2012年07月27日

望めば叶うというけれど

原発事故が起こるまでは周辺の人々は原発関連手当で潤っていた。電力会社が地元懐柔の為に様々なお金を落としてくれて、一部の地元住民は古くからの苦しいけど独立していた生活を捨ててすっかり「原発依存」になってた。

 

その頃は電力会社の「愛してるよ、一生安全だよ」と言う言葉を信じて「原発は一生安全、わたしの人生も一生安泰」と思っていたのが、いざ大地震が起こってみると原発は吹っ飛び自分たちの住めない村になった。

 

人間は何か嫌な事に対しては、そういう事は起こらないと思うようになる。それは当然の脊髄反射だろうが、これが昂じると「そんな事は絶対に起こらない」から「何も対策をしないし何も考えない」となってしまう。望めば叶うってのは事故や災厄には当てはまらない。

 

特に政府が「原発は絶対安全です、爆発しません!」と言えば、おおそうかと信じて自分で原発の勉強もせずに政府の話を鵜呑みにする。

 

だから原発が吹っ飛んだ時に多くの人々はびっくりした「あれ?原発って安全じゃなかったの?爆発しないんじゃなかったの?」けど現実的に原発は爆発した。次に大きな地震が福島で起こり使用済燃料が地上に放り出されたらどうなるか?

 

こんな事を書くと「いやだな〜、そんな事言わないでくださいよ」と返答が来るのだが、「そんな事」を言おうが言いまいが災厄は来る時は来る、なのに目をつぶって砂場に頭を突っ込んで何もないふりをしているだけでは実際に災厄が来た時に被害が拡大する。

 

でもってここがコツなのだが、世の中で生きている限り原発以外でも様々なリスクが世の中には存在している。自分では交通事故を起こさないと思ってても事故に巻き込まれることもある。絶対安全なんてのは存在しない。

 

ぼくは車を運転する時は青信号の交差点でも軽くブレーキに足を乗せて、万が一赤信号で突っ込んでくる車があっても被害を最小化出来るようにしている。信号待ちをする時も前の車との車間距離は広めに取っている。りょうまくんが「お父さん、なんでお父さんは車間距離を一杯取るの?」って聞かれて「前の車が火を吹いた時に横に逃げるためだよ」って言ったら少し呆れてた。

 

まあ普通に考えれば呆れるだろうが、交差点でブレーキに軽く足を載せたり車間距離を取る事で何か損をするわけでもないし余分な費用がかかるわけでもない。けれど万が一の事故が起こった時にそれで被害を軽減出来るなら注意一秒怪我一生、「コストのかからない危機管理」をすべきである。

 

他にも例えば金曜日の夜9時以降にクイーンストリートを歩かないとかは日常習慣の一部である。それから常に前を見て歩くとか結構当たり前の事なのだが日本人は結構前を見て歩いていない。

 

オークランドでも日本人と中国人の違いはその目の位置ですぐ分かる。日本人は殆どの場合眼が泳いでいるから隙だらけ。だからしょっちゅうマオリやアイランダーからひったくりに遭う。

 

ところが中国という激戦区を生き残ってきた中国人はどんな格好をしていても常に前を見ているから荷物を斜交いに持って離さない。あるときなど大きなモールの駐車場でひったくりに遭いそうになったが絶対手放さずに最後は轢き殺された、、これはこれでどうかとも思うが、それほど危機管理は徹底している。

 

とくに日本に出張した時に最近目立つのが、都会のど真ん中で道を歩きながら耳を閉じて目を塞ぎ自転車を漕いでる人、つまり携帯音楽端末で耳にイヤフォンしてスマートフォンでテキストしながら自転車を漕いでる状態の人だ。自分がどれだけ危険なことをやってるのか、理解しているのだろうか?あなたがぶつかる相手が転倒したら犯罪ですよ。

 

モールを歩いててもとにかく他人を見てない。隣の友達と喋りながらケータイちゃかちゃかやって音楽聴いてるんだから、そりゃ肩がぶつかるでしょうよ。それで喧嘩になったり頭に来てナイフを取り出したり、これで安全とか平和とか言ってるんだから脳内ちょうちょかいと思ってしまう。

 

他にも痴漢冤罪事件だってある。電車に乗る時は絶対に端っこで男性と固まって座るとか両手を常に上げておくとかも必要だ。

 

原発から自動車、自転車から携帯音楽端末から痴漢まで、世の中は常に危険が潜んでいる。絶対安全は存在しない、他人の言う事を鵜呑みにしない、そう考えて出来る範囲内で備えをすべきだろう。

 

望めば叶うというのは希望を持って前進する時に使う言葉だ。砂に頭を突っ込んで何も見えないふりをして逃げても、そんな望みは叶わない。



tom_eastwind at 16:49│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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