2013年09月09日

民主主義と民衆主義の違い

名古屋地方気象台は東海地方の今夏(6〜8月の3カ月間)の天候まとめを発表した。平均気温は名古屋市27.0度、津市26.9度を記録し、いずれも観測史上最高だった。名古屋市では、猛暑日が27日を数え、観測史上3位の多さだった。

 

てか、8月の名古屋では気温38度なんて記録がある。

そうかと思えば31.74て数字が出てきた。

 

任期満了に伴う茨城県知事選は8日投開票され、現職の橋本昌氏(67)が前茨城大副学長の田中重博氏(66)=共産推薦=を破り、現職知事最多の6選を果たした。投票率は31.74%で衆院選と同日だった前回(67.97%)を大きく下回った。

 

名古屋の最高気温38度の方が茨城県の投票率31.74%より大幅に高いってのは、民主主義が究極まで発達して誰も選挙行かなくても日本って国は平常通り運営されるからそれよりは熱波の方を気にしろって事なのかな。

 

確かに今年の日本はすんごい暑さだったから真冬でも雪の降らないオークランドで15度前後の涼しい空気の街で生活しているのが申し訳ないくらいだ。

 

オークランドでは1012日にオークランド市議会選挙が行われる。主要道路沿いには候補者の看板が立ち皆が大きな笑顔で「おれに入れろ!」と主張しているが、日本のような街宣車が走り回ることがないので非常に静かに行われている。投票日が近づくとボランティアのお兄さんたちが道路脇に立って楽しそうに看板ふってるくらいか。

 

勿論主張に興味のある人は各候補者のウェブサイトや各党のサイトを見れば「これからのオークランドをどうしようか?」って議題が並んでいる。

 

ニュージーランドの選挙において投票率は高く、2011年に行われた総選挙では74.21%1996年に現在のMMP制度(小選挙区比例代表制)に変わった後も常に投票率は70%を超しており一度も下回った事はない。

 

これはやはり英国から引き継いだ民主国家の考えが徹底しているからだ。イエーリングの「権利の闘争」、ルソーの「社会契約論」、そしてミルの「自由論」などをしっかり学んだ英国貴族や中流階級の厳格なキリスト教信者たちが集団移住してきて今のニュージーランドの基本を作った。

 


ミルの『自由論』は個人にとって自由とは何か、また社会(国家)が個人に対して行使する権力の道徳的に正当な限界について述べている。『自由論』の中でも取り分け有名なものに、彼の提案した「危害の原理」がある。「危害の原理」とは、人々は彼らの望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなだけ従事できるように自由であるべきだという原理である。


 

ニュージーランドの人々は自分の生まれ持っての人間としての権利を理解し(社会契約論)、自由を主張し(自由論)、自由を守るために戦うことを覚え(権利の闘争)、その権利の行使のために選挙という民主主義の根幹となる制度を作り国民が選挙によって自分の意思表示を行えるようにした。

 

だからこの国では選挙に行かない事は個人の自由を守る権利に対する侵害=「悪」であると捉えて政府自らが国民が選挙に参加出来るように仕組みを作り、同時に国民に対して「選挙に行きなさい」と啓蒙をした。

 

例えば茨城県の31.74%という投票率を考えてみよう。茨城県の有権者数は約200万人である。ということは選挙に行った人は60万人程度である。創価学会の会員数は正確なところは分からないが500万人くらいはいるだろう。

 

ということはもし選挙の1年くらい前に創価学会の信者を60万人茨城県に移住させれば公明党一党支配の県が出来上がるってことだ。けど、そんな県や街に住みたいか?

 

もちろん日本全体で創価学会信者が8千万人くらいになれば彼らが大多数の意見となるから日本における少数派は文句を言う事は出来ない。極端な話、信教の自由や政教分離の原則を無視して憲法を変えて創価学会を国教とするかもしれない。けど、いくら自分が少数派だからと言って信教の自由を制限するような考えは納得出来ないし今更宗教を持ったり創価学会に加入する積りもない。

 

例えばイスラム国家のようにイスラム教信者ばかりの国では「民主的に」イスラム式道徳が導入されており、酒も飲めないし子供同士の喧嘩で勝った方が負けた男の子にマウントしたりするような国である。そんな国に住みたいとも思わない。

 

法律よりも土着習慣が優先されて女は手当たり次第に強姦されるようなインドに家族で移住しようとも思わない。

 

自分が民主主義を価値のあるものと思って生きるなら国民の大多数が民主主義の価値観を共有して民主主義が根付いている国家に住むしかない。そうでない、例えばイスラム国家やインドに行って「酒飲ませろ!」とか「女を強姦するな!」なんて言っても大多数の人間がそれを認めているのだから少数派の自分が民主的に多数派の意見を変えることは出来ない。

 

そして常に自分が民主主義に価値があると思ってる人々が民主主義を継続して守るためにも民主主義の根幹である選挙に積極的に参加して投票するしか無い。それ以外の方法で自分の信じることを世の中に納得させ実行させようと思ったらクーデターを起こすしか無いが、それとても仲間がいなければ出来ないし多数の人々が支持してくれないと継続することは出来ない。

 

振り返って日本。日本人は何かあればすぐに「民主主義国家である日本は〜」というが、それではこの日本の投票率は何故いつも低いのだろう。はっきり言って国民がきちんと民主主義を学んでいるとは思われない数字である。民主主義とは国民が主体となって参加するものであり、そうでなければ本来の民主主義は稼働しない。

 

しかしそれでも日本という社会が回っているのは、これはもう何か民主主義によく似た別の主義があるとしか思えない。

それはおそらく日本に江戸時代から残る「民衆主義」であろう。

 

日本の民衆は無責任に政治家や企業など自分の利害に関係ないことは何でも他人の努力をけなしたりちょっとでも失敗する蜂の巣をつついたように大騒ぎするが、けど自分の利害に関係があると突如として態度を変える。

 

まるで正義の味方大衆の代表としてそれまでは他人に向かってすぐ「道徳が!」とか「人々のためにー!」とか言ってた言葉が消え去り冷静に口を拭ってしらんふりをして現実に逃避する「仕方ないんだよなー、組織だもんな、仲間を守らなくちゃね」という言い訳を残して。

 

これはおそらく江戸時代から続く風習でお上が何でも決めて下々は「長いものには巻かれろ」と行政責任はすべてお上にお任せで自分たちは言われた事はするけど自分で責任を取りたくないからそれ以上は何もしない。

 

それでいて床屋に行っては仲間内で無責任に誰それがどうだとか自分では出来もしないのに他人の噂や組織の愚痴をこぼすのが習慣になり、それが現在でも新橋ガード下の焼き鳥屋のオヤジ談義にまで連綿と続いてる民衆文化なのだろう。

 

江戸時代は武士の中でも一部の優秀な人々が持ち回りで政治を決めて代々決められた武士がそれなりに下々を支配してきた歴史がある。武士の役目は自分の属する藩を運営することで武士以外の人々は農工商どこを取っても政治に関係なくお上の決めた事に「へへー!」と従うしかなかった。

 

だから明治時代になってお上に「普通選挙」とか言われても民衆にはピンと来ない。自分が自分の人生の主体になった事が一度もないのに今更民主主義で自己責任でって言われてもねーである。

 

ましてや戦後に米国から持ち込まれた民主主義なんて民衆には意味不明、だいたい若くて頭の柔らかいはずの大学卒業したての若者が会社に入社して第一声が「ぼく、何やればいいんすか?誰か教えてください」なんだから。

 

結局常に誰かに引っ張られてないと居心地悪くて自分で考えることも出来なくてどうしようもなくなる「自分で考えて決定すること」を放棄したのが民衆なのだ。

 

だから日本の場合は表面的に民主主義というが、民主主義が何かさえ理解せずに「場の空気」ですべて決めてしまうから西洋型の理論が通じない。だから明確なリーダーのいない組織の場合(つまり殆どの日本企業)全員が何となく互いに顔を見合わせて何が何故そう決まったかも分からずに何かを決めて最後には全員の責任ですと言って誰も責任を取らない集団無責任主義に陥る。

 

これは普通にニュージーランドで語られる自己責任と主体性を持って行動する「民主主義」とは違う、ひとつの日本独特の政治形態である。でもって下々が責任を持って民主主義を維持しないのだからお上だって民衆に迎合する政治をやりつつ裏でうまいこと美味しい利権を取り母屋では民衆に粗食を食わせておいて本人たちは離れですき焼き食べるような政治がまかり通るようになる。

 

しかし国民の大多数が民衆主義で納得しているのだから日本の選挙の参加者が少ないなんて文句を言う僕のような少数派がおかしいのだ。政治がおかしいなんてのは僕のような少数派が言うことではないのだ。

 

少なくとも日本では名古屋の気温の38の方が大きな問題であり茨城県の投票率31は世の中がうまく回っている証拠なのだ。



tom_eastwind at 18:33│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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