2013年12月16日

譲りあいと秩序

夕方駅からホテルに向かう地下道を歩く。地下道と言っても大きな防空壕並みに幅があり多くの人が自転車や徒歩で利用しているのだが、どうもこの地下道、違和感がある。駅前の再開発で超高層ビルとデパートとレストラン街は非常に清潔に作られているのだが、その再開発地を結ぶ一番近い地下通路が下水で臭いのである。

 

途中は何もなくひたすらコンクリートの固まりの下を臭気の中歩くのだが、更にびっくりするのは誰もが周囲に目もくれず、後ろから相手の靴を踏んづけてもすみませんのヒトコトもなく黙って通り過ぎて行くその不気味さだ。

 

今の日本はこんなものなんかなーと思いつつ、ニュージーランドではあり得ないなーと思いつつ、つまりオークランドでさえも他人の靴を踏みつけるほど距離感は近くないし「個人空間」が尊重されている街から来たから違和感を覚えるのであろう。

 

再開発された地域のハードのレベルは高いが何故か禁煙のトイレにメビウスってタバコの空箱と吸い殻が転がってて、2時間後にまた行くと今度はワンダって缶コーヒーが放り出されている。

 

そこから10分ほど歩くと老舗の商店街がありそこでは昭和のまんまの店がそのまま営業してて、食堂街はどこも喫煙当然!である。

 

この、人の個人空間の狭さって印度や中国に行くと感じた事だ。彼らは行列を作っても30cmの隙間があれば割り込む。てゆーか、30cmの隙間があればそれは行列をしてないと見なすのだ。

 

もちろん他人の靴の後ろを踏むのも普通だ。以前中国の都会を歩いてても靴がすぐに痰を踏んづけるが誰も気にしない。初めてインドに行った時は道端で用便をする人々の多さに、いかに踏んづけずに行くかが一苦労だった。

 

1990年代、日系企業が大連に進出した時などは立派な駅やホテルの間の道端に田舎から出てきた労働者が手に手にくわの柄の折れたのやのこぎりの歯がかけたのを抱えて手配師が来るのを待っていたものだ。このあたりの独特の感覚は昨日歩いた街に近い。

 

一緒に歩いてた奥さんも古い駅前を歩きながら段々呆れ始めて「ねえお父さん、何でこの街こんなに雑然としているの?」から始まり「何で新幹線駅が何もない野原に立ってて中心街から離れてるの?」「何でこんな狭い場所に空港が3つもあるの?」まで、実に様々な質問。

 

僕なりに理解しているのは、政治が自分の権益拡大や利権確保に動くと人には住みにくくなるって事、つまり都市計画がないまま皆が目先の自分の利益だけに走った結果として昭和の時代に街全体で貯蓄した資産をどんどん食いつぶしているのが現状ではないかって事。

 

政治と行政と民間がきちっと住み分けしてまずは街全体を考える、そういう仕組みがある街ってのは歩いてても整備されているのがよく分かる。公園、ビルの高さ、道の広さ、人々の礼儀、いろんなものがきちんとお互いに利益相反したり矛盾しないように作られている。

 

だから都市計画がしっかりした街では人々の心に余裕がある。交通ラッシュも少なく人に追いぬかれてもバスに乗り遅れるわけではなくすべてに余裕を持って作られてる。だから人々の笑顔が明るいし人に道を譲れる。不安がないから治安の悪化にも繋がらない。

 

そのような都市計画がないままに地元の利権のみが優先した街では人々は生き残るため最後のバスに乗るために常に走り回り他人を押しのけ生きていくしか無い。本来公共計画として整備されるべき地下通路は誰の利権もないから誰も手を出さす放置されたまま、利権がらみの再開発だけに群がる仕組み。

 

これってバブルの時に経験したでしょー、またやってんのかって感じだが、すでに駅前のデパート群は過剰設備で全体の売上は伸びてても店舗ごとに見れば目標売上を落としている。これも単なる食い合い、需要の読み違い、てか関空や神戸空港のようにわざと最初から予測を「読み違えて」事業者から金だけ取り後は知らんってことかもしれない。進出して来た企業は大変だろうな。

 

駅前を歩きながら「ほら、ここがBlackRainの舞台になった街だよ、マイケル・ダグラスとアンディ・ガルシアの映画」って話すと彼女も思い出して「あー、あれか」と頷くが、あの頃1980年代はこの街はまるで近未来のように輝いておりマイケル・ダグラスのやって来た米国の町のほうが余程遅れていた。

 

そういえば当時はブレード・ランナーなんかもあったなー、なんて思いながら駅前のお店をぶらぶら歩いてるとダスティン・ホフマンのRainManの宣伝ポスターなんか貼ってあって、奥さんもびっくり。

 

地下道を抜けて横断歩道の歩行者信号が青になった瞬間、何十人もの信号待ちの歩行者の前をものすごい勢いでちっちゃな子供を載せた二人乗り自転車が突っ切っていった。おいおい、誰かほんのちょっとでも前に出てたら確実に事故だぜ、てか子供、怪我するぜとホンキで思った。

 

この場面はまさに中国や印度やベトナムなどの後進国の交通事情そのままである。とにかく他人を見てない。自分だけがにげきれば良い、全体の交通事情なんてあたしの知ったことじゃない、そう考えているのだろう、けど普通子供を産んだ若い母親がこんな乱暴な運転、するか??

 

まったく疑問であるが、国民の社会性はまさに国家の社会制度に正比例する。制度が悪ければ自給自足するしかない。衣食立って礼節を知るのが民であり衣食も仕事も給料も不足してまともに稼ぐ道もなければ人は礼節を忘れるのだろう。

 

だから礼節を忘れるのは生きていくために必要であるが本来人間はきれいなものが好きであり他人に喜んでもらうのが好きだ。自分が満足した時は腹いっぱいになるが、他人を満足させた時は胸がいっぱいになる。

 

だから政治家が行うべきは民が幸せになる為の制度設計であり自分の財産を増やすことではないのだ。それが出来てない国は確実に民度が落ちて国民の幸福度が低下して次第に治安も悪くなる。

 

昭和の利権構造の上に無理やり平成の制度を貼り付けてどう動けば良いのか分からない店員さんや商店主や南部の警察襲撃地帯の人々を見ながら、こりゃもしかして政府の偉大なる実験なのかって思ったりした。

 

政治の語源は中国にあり、政は正しい、治は水を治める、つまり治水が仕事であった。それほどに古代の中国では川が氾濫しており治水をするのが正しい政治家であった。

 

川の街と呼ばれるこの街では長い間ほんとうの意味での政治が行われていないのかもしれない。



tom_eastwind at 01:10│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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