2012年06月18日

道徳を強制する集団

安藤美冬氏、アムウェイ関与疑惑に「事実認める」

http://lite.blogos.com/article/41296/

 

BLOGOSで上記の記事あり。

★抜粋開始

実名のソーシャルメディアとなったことで「特定の人物」が犯罪では無いが、道徳的にどうなんだろうと思うことに関与していたり、もしくは道徳的におかしいと感じることがあったとしても、周囲の友人達は「諌める」ことをはばかれる空気を感じたことだった。

★抜粋終了

 

安藤という人も知らないしノマドワーカーとフリーランスの区別もつかない。インターネットの時代になって本当は何もない空っぽなのにいかにもなにかやってますって吹かす連中が増えたが、踊る阿呆に見る阿呆だからご勝手にと思ってた。

 

が、この記事で気になったのは「特定の人物が道徳的にどうなんだろう、おかしい」という部分だ。諌めるかどうかってのは、この場合記事を書いた人は最初から安藤という人がおかしな事をしている、道徳的に問題のあることをしていると決めつけているわけだ。

 

何を「道徳的におかしい」のかと思って見てみるとマルチ商法を問題にしているわけでアムウェイ商法は良くない、安藤はアムウェイをやった、安藤はその事実を隠していた、だから安藤は道徳的におかしい、こんな論理構成だろうか。

 

僕自身はいつも言うことだが自分に興味のないことは全く眼中にない。マルチビジネスをやりたい人がいてやってる。ほう、どうぞ、で終わりだ。ぼくは、物理的にやれるけどやらない、ただそれだけだ。友達に情を頼りにモノを売りまくる自分が想像できないだけだ。

 

ただマルチがどうのというのなら生命保険の外交員、例えば日生のおばさんが最初に生命保険を売るのは友達である。それを付き合いで買うのが友達って構図だからマルチでしょ。

 

アムウェイは旅行会社にとっては大きなビジネスであり毎年世界中で開催される大会を獲得するために営業マンは必死である。以前バンクーバーに出張した時に、ダウンタウンのおみやげ屋さんやレストランが店頭に「アムウェイ様いらっしゃい!」と張り紙してたのを覚えている。

 

そうなるとこの記事を書いた人からすればバンクーバー中のおみやげ屋やレストランは道徳心欠如のカネに目が眩んだ銭ゲバ連中という事になるのだろう。もっと言えば渋谷や新宿で性を売って働いている人間などはもう人間でさえないとか言うのだろう。素晴らしい道徳心をお持ちの方は下々の生活実態など関係ないのだろう。

 

しかし僕はこの「一方的な道徳」に対しては絶対に反対だ。法律で決まった事でさえないのにまず自分に都合の良い「道徳」を作り相手を「不道徳」に押し込めてしまうやり方は言論暴力である。

 

多数がその場の感情で少数を無責任に叩き、すっきりしたところで「よっしゃ、帰ろっか」ってのは糞ガキの浮浪者刈りと全く同じ構図だ。

 

昔、ジョージ秋山の社会風刺漫画に対してくそばかPTAが「青少年保護なんたら条例違反だ〜!」とか言って発禁にさせられた。ところが同じジョージ秋山がそれから十数年後に出した「浮浪雲」は大学の教材に使われるほどだった。

 

典型的な「読書力のないバカPTAのその場限りの感情論」が道徳と摩り替わって自分正義を振りかざし、片方で叩き片方で大学の教材である。

 

ぼくは自分の自由を守るためにも常に気をつけている事がある。それは「僕は君の言ってることには絶対反対だ。しかし君の発言する権利だけは絶対に守る」である。

 

言論の自由、行動の自由、法律を犯さない限り自由は認められるべきだ。どのような道徳を持ってきたとしてもそれは一方的な個人評価に過ぎない。他人の自由に踏み入る権利はどのような道徳にも存在しない。

 

最近の記事で人肉食パーティが東京で開催された。本当に人間の体の一部を本人の同意のもとに医師が手術で切り取り冷凍保存したものを公開パーティ会場で調理して参加者が参加費を払って食べたという話だ。

 

最初に聞いた時はひたすら気持ち悪いだけだった。しかしパーティ主催者はかなり真面目であり哲学的な発想で法的な問題をすべてクリアーした上で行ったので現行の法律では全く合法であるとの事。おそらく弁護士もきちんと助言した上での事だろうと推測される。

 

ヒラリー・スワンクがアカデミーを取った「Boys Don’t cry」という映画がある。性同一障害の女性を主人公にした映画だ。彼女はある時バーで周囲の男性に「この変態野郎」みたいな迫害を受ける。トラブルの現場に現れた他の男性が止めに入りトラブルは収まる。

 

彼女は彼の座ってる席に行き「ありがと・・」って言うと彼は「いいって事よ、けどさ、俺だって個人的には好きになれないよ」と言い放った。

 

まさにこの部分だ。相手の自由を絶対的に守る。それは自分の自由を守ることでもある。しかしだからと言って相手のやってることを認めるってわけではないし、ましてや自分がやるかって言ったら絶対に有り得ない。

 

自分のあそこを切り取って食うだと?同性に触られるだと?あり得んし気持ち悪いし。しかし、それでも彼らの自由(な部分)を積極的に守る事が結果的に自分の自由を守ることに繋がるのであり、道徳よりも上位にあるのが自由だと人々に認めさせる唯一の手段となるのだ。

 

ひとつ気になったのは、このような道徳論が出始めるとどのような事でも道徳論で扱われ、法律や個人の発言の権利は無視され規制され排除される、そんな時代が日本にあったという事だ。

 

昭和10年代の日本は大正デモクラシーから遠くなり言論統制が始まった。そこから後は坂道を転がり落ちるように軍部礼賛、ついに原爆を二発も食らって戦争に負けた。その最初のきっかけはまさにこのような国民側からの道徳論であり言論統制であった。

 

そこにマスコミが悪乗りしてそれを利用する政治家や軍部が一気に力を付けて日本を戦争に持っていった。変化に至るその期間わずか10年足らず。ぼくらはすでに小泉退陣あたりから始まってきた世の中の変化のど真ん中にいる。

 



tom_eastwind at 17:20│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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