2012年10月09日

水晶の夜

移住するというと周囲から不思議がられる事もある。「何で日本のような良い国を出てわざわざ苦労しに行くのか?」くらいの不思議ならまだしも「お前ら他の人を放ったらかして自分たちだけいい思いをしようってのか!」なんて言われる事もあるだろう。

 

ぼくは18歳の頃に日本を良くするために政治家になるのが現実的だと思った事がある。その前、小学校から中学校の頃ベトナム戦争をテレビで見ながら地球から戦いを無くすためには僕が火星に行って火星人と手を組んで地球人に戦争を仕掛けるしかないと本気で思った。

 

人間は異星人が攻めてきたら同じ人間の内輪同士の戦いを止めて手を組むだろう、それからこっちが負ければ地球は一つになる、そう本気で思ったものだ。これも小学校の早い時期からSFマガジンとハヤカワ文庫で鍛えた脳みそだからそんな変わった発想になるのだが、今でも理論的にはアリだなと思ってる。

 

しかし高校になって現実的に政治家になっても結局は上位の政治家の走り使いをして長い時間をやりたい事も出来ずに過ごしてやっと首相になったらもう60歳、それでもやはり周囲と妥協したり調節したりしながら過ごす人生を結局自分は望んでいるのだろうか?

 

そしてそのあたりからもう一つの考えが出てきた。それは、自分が望む幸せと他人が望む幸せのカタチが違う場合はどちらが正義なのかという点だ。

 

結局公明党は創価学会を発展させる事が究極の幸せであり共産党は日本を共産国家にすることが幸せと考えているし僕には僕の価値観がある。一つの国家でありながら幸せのカタチがバラバラであれば何か一つを強制することは出来ない。

 

国民の幸せのカタチが個人個人に保証されるような、できる限り自由度の高い政治が望まれる。それが政治のあるべき姿であり政治が個人の思想信条に立ち入りすることは良くない事だ、そう考えるようになった。

 

同時に、できるかぎり自分の価値観と近い価値観を持っている人がたくさんいる場所、それが自分にとって過ごしやすい場所という事になる。九州の田舎で過ごすのも良し、東京という荒波に自分を放り込んで厳しい社会でバリバリと戦うもよし、それぞれの地域によって価値観が違うのだ。

 

地域を広げていけばそこに国家があり政府はその地域の人々の価値観によって国境を作り価値観を守るべきであり、それが宗教や肌の色、家族に対する考え方で線引出来るならそれで良い。

 

日本では原発事故以来それまであまり表に出して来なかった価値観の違いが表出することになり、それが地域社会で様々な問題を作り出した。昨日まで本音で話さなかった、表面だけを撫でるようにして腫れ物に触れない事で何もないふりをしてた共同体が、原発事故を通じて本音を出さねばならない状態になり、人々は地域社会の中で少しづつ本音で語るようになった。

 

その結果として今まで住んでいた地域が実は自分の幸せと違うカタチの幸せや価値観の集まった地域であることに気づいた。そうなった場合は、地域の価値観に合わせて生きていくか、それとも出ていくしかない。

 

ところが出ていこうとすると残った人々からすれば自分たちの価値観が否定された事になり、更に本当は自分も出ていきたいのだが現実的な事情があり出ていけない人々からすればまるで捨てられたような怒りを覚えて出ていこうとする人々を非難する、まるで売国奴か何かのように。

 

しかし「現実的な事情」はまさに自分が作った事情であり人生には危機が来る時もあると考えずに日頃の努力を怠った結果である。自分が努力をしなかった事に対する自分に対する怒りなのにそれを認める事で自分が今まで間違った選択をしていた事を自覚するから心の痛みは増大してそれが出ていくものに対する憎しみに変わるのだ。

 

「そんなに外国が好きなら外国に行けばいいでしょ、非国民め!あたしはこの街を守る愛国者なのよ!」と言い出すだろう、本当は出るだけの心の準備も何かあった時に対応出来るだけの日頃の努力を怠っていただけなのだが。

 

「ここが私の故郷なのにどうしてよそに行かなければならないのです!私は生まれてこの方ずっとこの国に住んでいるのに。私の両親はこの国の大地に眠っているのです。両親の両親もここに眠っているのに!あなたがアメリカ人であるように私もアメリカ人です。もしかしたら、あなた以上にそうかもしれない。いや、それはもう明らかだ。なぜなら、私は言論の自由を、平等を、おそらくあなたには想像もつかないそういった概念を、心から信じているからです。あなたはアメリカの国旗を振るのに忙しくその旗の意味することについては何も考えていない!」

「エージェント6」 トム・ロブ・スミスより抜粋

 

上記は小説の一文である。黒人であり1960年代の黒人差別を共産主義を通じて無くそうとした人が、愛国者を誇り彼を非難する人に対して反論している。とくに「アメリカの国旗を振るのに忙しくその旗の意味することについては何も考えていない!」という文章は、そのまま日本に置き換えてみたら分かりやすい。

 

「日本の国旗を振るのに忙しくその旗の意味することについては何も考えていない!」旗を振ることで日本政府を容認して日本政府が進めてきた原発政策を認め、非核三原則と言いながら現実には核の受け入れを行い、日本政府が長期にわたり一般市民から税金を巻き上げて自分たちだけで都合よく使い回している現実を容認しているのが、実は日頃何も考えない一般市民なのである。

 

そのような市民の反応をよく分かっている政府はアメとムチで、田舎にダムを作っては地域に補助金と仕事を与え、逆らえば法律を無視して個人攻撃を行い個人の家庭を破滅させる。そういう政府を支持することが日本の国旗を振る行為になるのだ。

 

では最初の話に戻って、そのような地域の価値観がアメムチで一致している中で自由と平等と公平を求める人は少数派であり攻撃非難される対象となる。ではもう答は見えたようなもので民主主義に従えばその地域から出ていくしかないではないか。それとも一般市民は日本国民が憲法で保証された移住の自由さえ否定しようとするのか?

 

出ていけば売国奴と言われ残れば彼らの無知な旗振りに付き合わされる。どちらを取るかと言われれば、例え売国奴と呼ばれようが出ていくのが自分の価値観を守る為の最後の手段ではないか。

 

日本を出ていくが日本の郷土を愛しているのは誰よりも強く、ただ国旗を振って政府にしっぽを振るのを潔しとしない、ただそれだけなのである。

 

大体において愛国心などという言葉が一般市民から出始めるのがきな臭い時代になった第一歩である。尖閣諸島も竹島も問題を整理して冷静に行動しようとせずいたずらに感情的になり自分は愛国者だと自己陶酔に陥り始めるのが国家が間違った方向に進みだす時のサインである。

 

日本国内で消費税が増税されサラリーマンの平均給与所得がもうすぐ400万円を割ろうとして貯金も出来ない家庭が急増している中で国民の不満を他所に向けるのは、まさに中国や韓国がやっていることで、日本の政策でもそれは同様だ。

 

第二次世界大戦前夜、すでにヒトラーは人種差別政策を取り外国へ戦いに出る準備をして軍備を強化、それが愛国心と誇りを持つ一般ドイツ国民に強烈な歓びを持って迎え入れられた。その時危険を感じて米国に逃げたユダヤ人は自由と財産と家族を守ることが出来た。

 

しかし危険を感じることもなく出ていくための気構えもなくまだ大丈夫と思っていたユダヤ人は「水晶の夜」に自宅や店を焼かれて財産を奪われゲットーで自由な生活を奪われ最後にはガス室で妻や子供たち家族ともども皆殺しにされた。

結局ドイツに残る選択をした父親はドイツ人愛国者である一般大衆で作られたドイツ軍に毒ガスで殺される寸前に何を考えただろうか?財産を不当に奪われ自由を奪われ家族を守ることも出来ずに自分までもがガス室で命を失うその寸前に。



tom_eastwind at 16:44│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔