2013年10月08日

野菜の魂

今日のお昼ごはんは会社近くにある玄瑞で「かつ丼」9ドル50セントを食った。日本円で約800円だから味噌汁とかお漬物があるのかと言えば、ない。丼がどーんと出てきて終わり。けど美味い。僕好みのちょっと濃いダシで、豚肉がしっかり歯ごたえがあってこれまた美味い。どうせ味噌汁や漬物が出てもあまり食わないので気にならない。

 

でもって注文する時に「ネギ玉ねぎなしでお願いします」というとお店の人、にこっと笑って「はい、わかりましたー」。ニュージーランドではアレルギーとか体質を理解しているのでメニューにもグルテンフリーとかこの材料にはアーモンドを使ってますとか書いている。だからねぎ玉ネギ抜きなどは簡単な方である。

 

しかし日本では未だ持って定着していない。出されたものを全部食べるのが礼儀だって文化が残っているからだろう。では出されたものが毒でも食うのか?量が多すぎてバカ食いして糖尿病になったら誰が責任とるんだ?だから食べられる食材を食べられる量だけ注文して何が悪いのか?食べられないものを目の前に並べられてクエと言われて、おれは豚じゃないってのに。

 

和食の時だって何でもかんでもネギを乗せるお店があるが、何でお好み焼きの上にもカツとじにもネギかけるのか?だからぼくは初めての店が苦手だ。だっていつなんどき何にネギや玉ねぎが乗っかるか読めないからだ。だもんでいつも馴染みの店に顔を出すことにしている。

 

ぼくはネギ玉ねぎの、あの匂いがダメだ。嫌いなものは嫌いなのだ。子供の頃からネギと玉ねぎは大嫌いでピーマンなんて全く食えない。口に入れた瞬間に吐き気がして全部吐き出すのだからどうしようもない嫌いである。料理の横に据え置かれてもその匂いが移ってるだけでOUT!

 

インスタントラーメンの粉スープに入ってる乾燥ネギでさえも茶こしを使って取り除いている。福岡に住んでた頃はしょっちゅう元祖長浜でラーメンを食ってて店に入るなり「硬め!葱なし!」と大声で注文していた。

 

話はそれるが間違ってネギが入ってきた時は店員さんに「悪いけどネギ食えないし、さっき葱なしって言ったし、お金払うからもう一杯作ってください」と言ってたものだ。もちろん「払う必要はない」って意見もあるだろうが僕としてはあまりカドを立てて次に「面倒くさ、もう来んでいいけん」と言われたら困る。それほどにシメのとんこつラーメンは美味いのだ。

 

それくらいに大嫌いなネギと玉ねぎであるが、インスタントラーメンの乾燥ネギを「あんなもん匂いも味もしないじゃないですか」と言われると「じゃあ何でメーカーは匂いも味もしないものを入れてるんですか?」と聞くことにしている。

 

ある人は不思議そうに「こんな美味しいものがどうして食べられないか、不思議ですねー」と言われたりする。ぼくはその人の味覚が世界中どこでも共通だと思えるその神経の鈍感さが理解できない。

 

そりゃさ、あなたにとっては美味しいでしょうね。ではあなたは飲茶で出てくる茶色でぶくぶくと膨らんだ鶏の足を食えますか?アルマジロの姿煮はどうですかね?赤犬の鍋を美味しいと言って食いますか?犬の姿焼き、すごいですよ〜。

 

ぼくは広州の食肉市場で犬を丸焼きにして唇が全部焼け落ちて牙が剥きだした状態でS字フックに引っ掛けられてバラ売りされたのを見た事があるけど、あれなどは広州の人々からすればごちそうですよ。

 

そう。好き嫌いは個人の嗜好であり他人がどう思うかは関係ないのだって根本的なことを理解していない人に限って「だってー美味しいのにー」などと言う。自分と他人を同質化しないと気が済まない日本人特性とでも言うべきか。

 

もっと言えばベジタリアンが肉を食べる人を見て蔑んだような目で見たりするのも同様。自分だけが偉くて神様に近いとでも思っているのだろうか?そりゃさ、あんたが野菜食いたければ食えばいい、けどそれを他人に押し付けるのはやめようよ。

 

野菜だって太陽に向かって伸びようとしているんだよ、あなたが食べているものすべてに命があるんだ、だから自分は動物の命を殺さないなんていばるなよ。

 

てな事いえばベジタリアンは「野菜には命がない」というだろう。けどそりゃ単なる宗教観でありあなたが偉いなんて思い込むことそのものが偏った宗教観を理性や知性と勘違いする、あんたがバカだって事にしかならない。

 

僕らは仏教の輪廻転生思想や八百万の神をいつの間にか信仰しているわけであり、草をくおうが肉を食おうがそれは誰かを口に入れる事で生かされていると考えるから西洋のキリスト教思想=人間とそれ以外の生き物は全く別と考える部分で相容れず最後は神学論にしかならない。

 

しかし日本では仏教においても神道に於いても他人の信じるものを許容して同居することが出来るから仏教とキリスト教が喧嘩に繋がることはない。この点多神教の良い面でありとくに仏教になればこれは宗教と言うよりも求道哲学みたいな部分が強い。

 

ただ言える事は食べ物の好き嫌いやアレルギーから宗教的忌避までそれぞれに個人の自由があるわけで他人にどうこう言われる分野ではないという事だ。

 

どんな立派な理屈を並べても社会の基本である「個人の自由」と「価値観の多様性」が理解出来なければ単なる「ガラクタでひとりよがりな御託」でしかない。

 

けどそれをネギの好き嫌いに無理やりこじつける僕もどうかなと言ったところで当然・・・反省(笑)。



tom_eastwind at 15:06│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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