2013年12月10日

換骨奪胎政治

***記事開始***

9日夜、臨時国会の閉会にあわせ、安倍首相が会見を行った。冒頭の発言は以下の通り。

--

昨日、55日間にわたる臨時国会が閉会をいたしました。

「この国会は、成長戦略の実行力が問われる国会である」、国会の冒頭、私はそのように申し上げました。

 

民間投資を喚起するための産業競争力強化法、規制改革の突破口となる国家戦略特区法、電力自由化のための、改正電気事業法、再生医療充実のための法律、農業の構造を変える農地集積バンク法。成長戦略の柱であるこれらの法案の成立が、回復しつつある経済が力強く成長する礎となると確信しています。特定秘密保護法案がばかりが注目されましたが、「成長戦略実行国会」と呼ぶに相応しい国会となったと思います。

 

与党のみならず、野党の皆様にも広範な協力をいただくことができました。特に産業競争力強化法、国家戦略特区法、そして農地集積バンク法は、国会審議を通じて、与野党で協議をし、法案の修正を行い、合意した上で、成立しました。国家・国民のために、与野党の違いを超え、成長戦略を実現する強い意志を内外に示すことができた国会だと思います。

 

これは成長戦略の関連法案だけではありません。

***後略***

 

今年は安部首相の当たり年だったなー、それにしてもよく頑張ったと思う。前政権時と比べれば格段の成果である。こういうのって「天の時、地の利、人の和」がうまく噛み合ったのだろう。

 

人間は面白いもので実力は同じでも運が違えば結果が変わる。実力が低くてもやる気があって前進する人間は一気に成長して自分より実力のある人を追い抜く事が出来る。

 

しかしそれよりも大事なのが古代中国から言われている「天の時、地の利、人の和」である。これが揃わないままに何かやっても大体うまくいかない。話は逸れるがオークランド日本人社会を観てていつも感じる違和感がこれである。人は不和を繰り返すくらいなら付き合わない方がましだ。

 

話は戻るが第二次安倍政権は今年一年好調であった。この事は素直に評価したい。ただその進む方向についてはどう考えても僕の考え方に合わない。

 

安部首相のやっていることは善意であり信念があるが、問題は「地獄への道は善意で舗装されている」という事だ。

 

これは日本と西洋社会の根本的な違いだが、日本では歴史的に常に「国家が先」にあり「人民は国家のために働き」最後に国家も国民も幸せになるという発想である。富国強兵、国が豊かでなくて国民が豊かになれるわけがないではないか(そんな事も分からないから国民は愚民なのだ)という考え方が根本にある。

 

だから日本の場合歴史的に国家が大きな会社でありその取締役会(意志決定機関)のメンバーが官僚と政治家である。(この取締役会は玉石混交である)実行部隊として金融業、製造業、サービス業などが存在する。

 

それぞれの業界の代表(例えば日経連会長とか自動車製造業団体とか)は日本会社の部長クラスだ。取締役に言われた事を黙ってやるのみで、自分で何か新しい事を考えるなどおこがましいとなるのだ。

 

そしてその業界にサラリーパーソンとして就職するのが一般民である。常に上意下達、言われた事を機械部品の歯車のようにこなして自分の頭では何も考えずに毎日自宅と会社を往復する。日本型階級社会の最底辺に属するってことだ。

 

特に昭和後半では民間企業が擬似社会になっておりその中では家族も含めて例えば運動会に参加したり奥様会が出来たりして会社の階級がそのまま個人生活に持ち込まれる。その代わり終身雇用で年功序列で馴染めればそれなりに住みやすく頑張って働けば給料も上がった。

 

つまり国民に対して「お前らは黙って言うことを聞いて働け!そしたら飯と安全だけは保証してやる」なのだ。国家の舵取りをするのは社会のごく一握りの優秀な頭脳を持つ人々で十分だ、愚民に任せれば失敗するだけだ。

 

日本で一般的に男性が自己紹介する時は「xx会社のxxです」となるがキーウィ社会では「僕はxxだ」で終わり、仕事でない限り自分の会社名を紹介することもないし初対面で聞くこともない。

 

さて西洋の歴史を見るとまず「個人と家族」が先にあり、彼ら家族と個人が幸せになれば自然と国家も幸せになれるという考え方であるように感じる。

 

個人に報酬を与えやる気を出させてどんどん社会を改革していく。改革の指揮者は個人であり政府の仕事は国民間の調整が中心である。その結果として能力のある者や努力をする者がまず豊かになり、そこから税金を取って働けない人々を救う社会保障システムを構築する。(これ、実は小平の目指した中国に近いものがある、途中で変質したが)

 

また頑張って成功した人は個人的に社会に寄付したりボランティアで働いたりして社会に報いる習慣がある。だから西洋では個人の寄付は個人の自由であり納税の際の税負担の軽減も出来る。つまり個人に対して大きく権限を与えて「あなたの望む場所で社会貢献しなさい」と言ってるのだ。

 

ところが日本では個人の寄付など全く税負担の軽減の対象とならず、むしろ「余計な事をするな!どこにいくら配分するかは国家の決定事項である。愚民が考えるな、納税だけしておけ!」なのだ。

 

ついでに民間企業の存在の意義も西洋と日本は全く違う。西洋では株主が個人でリスクを取ってビジネスとして投資をして最大限の利益を求める。企業に社会貢献とか雇用確保とか給与支払いを要求しないのだ。そのような作業は国家及び社会保障システムの中で賄うという発想だ。

 

これに対して日本の民間企業は社会貢献や雇用確保や給与支払いが業務の中に入っており、それは政府機関の出先機関みたいな存在になっている。だから社内失業してても首を切れず給料を支払い続けるが、それは社会保障の代替システムなのだ。

 

勿論こういう事が出来るのは大企業に限られている。政府にとって中小企業などは最初から視野に入っておらず「その他大勢」にしか過ぎず、自己責任でやれ、所詮は中小企業にしか就職できないんだろって理屈だ。

 

日本の仕組みは確かに最終的には国民全体の水準を引き上げて一億総中流になれる。西洋型(主に米国)ではその仕組に「社会格差」が最初から内包されている為に誰もが豊かになれるわけではない。努力した者は成長し豊かになれるが努力しない人は豊かになれず社会保障の世話になるしかない。

 

ただしニュージーランドは米国とは少し違って社会主義に近く社会保障は厚く個人主義でありながら日本のようにあまり格差が少なく人々が平等である。つまり両国の良い点を導入している珍しい制度である。

 

ここまで長くなったが、今回安倍政権で実行された様々な政策そのものは表面的にどれも良く出来ている。しかし問題は上記に書いたような日本の社会構造だ。どのような法律を作っても結果的に国民を苦しめる方向にしか向かわない。

 

ある程度の資産がある60歳以上の人々は社会経験もあり仕事仲間もいるし何とか自立してやっていける。しかしこれからこの過渡期に一番苦しむのは日本の若者である。カネも教育も社会知識もなく労働経験もなく何もない無業者が社会に出て苦しむのである。安部首相がどれだけ理想を語っても現実は戦前の日本と同様なのだ。

 

ぼくは安部首相の地元で生コン会社が政治力で仕事を独占して儲けようが自分の手下が散々悪いことをしながら捕まらずに議員になろうが構わないと思ってる、それが日本の仕組みだからだ。

 

ただなー、これから無業者となるしかない若者を救えない国家は、いつか若者に反撃されるよ、それがソフトターゲットになった時、確実に霞ヶ関の役人はその対象になる。

 

日本独特の官僚支配の社会構造の仕組みの中では見かけ国民の為に良く出来た法案が官僚の裁量や現場での運用で法律の趣旨とは全く違った解釈をされて、結果的に日本社会の階級構造に巻き込まれて最終的には日本国民の利益ではなく国家及び官僚の利益にしかならなくなるという現実だ。

 

官僚は法律を解釈する。民間に解釈の権利は存在しない。法律で白と書いてても官僚が黒と言えば黒になる。時には法律さえいじらずに通達一枚で法律を無効にしてしまう。

 

例えば昨日のニュースで「産業競争力強化法」を施行するにあたり高額の年収を得る人はホワイトエグゼンプション、残業手当が付かないと決まりそうという話だった。基本的概念はぼくも賛成だ。当社も年収制であり与えられた仕事をどれだけの時間をかけてこなすかは本人が決めることだと思っている。

 

しかし日本の場合はこの「最初の一歩」がすぐに勝手に走り始めてすべての階層において残業代支給なしになる環境があるってことだ。何故なら財界は最近の労基署駆け込み残業代請求で相当に頭に来てる。こいつを潰してほしい、そうしたら産業競争力強化が可能になるではないかって理屈だ。官僚からしても自分の財布の話じゃないから「はい、どーぞどーぞ」ってな話である。

 

もちろん僕は残業という発想は無いから根本的な部分では賛成なのだが、それをすぐに悪用流用私用する社会構造が嫌いなのだってことだ。世の中には残業代込みで働いている人がいる。そのような人が残業代を受け取れないような賃金カットに繋がる仕組みを法的に導入しようって話なのだ。

 

そのような社会で安部首相がどう頑張ろうと時代の大きな流れは変わらない。世界の中での日本は時流に合わせて変化するし日本国内では最下級にいる若者にすべてのしわ寄せが集まり毎日が生きにくくなり、

「はたらけどはたらけどなお我がくらし楽にならざりじっと手を見る」

となる。そして能力がありながら仕事を得ることが出来なかった無業者の若者はその怒りをどこかの向けて吐き出す。

 

日本人が小銭のために働くようになる。それが現実となりつつある。これから社会に出る20代の若者はおそらくとてつもない現実にぶつかり、それが現実だと理解して馴染もうとするだろう。1980年代の日本なんてHADHADの大過去だし言っても仕方ない、今を生きるしか無いよね。

 

そうやって中国の農村のちょっと頭の良いレベルの人間と年収150万円の仕事を競争して得るようになる。もちろん世界が平準化する中で外国の若者と競争するのは当然である。

 

けれどそのうち「あれ?何かおかしいよね、だって外国の若者は貧しいなりに夢もあるし楽しんでるのに、何で僕だけ夢がないの?」と考え始め、日本の社会構造が階級社会でありそれを受け入れているのに何故か外国の若者と競争する時は平等に競争させられる矛盾に気づく。階級社会を受け入れた代わりに安定雇用があるはずなのに。(このくだり、ちょっと説明しづらい)

 

人が本気で怒れば社会はひっくり返る。今までの長い日本の歴史でそれは何度も起こった。今回だけ起こらない理由ってあるのだろうか?



tom_eastwind at 12:01│Comments(0)TrackBack(0)諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔