2012年11月19日

遊ぶべき時に遊ばず

遊ぶべき時に遊ばず、学ぶという意味の勉強すべき時に受験勉強をして、結局何時まで経っても何も学ばなかった人々なのに、子供を産んで親になると突然聖人君子みたいになり、夜になると意味もなく理由もわからないまま、他人がやってるように自分の子供に寝なさいと言ってみたりする大人たち。

 

子供の「何故?」という質問に答えられずにすぐに怒鳴って言葉の暴力で子供を支配しようとするバカ親。怒鳴った時点で自分の負けであるという事さえ理解出来ずに子育てに悩むあふぉ親。

 

自分がバカであるという事、説明能力が無いという事、自分の知識不足であること、そういうすべての自分の責任になるべきことを理解できずに自分は悪くないと思う親たち。子供が可哀想だぜ。

 

ニュージーランドではシュタイナー教育とか人気があり、子供の成長段階に応じて「その時に学ぶこと」をかなり明確にして教えている。情操教育と道徳教育と数学などの教育と、それぞれ子供が一番受け入れやすい時期に教えてる。

 

先日の就職記事でも少し書いたが日本人(特に男)は正社員としての就職がゴールと思ってるフシがあり、一旦就職するとそこから先に学ぶことは社内力学であり誰にゴマするかとか社内での稟議書の書き方とか常に内向きの勉強にひた走るが、自分を個人として労働市場に置いた時にどれだけの市場価値が付けられるかを考えて勉強するという事があまりない。

 

本来子供、例えば小学生などはひたすらに校庭を駈けまくり友達とワーワー言って、時には怪我をしながら「あ、これ以上やったらダメなんだ」という事を理解しつつ、お昼ごはんをどこで食べるかとか意見がぶつかった時に、お互いの座りたい場所を主張してては結論が出ないから「じゃあいいや、遊びながら食べよう」みたいな、お互いにとって何が正義かではなく秩序を維持しながらどうやって解決策を導くかを考える。

 

そうやって子供たちは自分が今やりたいことを理解するし社会における他人との距離感も理解出来るようになる。もちろん時には事故も起こるがそれは人間が社会を運営する時に完璧がないのと同じだ。むしろ子供たちの頃にちっちゃな事故を通じて学ぶことが出来る。

 

ところが日本では子供の頃に一番大事な感受性を擂り潰して「決まりだから」と子供を鋳型に押し込んで誰も彼も同じような形にしてしまう。本来は校庭を走り回って学ぶべき時期に暗記教育で個性を潰される。

 

本来なら古典や歴史を勉強すべき10代には大学に合格するためだけの詰め込み教育を行い、何故学ぶのかではなくどうすれば簡単に答にたどり着けるかだけを考えるようになるから、そこで人間に大きな欠陥が出てくる、いわゆる他人の痛みが理解出来ない人間になる。

 

そうやって苦労して入学した大学では、本来の入学目的が「良い企業に入って安定した生活を送ること」であり、大学と学部が決まった時点で将来の就職先も限定されてしまうからそれ以上勉強しようとしない。

 

何故なら大手企業の採用担当者が見るのは「どこの大学」の「何の学部か」であり、入学の時点でシグナルが発信されており、大学でスポーツをやろうがボランティアをやろうが、所詮は決まった範囲内での上下運動でしかない。

 

そして本人もいつの間にかそのような社会に慣らされてしまうから、一旦就職したらそこが終の棲家みたいな事になり、それ以上に自分を上昇させようとか何かの資格を取って次のステージに挑戦しようという事もなくなる。

 

ただこれは比較の問題であり、ぼくが1980年代に見てきた日本人サラリーマンは90%以上が永久就職感覚であり社外で役立つ技術よりも社内で役立つごますり術を学んでいたが、今の時代であれば社外で役立つ技術を学ぶ人は30%くらいに増えたのではないかと思う。

 

それはそれで良いことであるが、けど社会の中心にいる70%の人々は今も一旦社会に出れば新しいことを学ぶのではなく今ある組織に馴染んで組織内での出世を一生懸命考えるようになる。その結果として上を向いて胡麻をする人間が出世をする。社長の耳に痛い諫言をする者は遠ざけられる。

 

そういう日本の組織に同化出来ない人々は新天地に飛び立ち、自分が望む生活を叶えられる土地に移住した。

 

今までニュージーランドに移住しようとする人々は、元々が社会の中でかなり変わった人々だった。1990年代には日本社会で通用しない人々がやってきた。親の金で食ってきてニュージーランドにやってきてもまともに英語の勉強もしようとせずに仲間内で傷の舐め合いと違いの褒め合いをして痛い所には触れずにだらだらと生活をしていた。ドロップアウト、落ちこぼれである。

 

2000年代初頭には日本社会で何とかやってきたけどそろそろ自分のほんとうの夢を叶えたいと考える人がやってきた。そして2005年頃からは日本の将来を考えてみた時に「居住地を2つ持つ」選択肢を選ぶ人が増えてきた。かなり優秀で日本社会に収まれないスピンアウトな人々である。

 

そこへ去年の3・11の原発問題である。それまでニュージーランドを選ぶ人はある意味「日本の組織が合わない確信犯」としてやってきたのだが、3・11以降は日本組織に当てはまるけど今は原発が危ないと、NZを避難場所として選ぶ人が増えてきたことだ。

 

もちろん彼らは行動出来るだけ良いと思う。ただここで問題となるのは、単純に原発避難場所としてNZを選んだ人の中にはドロップアウトでもなくスピンアウトでもなく、日本的常識のまま日本の「遊ぶべき時に遊ばず」に生きてきた人々がいるという点だ。

 

何が問題か?それは、彼らは自分たちの常識が世界の常識と思い込み自分たちの正義がすべて正しく他の人間が何を言おうとそれを一切認めずに相手が悪いと非難することだ。

 

正義と秩序は全く異なる。正義は100人いれば100個ある。お互いが正義と言う名の下に喧嘩をすれば世界中が戦争になるよ。だから他人の価値観を認めてお互いに争いにならないように秩序を保つ。秩序は何が正しいかを裁くものではなく、他人とどれだけ問題を起こさずに共同生活をするかを追求するものだ。

 

原発に賛成の国もある。放射能の問題もたくさんの視点がある。ところが原発でやってきた避難民はそこが理解出来ない。子供の頃から他人と接することもなくマイワールドで生きてきた人々は他人と共同生活をすることがどういうことかと理解出来ない。だから自分の理屈を正義と思い込み相手の事情も環境も考えずに勝手に相手の土地に非難してきて相手のやり方が悪いと文句を言う。

 

ばっかじゃないか。土地が変わればルールは変わる。変わらないのは唯一秩序を守るという点だけだ。その意味で先住者のいる土地では先住者の意見を尊重することが当然であり彼らの考え方が何故そうなのかを理解するべきである。

 

ニュージーランドは良い国だ。平和で政治が安定していて法治国家である。けどコンビニは少ないし品物は少ない。バスに乗るときも要領が悪くて時間がかかる。銀行で入金しても平気で金額を間違う。

 

それでもそこにはきちんとした合理的な理由があるのだ。その国の成り立ちに至る合理的な説明が出来るのだ。けれどそれを理解しようともせずにひたすら日本の常識をニュージーランド人に押し付けようとする行為は、まさに「遊ぶべき時に遊ばなかった人々」の愚弄な行為でしかない。

 

ぼくの仕事は移住である。ただしキースと同じで、ぼくは仕事をする時には自分のプライドを持ってニュージーランドの為に働きニュージーランドに住む日本人の為にできる限りの事をしたいと思っている。

 

なので僕は仕事を選ぶ。偉そうな事を言うなと非難されるのを承知で、けど敢えて言いたい、ぼくは同じ価値観を持てない人とは仕事をしない。

 

価値観と言っても何も難しい事はない、他人の価値観を認めて学んで受け入れるだけの度量と教養を持つという事だ。それさえ出来れば後は僕は何も気にしない。誰がどこで何をしようが、それは社会秩序を守っている限り自由だと思っている。

 

他人の価値観を認めることは子供が遊ぶべき時に遊び集団生活から学ぶことである。それなしにひたすら自分の意見ばかり主張して、他国に行ってその国の制度がどーだとか仕組みがどーだとか、まさに要らん世話、だったら来るなである。

 

遊ぶべき時に遊ばずひたすら個性を擂り潰して素直な疑問を持つ心や他人の気持ちを理解しようとする気持ちが持てなくなった大人たちが子供に無理を強制し周囲に自分だけの正義を主張して相手にされなくなり更に周囲を非難するようになる。

 

少なくとも軒を借りて生活している時に母屋の主人に文句を言うような真似はやめよう。自分の常識だからと他人に強制するのはやめよう。親がバカなら子もバカになる。せっかくの海外生活だ、少しこの機会を利用して世の中をゆっくりと見回して胸に手を当てて考えて欲しい。

 



tom_eastwind at 23:54│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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