2015年03月20日

水の中のナイフ

水の中に飛び込む。暫く潜って陸上で経験出来ない浮遊感とか珍しい魚観るとかした後に水の中から海の上に顔を出すと地上はすでに変化している。まるで全く違った世の中に見える。

 

けど最初から陸上、つまり土の上に住んでて一度も水の中に飛び込んだ経験のない人からすれば陸上は何も変わってないように感じる。毎日見ていると変化を感じないのと同じだ。だから久しぶりに戻って来た僕からすれば「あれ?どうしたの?何かあったの?」である。皆年を取っている。これってもしかして浦島太郎か(苦笑)?

 

今朝の夢がまた変わってて、僕が水の中からじっと水面を見つめ、逆に水面の上からじっと水面を見ている人たちがいた。その時ぼくの頭の中にピカって最初に思い浮かんだのはロマン・ポランスキーだった。高校生の頃に観たあの映像にはほんとにびっくりさせられたものだ。

 

けど僕が水面に出て陸に上がると今度出て来たのはアンジェイ・ワイダである。たくましく現実の道を歩く彼の映画はどこまでも現実的で悲惨ではあるが少なくとも逃げてない。内省的ではない。

 

考えてみればどちらもポーランド人であるが全く作風が違う。東欧の文化って内省的な音楽、書籍、映画が多い中でアンジェイ・ワイダは違ったな、そんな事を思いつつ頭を空っぽにしてたらいろんな人の顔が見えてきた。なんじゃこりゃ(苦笑)。

 

そんなこんなで朝5時頃に夢と共に一度目が醒めたのだが面白いのでもう一度寝て頭を空っぽにしてみた。すると次に頭に浮かんだのが志賀直哉と島崎藤村だ。毎年2月には木曽福島に行くのでその度に藤村を思い出す。

 

両者とも戦前の日本を代表する作家ではあるが僕は志賀直哉を好きになれない。何だかこれも内省的ってのか逃げってのか、戦う姿勢がみられない。

 

それに対して自分は生まれの良い身分でいたかもしれないが江戸から明治を生きた藤村が自ら記した「現実的な世の中」は僕にとってよほど身近であった。

 

あの時代「私は穢多である」と言えた人は少なかった。その後水平社運動が始まり住井すゑの「橋のない川」がやっと世間の人々にエタの問題がどれほど悲惨であり士農工商にとって恥ずべき事かが少しは伝わるようになったが、それでも現代にもまだ残っている。

 

丑松は「私は穢多である」と子供たちに説明して米国に移住した。穢多であることを否定せずしかし穢多でも平民と平等に生きていける社会へ「栄光の脱出」を行う。

 

水の中から水面に顔を出したのは時計のベルが7時15分でブーンブーンって言い出したからだ。「早く起きな、今日も仕事だよ」奥さんのケータイが起こしてくれる。

 

間違いなく今朝は「水の中」から水面を見つめていた。多分これって僕らニュージーランドに来た日本人はこれから浦島太郎になるって予告なのか(笑)?龍宮城に行きそこで一時期を過ごし戻ってみると日本は変わっていたが、少なくとも自分は変わらずにいられた、そういう昔話のアイロニーなのか。

 

それにしても面白い夢でした(苦笑)?



tom_eastwind at 10:26│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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