだろう。

 

今回の事件では犯罪者の経歴が書かれているが幼い頃に母親が病死、父親の経営していた材木店が倒産、中学校からぐれ始めて暴走族に入り何度も犯罪を犯しては逮捕されて、今回の犯行も刑務所を出てたった数週間の犯行であったそうだ。つまり犯人は特別であり事件は特殊であり一般的ではないと言いたいのだろう。

 

何が悪いのか?本人が悪いとしか言いようがない。犯罪を起こした人間は弱い、もっと苦労して頑張ってる人間もいるのに、何を自分勝手な理屈でやったのか、そう思う。そう、自分でも自分の理屈は分かる。

 

殺してはいけない。けど何故?

 

以前読んだ本で「何故人を殺してはいけないか?」を討論形式で書いてた。興味深いテーマである。人が人を殺してしまえば社会が持続出来ないから社会は人を殺す権利を個人に認めない。けど自分がいつのまにか無意識に参加してしまった社会が自分にとって何の役にも立たず守ってもくれないなら、何故社会に参加してルールを守る必要があるか?

 

そう、まさに社会そのものの存在価値が問われているのではないか。ルソーが語ったように人は森から出てきて社会(城塞)を作り狼の襲撃から自分たちの身を守る術を身に付けた。社会は最初からそこに存在するものではなく自由参加であるべきだ、だから参加したくない人は出ていっていいよ、その代わり残るのならルールを守ってね、だから第一のルール、人を殺しちゃいけないよ、そういう仕組みだって事を親や学校が教えてない。

 

教えられてない子供が親の大変な生活を見て誰も助けてくれず、社会から離脱するという方法さえ思いつきもせずに自分なりの解決策を探す。それが今回の殺人である。人を殺せば自分は死刑か終身刑であるがそれで良い。

 

死刑になれば明日のことを考えなくても済む。終身刑であれば飯が食える。寝る場所もある。守ってくれる看守もいる。病気になったら治療もしてくれる。塀の外で地獄のような苦しみの生活をするくらいなら塀の中の方が良い、そう考えるのも一つの理屈になるか。

 

60歳を過ぎた老人がコンビニで食べ物を万引きした挙句に店長に包丁を突きつけて「泥棒です、警察を呼んで下さい」と同じ心理構造ではないか。ただ若いだけに極端に走る。

 

ぐーっと考えこんで彼ら犯罪者の思考回路に飛び込んでみると分かるものがある。それは、この事件って決して単発でもなければ偶然でもない、世の中の一つの流れになり始めているって事だ。

 

恐ろしいことであるのは、これは経済犯ではない点だ。泥棒と違って費用対効果、経済合理性が通用しないのだ。最初から社会のルールを無視して自分のやりたいことをやるという一つの目標のもとでは、誰が死のうがどうなろうがどうでもいいという意思が明確に見える。

 

彼らは精神的に問題があったわけではない。自分で普通に判断して人を殺したのだ。これは特別でもなければ隔離された事件でもない、その点でまるで伝染病のように爆発的に流行していくのではないか?

 

この病気の原因は明快である。社会の閉塞感、仕事が無い、金がない、結婚できない、将来がないという諦め、なら塀の外で生きてても仕方ないという伝染だから誰にでもいつでも首切りやローン破産をきっかけに襲ってくる可能性がある。一度社会から振り落とされてしまうと二度と戻ってこれない「格差の固定化」である。

 

他人ごとと思わず自分の生活に当てはめて見て欲しい。親の時代にはバブルとかあったと聞いてるけど自分は子供の頃から一度も景気の良い話を聞いた事がないし回りの知り合いは住宅ローンとか大量解雇とかで家庭崩壊しているし自分は大学を出てもまともな職にも付けずに結婚も出来そうにない。そのうち派遣先からも切られて家賃が払えずいよいよアパートにも住めなくなる・・・。

 

東京の銀座の週末の午後の歩行者天国でショッピングを楽しむ金持ちを狙い撃ちにしてナイフを振り回すって言う「社会離脱」の方法も出てくるだろう。

 

犯行が事前に全く読めないという点では北朝鮮の福井上陸襲撃(宣戦布告)より恐い。たまたま新宿駅西口を歩いてたら刺し殺された。心斎橋を歩いてたら刺し殺された。秋葉原で買い物をしてたら刺し殺された。一般市民はこのような状況でどうやって自分の身を守れば良いのだろうか?はっきり言えば個人レベルでは守りようがない。

 

この病気はすでに米国で蔓延している。格差の固定化は人々のやる気を奪い真面目に働く気持ちを挫き犯罪に走らせる。これは特別でも隔離された個別案件でもない。どこの国でも何時の時代でも格差が固定化された瞬間に治安が悪化する。

 

それはコイズミの責任だーとか今だ吠えてる人もいるが、小泉政権の責任ではないってのは経済の数値を見ればすぐに分かることで、今ここにいない他人に責任を押し付けてるだけだ。問題解決には繋がらない。

 

では問題解決方法はあるのか?ある。それは格差の流動化とセーフティネットの構築である。実際にニュージーランドでは貧しい家庭の子供が首相にもなれるし移民の子供が重要閣僚にもなれる。つまりやる気と才能さえあればどこまでも成長出来る仕組みがある。更にもし失敗してもセーフティネットが個人を守ってくれる。

 

このような社会では日本と比較して「人生に失望する」事がない。皆が底抜けに陽気に生きていけるのは仕組みがあるからだ。だから犯罪が少ないし人々がおおらかなのだ。

 

それにしても日本では、当面は大都市の繁華街を歩く時は近くに目付きのおかしい連中がいないか、ジャケットの内側が妙に膨らんでいないかを気にしよう。道路を歩く時は真ん中ではなく建物の左側(利き腕を使えるし片方からしか襲ってこれない)を歩く。常に背後の物音を気にしよう、何か大きな声が聞こえたらすぐに建物内に避難出来るような道を歩こう。お金はあなたを救ってくれない。
 

 




tom_eastwind at 17:43│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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