2014年01月02日

雪国

国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。川端康成の雪国の舞台である。関東平野の群馬から新潟に抜けた瞬間に一気に降雪量が変化して、国境のこっち側はしっかり大雪であった。

 

川端康成は上越線のことは良く知ってて1931年に完成した清水トンネルをテーマに「雪国」の冒頭部分が書かれたので、いまぼくが見ている「国境の長いトンネルを出たら、そこは雪国」という景色と良く似たような景色を何十年も前に川端康成も見てたんだなって思う。

 

関東平野と新潟県は新幹線で1時間30分程度であるが清水トンネルが出来て関東と新潟の距離が大幅に縮まり次に新清水トンネル、そして大清水トンネルが出来て上越新幹線が走るようになった。

 

この間新潟の人が都心に集中するストロー現象と都会の人が便利になった新潟方面を旅行するようになったのと、どっちが多かったのかな?

 

少なくともバブル崩壊までは苗場スキー場は都会の若者で賑わいお昼ごはんを食べるだけでもフードコートで椅子に座って食べてる人の後ろで立ちんぼして順番待ちをするほどだった。

 

ホテルの部屋はスキーシーズンは満室で全然取れずクリスマスやお正月を苗場で過ごす都会人が多く近くに高層マンションが建設され誰もがマンションの価格はずっと上がり続ける、そう思って買った。

 

新幹線が開通したのが1982年、まだ世の中が景気良く人々が謳歌していた時代だった。ガーラ湯沢なんて新幹線駅とスキー場が直結してるなんてのもあった。

 

そして1987年「私をスキーに連れてって」がホイチョイプロによって大成功、ユーミンの「恋人がサンタクロース」が大ブームとなりスキーが一大トレンディスポーツとなる。

 

その3年後にバブルが崩壊する。誰も予想しなかったバブル崩壊は全国各地のスキー場をじわじわと痛めつけ始めた。しかし当時のスキー場オーナーやホテルや旅館経営者は誰もそんな事を信じず強気で設備投資に金をかけてしまった。そして同時に「二本板で滑るのがスキーだ、ボーダーなど薄汚い連中は立入禁止!」と大失敗してしまった。

 

1997年、遂に大手銀行が倒産するようになると、人々はスキーなどで遊ぶ余裕はなくなった。若者はすでに結婚して家族を持ち世は成果主義になりいつ自分の首が切られるか分からない時にスキーなどしておれない。スキー場もここに来て時代の変化の波をもろにかぶるようになった。客がいなくなったのだ。

 

こうなっては背に腹は替えられない、ボーダーも滑れるようにしたり一部の旅館は今まで相手にしてなかった外国人スキー客も取るようになった。

 

しかしどれも手遅れ、小さなスキー場はどんどん廃業していきスキー場近くのマンションは価格が激落して、保有していると冬場の電気代の維持費などでお金が出て行くだけ、かと言って売ろうにも誰も買ってくれない状況になった。

 

そしてスキー場の「冬の時代」が始まった、全く、洒落にならんな、スキー場の冬って。変化を予測して実行した者だけが生き残る。規模は関係ないのだ。

 

12日の新潟から東京に上る新幹線指定席はすべて満席、てーことは観光客というより里帰りの人々なんだろうな、新潟から東京が近くなり高校を卒業してそのまま東京に出てきて働いたり大学に進学してそのまま都会に残って家族を作ったのだろうか?

 

今回投宿するホテルも、今の時期だけレストランやホテル棟をオープンしているが、ちょっとでも季節が外れるとすぐに閉館する。良い設備なんだけどな、仕方ないなー。それでもこのホテルはまだ幸運だ、何とか生き残ることで他の小さいところが倒産して残存者利益を得ることが出来たからだ。しかしそれもいつまで続くか?日本にスキーブームは戻ってくるのか?

 

今では傍若無人なスノーボーダーがコースのど真ん中にケツをどーんと据えてみたり廊下にうんこ座りしてみたり、結局最初から受け入れた上でその代わり道徳を教えるって選択肢を捨ててしまい、今は彼らのカネが欲しいから文句をいうことも出来ない。あーあ、である。

 

変化を読み取り変化出来る内に積極的に変化してボーダーの性格を読み取り積極的に取り入れて相手を変化させる、それくらいのことをやっていればまだ違った未来があっただろうな。または早い時期から外国人を取り込んでいく施策。けど当時の日本は膨大なるスキー国内消費で湧いていた。そんなときにちっちゃな市場であったボーダーや外国人などを育てることなど思いもよらなかったのだろう。



tom_eastwind at 16:10│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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