2014年01月29日

どんな苦境でも笑って戦う



あなたはどんな苦境でも笑っていられるか?

 

昨晩は「タワーリング・インフェルノ」、でもって「大脱走」を続けて観る。目的はスティーブ・マックイーンの“あの”不敵な笑いを観るためだ。

 

***ウィキ***

インディアナ州インディアナポリス近郊のビーチグローブ出身。父親は曲芸飛行士、母は家出娘であった。生後6ヶ月の頃に両親が離婚。母親の再婚とともに各地を転々とするなど環境に恵まれず、14歳の頃カリフォルニア州立少年院に入れられる。1年半後に出所し、17歳で海兵隊へ入隊。後に映画『大脱走』や『パピヨン』で脱走を企てる役を演じているが、実際に海兵隊の兵役中も数多く脱走しており、全て失敗に終わっていた。除隊後はバーテンダーやタクシードライバー、用心棒などで生計を立てる。

***ウィキ***

 

今話題になっている「明日ママがいない」に限らず子供時代に貧しい生活を過ごした人は世の中にごまんといる。まずしさにはいろんな程度があるだろう。しかし現代の日本で環境に恵まれない子供でもどこかに引き取られれば食べるものはある。

 

ところがアフリカに行くと今も毎日多くの子供が餓死したり軍隊によって襲撃され母親共々手足を切り落とされて虐殺されている。

 

ぼくが中国の深センに仕事で通ってた1990年代などは、中国の田舎で誘拐された幼児が医師によって手や足などを切断されて手当を受けた後に深センで乞食に出されてたものだ。駅舎を出た目の前に手や足を失った子どもたちが何百メートルも並び、ぼくらが歩道橋を渡って入る高級ホテル(シャングリラ)の近くまで、足のない子はイザリの車で追っかけてくる。

 

同じ列車に乗り合わせた米国人ビジネスマンはその耐え難さに目を伏せて走ってホテルに向かっていった。後日談であるがこの子たちは病気に罹ると治療なしで深セン川に捨てられ身体が大きくなる前に次の人買いに売られていったものだ。

 

香港が文明社会とは言え激しい競争社会であることは当然だ。その競争は社会の最底辺にいる中国大陸からの密入国者に過酷な生活を押し付ける。

 

ある香港映画の話である。お腹を空かせた5歳位の男の子を連れた密入国者の父親が香港の裏町で何とか食料を調達しようとするが、10円のカネさえない。

 

彼らのうずくまる道端の横を大型のベンツが飛び去って行き若い女を連れたオヤジ連中が我が物顔で道を歩いている。父親はお腹を空かせた子供の顔を見つめて「ここで待ってな」と無理矢理に笑顔を作り近くのコンビニに入る。1分後、店から飛び出してくる父親の手には一切れのパンが握られていた。追いかけてくる店員から逃げるため道路に飛び出した父親を大型高級車が跳ね飛ばす。

 

すべての場面が子供の頭の中に記憶されていく。その時たまたま近くを通りかかっった通行人が「ぼうず、苦しいだろ、けど世の中って所詮不公平なんだ。不公平だからそこ自分の力で公平を勝ち取らなきゃいけないんだ、頑張れ」と声をかけた・・・。

 

「明日ママがいない」では、少なくとも子どもたちの命は保証されている。子どもたちは本人の責任でもないのに苦労をして心に傷を負っているけど、頑張れる余地があるじゃないか。学校で差別されれば相手のグループを分断しろ。個別排除しろ。戦え!自己主張しろ!少なくとも今の日本でそのような理由で殺されることは滅多にないのだから。てか、殺されるリスクを背負っても戦って強くなるだけの価値はある。

 

そっか、可哀想か・・・。生まれた時から平等じゃないから可哀想か?親の愛がないから可哀想か?そういうのって生まれた時から全人類に一様に平等に与えられるべきであり、受けられないのは社会が悪いってか?

 

じゃその社会を良くする為の選挙の投票率が50%を切るってどういう事だ?批判する人々は選挙に行ったのか?次の選挙の争点を可哀想な子供の児童福祉と提案したのか?誰かやったのか?

 

第一人間や人権に国境はないと言いながら、で?それじゃアフリカの虐殺された子供は可哀想じゃないのか?親元から誘拐されて手足をぶった切られて乞食をさせられて挙句に病気になると川に放り込まれた中国の子供は可哀想じゃないのか?香港の貧しい孤児は可哀想じゃないのか?

 

こんな可哀想な「ドラマ」をテレビで放映すると「子どもたちの傷ついた心が更に傷つく」か?

 

「ドラマであるから現実とは〜」とか「時間帯が〜」とか「今生きてる孤児院出身の子供が〜」とか言ってるが、現実を知っているのか?目の前で悲しい物語さえなくなれば後はどうでもよいのか?

 

アフリカは遠く離れた大陸だし中国や香港だって関係ないもん、目先の日本の自分の街にもあるかもしれない施設の、飯も食えて着るものもある子供だけが可哀想なのか?選挙に行きもせず日頃何かの活動もせずに自分がだらーって部屋に腰掛けてる時に目の前に映った画面だけがあなたの全世界なのか?

 

このドラマで傷つく子供もいるだろう、しかし全然気にしない子供もいるだろう。すでに施設を出て働いている若者もいるだろう。彼らにもいろんな意見があると思う。しかし、世の中とは生まれた時から自動的に平等、ではないのだ。平等も公平も自由も、今手元になければ戦って勝ち取るものなのだ。それなのに戦うことをせずに臭い物に蓋をかけるのが問題解決か?

 

放映中止を求める意見がテレビの意見表明を強制的に停止させる権力はないしそんなことをやれば民衆が自分を救う憲法を自分で放棄するようなものだ。じゃあ反対意見を言ってる人々を強制的にネットから排除して強要罪で逮捕してもよいのか?

 

日本では昔からこの問題は続いている。原水禁と原水協、部落解放同盟問題、常に臭いものに蓋をして自分の目の前からだけ外に押しやれればよいって感覚で、その感覚にオブラートをかけて善意という砂糖をまぶして自分を正義の味方にして無記名でわいわい騒いでいるだけなのだ。

 

ぼくは「赤ちゃんポスト」が設置された頃の議論を今も覚えている。病院側は「今失われそうな命を救うにはこれしかない」と言い、良い格好しーな無記名の連中は「そんなの、おっかしーと、おっもいまーす!」と相変わらず紋切り型の、自分の手に泥がかからないところで偉そうな事ばかりいう連中だった。

 

結果的に赤ちゃんポストは子供を救うことが出来た。ならば本来は子供を守るために日本中で同じような取り組みをすればよいのに、当時反対していた連中は何の行動も起こさず知らん振りである。

 

それが今度は赤ちゃんポストをテーマにした「ドラマ」で問題提起をすると病院側が「子供が傷つく」と言いそれに乗っかった無記名連中が「そーだ!そーだ!」といかにも人権派の面をして偉そうなことを言う。

 

病院側の対応がなぜこのようになったのか不明であるがその尻馬に乗って騒いでる連中は確実に「なんてあたしは素敵で優しくておもいやりがあるんだろう!!」ってナルシストでしかない。バカと言った方が早いか。

 

冒頭に紹介したスティーブ・マックイーンだが、彼はその後あの不敵な笑顔で映画界にデビューして世界でトップクラスの俳優となる。あの不敵な笑顔の裏には子供時代の苦労があった。だからこそどんな苦しい状況になっても自分の置かれた場所で戦う、必要なら逃げる、けど最後は絶対に勝ってやるぜ、そういう根性を感じる。

 

だからこの記事を書く時に確認の意味でまずスティーブ・マックイーンの笑顔を見たかったのだ。

 

ぼくはいい加減日本人に理解して欲しい、人は戦って強くなるってことを。どんな境遇に置かれても強く生きていくことを学ぶのが人生だってことを。テレビに出てくる子どもたちを可哀想だと言うけど自分がやってることはテレビのチャンネルを変えることだけな、社会に無責任な人々。

 

これが社会の現実だ!どんな環境に生まれてもその環境を理由に逃げることをせずに戦うのが人生だ。

 

しかしこのように戦う連中は強いよ。

 

偶然恵まれた環境に生まれて何の努力もせずに偶然成長して普通の会社に入れて普通に結婚したような人間には到底ないような戦闘力を持っている、それが貧しい環境で生まれた人々だ。そんな彼らを怖がって存在しなかったようにチャンネルを変えても現実の世の中は変わらないよ。だってそれが現実だもん。

 

脚本はどこまで出来上がっているのか分からないが、「どんな苦境でも子供なりに一生懸命戦い自分を見捨てた人にさえ優しくなれる、そんな若者に成長していく姿」を見てみたいものだと思う。

 



tom_eastwind at 18:11│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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