2013年06月05日

肉親による介護疲れはこれから続く社会問題

 

ホテルを出発する日の朝、NHK特集で介護問題を扱っていた。日本では長男の嫁が長男の親を介護することが「常識」であると信じている人々と「そういう無思考の決めつけって違うくない?少なくとも時代は変化して三世代生活が消失した中で古い仕組みだけ残したために介護で子どもが仕事を失い離婚をして挙句の果てに介護疲れで親殺しとか自殺したらどうするの?」の間の葛藤である。

 

ニュージーランドの介護社会は日本とは全く違う。社会構造が違うのだから当然だろうが、まず老人介護はすべてリタイアメントビレッジという老人だけの村が対応している。この村は現在では主に民間企業が経営して品質を維持している。この村では子どもが親を介護することはない。プロの介護士、看護婦、医師、そして多くのボランティが支えている。

 

郊外の大きな老人村であるセルウィンビレッジなどは敷地内に病院を中心として教会や郵便局、雑貨店など日常生活に必要な設備があり、そこからバリアフリー歩道が広がり老人向け住宅が並んでいる。季節ごとに違った彩りを添える花と木と美しい自然に囲まれた村の中では老人たちが自分のペースでのびのびと老後の生活を楽しんでいる。

 

老人たちは平日は村の中で元気な老人が弱った老人を助けて毎日レクリエーションを開催して、外部からも様々なボランティアがやってきては昼間のおしゃべりをしたりイベントを行なっている。

 

キーウィの老人たちは日本では想像しづらいが結構ピンピンコロリである。かなりの高齢でも自分の足で歩きある朝ベッドの上で亡くなっていたとか、昨日までヨットやゴルフを楽しんでいた老人が食事の最中に脳溢血や心臓停止でそのまま亡くなったりである。

 

もちろん介護の必要な方もいるので、彼らに対してはきちんと鍵の掛かる部屋でプロの介護士が手厚い介護を行なっており少し気分の良い時は庭に出て太陽を浴びて楽しんでいる。

 

では子どもたちはどうしているのか?ここがニュージーランドの特徴で、この国では子どもは一般的に18歳ころから親元を離れてひとり暮らしを始める。週末は自宅に戻ることもあるが基本的にひとり暮らし。

 

第一この国では子どもが生まれたらすぐに一部屋に子供ベッドを入れて親と別の部屋で寝るのが普通だ。日本のように家族三人川の字になんて情緒はない。川の字が良いか別部屋が良いかはいろいろ議論もあるだろうが、少なくとも根本的な子どもに対する考え方が違う。

 

子どもは生まれた時から一つの人格として扱われており、ちっちゃな子どもが自分の親の名前を普通に呼び捨てにしたりもする。うちのりょうまくんもお姉ちゃんに向かって本名を呼び捨てにするからアジア文化の当家ではその度にりょうまくんはお姉ちゃんにぼこぼこにされる。

 

白人社会では子どもも社会に参加する一人の人間であり、成員の役目は自分が生産活動を行う事で、老人の面倒を見るのは老人、つまり老々介護と政府に因る介護が基本である。当然であろう、本来労働して社会に食料を提供する立場にいる人間が介護で自宅に篭ってしまっては収入もなく納税も出来ず結果的に親も子どもも苦労して結果的に家庭は崩壊し、家庭の集約された組織である社会そのものもいずれ崩壊する。

 

社会の成員にはそれぞれの役目があるのだ。だから健康で社会で生産活動を行い子育てをする世代は昼間は会社で働き夕方からは子どもと一緒に家庭生活を行う。毎週末に両親を村に迎えに行き週末は一緒に過ごしたりすればよい。

 

つまり子どもが自分の人生を棒に振って親の介護を行うことで両倒れにならないように、子どもは労働と納税を通じて政府に金を渡し政府はその金で老齢年金財源を作り介護士費用などを賄いプロの介護士が面倒を見て、最後はホスピスで穏やかな死を看取るまでの仕組みが出来上がっている。

 

ちなみにニュージーランドの介護では、単に肉体が生きているからという理由で寝たきりで意識のない老人の体中にチューブを付けて無理やり生かすなどという発想はない。

 

すでに魂は昇天しているのだ、ならば老いさらばえた抜け殻である肉体だけを維持するために莫大な費用をいつまでも垂れ流すのではなく、そのお金はこれから良い社会を作っていく子どもたちの幼児教育などに使おうという発想だ。

 

これは白人の合理性による。自分を育ててくれた親のために自分が介護疲れで自殺してそれが普通の社会か?子どもは社会で生産活動を行い老人は彼ら同士で楽しく生活をする、それが現実的で合理的ではないだろうか?

 

子どもは社会で働き収入を得て自分の子育てをする。自分が年を取ればリタイアメントビレッジに入居して老後の豊かな生活を楽しむ。その原資は国家がすべての国民に掛け金無しで支払う老齢年金である。そうやって世代交代が円滑に行われていくのが本来あるべき「持続できる社会」ではないか?

 

老齢年金は平均賃金の65%が保障されており夫婦二人で年金を担保にすればすぐに入居出来る。以前はこの老人村は教会などのボランティアによって運営されていたが、サービス内容を高度化するために民間企業の参入を認めて進めてきた結果として非常に優れた設備を持つビレッジが次々と出来上がっている。

 

現実にちょっと考え方を変えるだけで社会全体を不幸から救うことが出来るのに何故出来ないのか?それは日本の社会構造ておいうか、実は単純なことだと思う。

 

それは間違った「思いやり」である。

 

日本で生まれ育てば誰もが感じるように独特の空気が流れており常に空気を読まないといけない。日本では他人と違うことが出来ないし会社の上司や老人が無理を言えば御無理御尤もという文化があり、そこに更に社会全体が「他人の足を引っ張る下向きの平等」があるからだ。「あたしだって苦労したんだからあなたもやりなさいよ、それが老人に対する思いやりでしょ!」である。

 

思いやり、それ自体は何も間違っていない。しかし今の時代、この言葉の本来意味するべき点を無視して自分に都合の良い錦の御旗として利用しているのが事実ではないだろうか?社会構造がすでに変化して三世代は失われ個人が独立した生活を過ごすようになっているのに介護の考え方を変えようとしない。

 

思いやりとは相手の気持ちを考える事であり、自分を思いやってくれってのは単なるわがままでしかない。介護を嫁の責任として決めつけた挙句にあそこが痛いここが痛いと文句を言い、ちょっと何かあれば「うちの嫁がさー、何にもやってくれなくてさー」などと周囲に言いふらす。まさに「くれない族」である。

 

自分が社会構造の矛盾に苦労したからこそ自分の世代で止めるべき間違った習慣、いや間違ったと一概に言い切るのは良くないだろう。昔はその仕組が良かった時代もあった、だが時代はすでに大きく社会構造を変化させており、その為に仕組みを変化させねばならない。

 

ところが変化を嫌う老人や既得権益者が既存の仕組みに乗っかって次世代に苦労をバトンタッチしてしまう、そんな事やったらいつかは構造的崩壊を招くというのに、自分だけ良ければいいって考えで他人に苦労を押し付けてサディスティックに満足しているだけなのだ。

 

自分がやられたから子どもがやられて当然という間違った悪い血の流れを続けようとしている。てゆーかもっと簡単に言えば昔の高校3年生が1年生を殴っていたらその1年生が3年生になった時に一年生を何も考えずに習慣的チンピラ発想で自分より弱いものを殴るようなものだ。

 

自分が苦労したのだ、他人が苦労するのは当然だと考える人々がいる限り日本の介護問題は終わらない。現実を見つめてよりよい社会にするためには国民、とくに今他人の上に立って発言出来る人々が変化するしかないのだ。

 



tom_eastwind at 11:39│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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