2014年07月06日
誰が為に移住する?
ここ数日の冷え込みはきつく、とは言っても10度前後なので南島や日本北部の雪が降るような街に比べればずっと暖かいのだけど日頃暖かい天気に慣れていると突然の寒さにicebreakerで買った冬山登山用のwarmerを上下に着込む、ドテラか(笑)。
日曜日の午前中はfarroで食料品の買い出し。オークランドもどんどん街の景色が変わっていく。街が北へ北へと広がり沿線には高給住宅街が広がっていく。
変わらないのはオークランド南部空港辺りの草ぼうぼうで薄汚れて泥棒が泥棒の家に押し入り道を歩く物体は朝から酒か麻薬でふらふらしてショッピングセンターの駐車場では車に乗って最初にすることがドアロックという案内が出てる地域だ。
ほんとに移民政策ってのは難しい。ニュージーランドが豊かだった1950年代に労働力として南洋から集まってきたアイランダーは移民としてオークランド南部にやって来て全く働かずいきなり政府の補助で住宅に入りそのまま居着いて政府の失業手当をもらい親子二代生涯失業手当だけで飯を食う!なんて大胆な事をやってのける。
もう脳みその構造がぼくら日本人移民とは全く違うとしか言いようがないが、そういう移民が住み着いてるのが南部で、よく働き納税して家族のために日曜日に海の見える自宅で友達呼んでバーベキューするのが北部に住む人々だ。
けどそのような働き者が住む街の人々でも先祖を辿ればどこかの時点で移民であった。
ニュージーランドの歴史は移民の歴史だ。最初は1200年頃にマオリが移住して来てそれから1700年代後半から1800年代初頭に英国系白人が移住して来て、次にやって来たのが1870年代の東欧からの移民だ。
苗字の後ろに何とかスキーとか何とかハウスとか何とかストラムとかが付く人々は勿論英語が出来ないが、英国系白人が最も苦手とした真っ黒な森林を切り開いて木材は英国に送って家具にして開けた土地に鉄道を通しニュージーランドのインフラ整備に大きな役目を果たした。
では何故1800年代後半に東欧から多くの移民がこんな南太平洋の小島に来たのか?それは当時の東欧の歴史を見ればひと目で分かるが、当時の東欧では多くの小国が戦争を繰り返し田畑は焼かれ子供は戦争に徴兵され家は壊され、いかに自分の住んでる土地に愛着があっても生活出来る状態ではなかった。
そんな時にニュージーランドという聴いたこともない島から移民募集の知らせがあった。「今来れば誰でも1エーカーの土地を無償で差し上げますよ、あなたの労働力に期待してます!」そんなフライヤーが撒かれて、生活に苦しむ人々は指定された北海沿いの港まで荷車を引っ張っていき港で荷車を売り、希望の船に乗って100日かけてニュージーランドにやって来た。
船がオークランド港に到着すると中から着たきりの移民家族が降りてきて現在のフェリービルディングで入国手続を行いNZ政府支給の金をもらい家族でクイーンストリートを上がり当時バルカンレーンにあった3階建ての古いホテルに泊りホテル代と銃や新しい荷車を買う金を(当時はまだNZ通貨がなく英国通貨を使用していた)支払い、ボンベイヒルを越えてワイカト平野に下って行った。
ところが数日かけて辿り着いた土地は、荒れ果てた原生林であり地面は湿地帯で人の住める場所ではなかった。騙された!そう思った移民も多かったのは当時の手紙を見るとよく分かる。
しかし彼らは働きに働き巨木を切り倒し湿地帯を灌漑し緑の農場に作り変えて作物を植えて何とか生活出来るようになった。
それでも英国系植民からの侮蔑的扱いは常にあり英語が出来ないだけで給料は低く作物は買い叩かれ移民初代の苦労はまさに明治から昭和にかけてハワイや南米に移住した日本人と同様であった。
それでも1900年のボーア戦争の頃には東欧白人も英国系白人も子供の世代になってたからお互いに学校で机を並べて英語で話し英語で書き一緒に銃を持って南アフリカに戦争に行き親友になった。ちなみにこの時期、清朝の中国系移民の子どもたちもボーア戦争に参加している。
ボーア戦争あたりを境にしてキーウィという国民意識が芽生え始めたのも事実だ。それまでの民族ごとの差別ではなく同じ戦う仲間としてニュージーランドという国を成長させようって事になり、これがその後のマッセイ首相による農業近代化に繋がる。
ちなみに一番最初に移住して来たマオリは血筋としては1950年代にやって来たアイランダーと同類であり食べ物があるかぎり働かず納税の意味が理解出来ず常に隣村と戦争しては相手の死体の内蔵や脳みそを食い栄養を蓄えて生活をしていた。その末裔が多く住むのがオークランド南部と西部である。
マオリは今でも「ここは誇り高い俺たちマオリの国だ、お前らは出てけ!」と言うが本音は金が欲しいだけだ。白人に出て行かれてほんとうに困るのはマオリである。その点日本でも似たようなジモティが多いが(苦笑)。
俺たちの国と主張しつつ自分の土地を白人に切り売りしたのは誰かなー(笑)?昨日のニュースではマオリキング(王様)の息子が商店で強盗したり酒を飲んでの喧嘩や麻薬やら山ほどの罪状で起訴されてるのをやってたが、彼らは未だ持って所有とか私有物とか契約という概念が理解できていない。
マオリはもともと原始共産制度であったので1800年代ならまだ分かるが今は既に21世紀であり彼らも学校で学び自分のどれが私有物か分かっている。だから自分のモノを取られそうになると私有権を訴えて怒るけど他人の物を盗む時は相手の私有権など全然気にしない。
「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」と原始共産主義の共用と資本主義の私有の使い分けを学んだマオリのおかげでマウント・イーデン刑務所はいつもマオリやアイランダーで満室である(苦笑)。
まあいいや、マオリの問題よりも僕ら日本人の問題である。
僕ら日本人は真面目に良く働く。子どもの教育にも熱心である。アジア人は一般的に教育熱心であるし、特に中韓家庭では日本人よりも教育熱心で、他人であるこっちが見てても子供が可哀想になるくらい徹底的に勉強詰めである。
1990年代からアジア人が少しづつニュージーランドに移住するようになってきた。日本人も同様で当時独身で移住して来た人々の子供が大学を卒業してニュージーランドビジネス社会にデビューするようになっている。
僕が1980年代後半から直接知っている日本人夫婦など、子供三人がすでにオークランドデビューしてすっかり日系キーウィとして生活している。
あの頃は大変だったなー、なんて思い出しもするけど、ほんと、移民の第一世代の大変さってのは、経験した事のない人に説明のしようがないけど、本当に苦しい。
言葉は出来ないカネはない、永住権はなかなか取れない、文化習慣は違う、ジョークを聴いてもどこで笑っていいか分からない、とにかく分からない事だらけの中で子供が生まれて学校に通いだし、その間もおやじは朝から晩まで働き通しだ、そうしないと食っていけないのだから。
朝から夜まで仕事ったって、それで食えりゃいいけど食えなきゃどうする、もう一つ掛け持ちのバイトを増やすしかない。それも職場に行けば英語が出来ない苦労を苦く噛み締めながら顔はいつも笑顔でいないとこんなちっちゃな社会ではすぐに仕事を失う。
子どもと朝ごはんなんて食ってるヒマはない、朝の4時に起きて空港に行き夜の9時過ぎに仕事を終わらせて家に帰り夜中1時過ぎにやっと次の企画書書き終えてベッドに入り3時間もすればまた起きて空港行きだ。
誰もが移民初代では苦労をしている。最初に移住してきたマオリだって疫病や隣の部落との戦いがあった。英国移民だって森林開発で苦労した。東欧移民は差別に悩まされつつ彼らの生活基盤を築いた。1990年代にやって来たアジア人移民も差別や低賃金に悩まされつつ21世紀を迎えて子どもたちがやっとアジアンキーウィとして社会に巣立つようになった。
たぶんこうやって少しづつ世界中の人々が一つになっていくのかな、けどとにかく言えること、移住初代の人々はとにかく生活が大変で苦労するよ、長い苦労の先にあるのが何なのか、人によって答は違うと思うけど、自分の移住の目的を、本当に明確に意識して道を作らないといけない。
誰もあなたの道を作ってはくれないし周囲と同じことをしてれば良いなんて状況じゃない、自分のことは自分でするしかない。
何か思わず長い文章になったけど、移住は結局自分の為にするんだし、よほど腹をくくってかからないと、生半可では移民一世の苦労は耐えられないよって事だけ伝えたかった日曜日の午後でした。それにしても、寒い・・・(苦笑)。