2014年08月04日
トーキョーイーストサイド 垣根涼介
今読んでるのが垣根涼介の「君たちに明日はない」シリーズ第5冊目「迷子の王様」である。
感情、知性、教養、読書。本にはそれぞれの重みというのがあるが、例えば司馬遼太郎や周五郎の文庫本の紙質と垣根涼介の紙質の違いはあるのだろうけど、文字そのものの持つ重みが圧倒的に違うのをいつも感じる。
例えば山本周五郎の文学が描くどっしりと重い一つの明確な世界観(例えば裏の木戸はあいている)を読むと、彼の作った世界に完璧に入り込んでしまい本を読んでいる自分が今江戸時代に生きて裏の木戸を眺めつつそこに出いりする人の表情まで見えているような気になる。
同じく周五郎でも「樅の木は残った」のように重い決断を下さないといけない、そういう立場にいる人をまるで同じ座敷に座って目の前で観ているような重い気持ちになる。だから重い。
ところが垣根涼介の言葉は軽い。軽いってのは違うな、分かりやすい、だな。現代の言葉でぼくが普段使う言葉で「ね、そーだろ」って、そのまま語りかけてくる。まるで居酒屋かスナックで同級生と飲みながらのお喋りとか、そんな感じである。
まずはトーキョーイーストサイド:
今回も大企業のリストラ請負人である真介が主人公で、首切り面接の場面で様々な人生を持った人たちと出会うところから話が始まる。
今まで順調だった人生、周囲に褒められて良い学校を卒業して有名な大学の法学部に入学出来て、就職には少し時間がかかったけど結果的に皆に喜ばれて褒められる企業に就職出来て、けどその化粧品会社が有る日突然身売りされて、そして自分はリストラ対象。そこで彼女はふと考えた、一体あたしって、誰の為に生きてきたんだろう。
彼女は自分を「まりえ」と呼ぶ。あたしとか私って言わない。だって彼女が生まれた東京の東側の昔からの商店街が並ぶ街ではどこの子供でもそうだったからだ。どこの子供も分け隔てなく大人に可愛がられ、だからこそ時には他人の親に怒られもした。だって同じ価値観だもん、誰に怒られたって同じでしょ。
そんな彼女が大学に入って次第に「あれ?まりえって川向うの人と違う?」と気づき始める。同じ東京でも川向うの西側に住んでる人たちは何の自慢気もなくBMWとかミュンヘンとか音楽の話をする。まりえは全くついていけない、まりえが知ってるのは祭りのお囃子や子供の神輿や夏の花火である。知的背景の違いとでも言うのだろうか、何か異質なものを感じて少し引け目を感じて会話に入れないのだ。
えー、ぜんぜん違うんだ、川向うとこっち。
まりえは自分の首切り担当に偶然なった面接担当者真介に聴く。
「あの、知的背景って分かりますか?」
真介はびっくりしたように考えつつ、答えていく。この場面が丁度良い速度でぼくの頭のなかを流れていく。これもまた、まるで自分がその面接の席に同席している感覚である。
彼女にとっては周囲の新しい同級生があまりに知的背景が違いすぎるために自分の生い立ちに疑問を感じたのだが、そんな時に北海道の何もない超ド田舎に生まれ育った真介がすーっと答える。
「何故、引け目を感じるのですか?」
「世の中、いろんな人間がいるから楽しいんじゃないか、人間が誰も同じような考えや画一的な生き方してたら、そのほうが息苦しいでしょ」
まりえは子供の頃からの仲良しのひで坊と地元の居酒屋で久しぶりにいっぱい飲む。そして何となくだけど真介の言葉を思い出しつつ考える。するとひで坊がぐいっと冷えたビールを飲みながら
「もちろんまりえは多くの人に支えてもらって今まで生きてきたよな。皆に感謝しているし、生かされて来たって気持ちだって十分にある。けど、やっぱり最後に、誰が私の生き方の良し悪しとか好き嫌いを決めるかって言ったら、やっぱり自分しかいない、よね。だってまりえの人生なんだから。_」
やっぱり、読書って良いですね。多様な考え方を身に付けることが出来ます。
人間は多様であるべきだ、そう考える米国ではあえてDiversity(多様性)を作るために国別にグリーンカードの抽選をしている。