2014年06月08日

大阪のコンビニの風景

ある朝、10時頃かな、お店の外のたいして広くない歩道でガードレールに腰掛けたりしてる3人の白人ガイジンが片手にパンやサンドイッチをコーヒーやビールで流し込みつつリラックスした雰囲気で談笑している。

 

これは、ぼくが前回の出張時に大阪駅前の定宿の道路を挟んだ反対側にあるコンビニでファミチキを買った時の風景である。書こう書こうと思ってたが結局出張後になった。

 

今回の大阪でも偉そうなホテルに泊まってるのにぼくの食い物と言えばコンビニで買ったファミチキを同じくコンビニで買った2Lの水で部屋でごそごと胃袋に押し込み食うだけなんだからみっともない話であるが(苦笑)、大阪と言えばいつも思い出す映画が「ブラックレイン」である。

 

最近では「ウォール・ストリート」が代表作のようになってるマイケル・ダグラス主演で若き日のアンディ・ガルシアが脇役、そして日本から高倉健と松田優作も主演する素晴らしい映画である。ちなみに主演が3人なのは、この3人の実力がまさに均等であり誰か一人だけを主演と呼べない状態になったからである。これは映画を見てもらえばすぐ分かる。

 

ニューヨークのレストランで起こった日本人同士の殺人事件の現場に偶然居合わせたNZPD刑事が格闘の末に犯人をその場で逮捕して日本の大阪に移送するところから物語は始まる。

 

1980年代後半のバブルどまんなかの大阪を舞台に米国から来た「ガイジン」が全く文化の違う街で犯人やそのバックにいる日本人と闘いつつ、お互いに次々と犠牲者を出しつつ自身の過去も次第に表に出てきてそれが捜査に影を落としたりしつつ、そこには常に「日本人とガイジン」の壁がありながらも時間をかけてお互いに信頼関係を取り戻し「日本人とガイジン」の壁が次第に低くなっていき、お互いが正直な腹の中で思ってる事が表出しつつそれが融和になっていく、そういう、僕にとって「観ていて気持ち良くなる映画」の一つである。

 

こういう、命のやり取りをした仲間になれば肌の色や宗教や考え方を乗り越えて生涯の親友になれる。考えてみれば第二次世界大戦でも日本人二世で作られた442部隊は当初は白人ばかりの部隊の中で随分と差別もされたがイタリア上陸、難攻不落の要塞攻撃、ドイツ兵に包囲されたテキサス部隊の救出などを通じて次第に白人米兵と生涯の友になっていく。

 

戦後は442部隊の戦争で片腕を失った英雄であるダニエル・イノウエがハワイ州出身の上院議員となり大統領承継第三位の地位にまで上り詰めたのは有名な話であるが、米国社会は移民の子供であっても国家の為に戦った戦士を仲間として本音で受け入れた。ダニエル・イノウエも米国人として米国に尽くし、同時に日本との架け橋としても最大の努力をした。

 

結局こういうのって、お互いに本気で命のやり取りとか死ぬほど苦しい場面とか観たくもない嫌な場面とかほんとうに困った場面を経験して初めて通い合う気持ちだと思う。そういう個々の体験が次第に社会全体に浸透して違う民族が融和できるのだと思う。

 

パンダや桜の木を送っただけでトモダチなんて馬鹿な空想はやめたほうが良い。もちろん政府はそんな空想はしない、問題は一般国民である。今から行こうとする国でお国のために腕一本失くす度胸はあるか?

 

もちろん一般国民は幸せを探しに新しい国に渡るわけだ、腕一本を失くしに行くわけじゃない。けどその国に住んである日もし近くの家が出火した時、目の前で子供が大型犬に襲われた時、何かあった時にそこから逃げずに戦えるか?このあたりの腹のくくり方で相手はこちらを判断する。

 

こっちはいつまでもお客さんじゃないのだ。ダニエル・イノウエだって先祖は九州の福岡であるが親が移住した先のハワイに生まれたわけで、腕を落としにハワイに渡ったわけではない。しかし彼は必要な時に必要な人間として腹をくくって、母国アメリカの為に戦った。

 

ウィキ:

イノウエが受章した名誉勲章への感状には下記のように記されている。

ダニエル・K・イノウエ少尉は1945421日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。

 

イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。

 

激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。攻撃の結果敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。

 

イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。

**ウィキ終了***

 

お店の外の、たいして広くない歩道でガードレールに腰掛けたりしてる3人の白人ガイジンが片手にパンやサンドイッチをコーヒーやビールを飲みつつ談笑している。

 

「一体この日本って何だ?こんなちっちゃな店にどんなものでも揃ってて、まるで魔法のような店だな、おれの生まれたファイブ・リバーの村(クイーンズタウンからミルフォードサウンドに向かう途中にある人口数百人の村)は自然が豊かでキレイだったけど、じゃこんな魔法のような店があるかって、あるわけないじゃんかー」なんて事を思いつつ外国から来たガイジン同士が仲良く幸運を分けあって楽しんでいるのだろう。

 

楽しんでもらいたい、この日本を。そして未来のいつか、日本と彼らの母国の間で誤解が起こった時に「おいおい、そんな事ないぞ、あいつらそんな奴じゃないぜ!」と声を大にして伝えて欲しい。

 

彼らのご先祖様とコンビニで働いている若者のご先祖様はその昔に銃を持って戦ったのかもしれない。けれどお互いに命を賭けて戦いお互いに精一杯戦う中で相手の事を理解して、戦後70年経った今では日本は西洋諸国の中できちんとした地位を得ることが出来た。

 

それは多くの西洋人が日本を旅して西洋が大事にする自由、平等、助け合い、こういった考え方を共有出来るって事がわかり日本がそれを実践している事が実際に肌で感じられたからだ。

 

うちの父親はニューギニアで米兵やオーストラリア兵と戦い、逃避行の最中にマラリアに罹患して戦後も夏になるとマラリアの後遺症が発症していたものだ。

 

日本と西洋世界が大戦争して日本が300万人の死者を出して完璧に国土を焼き払われてからもうすぐ70周年だ。当時の日本軍の戦闘を経験している人々は今なら90歳以上であろう。

 

大阪のコンビニでお店の外の、たいして広くない歩道でガードレールに腰掛けたりしてる3人の白人ガイジンが片手にパンやサンドイッチをコーヒーやビールを飲みつつリラックスした顔で談笑している。

 

「ブラック・レイン」が作られた1980年代、白人はまだガイジンだった。今、白人のガイジンはあまり怖がらずに日本を旅行出来る。日本に住むガイジンも増えており日本の中でガイジンコミュニティ社会も構築されている。流暢な日本語を操るガイジンも増えている。

 

前回の出張で大阪のコンビニで朝ごはん食べてたガイジン(朝からビールを飲むのはどうか?おれと同じレベルじゃん;笑)をうれしい気持ちで見ながら、10年後のオークランドに住む日本人の子どもたちが学校の帰りに安心してコンビニでパンや牛乳買って道端で英語で雑談できてればいいなー、日本人社会がこれだったらいいなーって思った瞬間でした(笑)。



tom_eastwind at 15:44│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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