2013年01月02日

米軍基地と沖縄での差別の歴史 1

沖縄二日目、今日は龍馬くんと米軍の勉強だ。

予約したタクシーの運転手さんと世間話をしながらまずは普天間基地に向かう。那覇市から58号線で北へ約1時間程度で普天間に到着。ここには小高い丘になった戦跡公園がある。沖縄戦当時、本土から多くの日本兵がやってきた。各県から戦跡記念の石が持ち込まれ戦争に散った若き兵隊の為の詩を刻み込んでいる。

 

丘にはトーチカ跡もあり、龍馬くんにとっては日本の戦跡初体験である。そして丘をテッペンまで登りつめると遠く眼下に普天間基地が見える。


「ほら、基地のすぐ横に住宅地があるだろ、住宅の人が危険に晒されているから基地に出ていってくれと言ってるんだ」

「ふーん、どっちが先に出来たの?基地?住宅地?」

「基地」

「じゃあ住宅地が出ていけばいいじゃないかな?」

 

誰もが持つ素朴な疑問である。伊丹空港と同様なしくみだ。空港は昔からあった。その近くの土地が騒音が理由で安いから自宅を作った。そして空港に「騒音がひどいから窓ガラスを二重にしろ」と言い「夜は飛行機を飛ばすな」と言い挙句の果てに「空港は出て行け」と言って関空を作ったら今度は「伊丹は地域の大事な商売だ、廃止するな」と言い出した。

 

伊丹関連の支出(ツケ)は日本政府が負担した、つまり国民の税金で伊丹周辺の人々のワガママを支払ったのだ。

 

伊丹に比べれば普天間の場合はもう少し言い分がある。基地を作った時点で地主は不在か戦死しており焼け野原になった地域に住人はおらず結果的に米軍が接収したという歴史がある。だから地主が明確な場合は土地使用料を払っている。

 

戦争が終わり地域住民は少しづつ戻って来て生活のために基地周辺の空いた狭い場所を利用して野菜を植えた。そのうち近くに掘っ立て小屋を建てて住めるようにした。川の水も手に入る。何より当時世界で最も強かった米軍基地の横であれば治安も良い。

 

そのうち沖縄の基地では将校用の住宅の掃除や兵舎の料理や草刈りなどの作業が出てきて、これを地元民にやらせることになった。というか仕事のない沖縄の人々からすれば米国人の労働条件で働いてドルで給料が貰えるのだから文句はないどころか有難い仕事である。

 

戦前は沖縄語の言葉狩りを行い日本人化させつつ同時に二級国民の刻印を打ち、戦時は沖縄の人々を血の盾に使って本土を守り戦後は沖縄に基地を押し付け本土は知らんふりをして米国の侵略を続けさせた。

 

そうやって奇妙な関係で戦後の沖縄は少しづつ成長していった。沖縄の日本返還の際は佐藤栄作当時首相が厳しい交渉を行なってそれなりの妥協案を提示しつつ返還が認められた。この時は核爆弾持ち込みの容認、米軍への特別支出など裏条件もたくさんあったがそれらは外交機密として隠されたまま返還が行われた。

 

当時の沖縄では日本返還されれば沖縄も本土並みになると思ってたくさんの若者が行動した。しかし日本に返還された後も基地はそのまま残り沖縄は鬼っ子として扱われた。地元産業は育てずに本土の仕送りで最低の生活のみを保障して本土からの観光客の訪問先としても地元の独立は認められず。

 

海洋博記念公園を訪れた人は多いだろう。しかし海洋博の工事は殆どが東京の建設会社が仕切り利益は殆ど東京に還元され海洋博後の58号線には安普請の宿屋や食堂が廃墟のようにずらっと並んでいたものだ。

 

そういう原風景を見てきた人間からすれば沖縄は何時まで経っても本土の利益搾取の対象でしかなかった事を肌で感じる。沖縄は常に日本の下に置かれて搾取の対象とはなるが決して沖縄人、琉球民族に力を持たせない様にして独立は認めずに利用し続けてきた。

 

米軍としても日本政府がエサとして提供してきた沖縄を利用しない手はない。とくに1960年代に起こったベトナム戦争は米国の世界警察としての地位を危ういものにした。無敵パックス・アメリカーナがアジアの小国ベトナムとの戦いに負けたのだ。

 

米国としても軍事費の削減や日本の自衛隊の米軍補助戦力化の為に沖縄の返還を認めたが同時に米国の自由に使える財布として日本政府から「思いやり予算」を受け取り東北アジアで何かあれば沖縄を不沈空母として戦闘機や海兵隊を送り込みアジアの安定化を図った。

 

結局沖縄は常に日本本土に政治利用され米国への献上品として利用されてきた。本土返還後も地元産業を育成せず、地元に仕事のない若者は集団就職船で大阪や東京に向かい工場労働者として低賃金の労働を提供することになった。 
続く 



tom_eastwind at 16:20│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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