2012年11月25日

一衣帯水の国、現代中国と日本

★抜粋開始

まず、格差は全てが悪いというわけではなく、多くの場合良いことである。一定程度格差があるのが、正常な社会である。しかしメディアは富の格差は全てが悪で、全面的に否定しなければならないとしている。これは誤った考えで、民衆に現実的でない期待を持たせている。

 

 社会の進歩は、「独断的平均主義」を打ち破り、市場競争を取り入れたことで、市場競争を通じて、資源の合理的配分を目指すものだ。市場競争では、必ず一定程度の貧富の差が生じる。平等なルールでの競争では必ず不平等が生まれる。

 

 計画経済と平等主義により、「均等の豊かさ」を追求するのは、人間性、社会の活力を扼殺することだ。発展は、すべて「差を認めた」ことによるものだ。

 

  当然、市場に高い価値を与えるべきでなく、格差は一定の限度で抑えるべきだ。しかし、メディアは格差を議ずる時、「均等の豊かさ」といった思想に迎合し、あらゆる格差が許せない様だ。結果、「富」を敵のように、思う者も出てきている。

 

 次に、格差の問題を論ずる時、その原因を考えなくてはならない。まじめに頑張っても豊かになることができず、家を買うことができない、一方、無学無能な人が両親の資産のおかげで、豊かな暮らしを送る。これらは社会の恥で、批判されるべきだ。

 

 勉強もろくにせず、努力して働かないが故に、生活できない者の貧困は批判されるべきだ。権力の独占により豊かになった者は批判されるべきだが、同時に努力せずに貧しいものは「敵視」されるべきだ。

 

 こうしたことを考えずに、一概に貧富の差を論ずべきではない。こうした場合分けもしない大雑把な議論が、努力して豊かになった者を傷つけ、怠け者に口実を与えることとなっている。

★抜粋終了

 

まさに現代日本の格差を批評しているように見えるが、実はこれ中国共産党青年団の機関誌である「中国青年報」の記事の抜粋だ。

http://blogos.com/article/50960/

 

原文では中国の〜という言葉があるのでその言葉だけ削ってみたらまるで日本の社会を批判するような上記の記事のようになる。今の中国社会の格差に対する批判を批判しているのだが、実際に中国市民の間っでくすぶっている社会格差とは一部共産党幹部による農地売却と農民追い出しなどを行う、固定化された中国富裕層への不満である。

 

この記事は格差を認めているが同時に格差が共産党批判に繋がらないように問題を逸らすのが目的ではないかと読まれている。

 

では共産党一党支配である中国で起こっている現象と民主主義である日本で起こっている格差の固定化がなぜここまで似ているのか?それは日本が実質的に法治国家でなく裁量政治であり人治国家であり共産党に当たるものが高級官僚であるからというものだ。

 

日本では政党はあくまでも官僚の振り付けに従って踊るだけのものであり中国共産党のような力を持っていない。そして官僚の息子は官僚となり他の優秀な官僚の娘と結婚して閨閥を作り、時にこれが政治家や財閥の子供とも結婚して政財官の鉄のトライアングルを作り、ここに格差が固定化することになる。

 

つまり日本では明治の昔から格差は固定していた。一部の選ばれた人々のみが支配層に入ることを許され、それ以外の人間はすべて被支配層であったという事実は何も変わらないのだ。

 

日本が平等だという夢を信じている人は幸せだが、ぼくは香港に住んで「力がなければ自由はない、金の量に応じて人々は平等である」を体感してニュージーランドでは英国から引き継がれてきた「国民が守る民主主義」を体感してみると、日本はとことん中国と同じ国であるのを感じる。

 

民主主義の生みの親と言われるアテネでも投票権は納税者に限られていた。日本も明治時代初期は同様であった。つまり民主主義でさえ参加者には対価を要求したのだ。その結果として実際に労働の価値を理解している人々のみが選挙権を持ち選挙に参加する人々はきちんとした価値観を持つことが出来て結果的に良い社会の成立に向けて動くことが出来た。

 

ニュージーランドでは今でもたくさんの納税をしているビジネスマンは堂々と「おれは今年これだけ納税した、社会のために貢献したんだ」と大きな声で話す。社会に貢献したものはその貢献度に応じて大きな声で話す権利があると理解しているからだ。

 

これに対して現在の日本では成人になれば誰でも選挙権を持てるようにした。その結果として政治を全く学んだことのない人々が選挙に参加してタレントやお笑い芸人がシロウトでありながら知名度のために政治家になり、これが結果的に人々にとって悪い社会=支配者にとっては操りやすい社会を作ることになった。

 

つまり支配者が大好きな民主主義とは砂糖に包まれた毒のようなもので支配者にとっては本当の意味でのニュージーランドのような民主主義が実現されたら困るから官僚は支配権が決して多数の人々に散らばらないように閨閥政治を行い権力を東京の中に集中させて国家の安定=支配層の固定化を計った。その計画は見事に成功して現在のような格差が固定化した社会が出来上がったのである。

 

つまり現在失業中の若者や低賃金でこき使われている若者は最初から狙い撃ちにされていた使い捨て層でありまさに奴隷の位置に配置される運命にあったのだ。

 

それは中国も同様であり共産党幹部の子供に生まれればそれで人生は「上がり」、一生の生活の安定が得られるがそうでない普通の人々はこき使われ土地を奪われ使い捨てにされる運命にあったのだ。

 

だから格差の固定化に疑問を持てば「それは努力不足だから」と切り捨てられ平等を要求すれば今の世の中は平等であると返され何を言っても通用しない社会になってしまった。

 

これが現在の日本と中国の実態である。一衣帯水の国とは良く言ったもので、どちらの国でも支配層のやってることは同じであり苦しめられる人々も同様である。格差はすでに固定化されている。それは小泉元首相がやったことでもなく胡錦濤がやった事でもなく、その社会を認めてしまった国民自体にある。



tom_eastwind at 16:29│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔