2013年10月18日

崩し懐石

金曜日の夜はまたも山水で崩し懐石を楽しむ。今のニュージーランドでこれだけきちんとした正統派の和食を出せる店はない。しかし山水は今までどうしても敷居が高いと言われて来たので心機一転で高級居酒屋路線に変更する。

 

他店では絶対に味わえない懐石料理も出せるしビジネスマンの仕事帰りの気軽な一杯にも利用出来るようにする。お店の看板をもっと気軽な名前にして居酒屋メニューも導入して、それでいながら今まで通り隣のテーブルとは敷居を入れてお互い気にならないような半個室的な雰囲気も残す。

 

魚は日本から直接仕入れて今までオークランドでは食べられなかった魚も出せるようにした。金曜日の夜も日本から空輸で到着したヒラメの縁側を楽しんだ。

 

それにしても最近の日本食の動向は面白い。最近のオークランドは居酒屋ブームであるが殆どの店は白人が経営して白人がサービスを提供する、つまり「彼らの日本食」であり、それは決して「我々の伝統的な和食」ではない。

 

話は逸れるが最近覚えた言葉で歴史HISTORYとは“HIS STORY”であるって言い回し。勝者によって作られた公式のお話が歴史であるって意味だ。その伝でいけば日本食もHIS JAPANESE FOODでありMY JAPANESE CUISINEではない。

 

確かにオークランドの居酒屋で出されるたこ焼きとか枝豆とかは中国の工場で作られた冷凍物をチンするだけで出来上がるのでそれほど味の違いは出ない。キーウィでも日本で働いた経験があり居酒屋チェーンなどで日本人とワイワイやりながら日本食を経験した人なら作れるレベルだ。

 

そう言えば前回日本出張した時に品川の港南口に行くと夕方から駅前広場に屋台が出ておりびっくりしたものだ。夜市の屋台のようにテントを張って焼き台を広げてイカ焼きとか焼き鳥とか焼きそば、お好み焼きなどが匂いをそそり、飲み物店では生ビールなども用意されており新型のビアガーデンみたいなものだった。

 

このあたりは白人ビジネスマンも多く働いており駅前広場の向かいにあるパブではお客の半分くらいが白人で、白人同士や日本人ビジネスマンと一緒にワイワイやっていた。こういう駅前広場で本当の伝統的な和食を出しても意味がないわけで、これはこれでやっぱり居酒屋が受けるノリであり、居酒屋料理を食べて自国に帰って「日本食」を広めるわけである。

 

食べ物の歴史を考えてみれば世界を旅した人が旅先で見つけた新しい「食べもん」を自国に持ち帰って自国で広めるわけで、伊のスパゲッティは元々中国の麺にありマルコポーロが持ち帰ったなんて噂話もある。

 

日本だってスパゲティナポリタンなんてイタリア料理を出していたわけであり、スパゲティを炒めてケチャップを付けて食べるなんて本場イタリア人からしたら邪道であろう。ただしこれには諸説あり、下記のサイトが興味深い。東京や横浜の人ならレトロな喫茶店でスパゲティナポリタンを食べながら読んで見ると楽しいのではないだろうか。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/n412493/kit/napoli.html

 

いずれにしてもイタリア人からすれば日本でイタリア料理は「ピザとパスタ!」なんて思われてるって事を知った日には、日本食は照り焼きソースと鉄板焼きしかないと思われるのと同様な感覚であろう。ほんとに線引の難しい話である。

 

ただ、やっぱり料理ってのは食べるほうが好き嫌いで選択するわけであり、作ってる方が「こっちの方が絶対美味しい」とか「和食はこうでなくっちゃ」と言い出しても通じる話ではない。どんなに自分が好きでも正しいと思っていても、これは物理学的議論ではない。あくまでも趣向の問題なのである。

 

だから英国で生まれたwagamamaは絶対に日本食ではないがそれでも多くの英国人はあれが日本食だと思っている。味千は日本発のラーメン屋で中国や東南アジアで成長しているが、あれだって日本のラーメン屋ではない、あくまでも中国人が日本食と思っているだけだ。

 

日本のラーメンでないラーメン、それは麺がどろどろと煮こまれており熱くもないスープに放り込まれその上に餃子や唐揚げや豚カツが乗っているラーメンである。

 

問題はそれでも売れているという事だ。つまり彼らの日本食なのである。それはイタリア人が日本の喫茶店でイタリア料理と名前の付く料理を見て嘆くようなものであり、それでも日本ではそれがひとつの食べ物として認められているのだ。

 

勿論日本でも東京辺りのきちんとした店に行けばイタリア料理を出してくれるところはたくさんある。ただやはりイタリア人が好むイタリア料理と日本人が好むイタリア料理は違う。だから日本人の好むイタリア料理がどうしても一定量流行るようになるのだ。

 

それは上にも書いたが個人や民族の嗜好の問題であり、個人は更に「子供の頃に母親から食べさせてもらった味」=ソウルフードが大元にある。美味しい料理を外国から輸入してもそのオリジナルの味ではなく自分たちの舌が慣れたソウルフードの味に近づけることでビジネスとして成功するのである。

 

日本から持ち込んだインスタントラーメンがいつのまにかラーメンを作る製法を利用して袋麺のミ・ゴレンになった。出前一丁を香港で売ってたらいつの間にか本家日本にない「出前一丁ソテー麺」とか「出前一丁東京ノリ醤油ラーメン」とか出てる。

 

日本で食べるカレーはインド人もびっくり、こんなのカリじゃないって言うだろうが、カレー粉というインドに存在しない粉を使ってカレーを作って日本人のソウルフードである米の飯にかける、挙句の果てにはカレーの上に豚カツを乗せたり牛肉を入れたり、牛を神様の代理と考え豚を不浄の動物と考えるインド人からしたら「あり得ん」食い方をしているのだ。

 

例えばいつも飲んだ帰りに送ってもらう運転手のキースは70歳を過ぎており彼の食べるものは子供の頃から食べていた乾いた食パンに薄っぺらいハムとバターを塗ったサンドイッチが唯一のごちそうであり、いくら時代が中華料理や日本食や寿司をオークランドで提供している現在になってもサンドイッチが彼のソウルフードなのだ。

 

日本では政治家の個人的な趣味なのか、外国における日本食を日本政府として認定しようなんて話があったが結局立ち消えになった。それはそうであろう、民間企業がビジネスとして手がける飲食業界を何のリスクも取らない政治家が上から偉そうに「わしの認定を受けたら日本食と認めてやる」なんてのが世界に通用するわけがない。名前なんてどうでもよい、美味ければ良いのだ。

 

これが原産地呼称制度のようにフランスのシャンパーニュ地方で作ったワインしかシャンパンと呼んではいけないってのならまだ分かる。例えば日本国内で作った日本酒でないとJAPANESE SAKEと呼んではいけないとかならまだ分かる。

 

今ではオーストラリアでも日本酒が作られているが、あれは豪酒と呼ぶべきだ・・・、あ、そうか、あのお酒の名前はすでに豪酒だ(笑)。

 

料理に国境はなく故郷もない。常に旅をしてあちこちで色んな料理や材料と巡りあって新しい料理に昇華する。そうやって様々な価値観がぶつかり合ってどんどん料理としての幅が広がり、そこに文化が生まれる。

 

形に拘るな、常に変化をし続けろ、価値観を広げて先入観念を持たずに受け入れろ、そう考えると料理も人間も同様である。国が口を出すような料理、ではないか、話ではない、そんな事を考えながら伝統的な懐石料理を崩した「崩し懐石」を楽しんだ夜でした。



tom_eastwind at 18:07│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔