2013年09月27日

本を焼く国は、いずれ人を焼く

焚書という言葉がある。古くの中国や独裁国家が時々行った、国民をバカなままに放置する政策である。それほどに本は人に影響を与えるし、良い本は良い影響を与える。社会契約論や権利のための闘争などは人を根本的に変えて英雄にも大悪党にもすることが出来る。

 

***ウィキペディア

秦の始皇帝は紀元前213年に李斯の提案にしたがって、焚書を行った。その内容は、次の通りであった。

1.秦以外の諸国の歴史書の焼却。

2.民間人は、医学・占い・農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却する。

3.30日以内に、守尉に渡さなかったならば、入墨の刑に処する。

4.法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)。

始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠す[ 1]などして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され学問の研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがちであるが、他の諸子百家の書物も燃やされた。

***ウィキペディア終了、あ、ちなみにぼくは定期的にウィキに寄付をしている。

 

香港に向かう機内で見た映画が「図書館戦争」だった。岡田准一と榮倉奈々が主人公として出演しているが、おお、二人とも思ってたより演技うまいではないか。V6出身だからと食わず嫌いは良くないな、反省。

 

それにしても最近の日本映画は随分と出来が良くなった。ぼくが子供だった1970年代頃は日本映画が散々なことになってて、小津安二郎やクロサワ監督がいなくなってから映画の品質が急激に低下して、おりからのポセイドン・アドベンチャーあたりから始まる大作と呼ばれる洋画が一大勢力、それもフランスやイタリアの名作を凌ぐ米国ハリウッド発洋画が一大ブームだった。

 

図書館戦争の発想は日本図書館協会が1954年に採択した「図書館の自由に関する宣言」である。

***

図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。

 

1. 日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である。

 

知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。

 

知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。

 

2. すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。

 

3. 図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。

 

4. わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。

 

5. すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。

外国人も、その権利は保障される。

 

6. ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。

***

 

表現の自由がある。国民が自由に読む権利がある。そして政府は国民の自由を奪う権利はない。しかしそれもすべて国民がその権利を主張してこそ実現出来る。国民が政府の言うがままに「へへー、お上さま、ご無理ごもっともー!」とやってしまえば権利は消滅する。

 

その意味でイエーリングの言うように「権利は戦ってでも守らねばならない」のだ。戦いを面倒くさいとか争いは嫌だなどと見かけ格好良さそうな耳障りの良い言葉を放つ連中は民主主義を守ることは出来ない。

 

「図書館戦争」では国民の知る権利を守るために図書館所員が武装し政府による焚書に対して徹底的に戦う。一つ間違えば単なるドンパチ映画に陥ったところだが、原作者のテーマに関する基本的認識がしっかりしているから非常に良い出来上がりになっている。こういう映画こそ大陸中国人に見せたいものだ。

 

最後までしっかり楽しませてくれた「図書館戦争」の余韻が残る中、よっしゃ、もう一本日本映画を観ようと思って選んだのが綾瀬はるかの「REAL〜完全なる首長竜の日〜」で、これまた良質のスペキュレーションファンタジーである。最後までどんでん返しの連続で楽しませてくれた。

 

Speculation Fantasyとは略してSF,元々SFはサイエンス・フィクションと呼ばれていたが科学小説の時代から次第にハインラインの「夏の扉」とか「月を売った男」という作品が出てきてファンタジー的要素が強くなったので使われるようになった言葉だ。

 

「図書館戦争」の作者は有川浩。女性です。ぼくは彼女のこの映画を見る前に自衛隊シリーズ「空の中」と「海の底」を読んで途中で投げ出した記憶がある。あまり合わんな、そう思ってたのだが、この映画は面白かった。

 

それにしても最初に映画で検閲を受けた「オオガタショテン」と聞いた時は、本屋にも血液型があるのかと思ってしまった。O型書店

 

笠原が最後に放った銃弾、彼女の顔を見て思い出したセリフが「カイカーン!」だった。薬師丸ひろ子。

 

幸いにして今の日本はまだ読書の自由が認められている。検閲の禁止は民主主義の最低の要諦である。よっほい、今日は幸せだ。



tom_eastwind at 02:52│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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